Word.56 更ナル変格 〈3〉
言ノ葉町、北端。
「“叫べ”」
囁が真っ赤な横笛を奏で、音の塊を、エカテリーナへ向けて放つ。
「第四音“え”、解放」
神の音であるその文字を解放させ、エカテリーナが光り輝く緑色の言玉を、自らの喉へと吸収させた。
「“詠じろ”」
そっと言葉を落とした後、甲高い声を辺りへと響かせるエカテリーナ。するとその声が、音波となって空中を駆け抜け、囁の音の塊を一瞬にして掻き消して、囁自身へと迫る。
「“妨げろ”!」
目の前へと赤い光膜を張り、やって来た音波を防ぐ囁。
「音を音で返されるとはね…」
口元を緩め、笑みを浮かべながらも、囁の額には、一筋の汗が滲んでいた。同じ音を使った攻撃ながら、囁の音は、少しも競り合うことなく、エカテリーナの音の前に消えてしまった。
「これが神の力ってものかしら…」
皮肉ったように言いながら、囁が横笛を口から離し、振りかぶるようにして右手で構える。
「“変格”…」
囁のその言葉と共に、姿を変えていく横笛を見つめ、エカテリーナがそっと目を細める。
「“変格”でございますか」
横笛から変わった、真っ赤な槍を構える囁を見つめながら、喉へと吸収させていた言玉を右手の中へと戻すエカテリーナ。
「神である私を相手に原型では無理と、一度の攻撃で悟ったのは、聡明な判断でございます」
囁を誉めるように、エカテリーナが言葉を向ける。その間に、囁は大きく槍を振りかぶり、エカテリーナへ向けて、鋭く振り下ろした。
「“裂け”…!」
振り下ろされた槍先から、真っ赤な一閃が、まっすぐにエカテリーナへと向かっていく。
「まぁ、“変格”を行ったからといって、無理である現状が変わるわけではございませんが」
冷たく言い放つと、エカテリーナが、今度は右手へと言玉を吸収させた。緑色に輝く右手を、手のひらを前へ向けるようにして、エカテリーナが迫り来る一閃へと突き出す。
「“得ろ”」
「え…?」
突き出されたエカテリーナの手のひらに、吸い込まれるようにして消えていく囁の一閃。その光景を見つめ、囁が戸惑うように、眉をひそめる。
「お返しするでございます」
吸収させた手のひらを、エカテリーナがそのまま、囁へと向ける。
「“映じろ”」
「な…!」
エカテリーナの右手のひらから、先程、囁の放った一閃が、まるで鏡にでも映し出したかのように、真逆の動きをとって、囁のもとへとやって来る。向かって来る自身の一閃を見つめ、驚きの表情を見せる囁。
「さ、“避けろ”!」
多少焦りながらも、囁が何とか言葉を発し、ぎりぎりのところで、その一閃を避ける。
「相手の力を呑み込むだけではなく…そっくりそのまま跳ね返す言葉…」
「考え事をしている余裕が、あなたにあるのでございますか?」
「え…?」
後方へと飛んでいった一閃を見送り、考え込むように首を捻らせていた囁が、エカテリーナの声に振り向く。エカテリーナはすでに、右手から吸収させていた言玉を取り出し、今度は左足へと移しているところであった。
「“円滑”」
エカテリーナが言葉を放つと、まるで氷の上のように、左足を地面に滑らせ、目にも留らぬ速度で、囁のもとへと接近してくる。
「ク…!」
迫り来るエカテリーナに囁が身構えようとするが、その囁の動きよりも素早く、エカテリーナが言玉を、軸にしている左足から、振り上げた右足へと移動させた。
「“鋭鋒”」
「あああああ…!」
矛先のように鋭い光を纏った右足で、エカテリーナが勢いよく、囁を蹴り上げた。言葉を使う間もなく蹴りを受け、囁が思いきり後方へと吹き飛ばされる。
「う、うぅ…」
滑り込むように地面へと倒れた囁が、苦しげに声を漏らしながら、すぐに体を起こす。鋭い蹴りに斬り裂かれたのか、左腕の袖が破れ、赤い血が流れ落ちていた。
「喉に手に両足…まさに自由自在って感じね…」
上半身を起こし、困ったように言葉を落とす囁。だが、その表情にはまだ笑みが浮かんでおり、追い込まれている様子ではない。
「さすがは神ってところかしら…」
「ええ、そうでございます」
囁の言葉に、ゆっくりと囁のもとへと歩み寄って来るエカテリーナが、大きく頷く。
「私は神。神の力は、愚かな者、すべてを裁く為にあるのでございます」
いつの間にか右足から取り出した言玉を、右手の中で数度回すエカテリーナ。
「ですから、神に逆らう愚かなあなたを、私は裁くのでございます」
「フフフ…」
不気味な笑みを零す囁に、エカテリーナがそっと眉をひそめる。
「何が可笑しいのでございます?」
「別におかしいわけじゃないわ」
エカテリーナの問いに答えながら、囁がその場で立ち上がる。
「これが天命なのかしら、と思ってね…」
「天命…?」
囁の言葉に、少し首を傾げるエカテリーナ。
「私は一度、自身の神を裏切った。でも、我が神も誰も、私に裁きを下さなかった」
かつて、七声の幹部であった囁は、アヒルと安団を裏切り、主謀者である弔や他の仲間たちと共に、五十音士のすべての言葉を奪い尽くそうとした。だが、結局のところ、囁に罰は下らず、今もこうして、安団の一員として戦うことを許されている。
「だからその分、ここで、神であるあなたに裁かれることが、私の天命なのかしらって思っただけ…」
過去を思い出しているのか、少し遠くを見るような瞳で、囁が自嘲の笑みを浮かべる。
「そうでございますね。確かに、そうかも知れま…」
「まぁ、冗談じゃないけれど」
頷こうとしたエカテリーナの言葉を、囁は勢いよく遮った。
「裁かれるにしたって、裁く神を選ぶ権利くらい、こっちにもあるわよねぇ」
「……愚かな口を」
挑発するように言い放つ囁に、エカテリーナは大きく顔を歪めた。
「どこまでも神に歯向かう気であるというのなら、望み通り、私が裁いて差し上げるでございます!」
今までよりも声を張り上げたエカテリーナが、再び喉へと、右手の中の言玉を吸収させる。
「“詠歌”!」
大きく言葉を放ち、そして歌声を響かせるエカテリーナ。
「また歌…」
立ち上がったばかりの囁が眉をひそめ、美しく響く歌声を耳に入れながら、警戒するように構えを取る。エカテリーナが響かせた歌声が、激しい音波となって、囁に迫り来る。
「“妨げろ”…!」
槍を突き出し、前方に防御膜を張る囁。まっすぐに向かって来た音波が、張られた膜に直撃した途端、膜に勢いよくヒビが入った。
「あ…!」
ヒビ割れる膜に、驚いた様子で囁が大きく目を見開く。だがじっくりと驚いている間もなく、膜が一気に砕け散り、音波が囁へと襲いかかった。
「ううぅ…!」
真正面から音波を受け、囁がまたしても後方へと弾き飛ばされる。
「防御が、効かない…」
体を重たそうに起き上がらせ、囁が表情を曇らせる。
「終わりでございます」
まだ地面に座り込んだままの囁の目の前へと迫り、鋭い表情を見せたエカテリーナが、緑色に輝く右足を振り上げる。
「“鋭鋒”!」
刃のように鋭く尖ったエカテリーナの右足が、囁の下腹部へと、勢いよく突き刺さった。だが、エカテリーナの右足にはまったく手応えがなく、突き刺されたはずの囁の体が、赤い光の粒となって、空中に掻き消えていく。
「何でございます…?」
散っていく光の粒に、眉をひそめるエカテリーナ。
「“錯覚”…」
「……!」
すぐ後ろから聞こえて来る声に、エカテリーナが大きく目を見開く。
「幻覚を…!」
「“裂け”…!」
「う…!」
慌てて後方を振り返ろうとするエカテリーナであったが、囁はエカテリーナが振り返り切る前に、振り上げた槍を、勢いよくエカテリーナへと突き出した。向かって来る槍先に、エカテリーナが険しい表情を見せる。
「え…?」
だが、囁の突き出した槍は、何の手応えもなく、エカテリーナの背中を貫いた。あまりにもない手応えに、勢いよく突進した囁が、思わずバランスを崩す。
「ど、どうして…?」
何とか踏み止まり、戸惑うように目の前のエカテリーナを見つめる囁。確かに、エカテリーナは囁の目の前におり、槍もエカテリーナの背中を突き刺しているというのに、手応えだけがまるでない。
「“液化”」
「な…!?」
エカテリーナの口から発せられる言葉を聞き、囁が大きく目を見開く。よく見れば、囁が槍を突き出したその部分のエカテリーナの背中が、水のように液体と化していた。
「そんな言葉まで…!」
「神の背中を突き刺すとは、何事でございますか?」
エカテリーナが腹側から、突き出している槍先を強く押し返すと、槍がエカテリーナの体から出て、囁が後方へと、少し押し出される。
「裁きが下るでございますよ」
押し出された囁の左手を、エカテリーナが右手で掴み止める。
「“炎天”」
「う、あああああ…!」
囁の手を掴んだエカテリーナの右手が緑色に輝くと、その手から激しい熱が伝わってきて、掴んでいる囁の左手を強く焦がした。手を焼かれ、痛々しい叫び声をあげた囁が、何とかエカテリーナの手を振り払い、距離を取るように数歩、後ろへとさがる。
「う、ううぅ…」
焦げた左手を押さえながら、囁が苦しげな声を漏らす。
「ふぅ」
一息ついたエカテリーナが、右手から、体内に吸収していた言玉を取り出す。
「一体、何個の熟語を…」
「“え”の文字は元来、神々の文字、五母の中でも、最も動詞が少ないとされる文字でございます」
囁の方へと向き直りながら、囁の疑問に答えるように、エカテリーナが言葉を発する。
「ですからその分、熟語が豊富なのでございますわ」
「成程、ね…」
納得するように頷きながら、囁がスカートのポケットから取り出したハンカチを、焦げた左手に巻きつけ、右手のみで槍を構え直す。その様子を見て、エカテリーナが目を細める。
「まだ、神に歯向かう気でございますか?」
呆れたような表情で、エカテリーナが囁へと問いかける。
「ええ、そのつもりだけれど」
「とんだ不届き者でございますわね」
「あら、酷い言われようね…」
深々と肩を落とすエカテリーナに、囁が鋭く笑みを向ける。
「神を堕ちた堕神さんに、“不届き”とか言われるなんて、心外だわ…」
「……っ」
その囁の言葉に、今までには珍しく、あからさまに表情を曇らせるエカテリーナ。
「こちらはそもそも、“堕神”と呼ばれることが、心外でございますわ」
しかめた表情を作りながら、エカテリーナが大きく腕組みをする。
「私はただ、私が愚かだと思った人間共に、裁きを下しただけ」
不機嫌そうに、エカテリーナが言葉を続ける。
「それだというのに韻は、神の力を乱用したなどと言って、私を神から堕としたのでございますわ」
さらに険しい表情を作るエカテリーナ。
「私が何をしたと言うのでございます?愚かな人間に裁きを下すことは、神の役目。私は何一つ、間違ってはいないでございますでしょう?」
組んでいた両手を広げ、エカテリーナが囁へと強く訴えかける。
「ですから私は、神を堕とされる覚えなんて、まったく…」
「そうね」
まだ続こうとしていたエカテリーナの言葉を、囁が勢いよく遮った。
「色々と胡散臭い組織だけれど…韻の、その判断だけは、正しかったと思うわ」
「何でございますって…?」
囁の言葉に、エカテリーナが強く、眉間に皺を寄せる。
「だって、人を正しき道に導くことも出来ない、裁くしか出来ない無能な神なんて…この世界には必要ないもの」
挑戦的に微笑む囁に、エカテリーナの表情が大きく歪む。
「余程、私の裁きを受けたいようでございますわね…」
少し俯いたエカテリーナが、溢れ出す怒りにか、多少その声を震わせる。
「いいでございます!そこまで望むのであれば、今すぐ、裁きを下して差し上げるでございます…!」
顔を上げたエカテリーナが、勢いよく叫び、言玉を持った右手を振り上げようとする。
「う…!」
だが、振り上げようとしたその右手は動かず、思わずエカテリーナが苦しげな声を漏らす。
「な、何故…こ、これは…!」
戸惑うように自分の右手を見下ろしたエカテリーナが、すぐさま驚きの表情となる。エカテリーナの右手は、地面から伸びた草木により、雁字搦めに捕らえられていた。
「何故、このような場所に植物が…?」
捕らえられた右手をそのままに、エカテリーナが周囲を見回す。二人の居る場所は、草木も何も育っていない、まったくの更地である。そんな場所に、こんなにも長い草木が伸びているなど、不自然過ぎる。
「まさか、あなたが…!」
険しい表情を見せ、エカテリーナが勢いよく囁の方を振り向く。
「フフフ…」
エカテリーナを見つめる囁は、どこか不敵な笑みを浮かべていた。
「何を、何をしたのでございますか…!?」
「別に…?ただ、言葉を口にしただけよ」
「馬鹿な…!あなた如き、神附きの言葉など、神である私の前には…!」
「私たちは、神に喧嘩を売りに来たのよ…?」
声を荒げるエカテリーナだが、またしてもその言葉は、囁によって遮られる。
「それなりの準備をしてこなきゃ、失礼ってものでしょう…?」
「準備…?」
囁の言葉に、エカテリーナが戸惑うように眉をひそめる。
「五十音、第十一音…」
ゆっくりと言葉を繋げながら、囁が自身の目の前で、鋭く槍を身構える。
「“さ”、解放…」
囁がまっすぐに槍を見つめ、ゆっくりと口を動かす。
「“左変”…!」
「……!」
強い輝きを放ち始める槍に、エカテリーナが大きく目を見開いた。




