Word.6 二人目ノ神 〈3〉
「どうぞ」
公園のベンチに腰掛けたアヒルに、雅が買ってきた二つのペットボトルの内の一つを手渡す。
「ありがとう。えぇ~っと…」
「箕島雅といいます。雅で結構ですよ」
「雅…さん。えっと、俺はっ…」
「安団、安の神・朝比奈アヒルくん」
「よぉくご存知でっ…」
アヒルが名乗る前に、アヒルの名を呼ぶ雅に、アヒルは少し顔をしかめながら、もらったばかりのペットボトルを開け、中の水に口をつけた。雅もアヒルの横に腰掛け、同じように水を飲む。
「忌や神を知ってるってことは、あんたも五十音士なのか?」
「ええ。僕は五十音、第三十二音“み”の力を持つ者。“美守”と呼ばれる者です」
「美、守っ…」
まだ聞きなれぬ五十音士たちの言葉を、アヒルが戸惑いながら繰り返す。
「っつーことは、“み”から始まる言葉を操るってことか?」
中の水を飲み干し、空になったペットボトルを手で回しながら、首を捻るアヒル。
「えぇ~っと、“み”っていうとっ…」
「考えるより、見た方が早いでしょう」
「へっ?」
雅は軽く笑みを浮かべると、まだ水の入ったペットボトルをベンチの上に置き、何やら制服のポケットをあさり始めた。
「よいしょ」
「あっ…!」
ポケットから雅が取り出したものは、青く輝く、宝石のような丸い小さな玉。その玉を見て、アヒルが大きく目を見開く。
「青いっ…言玉…?」
「第三十二音、“み”解放…」
雅の言葉に反応し、雅の手の中の言玉が、淡い青色の光を発し始める。雅は光る言玉を、アヒルの持つ空のペットボトルへと向けた。
「“満たせ”」
―――パァァァァン!
「うっ…!」
一際強く輝く言玉に、思わず目を伏せるアヒル。視覚を封じたアヒルであったが、起こった変化は、他の感覚から伝えられた。
「あれっ…?」
光が止み、目を開けたアヒルが、右手に、先程までとは異なる重みを感じ、顔を下へと向ける。
「あっ…!」
アヒルが下を見ると、確かに飲み干したはずなのに、水が満杯に詰まっているペットボトルが、アヒルの右手に握り締められていた。
「あ…」
「これが僕の力です」
「すっげ…」
満杯に入ったペットボトルをまじまじと見つめながら、アヒルが感心した表情を見せる。
「こんなことも出来んのかぁ」
「言葉の力は無限ですよ。言葉さえあれば、人はきっと何でも出来る」
「ふぅ~んっ…」
頷きながらも、少し眉をひそめるアヒル。
「無限なわりに、俺は“赤くなれ”と“青くなれ”と“当たれ”しか言えねぇけどなぁ」
「えっ?」
「辞書も読んではいるんだけどさっ、どーも字の羅列が耐えられなくって、一日二分しかもたねぇしっ」
満杯のペットボトルをベンチに置いたアヒルが、ベンチから立ち上がり、大きく両手を伸ばしながら、どこかボヤくように呟く。
「もっと勉強しなきゃとは、思ってんだけどっ…」
「焦って学ぶ必要なんて、ありませんよ。言葉は、自然に身につくものです」
「自然に、ねぇっ…」
手を下ろしたアヒルが、背中で雅の声を聞きながら、どこか遠い瞳で、空を見つめる。
「けど、あんたの神にも言われたしなぁ」
「行動を共にしているだけであって、あんなのを我が神と思ったことは、一度たりともありませんよ」
「あ…そう…」
満面の笑顔で、どこか刺々しく言い放つ雅に、アヒルが少し引きつった表情を見せる。
「為介さんに、“神、失格”と、言われたことですか?」
「……っ」
アヒルが引きずっている言葉を、言い当てた雅に、アヒルが少し表情を曇らせる。
「もっと神らしくなりたいと、あなたはそう思っているのですか?」
「別にっ、神らしくなりたいなんて、チビっとも思ったことねぇよっ」
雅の方を振り返ったアヒルが、大きく首を横に振る。
「ただっ…」
「ただ?」
そっと俯くアヒルに、雅がすぐさま聞き返す。
「こんな出来損ない神様の俺なんかの言葉を、真正直に聞いてくれるあいつ等に…」
―――援護するわ、神…―――
―――何で僕がっ…こんなっ…!―――
篭也と囁は、アヒルの言葉を違うと否定しながらも、昨夜もアヒルの言葉を聞き、忌に取り憑かれた人間たちを、攻撃しないでくれた。
「あいつ等に…ちょっとでも応えたいって、そう思って…」
「……っ」
アヒルの言葉を聞き、そっと目を細める雅。
「仲間の為、ですか…」
そう呟いた雅が、深々と肩を落とす。
「朝比奈くん」
「へっ?」
名を呼ばれ、アヒルが顔を上げる。
「本来なら、他団のことに口出しするべきではありませんが、ツバメくんの友人として、友人の弟であるあなたに、一つだけ言いたいことがあります」
「言いたいことっ…?」
真剣な表情でアヒルを見つめる雅に、アヒルが少し戸惑うように首を傾げる。
「五十音士の世界は、あなたが思っているよりもずっと醜く、汚く、残酷で、そして冷たいものです」
「……っ」
雅の言葉に、アヒルがそっと眉をひそめる。雅の瞳は、ただまっすぐにアヒルを捉えており、とても冗談や脅しで言っているようには見えなかった。
「“仲間の為に”なんて甘い考えで、やっていけるような世界じゃない」
「雅、さんっ…」
強く言い切る雅を、アヒルもまっすぐに見つめる。
「昨日のツバメくんもそうですが、これからもきっと、神であるあなたの周囲の人間は、少なからず巻き込まれることになるでしょう」
「……っ」
はっきりと言い放つ雅に、曇るアヒルの表情。
「それは、あなたが神である以上、決して変えられない」
ベンチに座ったままの雅が、突き刺すような瞳で、アヒルを見上げる。
「失うことの怖さを、あなたはもう十分にご存じなのでしょう?」
「それはっ…」
雅の問いかけに、アヒルが思わず口ごもる。
「はっきり言います、朝比奈くん」
雅がゆっくりと、ベンチから立ち上がる。
「もしあなたに、“神で在ろう”とする気持ちが、ほんの少しもないのなら…」
上がった目線から、アヒルを見下ろす雅。
「あなたは今すぐ、神をやめた方がいい」
「……っ」
雅の言葉に、アヒルはさらに険しい表情を作った。
その頃。朝比奈家・アヒル自室。
「……っ」
アヒルのいない部屋で、アヒルの机の椅子に座り、寛いでいた篭也が、ふと顔を上げ、部屋の時計を見る。
「遅いな…」
学校からどこにも寄らずに帰って来たのであれば、もうとっくに家に着いているくらいの時間であった。
「囁もまだだし、どこかに寄って来ているのか…まぁ忌の気配もないし、問題ないか」
自己解決するように呟いた篭也が、机に置いてある恋盲腸の本を手に取る。
「恋盲腸でも読みながら待つか。んっ?」
本を広げた篭也が、何かに気付いた様子で眉をひそめる。
「これ、もう読んだ巻だな。スズメさんの部屋に、次の巻を…」
本を閉じると、篭也は椅子から立ち上がり、アヒルの部屋を出た。
「それにしても、あの為の神の店のドラマCD…気になるなぁ…」
為介よりもドラマCDが気になっている様子の篭也が、廊下を出て、二階にある四つの部屋の内、アヒルの向かいにある部屋の扉を開ける。
「スズメさんに頼んで購入をっ…んっ?」
部屋の扉を開けた篭也が、顔を上げ、部屋の入口で足を止める。
「あれ?ここはっ…?」
篭也の入ったその部屋は、必要最小限の家具だけが置かれている、きれいと言えばきれいだが、妙に殺風景な部屋であった。ただきれいというだけでもなく、生活感のないような、もう何年も使っていないような、そんな部屋だ。
「間違えたか。同じような部屋があって、どうもまだっ…」
そう呟き、篭也が再び廊下へと出る。
「だがツバメさんの部屋にも見えないし、一体っ…」
首を傾げながら、篭也が部屋の扉を閉める。
「……っ!」
閉めた扉を見つめ、大きく目を見開く篭也。
「これはっ…」
部屋の扉には、アヒルの部屋の扉に掛かっている、『アヒル』と描かれた表札と同じものが掛かっていた。そしてそこには、ある文字が書かれている。
「“カモメ”…?」
その書かれた文字を、そっと口にする篭也。
「あっれぇ?篭也っ」
そこへ、一階からスズメが上がってくる。
「お前、廊下で何やっ…」
「スズメさん」
「あっ?」
スズメの言葉を勢いよく遮り、篭也がスズメの名を呼ぶ。
「この部屋はっ…」
『カモメ』と書かれた表札の掛かった、その扉を指差しながら、篭也がスズメの方を振り向く。
「この部屋は…誰の部屋ですか…?」
「……っ」
篭也の問いかけに、スズメはそっと目を落とした。
「入れ」
「えっ?けどっ…」
篭也が閉めたばかりのその扉を開き、スズメが顎を少し出すようにして、部屋の中へ入るよう言う。だが篭也は、少し躊躇うように、眉をひそめる。
「大丈夫。お前には“言っていい”って、そんな気がする」
「えっ…?」
そのスズメの言葉の意味がわからず、篭也は首を傾げた。
「入れよっ」
「失礼、します…」
もう一度、スズメに誘導され、篭也が扉に『カモメ』と書かれた表札の掛かった、その部屋へと足を踏み入れる。遠慮がちに部屋の中を見回し、篭也が表情を曇らせる。先程、一瞬だけ入った時の感覚は正しく、その部屋には生活感がなく、住人の気配を感じさせなかった。
「キレイなもんだろ?五年も誰も使ってねぇーんだぜ?」
軽く笑みを浮かべてそう言いながら、スズメが部屋のベッドへと腰を掛けた。
「こんだけ狭い家だからなぁ、誰も使ってない部屋なんて、物置かなんかにすべきなんだろうけどっ…」
ベッドに深く腰を掛け、天井を見上げるスズメ。
「どうしても、残しておきたくてさ…」
微笑んだスズメのその表情は、どこか悲しげであった。
「あの人が…生きてたって証にっ…」
「……っ」
すぐさま俯くスズメに、篭也がそっと目を細める。
「この部屋の主の名は、朝比奈カモメ」
どこか遠い瞳で、窓からの景色を見つめるスズメ。
「俺たち四人兄弟の、一番上の兄貴だった…」
―――カー兄が、大好きだった……。




