Word.56 更ナル変格 〈4〉
「“変格”」
七架がそう言葉を発し、右手に構えていた薙刀の姿を、両手で抱える巨大な十字へと変える。両手で持った十字を、前方に立つ棗へと突き出す七架。
「“嘆け”!」
巨大な十字から、飛び出すように十字型の赤い光が放たれ、まっすぐに棗へと向かっていく。光を見つめ、棗は落ち着いた表情で、籠手の装着された右手を構えた。
「“萎えろ”」
棗が言葉と同時に拳を繰り出すと、その拳の触れた十字型の光が、突然、勢いを弱め、あっさりと掻き消えてしまう。
「変格の言葉でもダメか…」
掻き消えた光を見つめ、七架が険しい表情を見せる。これまでのすべての言葉も、今と同じように、棗の言葉を前に、あっさりと消されてしまったのだ。
「この程度ですか?現“奈守”の実力というのは」
突き出した拳を戻し、単調に言葉を投げかける棗。その挑発的な言葉に、七架が少し顔をしかめる。
「まだまだ…!」
自身に気合いを入れるように声をあげ、七架がすぐに十字を構える。
「“薙ぎ倒せ”!」
七架が十字を振り切り、薙刀の時よりも、さらに勢いを増した赤い一閃を、棗へと放つ。一閃が迫り来るが、棗は相変わらずの落ち着いた表情を、崩そうとはしなかった。
「“靡け”」
棗が小さく言葉を落とし、素早くその体を動かして、七架の一閃を避ける。
「“靡け”…そんな言葉もっ…」
同じ文字を持ちながら、七架が思いもつかなかった言葉をいくつも口にする棗に、七架は険しい表情を見せながらも、どこか感心するように声を漏らす。
「向かって来る気など失せるよう、力の差を見せつけてあげましょう」
「え…?」
「“変格”」
「……!」
棗が口にするその言葉に、七架が思わず大きく目を見開く。
「変格を…!?」
「当然でしょう…?私はあなたと同じ奈守」
驚きの表情で問いかける七架に、棗は表情を少しも崩さず、冷静に答える。
「あなたと同じように、私の言玉も、二度姿を変える」
棗の言葉に合わせるように、棗の右手に装着されていた籠手が姿を変える。籠手の手の甲を覆っていた部分から、鋭く細い、三本の刃が伸び、鉄爪のような武器へと変わった。
「あれが、あの人の変格…」
「な…」
七架が姿を変えた棗の武器に目を見張る中、棗は間を置くことなく、自分の文字を口にした。
「“詰れ”…!」
「あ…!」
素早く七架のもとへと飛び出し、振り上げたその鉄爪を、鋭く振り切る棗。七架が慌てて十字を突き出し、下りて来た爪を、ぎりぎりのところで受け止める。
「ううぅ…!」
だがあまりに強い力がかかり、受け止めていた十字は鉄爪により一部が欠け、押された七架はその場で大きくバランスを崩した。その隙を逃がすことなく、棗が鉄爪を装着した右手で、力強く七架の腕を掴む。
「“擲て”」
「あ、あああああ!」
掴まれた腕を軽々と振り上げられ、勢いよく投げ飛ばされる七架。地面へと体を投げ出され、受け身も取れないまま、強く地面に倒れ込む。
「う、ううぅ…」
地面に十字の先を付け、苦しげな声を漏らしながら、何とか体を起き上がらせようとする七架。
「言葉の数、だけじゃない…」
七架の額から、一筋の汗が流れ落ちる。
「今まで戦って来た…経験の数が、違う…」
そう言葉を落としながら、七架がゆっくりと顔を上げ、細めた瞳で棗の姿を捉える。相変わらず、落ち着き払った表情の棗。常に冷静で、七架の言葉に対して、無駄な動きなく、的確な言葉を返して来る。棗は戦い慣れており、五十音士としての経験も浅い七架とのその差は、決定的なものがあった。
「どうしたのです?」
動きを止めたままの七架に、棗がゆっくりと問いかける。
「もう、終わりですか…?」
挑発的な棗の問いかけに、起き上がった七架は顔をしかめるものの、攻撃に移ろうとする動作は見せなかった。棗に対抗出来る攻撃が、今の七架には思いつかなかった。
「神附きがこの程度では、神の実力も知れたものですね」
「……っ」
今度はあからさまな挑発であったが、七架は言い返すことが出来なかった。悔しい気持ちを呑み込むように、強く唇を噛み締める。
「朝比奈、くん…」
そっと俯いた七架が、答えを求めるように、アヒルの名を呼ぶ。
「ん…?」
「え?」
棗の口から小さな声が漏れ、その声につられるように、俯いていた七架が顔を上げた。
「あの光は…」
怪訝そうに棗が見つめる、言ノ葉町の北と南の方角に、それぞれ一本ずつ、すでに突き上げている阿修羅たちの五母の光とは別の、強い赤色の光が明々と輝いていた。天まで突き上げるほどではないが、周囲を赤く照らし、相当の光を広げている。
「あれは…神月くん、それに囁ちゃん…?」
その方角が、篭也と囁の向かった先であることを察し、七架がそっと眉をひそめる。赤い光は、安団の光。何よりあの、強く温かい二つの光に、七架は見覚えがあった。
「そう、そうだよね…」
俯き、小さな声を落とす七架の方を振り向き、棗が少し表情を曇らせる。
「“大丈夫だ”って、“私たちに任せて”って、そう朝比奈くんに言ったのは、私だもの…」
自分に言い聞かせるように言葉を続けながら、地面に突き立てた十字を握る手に力を込め、七架が一気に体を立ち上がらせる。
「だから私は、その言葉を、偽りにはしない…!」
立ち上がった七架が顔を上げ、強く声を張り上げ、十字を突き上げる。
「第二十一音、“な”、解放…!」
「何…?」
七架の発する言葉に、棗がすぐさま眉をひそめる。
「今更、何を文字の解放など…」
「あなたは、あなたの言玉は二度姿を変えるって、そう言ったよね」
戸惑っている棗へと、冷静な声を向ける七架。
「それが、何だとい…」
「でもね、私の、私たちの言玉は…」
七架が鋭く、目を見開く。
「三度、姿を変えるの」
はっきりと言い放ち、十字へと視線を向ける七架。
「“奈変”…!」
「な…!?うぅ…!」
七架の発したその言葉に、初めて落ち着いていた表情を崩し、大きく目を見開く棗。だが次の瞬間、七架の突き上げた十字から、強い光が発せられ、開いていた瞳を閉じ、思わず顔を伏せた。
「な、“奈変”…?」
もう一度確認するように、棗がその言葉を繰り返す。
「神々の力にも匹敵するという、極々少数の五十音士しか辿り着けぬはずの、“変格”の更に上をいく“変格”…」
顔を伏せたまま、光をわずかに視界に入れ、棗が険しい表情を見せる。
「今では知る者すら居ないような力を、何故、彼女たちが…?……っ」
戸惑いの表情を見せていた棗であったが、ふと何か思いついたような顔つきとなり、すぐさま眉をひそめる。
「あなたが、教えたのですか…?」
棗が表情を曇らせ、かすかに声を震わせる。
「“お姉ちゃん”…」
「…………」
囁の言葉により守られている自宅の庭から、言ノ葉町内に現れた、新たな赤い光を見つめ、厳しい表情を見せる、先代“左守”の櫻。
「棗…」
櫻はどこか祈るように、小さくその名を口にした。
言ノ葉町、北西。言ノ葉町立グランド。
『グアアアアア!』
激しい咆哮をあげ、飛びかかってくるのは、二頭の金色の獣。
「“束ねろ”!」
獣たちが向かう先に立つ保が、後方へと振りかぶっていた両腕を、勢いよく前へと突き出す。すると、保の指先から複数の赤い糸が伸び、向かって来ていた獣たちの前足を捕らえた。
『ガァァ…!』
前足を捕らえた糸を、保が手元で交差させると、二頭の獣の体が接近し、叩きつけられるように強く衝突して、獣たちが苦しげにその場に倒れ込む。
「グ、グアア!」
倒れた獣のうちの一頭が、背中についた金色の翼を広げ、高々と空へと舞い上がる。空へと浮かんだ獣は、下方に居る保へと焦点を合わせ、その口を大きく開いた。
「“高くなれ”」
攻撃態勢を取った獣にも焦ることなく、保が冷静に言葉を落とし、両手の糸を地面へと向けた勢いを利用して、空へと舞い上がる。
「グ…!?」
自分よりも高く上がる保に、獣が開いていた口を閉じ、焦った様子で顔を上げる。獣の少し上まで上がった保は、鋭い表情を見せたまま、大きく両手を振りかぶった。
「“叩け”!」
「ギャアアアア!」
保が上から、獣の胴体目がけて糸を叩きつけると、もろに勢いを増した糸を喰らった獣が、潰れたような叫び声をあげて、地面へと降下していく。
「ガアアアア!」
地面へと降下した獣に代わるように、もう一頭の獣が、保の後方から飛び掛かってくる。それにも保は落ち着いた様子で、素早く両手を構えた。
「“滾れ”…!」
「グアアアア!」
鋭く向けた糸が、大きな一本の束となって、飛び掛かってきていた獣の腹部を突き刺すと、その獣も痛々しい叫び声をあげ、地面を降下していった。
「ふぅ」
纏めていた糸を手元で解きながら、一息つく保。
『ガアアアアア…!』
地面で肩を並べた二頭が、上空にいる保へ向けて、大きく開いた口から同時に、激しい光の塊を放つ。だが、それにも保は動じなかった。
「“耐えろ”!」
保が糸を自身の前方で、盾のように纏めあげ、やって来た光の塊を受け止める。
「すっごい威力っ」
糸から伝わってくる力の強さを感じ、保が多少、顔をしかめる。
「けど」
しかめた表情をすぐに戻し、鋭い瞳を見せる保。
「“猛ろ”…!」
受け止めていた糸を保が大きく反らせ、そして押し出すように前方へと突き出す。すると、糸が受け止めていた獣たちの光が、さらに勢いを増して、獣たちの方へと押し返される。
『グアアアア…!』
自分たちの放った光を浴び、辺りの地面ごと吹き飛ばされる二頭の獣。周囲の砂が一気に舞い、景色を覆うほどの砂煙が巻き起こる。
「やっぱり、凄い威力ですねぇ」
感心するように言いながら、保が暢気に下方を見下ろす。
「はぁ~!こんな夢も何にもない俺が、子供たちの遊び場のグランドを無茶苦茶にしちゃって、すみませぇ~ん!」
謝る相手も居ないというのに、空中で一人、叫び散らす保。
『ガアアアア!』
そんな保のもとへ、砂煙に紛れるようにして、いつの間にか上昇してきた獣たちが、保の背中側から、鋭い爪と牙を保へと向けた。
「これ以上、グランドを壊してしまうわけにもいかないので、そろそろ終わらせてもらいます」
保がいつもの情けない表情から、すぐさま鋭い表情へと変わる。
「“断て”!」
赤い光を帯びた糸を鋭く振り切り、保が大きく言葉を発する。糸は目にも留らぬ速さで動き、向かって来ていた獣たちの体を、何度か往復した。獣たちは保を攻撃することなく、そのまま保の横を通り過ぎ、保の後方で止まる。
『グっ…ギャアアアアア!!』
全身を複数回、斬り裂かれた獣たちが、激しい断末魔をあげながら、その体を金色の光の粒へと崩し、掻き消えていく。
「こんな俺が、勝っちゃってすみません…」
空中で消えていく光の粒を見つめ、保がそっと呟く。
「ふぅ~、何とか勝て…ん?」
獣たちを圧倒し、ホッとした様子で肩を落とそうとした保が、上空から見える、先程まではなかった真っ赤な三本の光に気付き、それらへと視線を向ける。
「あれは…」
「ほぉ…あれは、失われし三度目の言玉解放。更なる変格活用かのぉ」
「……っ」
何の光であるかを察し、眉をひそめた保が、下方から響く声に顔を下へと向ける。グランドに置かれた椅子に腰かけたままの現は、保よりも前から、突き上げた光に気付いていたようで、そちらを見つめていた。保と獣たちの戦いは、見ていなかったようである。
「まだ、あのようなものが生きとったか。実に興味深い…」
光を見つめ、現が少し口元を緩める。
「あれと、わしが生み出したものたちを戦わせてみたかったのぉ。やれやれ」
深々と肩を落とした現が、地面へと降りて来る保へと、視線を向ける。
「太守は唯一、変格のない神附き。こりゃ、とんだハズレクジじゃのぉ」
「はぁ!人間としても五十音士としてもハズレな俺で、すみませぇ~ん!」
現の嫌味にも、保は表情をしかめるということはせず、ただ素直に謝り散らす。
「やれやれ…本当に阿修羅は、面倒なことを押しつけてくれたわい…」
右手に持った杖を、力強く地面へと付き、現がゆっくりと椅子から腰を上げる。
「このようなハズレくじを相手に、わざわざ、このわしを動かすとはなぁ…」
「……っ」
ゆっくりと立ち上がった現のその冷たい瞳に、保は少し緊張した面持ちで、ごくりと息を呑んだ。




