Word.57 生ノ根源 〈2〉
言ノ葉町、北端。
「“左変”…?」
ゆっくりと、囁の放った言葉を繰り返すエカテリーナ。
「何でございますの…?それは…」
更地から一気に、色取り取りの花の咲く庭園と変わったその場所の中央に立ち、高々と伸びあがった蔓に右手を巻き取られながら、エカテリーナが問いかける。
「何でございますの…?これは…」
問いかけを続けるエカテリーナの表情が曇り、眉間に強く皺が寄る。
「“左変”。変格の上をいく変格。言玉の第三形態、とでも言うのかしらね…フフフ…」
「言玉の、第三形態…?」
また囁の言葉を繰り返し、エカテリーナが眉尻を吊り上げる。
「愚かなことをっ…あなたの言玉は、何も姿を変えていないではございませんか!」
強く指摘するように、エカテリーナが囁を睨みつける。睨みつけるその先、囁の両手には、赤一色の、派手な横笛が握られていた。
「姿を変えるどころか、原型に戻っている!それの何が、上を行く変格なのでございます!?」
確かに、エカテリーナの言葉は最もであった。新たな形態と言いながらも、囁の持つそれは、最初に言玉を解放した時の姿と、まったく同じ形をしている。
「私の“変格”は、形態変化自体にはそんなに意味がないのよ…槍に変えるのも、ただ単にちょっと攻撃性を増すだけのものだし…」
右手でそっと横笛を撫でながら、囁が涼しげな表情で説明をする。
「私の“変格”にとって大事なのは…言葉自体の変化…」
「言葉の、変化?」
「ええ…」
戸惑いながら聞き返すエカテリーナに頷き、囁が笑みを浮かべる。微笑んだ唇へと横笛を当て、そのまま美しい音色を奏でる囁。
「“咲け”…」
音色を奏でた後、囁が優しく言葉を口にする。すると、更地に自由に伸びあがった茎や蔓のあらゆる場所から、不自然な程に無数の花が、一斉に咲き乱れた。色取り取りの花弁が、流れる風に一気に舞う。
「こんなものっ…」
香る花の匂いに、顔をしかめるエカテリーナ。
「こんな花をいくら咲かせたところで、私には、痛くも痒くも…!」
エカテリーナが強気に言葉を発していると、風に舞った花弁の一枚が、そっとエカテリーナの腕に乗った。
「うぅ…!」
次の瞬間、その花弁の乗ったエカテリーナの腕が、勢いよく斬り裂かれる。エカテリーナは痛みにというよりも、斬り裂かれたその事実に驚き、大きく目を見開いた。
「なっ…」
「痛くも痒くも、ない…?」
驚きで思わず言葉を失ったエカテリーナへと、囁が試すように問いかける。すぐに険しい表情を作ったエカテリーナが、睨みつけるように囁を見る。
「何を…一体、何を…!?」
「“裂け”」
「……!」
囁が発する言葉に、何かを察した様子で、さらに目を見開くエカテリーナ。だが気付いた時にはもう遅く、エカテリーナへと降り注いだ花弁たちが、その全身至るところを斬り裂いた。
「うううぅ…!」
花弁に混じって血が舞い、さすがのエカテリーナの口からも、苦しげな声が漏れる。
「二つの言葉を、同時に…!?」
「そう…」
走る痛みに表情を引きつりながら、エカテリーナが戸惑いを見せる。
「これが私の更なる変格…“左変”…」
「何が、左変…」
俯いたエカテリーナが、大きく表情を歪める。
「二つの言葉を同時に使えたからといって、それが何だというのでございます?」
蔓に巻きつかれ、動きの封じられている右手の拳を、エカテリーナが力いっぱい握り締める。
「神を相手に、偉そうな口を叩くのではございませんよ!“炎天”!」
エカテリーナが言玉を持った右手を熱し、絡みついていた蔓を焼き切る。右手が自由になると、エカテリーナは素早く、言玉を右足へと吸収させた。
「“鋭鋒”…!」
右足を鋭い刃へと変えて、エカテリーナがその刃先を囁へと向ける。だが囁は落ち着いたままで、そっと横笛を奏でた。
「“避けろ”…」
「う…!」
笛の音が耳に残るうちに囁が言葉を発し、目にも留らぬ速さで体を動かして、振り下ろされたエカテリーナの右足を避ける。一方のエカテリーナは、渾身込めて振り下ろした右足が空を斬り、勢い余って、少しバランスを崩す。
「“裂けろ”」
態勢を整え切れないエカテリーナへと、二つ目の言葉が落とされる。
「きゃああああ…!!」
降り注ぐ花弁により、激しく全身を斬り裂かれたエカテリーナが、甲高い悲鳴をあげながら、後方へと吹き飛ばされていく。まだ更地の残る場所まで飛ばされたエカテリーナは、その荒い地面の上に、力なく倒れ込んだ。
「う、うぅ…」
エカテリーナが血を流しながらも、素早く体を起こし、右足に吸収させていた言玉を取り出す。
「こ、の…!」
「“触れ”…」
「うぅぅ…!」
取り出した言玉を、新たな身体部位へと吸収させようとしたエカテリーナであったが、その右手が、力強く巻きついてきた蔓により、止められる。
「あなたの強みは、エ段ならではの、自由自在の身体強化…」
動きを止められたエカテリーナへと、囁が鋭い瞳を向ける。
「少し、大人しくしていてもらうわよ…」
「グ…!」
そっと微笑む囁に、エカテリーナが険しい表情を見せる。
「“障れ”…」
「あ、あああああ…!」
巻きついた蔓を伝うようにして、全身に激しい痺れが走り、エカテリーナが大きな叫び声をあげる。やがて、右手に巻きついた蔓にぶら下がるような形となって、エカテリーナがその場に力なくしゃがみ込む。
「その自在な身体強化も、動きを封じれば、逆に攻撃の術を失くしてしまう」
口元に持っていっていた横笛を少し下ろし、囁がそっと言葉を響かせる。
「どうかしら…?これでもまだ、“言葉を二つ同時に使えるから何”って、言える…?」
地面に膝をつき、深々と座り込んだエカテリーナを見て、囁が冷静に問いを投げかける。
「さぁ、じゃあ…あまり時間もないことだし…」
ゆっくりとした動作で再び、横笛を口元へと持っていく囁。
「そろそろ、終わらせてもら…」
「神を…」
勝利を確信するように放たれようとしていた囁の言葉を、エカテリーナの声が遮る。
「神をナメるんじゃ…ないでございますよ!」
大きく目を見開いたエカテリーナが、勢いよく顔を上げ、右手に言玉を吸収させ、巻きついていた蔓を千切り落とし、鋭く突き上げる。
「“遠雷”!」
「な…!?ううぅ!」
エカテリーナが力強く言葉を放つと、遥か高い空から、激しい一筋の雷が降り落ちる。囁が後方へと下がり、身を伏せて、何とかそれを避ける。雷が囁のすぐ前の地面を直撃し、辺りに土煙を巻き起こす。
「まだ熟語をっ…」
「神を相手に何度も何度も、愚かな、愚か過ぎる口をっ…」
その表情に怒りを浮かべたエカテリーナが、少しその声を震わせながら、右手から、吸収させた言玉を取り出す。
「もう、遠慮はしないでございます」
エカテリーナが、取り出した言玉を、自身の左胸の前へと持っていく。
「裁きを下すでございます!」
「な…!?」
そう強く叫びあげたエカテリーナが、左胸の中へと言玉を吸収させていく。胸の中へと入り込んでいく言玉に、囁が驚いた様子で、大きく目を見開く。
「あれはっ…まさか、心臓に…?」
言玉を吸収させたその部位に、眉をひそめる囁。
「何を…心臓を強化して、体力維持でもする気…?」
「心臓は、命の源…」
戸惑うように問いかける囁へ、エカテリーナが落ち着いた口調で言葉を向ける。言玉を吸収し、強く輝き始めたエカテリーナの左胸の、その緑色の光が、心臓から送り出される血液に乗るように、一気に全身へと広がっていく。
「私が強化するのは、この体のすべて…!」
「すべて…?」
エカテリーナの言葉の意味を表すように、左胸に輝いていた緑色の強い光がどんどんと広がり、エカテリーナの体全体を包み込んでいく。
「そしてこれが、全身強化した状態でなければ、使えぬ力…」
輝く全身の力を溜めこむように、エカテリーナが少し身を屈める。
「神との力の差を、思い知るがいいでございますよ!」
力強く言い放ったエカテリーナが、屈めていた体を一気に伸ばす。
「“神格”…!」
「神、格…?」
エカテリーナが口にしたその言葉に、囁がさらに眉をひそめる。
「“栄枯盛衰”!!」
「う…!」
言葉が発せられると、エカテリーナの全身から放たれる光がさらに強くなり、直視していられなくなって、囁が思わず顔を俯け、目を細める。
「何て、光…え?」
あまりの光に圧倒されていた囁が、俯けていた視線のその先、地面へと落ちていく花弁を視界に入れ、戸惑いの声を発する。
「こ、これは…」
顔を上げ、戸惑いの表情のまま、周囲を見回す囁。更地を埋め尽くすほどに、囁が咲かせた色取り取りの無数の花弁が、強い風が吹いているわけでもないのに、自然と、力なく、零れ落ちるようにして散っていっている。
「さ、“咲け”!“咲き誇れ”!」
必死に言葉を投げかけ、再び花を咲かせる囁。囁の言葉の通り、確かに一度、花は咲くが、それから数秒も経たぬうちにまた、力なく散っていく。ひたすらに散っていく花たちに、囁が険しい表情を作る。
「なら…“再生”!」
今度は地面へと散った花弁に、言葉を向ける囁であったが、囁の言葉を受けても、散った花弁が蘇ることはなかった。
「何故っ…」
「この世の中には、栄えるものもあれば、衰えるものもあるのでございます」
正面から向けられる声に、囁が素早く、顔を上げる。
「咲くことが運命というのであれば、枯れることもまた、運命…」
鋭く細めた瞳で、先程とは一転した落ち着いた声を発するエカテリーナをまっすぐに見つめ、囁が少し眉をひそめる。だがすぐにそれを振り切り、囁は微笑みを浮かべた。
「あら、随分とオシャレなことを言うのね…」
エカテリーナを誉めるように、囁が笑みを向ける。
「的ハズレなことしか、言えない人だと思ってたのに」
「……この力を前にして直、そのような愚かな口をきくでございますか…」
「ええ、だって…」
答えるように言葉を落としながら、囁が一度、横笛へと口を落とし、美しい音色を奏でる。
「全然、恐れていないもの。“裂け”!」
横笛から口を離した囁が、力強く言葉を発する。すると、散っていく無数の花弁が、淡い赤色の光を帯び、一斉にエカテリーナの方へと向かっていく。
「愚か者が…」
一瞬、厳しく表情を歪めたエカテリーナが、向かってくる花弁たちへと、細い右手を無造作に突き出す。右手が出された途端、エカテリーナへと向かっていっていた花弁が一斉に枯れ、エカテリーナへと届くすぐ手前で、一片残らず、すべて地面へと落ちてしまう。
「衰えたあなたの力はすべて、私の栄えとなるでございます」
「な…!」
花弁たちが纏っていた淡い赤色の光を、一点へと集中させたエカテリーナが、その光をまるごと、自分の右手の中へと取り込む。吸収された光に、驚きの表情を見せる囁。
「“遠雷”!」
「う…!あああああ!」
勢いよく降り落ちてきた、先程よりも遥かに強い雷に、避ける間もなく、打たれてしまう囁。全身を容赦なく焦がされた囁が、力なくその場にしゃがみ込む。
「ううぅ…敵の攻撃を吸収して、自分の力に変えてしまうなんて…」
「どうでございますか?私の神格は」
苦しげな声を漏らしながら、エカテリーナの力を分析し、囁が険しい表情を見せる。そんな囁へと、エカテリーナは余裕すら感じる、涼しげな表情で話しかけた。
「これが神の力。あなた方、神附きの力など及ばない、素晴らしき力にございます」
自信を持って言い放つエカテリーナに、囁がそっと眉をひそめる。
「そうね、素晴らしい力だと思うわ…でも、だから何かしら…?」
「まだ、神に歯向かうと…?」
「ええ、そうよ」
傷ついた体を何とか起こしながら、囁がまだ戦えると言わんばかりに、挑戦的に答える。囁の答えを聞いたエカテリーナがそっと目を細め、囁とはまるで違う方向、言ノ葉町の民家の並ぶ方へと、その右手を向けた。エカテリーナのその動きに、囁は戸惑うように首を傾げる。
「何を…」
「あれらの者たちが衰えた時、私の力はどれ程に栄えるのでございましょうね」
「……!」
その言葉に、エカテリーナがやろうとしていることを察し、囁が大きく目を見開いた。
「や、やめ…!」
「“栄枯盛衰”」
囁の声に制止するはずもなく、エカテリーナが再び言葉を発すると、民家の並びへと向けられたエカテリーナの右手から、強い緑色の光の塊が放たれた。
「あ…!」
放たれた光を見送り、囁が焦りの表情を見せる。
「さ、“遮れ”!」
強く横笛を突き出し、必死に言葉を発する囁。民家へと向かっていたエカテリーナの光塊の前に、赤い光の膜が張られ、向かって来たそれを止める。だが受け止めた途端に、重い力が膜へとかかり、伝わってくる重圧に、囁も表情をしかめた。
「ううぅ…!ク…!」
何とか堪える囁であるが、膜にはヒビが入り、それが徐々に広がっていく。
「この、ままじゃっ…」
もう砕かれるのも間近の膜に、険しい表情を見せる囁。エカテリーナの力を浴び、囁の花は力なく散っていってしまった。もし民家に住む人々があの力を浴びたら、その者たちの命に係わるかも知れない。
「それだけは、絶対に…“攫え”!」
「……?」
新たな言葉を口にし、その場から姿を消す囁に、エカテリーナが眉をひそめる。次の瞬間、囁が現れたのは、自身が張った膜のすぐ後ろであった。
「自らを犠牲にする気でございますか…」
囁の行動の意図を察し、エカテリーナが感心するように呟く。
「神には歯向かうくせに、顔も知らぬ人間共には、随分と親切なことでございますね」
エカテリーナが冷たい笑みを浮かべ、もう間もなく砕け散る膜を見つめる。
「…………」
同じように、膜の後ろ側から、まっすぐに膜を見つめる囁。激しく入ったヒビの向こうから、迫り来る光の塊が、もう寸前のところまで見えている。だが、今の囁に逃げ場はなかった。やがて大きな音を立てて、囁の張った膜が崩れ落ちる。
「ク…!」
膜を越え、迫り来る光に、囁は覚悟を決めるように強く、唇を噛み締めた。




