Word.58 宿敵 〈4〉
言ノ葉町、中央部。
「“詰れ”!」
上空に勢いよく飛び上がった棗が、大きく右手を振り切り、纏った籠手の先から伸びた鋭い三本の爪を、七架へ向けて放つ。
「“薙ぎ払え”」
七架の言葉に反応し、七架の上空に浮かんでいた七つの十字のうちの三つが降りて来て、迫り来ていた爪をそれぞれ、叩き落とした。爪が地面へと落ちるその前に、七架が素早く、右手を振り上げる。
「“嘆け”!」
上空に残った四つの十字から、抜け出てきたような十字型の光が飛び出し、まっすぐに棗へと向かっていく。
「う…!きゃあああ!」
空中に居た棗は、向かってくる攻撃を避ける術がなく、四つの光すべてを直撃し、力なく降下して、そのまま地面へと倒れ込んだ。
「う、うぅ…」
苦しげな声を漏らす棗を見つめながら、七架は険しい表情のまま右手を操作し、七つの十字を上空のもとの位置へと並べる。
「これで、もう…」
「な…“治せ”…」
「あっ…」
棗の口から零れ落ちる、小さなその言葉に、七架が眉をひそめる。自身へと言葉をかけた棗は、今負ったばかりの傷を治療しながら、もうすでに立ち上がろうと、体を奮い起こしていた。
「また…」
そんな棗の姿を見て、七架が表情を曇らせる。
「“治せ”は確かに、見た目の傷は塞ぐけど、失った血液も体力も、すべてを完全に元通りにするわけじゃない!」
「知って、います…そんなことくらい…」
思わず声をあげた七架に、棗がゆっくりと立ち上がりながら答える。
「私は…あなたより長く、“奈守”をやって、いるのですから…」
「じゃあ、どうしてそんな無茶をするの!?」
どこか棗の身を案じるように、必死に問いかける七架。
「もう何度も何度も、倒れてはただ、傷だけを塞いで…このままじゃ、あなたの体が…!」
「敵の体の心配ですか…?随分と、お優しいことですね…」
俯いたまま、声を発した棗が、七架の言葉を遮る。
「でも、余りある優しさは…時に、あなた自身の足を掬うことになるかも知れませんよ…?」
ゆっくりと顔を上げ、まるで忠告のように七架を見る棗に、七架はそっと眉をひそめ、目を細める。
――― 一度や二度、手を差し伸べたくらいで、お前等のやったことが許されると思うなよ…―――
―――お前が本当に優しいなら、今、俺に掛ける言葉を間違えんな…―――
少し俯いた七架が思い出すのは、かつて戦った始忌の一人、碧鎖の、死に際の言葉であった。
「もう十分、掬われたよ…」
「え…?」
小さく返って来る答えに、棗が戸惑うように首を傾げる。
「“優しい”ってことがどんなに残酷か、不用意な“優しさ”がどんなに人の心を傷つけるか、もう十分に思い知った…」
七架が左胸の前に置いた手を、きつく握り締める。
「それでも私は、“優しさ”を捨てたくない」
顔を上げた七架が、まっすぐに棗を見つめ、強く主張する。
「また足を掬われることになっても、苦しむことになっても、“優しさ”は捨てないってそう、決めたの」
七架の強い決意の伝わってくるその言葉を、目を逸らすことなく、受け止めるように聞きながら、棗は何やら考え込むように、そっと目を細めた。
「だから、もうこれ以上は…!」
「抵抗せずに、敗北を認めろと…?」
棗の体を案じる七架の心情を読み、棗が七架の言葉を代弁するように言う。
「それは無理な話です」
「けど…!」
「あなたに“優しさ”が捨てられないように、私にも、捨てられないものがあります」
「え…?」
強く遮る棗の言葉に、七架が少し戸惑うように眉をひそめる。
「それは、我が神への忠誠です」
はっきりとした口調で、棗がまるで誇るように言い放つ。
「私にとって、我が神の意志は絶対…我が神の望みを叶えるためならば、私は何だってしてみせます」
棗が籠手を纏った右手を胸につけ、噛み締めるように言葉を続ける。
「例え、この身が砕けても…」
七架に負けないほど強い意志を示す棗に、七架がそっと目を細める。
「どうして、そこまで…」
浮かんだ疑問は、すぐに七架の口から零れ落ちた。
「どうして、そこまでする必要があるの!?あなたの神様は、皆から、世界から、自由ある言葉を奪おうとしてるんだよ!?」
七架が大きく両手を広げ、必死に訴えかける。
「皆から、夢や希望の詰まった言葉を奪ってるんだよ…!?どうして、そんな神様に従うの!?」
続く七架の言葉に、棗が唇を噛み締める。
「どうして、そんな神様に、そこまでして従う必要があるの!?」
「あなたに何がわかるのです!?」
「……っ」
必死の七架の訴えは、それ以上の力強い棗の反論に、一気に呑み込まれた。
「あなたに…我が神の、何がわかるのです…?」
「棗、さん…」
深く俯いたまま、どこか震えるような声を発する棗に、七架が眉をひそめる。
「あの方の受けた哀しみが、あの方の背負った絶望が…あなたなどに、わかるはずがない…」
言葉を続けながら、棗が下ろした両手の拳を、血が滲みそうなほどにきつく、握り締める。
「わかるはずが、ない…」
強調するように、もう一度、その言葉を繰り返す棗。
「あの方は、とても哀しい人…」
やっと顔を上げた棗が、そのまま空を見上げ、どこか遠くを見るような瞳を見せる。
「誰よりも強く、言葉を愛しながら、誰よりも深く、言葉に絶望してしまった…」
悲しむような、悔いるような瞳で、言葉を続ける棗。
「私には、あの方の哀しみを、消すことは出来ない…あの方の絶望を、背負うことは出来ない…」
自身の無力さを嘆くように、棗の声が響き渡る。
「だから、せめて…」
ゆっくりと顔を下ろしながら、棗が静かな動きで、両手を前へと出す。
「我が神の願いを、私は叶える…!」
棗が声を張り上げた途端、棗が右手に纏っていた籠手が、強い赤色の光を放ち始める。
「“奈変”…!!」
「な…!?」
棗が口にするその言葉に、ひどく驚いた様子で、大きく目を見開く七架。
「まさか、あの人も“奈変”を…!?」
自分がやったように、三度目の言玉の形態変化をしようとしている棗を見つめ、七架が困惑の表情を見せる。
「けど、“奈変”は一度、言玉の姿に戻さないと出来ないし、それに…」
「ううぅ…!」
籠手を輝かせながら、棗はどこか、苦しげな声を漏らしている。形を変えていく言玉に、ついていけていないような、そんな様子に見えた。
「不完全な“奈変”は、音士の命を削るだけ…」
櫻に教えられた言葉を思い出し、さらに険しい表情を見せる七架。
「棗さん…!」
七架が制するように叫びながら、思わずその場で身を乗り出す。
「ううぅ…うう…!」
だが七架の言葉に止まるはずもなく、ひたすらに、言玉の変化を続ける棗。
「神っ…」
棗の口から、まるで乞うような、弱々しい声が零れ落ちる。
「アキラ、様っ…」
「クワアアアア!」
大きく声を響かせながら、空を覆うように両翼を広げた巨鳥が、阿修羅に尾を向け、アヒルの方へと戻っていく。
「…………」
その遠ざかっていくガァスケの背を、細めた瞳で見送る阿修羅。体よりも前へと出された、銃を持つ阿修羅の右手からは、赤い血が滴り落ちていた。
「“抗え”でも、完全には防ぎきれないか…」
地面へと落ちていく血へと視線を移し、阿修羅が分析するように呟く。手から零れ落ちる血を見ながらも、阿修羅はひどく落ち着いた様子で、顔色一つ変えていない。
「さすがだな…」
どこか感心するように言って微笑むと、阿修羅が静かに引き金を引く。
「“争え”」
阿修羅が言葉を落とすと、阿修羅の銃から、閃光のように激しく光る、刺々しい光の弾丸が、まっすぐにアヒルへと向かっていく。迫り来る弾丸を捉え、アヒルが鋭く瞳を輝かせた。
「“扇げ”!」
アヒルが言葉を発すると、ガァスケが上空に舞い上がり、高々とあげた両翼を勢いよく振り下ろす。すると、翼から嵐のような強い風が吹き抜け、アヒルへと向かっていた阿修羅の弾丸を、力強く弾き飛ばした。
「“当たれ”!」
間を置くことなく、すぐさま次の言葉を発するアヒル。
「クアアアア…!」
アヒルの言葉を受け、一層大きな鳴き声をあげたガァスケが、縦に嘴を開き、口の奥から、濃縮された赤と金の光の混ざった、巨大な塊を放つ。
「……っ」
向かってくる光の大玉に、阿修羅が眉をひそめながらも後方に飛び下がり、力強く銃を構える。
「“褪せろ”…!」
銃を放ち、言葉を放つ阿修羅。阿修羅の銃から放たれた弾丸が、ガァスケの放った光の大玉を直撃する。だが、弾丸は確かに当たったものの、向かってくる大玉に変化はない。
「効かないか…」
あくまで冷静な姿勢は崩さずに、阿修羅が再び銃を構える。
「“圧縮”」
大玉が迫り来る中、阿修羅も銃口の先に、光を集約させる。
「“当たれ”…!」
ガァスケの放った光の塊と、阿修羅が撃った光の弾丸が、正面から勢いよくぶつかり合った。
「ク…!」
二つの大きな力の衝突に、竜巻のような風が巻き起こり、周囲の木々を揺らす。吹きつける風に、アヒルも思わず片目を伏せる。
「ふぅ…」
風に乗って聞こえてくる一つの溜息に、アヒルが目を開き、ゆっくりと顔を上げた。互いにやっと消えた光の向こうには、さらに血の流れ落ちる右手を、左手で軽く拭っている阿修羅の姿があった。阿修羅は右手の他に頬や足、肩などにも傷を負っている。相殺しきれずに、多少、アヒルの力を浴びたのであろう。
「お前には本当に、驚かされるよ。アヒル…」
またしても感心するように微笑みながら、阿修羅が頬から流れた血も拭う。
「いくら俺と同じ“安の神”とはいえ、ここまでやるとはな…」
誉めるように言う阿修羅であるが、その表情には余裕が見られた。追い込まれているというのに、まったく焦っている様子がない。
「俺は絶対に、あんたを倒さなきゃならない」
アヒルが強い決意を覗かせるように、はっきりとした口調で阿修羅へと言い放つ。
「恵先生が言ってた。自由ある言葉は、“人の意志だ”って」
アヒルの後方へと回ったガァスケが、その翼を広げ、アヒルの言葉の邪魔をしないように、上空で大人しく静止する。
「ああ、そうだな。そして、意志のない世界に、争いはない」
「けど、未来もない」
鋭く言葉を続けてくるアヒルに、阿修羅がそっと眉をひそめる。
「言葉に意志がなきゃ、人は、哀しむことも、傷つくこともないかも知れない。けど、きっと、楽しむことも、喜ぶことも出来ない」
胸の前へと持って来た右手の拳を、アヒルが強く握り締める。
「そんな言葉じゃ、何の意味もない」
アヒルが握り締めた拳を振り下ろし、その反動で、勢いよく顔を上げる。
「あんたの消そうとしてる言葉を、俺は少しも不要だなんて思えねぇ…!」
「…………」
必死の訴えを続けるアヒルの声を、いつの間にか笑みを消した阿修羅が静かに、何の表情もない顔を少しも動かすことなく、聞き続けた。
「だから俺は…!」
「どんなに強く、言葉を投げかけても無駄だ、アヒル…」
やっと声を落とした阿修羅が、力の抜けたような、冷めた笑みを浮かべる。
「どんなにお前が言葉を発しても…俺とお前が、言葉を交わすことない」
「え…?」
阿修羅の言葉の意味が理解出来ず、アヒルが戸惑うように首を傾げる。
「俺の言葉は、もう、死んだんだ」
どこか諦めるように、落とされる声。
「五年前の、あの日に…」
―――私は、どうして生きているのかな…?―――
―――ねぇ、お兄ちゃん…―――




