Word.55 驕レル神 〈3〉
「“神格”、か…」
辺りから一斉に噴き上げた大量の水を見回した後、ゆっくりと強い青色の光に包まれた錨の方を振り向いて、イクラがあまり興味なさそうに声を落とす。
「大袈裟な呼び名を付けるから、どんなものかと思えば…ただの水芸か?」
「ただの水芸に、んな大袈裟な呼び名付けると思うかぁ?」
挑発するように問いかけたイクラであったが、錨は余裕のある笑みを浮かべ、問いかけ返した。
「なんなら、試してみるかぁ?ただの水芸かどうか」
「……望むところだ」
自信に満ちた様子の錨を不審に思いながらも、あからさまなその挑発に、イクラが乗らないはずはなく、イクラはすぐさま言玉を構える。
「軽はずみな自分の言葉を、精々、後悔するといい」
イクラの構えた言玉が、淡い光を帯びていく。
「“怒れ”」
言葉がイクラの口から落とされると、錨の真下から、細長く突き刺すような鋭い水の刃が、勢いよく噴き上げた。
「ううぅ…!」
避ける間もなく、その身を少し逸らしただけで、錨が水の刃を直に受ける。急所を狙っていた刃は、錨が身を逸らしたことで、錨の左肩へと深々と突き刺さった。水とは真反対の赤色の血が飛び散って、錨が痛みに表情をしかめる。
「他愛もない…」
傷を負った錨を見つめ、どこかがっかりするように肩を落とすイクラ。
「何が“神格”だ。こんなもののために、町に残ったのは、無駄であ…ううぅ!」
呆れ果てた言葉を続けていたその時、イクラの左肩が突然、傷つく。
「な、に…?」
「……っ」
何の攻撃も受けていないというのに、鋭く穴があき、真っ赤な血の飛び散る自身の左肩を見つめ、大きく目を見開くイクラ。そんなイクラの様子を見て、左肩の傷を右手で押さえたままの錨が、そっと口元を歪める。
「これは一体…」
「あぁ~あ、悪いことしちゃったから、自分に返ってきちゃったねぇ」
肩の傷を見下ろし、戸惑いの表情を見せていたイクラが、前方から届く声に、すぐさま顔を上げる。
「貴様の仕業か…?」
「仕業?神業って言って欲しいねぇ」
険しい表情で問いかけるイクラに、錨がどこか茶化すように答えを返す。
「噴き上げる水に取り囲まれた、この場所で、相手に傷を負わせた場合、相手と同じ傷を自分も負うことになる」
取り囲む噴水を見回しながら、錨がわかりやすく説明をする。
「それが、俺の神格、“因果応報”」
「因果、応報…」
その言葉を繰り返し、イクラがそっと眉をひそめる。
「この中で、人を傷つけるような悪い行為をしようものなら、すぐにも天罰が下るってわけだぁ」
錨が楽しそうに、笑みを零す。
「イヒヒ、どうだぁ?人間に天罰を下せるなんて、神の俺に相応しい、素晴らしい力だろ?」
得意げに話す錨を見つめ、イクラが何やら思うところがある様子で、目を細める。
「さぁーて、これで俺に攻撃は出来なくなったぜぇ?どうする?現、以のか…」
「“憤れ”」
「え…?」
錨の言葉が終わらぬうちに、イクラの口から発せられる言葉。
「な…何!?ク…!」
先程よりも多くの水の刃が、一斉に下方から突き上げ、錨が焦った様子で表情を崩しながら、慌てて後ろへと飛び引き、その刃を避ける。
「お、お前…!」
険しい表情で顔を上げ、イクラを睨みつける錨。
「さっきの俺の説明、聞いてなかったのかよ!?俺を攻撃すれば、お前にも傷がだなぁ…!」
「だったら、何だ?」
困惑した様子で訴える錨の言葉を遮って、イクラは左肩からボタボタと血を落としたまま、何食わぬ様子で、平然と言い放った。
「傷を負うとしても、貴様も負うのであれば、それで十分だ」
イクラが言玉を握る手へと、さらに力を込める。
「神の天罰など、俺は恐れたことがない」
「……っ」
堂々と言い放つイクラに、錨の表情が歪む。
「恐れたことがないだぁ…?」
イクラの言葉を繰り返し、錨がさらに顔をしかめる。
「神を相手に、恐れ多いってんだよ!それがなぁ!」
錨が勢いよく、言玉を持った右手を振り上げる。
「“挑め”!」
錨の右手に握り締められた言玉が強く輝き、周囲で噴き上げている水からイクラへ向かって一斉に、水の塊が放たれる。放たれた塊は、周囲の数個でさらに固まり合って、大きな波を形成して、四方からイクラへと攻め込んだ。
「“怒れ”!」
イクラも言葉を放ち、地面から水を噴き上がらせて、錨の大波と衝突させる。だが噴き上げたイクラの水は、錨の大波にあっさりと呑み込まれてしまう。
「な…!」
大波の中に掻き消えていった自身の水に、イクラは驚きを隠せず、大きく目を見開く。
「俺の水を…」
「精々、気を付けなぁ!“神格”した俺の言葉は、さっきとは比べもんにならねぇ威力だぜぇ!」
波の向こうから聞こえてくる錨の声に、イクラがそっと眉をひそめる。
「避けるか、収めるか…」
四方から攻め込んでくる波を見回し、イクラが考えを巡らせる。眉間に皺を寄せ、考え込んでいたイクラが、ふと何か思いついたような表情を見せた。
―――噴き上げる水に取り囲まれた、この場所で、相手に傷を負わせた場合、相手と同じ傷を自分も負うことになる―――
思い出される、先程の錨の言葉。
「試してみるか…」
小さく声を落とすと、イクラが上空へと高々と飛び上がる。イクラが居なくなったその場所に、四方から波が押し寄せ、中央で互いに激しくぶつかり合った。その際、噴き上がって来た水の滴を、イクラがわざと浴び、右腕に小さなかすり傷を負う。
「……っ」
地面へと着地しながら、イクラが少しだけ振り向き、錨の姿を確認する。
「チっ…」
錨はイクラと同じ右腕に、まったく同じ大きさのかすり傷を負い、表情を少ししかめていた。
「やはり、そうか…」
イクラが確信するように、言葉を落とす。
「ならば」
イクラがすぐに体の向きを変え、握り締めた言玉を、錨へと向ける。
「“憤れ”!」
すぐさま言葉を放ち、噴き上がらせた水を錨へと向けるイクラ。
「“諫めろ”!」
錨も間を置くことなく言葉を発し、イクラの噴き上がらせた水を、あっという間に抑え込む。
「“稲妻”…!」
「“雷”!」
二人が同時に雷撃を放ち、互いの中心で相殺させる。
「もう一丁…!“挑め”!」
雷撃が相殺しきらないうちに、高々と右手を掲げ、次の言葉を放つ錨。だが錨が言葉を放った瞬間、イクラは鋭く目を細めた。四方から迫る大波に、イクラは特に対抗する言葉も放たずに、ただ迫り来るそれを受け入れた。
「ううぅ…!」
四方からの波に呑まれ、イクラが苦しげな声を漏らす。地面に何とか足を踏ん張り、その場に立ち続けたイクラであったが、波が過ぎ去った時には全身傷だらけで、赤い血が勢いよく滴り落ちていた。
「クっ…」
濡れた地面に落ち、滲んでいく自分の血を見下ろし、少し顔をしかめるイクラ。
「だが、これであいつにも…」
傷を負いながらも、どこか期待するような目で、イクラが顔を上げる。この場所では、相手に負わせた傷を、自分も負うことになる。であれば、今、錨がイクラに負わせたこの傷を、錨も負うことになるはずである。
「な…!?」
「イヒヒっ」
だが、イクラが見つめた先には、まるで無傷の錨が、笑顔で立っていた。驚きの表情を見せるイクラを見て、錨がさらに楽しげに笑う。
「馬鹿な…」
眉間に強く皺を寄せ、戸惑うように呟くイクラ。
「先程は確かに、俺と同じ傷を…」
「傷?ああ、もしかして」
微笑んだ錨が、右腕のかすり傷へと指を伸ばす。
「これのことか?」
「……!」
錨が指でなぞった瞬間、錨の右腕に刻まれていたはずのかすり傷が、あっという間に消える。きれいさっぱり傷のなくなった右腕に、イクラがさらに驚きの表情を見せた。
「“偽れ”…」
「ご名答っ」
イクラの放った言葉を聞き、錨が鋭く口角を吊り上げる。
「この“神格”の決まりが俺にも有効かどうか、お前は絶対に試してくると思ってなぁ、初めっから“偽れ”の言葉を掛けといたってわけ」
「成程な…」
錨の説明に、イクラが厳しい表情を見せながら頷く。
「この面倒な決まりは、貴様には無効ということか」
「当たり前だろぉ?」
そう言うイクラに、錨が挑発的な笑みを向ける。
「ここは俺が創った空間。“神”である俺の行いは、すべてが許されるんだよぉ!」
再び右手を振り上げる錨に、傷だらけで、満足に動けない状態のイクラが、険しい表情となる。
「“茨”!」
イクラの周囲へと張り巡らされる、雨のような、無数の水の刃。
「“埋けろ”!」
その刃が、一斉にイクラへと降り注いだ。
言ノ葉町、中央部。礼獣付近。
「先程から、大地を揺るがすほどの、水の震動が続いていますね」
「うぅ~ん、結構激しくぶつかり合ってるみたいだねぇ~イクラくんたちぃ」
遠く離れていても、かすかに伝わってくる震動を感じ取り、南西の方向を見つめながら、雅と為介が落ち着いた様子で言葉を交わす。
「大丈夫でしょうか?彼」
「さぁ?堕神となんて戦ったことないから、ボクには何ともねぇ」
少し不安げに問いかける雅であったが、為介はてんで他人事といった様子で、特に気に掛けている素振りはなかった。
「っていうかぁ、イクラくんのこと、心配してる場合じゃないっぽいよぉ」
「え…?」
「グアアアア!」
「な…!?」
雅が為介の言葉に首を傾げていたその時、金八が作った水の箱の中に封じ込まれていた礼獣が、激しい咆哮をあげ、両翼を抑え込んでいた仁王の水像を、強く押し返し始める。
「阿…!」
「吽…!」
「仁王…!」
「あの獣…あれだけ攻撃を受けたのに、まだ…」
苦しげに声をあげる仁王を、心配するように身を乗り出すニギリ。ニギリの後方で礼獣を見つめ、シャコが険しい表情を見せる。
「グワアアア!アアアア!」
翼で仁王を押し返しながら、礼獣が前足を何度も叩きつけ、周囲に張り巡らされた水の壁を攻撃する。その度に多くの水滴が飛び散り、水の箱が徐々に崩れ始めていた。
「マズイぜ!このままじゃ、水の檻がぶっ壊される!」
恵や為介の方を振り返りながら、焦った様子で叫ぶ守。
「おい、為す…」
「“凍れ”!」
「え?」
恵が為介へと呼びかけようとしたその時、一つの言葉が落ちてきた。落とされた言葉により、礼獣を囲み込んでいる水の箱が一瞬にして凍りつく。凍った壁は強度を増し、前足を叩きつけている礼獣が、その固さに顔をしかめた。
「恵先生!」
「小泉っ」
言葉と共に、恵のすぐ横へと現れたのは、紺平であった。現れた紺平を、恵は戸惑うように見つめる。
「お前が、どうしてここに…」
「“友を助けて来い”と」
問いかける恵へと、紺平が晴れやかな笑みを向ける。
「神の命で来ました」
誇らしげに言う紺平に、恵は最初、少し驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「そうか。なら、行って来い」
「はい!」
恵の言葉に頷き、紺平が礼獣の方へと駆けていく。
「援護します!もう一度、抑え込んで下さい!」
「ああ。お前ら!」
紺平の言葉に頷いた金八が、他の三人の仲間たちへと声を掛ける。
「おっけぇ!やるやるやるわよぉ、チラシくん!」
「うん、ニギリちゃん!」
「うるさい、鬱陶しい、ウルグアイ…」
ノリノリで向かっていくチラシとニギリに少し遅れるようにして、面倒臭そうに呟きながら、シャコが礼獣の方へと歩き出していく。
「おっしゃあ!今度は俺も協力するぜぇ!」
「ワタシモ、セメテ歌ノ応援ヲ…!」
意気込んだ守とライアンも、以団の三人と紺平に続くようにして、礼獣のもとへと駆けていく。
「雅クン、君も援護を」
「はい」
「お、俺も行く!」
為介の命により駆けていく雅と、それを追いかけるように、馬に乗って駆け出していく六騎。礼獣から少し距離を取っているその場所には為介と恵、そして金八だけが残っている。
「さてとぉ、俺も」
皆のもとへと行こうとした金八が、踏み出そうとしたその足を止め、ふと南西の方を振り返る。激しくぶつかり合っていた水音が、今は止んでいる。
「……っ」
その方向を見つめたまま、そっと眉をひそめる金八。
「行きたきゃ行って来ていいぞ」
「へぇ?」
横から声を掛けられ、金八が間の抜けた声を漏らしながら、振り向く。
「イクラが気になるんだろ?第一、神に附いているのが、お前たち神附きの責務だしな」
金八へと声を掛けたのは、恵であった。恵が金八の心情を察するように、言葉を放つ。
「ここには、これだけの人数がいる。一人くらい抜けても、問題は…」
「ダメダメ!んなことしたら、俺が神にブン殴られて、ボロ泣きしちゃうよぉ~」
すぐさま首を横に振る金八に、恵が少し眉をひそめる。
「だが、あいつだけで勝つことは、厳し…」
「あんた、さっき言ったよなぁ?相手には、勝つ自信があるんだろうって」
「え?」
恵の言葉を遮って問いかける金八に、恵が少し戸惑うように目を丸める。
「あ、ああ」
「けど、自信なら、俺にだってあるんだ」
「何?」
金八の言葉に、恵が首を傾げる。
「相手が堕ちた神だろうが、どんなに強かろうが、うちの神のんが絶対に強いって自信がなぁ」
得意げに言い放った金八は、まったく疑うことのない、自信に満ちた笑みを浮かべた。




