Word.54 幕開ケ 〈1〉
阿修羅たち、堕神アジト内。堕ちし“宇の神”、現の部屋。
「どうだ?現」
三日の時を置き、棗を連れた阿修羅が、再び現の部屋を訪れた。
「“どうだ”、じゃと?」
阿修羅が口にした言葉を繰り返しながら、部屋の中央に立った現が、ゆっくりと阿修羅たちの方を振り返る。
「見ればわかるじゃろう?」
強気に言い放った現の後方には、全身金色に輝いた、美しくも荒々しい獣の姿があった。鋭い牙と爪に、射るような瞳。今にも目の前に立つ現を噛み殺しそうなほど、狂気的な唸り声を響かせている。その獣の姿を視界に入れ、阿修羅が満足げに微笑む。
「ああ、完璧だ」
「フン、当然じゃ」
大きく頷いた阿修羅を見て、現が得意げな笑みを零す。
「すぐに出す準備をしてくれ、現」
「言われんでも」
阿修羅の指示に素っ気ない返事をしながら、現が獣の方へと歩を進めていく。
「さぁ、じゃあ行くとするか。棗」
「はい、我が神」
阿修羅の声に、棗が素早く答える。棗を従えた阿修羅が、現へと背を向け、部屋を出る。
「皆」
部屋を出た阿修羅が、扉のすぐ前で足を止め、声を出す。部屋の前には、阿修羅を待ち構えていた様子の錨、エカテリーナ、沖也の三人の姿があった。
「準備は整った。さぁ、始めよう」
笑顔を見せた阿修羅が、ゆっくりと右手を振り上げる。
「俺たちの世界に、秩序ある言葉をもたらす為に」
一方、恵たちとの修行を終え、先代“左守”相良櫻との話を終えたアヒルは、自宅へと戻っていた。まだ夜の明けていない、薄暗い居間で、仏壇の前に座り込み、飾られているカモメの写真を向き合っている。両手を合わせ、深く目を閉じていたアヒルは、長い祈りを終え、やっとのことで、その瞳を開いた。
「カー兄…」
「随分と長いお話だったねぇ」
「……っ」
部屋へと入ってくる声に、アヒルが少し驚いた様子で顔を上げる。
「オヤ…」
「ミラクル大根アターック!」
「ぐお!」
アヒルが居間の襖の方を振り向いた途端、勢いよく大根が飛んできて、アヒルの顔面に容赦なく突き刺さった。大根を飛ばしたのは、襖を開け、居間へと入って来たばかりの、いつものように明るい笑顔を見せたアヒルの父、ウズラであった。
「おっはぁ、アーくん!」
「ああっ…おはよう、さん!」
「のおおう!」
アヒルが顔面に突き刺さった大根を、明るく手を振るウズラへと、思いきり投げ返す。大根を顔面に突き刺され返したウズラは、そのままの勢いで、後方へと倒れ込んだ。
「ひどいよぉ~アーくぅ~ん」
「どっちがひどいか、よく考えろ。クソ親父」
畳の上に倒れ込んだウズラが、ゆっくりと上半身を起こしながら、今にも泣き出しそうな声をあげると、アヒルはまだ赤い顔面を撫でながら、強く表情をしかめる。
「ってか、悪りぃ。起こした?」
「ううん。仕入れの時間だから、起きただけだよ」
眉をひそめたアヒルへと、ウズラが笑顔で、首を横に振る。
「そっか。仕入れか」
「うん。アーくんは?随分と早起きじゃない」
「俺は、ちょっとカー兄に話っつーか、まぁ」
「そう」
曖昧に答えたアヒルであったが、ウズラは特に問い質すこともなく、一つ頷きを落とすだけであった。
「あんまりカーくんに心配かけないようにね」
「それは…」
ウズラのその言葉に頷けず、アヒルがそっと俯き、視線を落とす。
「ちょっと約束、出来ねぇな」
「困ったもんだねぇ」
アヒルのその答えを聞き、ウズラが優しく笑みを零す。
「それじゃあ、カーくんがゆっくり眠れないよぉ」
「うん」
ウズラの言葉に納得し、アヒルがすぐさま大きく頷く。
「たぶん、この五年間、起こしっぱなしだと思う」
仏壇の写真をまっすぐに見つめ、薄く笑みを浮かべるアヒル。
「だからそろそろ、いい加減、ゆっくり休ませてやらねぇと」
そう言ったアヒルの瞳には、何か決意したような、強い光が宿っていた。まっすぐな瞳を見せるアヒルを見つめ、ウズラがそっと察するように目を細める。
「そう」
ウズラがそっと微笑み、短く声を落とす。
「さぁてぇ、そろそろ仕入れに行こうかなぁ」
「あ」
そう言うとウズラが居間の店側の襖を開け、サンダルを履いて、店の方へと歩いていく。そんなウズラの背中を見て、アヒルが少し慌てた様子で声を漏らした。
「親父!」
「んん?」
アヒルに呼びかけられ、ウズラがすぐさま振り返る。
「なぁにぃ?アーくぅ~ん。もっとお父さんと一緒に、おしゃべりしてたいってぇ~?」
「あ、手が滑った」
「ぎゃあ!」
満面の笑顔で答えようとしたウズラに対し、アヒルが素早く、先程投げ放った大根を拾い上げ、その大根を父の顔面へ向け、容赦なく投げつけた。物凄い力でウズラの顔面へと叩きつけられ、太い大根が砕け折れる。
「ひどいよぉ、アーくぅ~ん」
「くだらねぇこと、言うからだろうがっ」
顔を真っ赤に腫らしながら非難するウズラに、アヒルが冷たく言葉を吐き捨てる。
「でぇ?何ぃ~?」
「ああ、えっと」
改めて問いかけるウズラに、アヒルが少し言葉を詰まらせる。
「昨日帰って来たとこで悪りぃんだけど、俺、実は今日もちょっと、今から出掛け…」
「うん、いってらっしゃい」
「へ?」
あっさりと承諾の言葉を返すウズラに、アヒルが戸惑うように目を丸くする。最近、修行だの何だので家を空けてばかりいたため、昨日の夜、久々に家へと戻って来た時は、泣きじゃくるウズラに散々、縋りつかれたのだが、今日は一転して淡白だ。
「と、止めねぇの?」
「止めないよぉ。そんな、もう十六の息子相手に、いい年したオッサンがぁ」
「昨日は泣きじゃくって、縋りつきまくったじゃねぇかよ。いい年したオッサンが」
もう十分に大人なのだが、いつもより大人ぶって答えるウズラに、アヒルが少し呆れた表情を見せる。
「どこへでも、好きに行っておいで」
ウズラがアヒルへと、笑顔を向ける。
「けど、帰っておいで」
「……っ」
明るい笑みを浮かべたまま、瞳だけを真剣なものにし、少し低い声で言葉を発するウズラに、アヒルがそっと眉をひそめる。
「必ず、帰っておいで」
「親父…」
念を押すように、どこか願うように、もう一度言い放つウズラを見つめ、アヒルが目を細める。
「今日の晩御飯はアーくんの大好きな、キャベツとナスビのセロリあんかけ、ニンニク味だからねぇ!」
「見事に帰って来たくなる要素、一個もねぇな…」
まったく惹かれないその晩御飯のメニューに、アヒルがさらに呆れた表情で肩を落とす。
「まぁいいや。味にはあんま期待出来ねぇけど、とりあえず」
落とした肩を上げ、アヒルがウズラと向き直る。
「帰って来る」
「うん」
大きな笑顔を見せ、はっきりと答えるアヒルに、ウズラは満足そうに頷いた。
「じゃあ、行ってくるな!」
「はいはぁ~い、いってらっしゃ~い!」
アヒルは笑顔のまま、軽く手を振り上げると、そのまま駆け足で居間を出て、通用口から家の外へと出て行った。大きく手を振り、アヒルを送り出したウズラは、開いた通用口が閉まり、アヒルの駆け出していった足音が聞こえなくなったことを確認すると、そっと手を下ろす。
「アーくん、行っちゃったよ」
再びサンダルを脱ぎ、居間の中へと戻ったウズラが、誰へともなく声をかける。
「君も、もう行かなきゃなんじゃないの?」
ウズラが居間から通じている、台所を覗き込む。
「篭也くん」
「…………」
きれいに片付けられた台所には、静かに篭也が一人で佇んでいた。台所へは、居間を通らないと入ることが出来ない。アヒルとウズラが話している間も、篭也はずっと、ここに居たのだろう。
「すみません。神を迎えに来たつもりだったんですが、出るに出れなくて…」
「いいよ。君に聞かれて、困るような話じゃないしね」
結果として二人の会話を盗み聞いてしまった篭也だが、ウズラはそんな篭也を咎める様子は、一切見せなかった。
「アーくんと一緒に行くんでしょ?」
「はい」
「なら、篭也くんも早く行かないとぉ。アーくんより遅刻になっちゃうよ?」
「はい。でも、その前に一つだけ」
そう言うと篭也は、まっすぐにウズラに向き直り、何の躊躇いもなく、深々と頭を下げた。
「すみませんでした」
「……っ」
頭を下げ、深い謝罪の言葉を落とす篭也を見つめ、ウズラがそっと目を細める。
「本当はもっと、早くに謝るべきだったのに…気付くのに遅れて、こんなに後になってしまいました」
篭也が少しずつ、ゆっくりと顔を上げていく。
「情けない話ですが、僕、神を迎えにこの家に来た時、ここがカモメさんの家だって、まったく気付かなかったんです」
「無理もないよ」
自分を咎めるように言う篭也に、ウズラは優しく微笑みかける。
「あの時の君は、立っているのもやっとって感じで、とても、周りの状況が理解出来るようには見えなかったし、俺たちの家や顔を覚えてなくたって、当然だよ」
ウズラの言葉を聞きながら、篭也がまだ少し俯いたまま、強く唇を噛み締める。
「けど、本当に驚いたなぁ。あの時は」
篭也から視線を逸らしたウズラが、懐かしむように目を細める。
「アーくんと同い年くらいの、まだ小さい子が、死んだカーくんを背負って、やって来た時は…」
「……っ」
少し悲しげに曇るウズラの声に、篭也が眉をひそめる。
「魂の抜け落ちてしまったような表情で、ただ何度も“ごめんなさい”って言ったその子の顔が、目に焼き付いて…」
ウズラがゆっくりと、篭也へ視線を戻していく。
「だから、君を見た時、すぐにわかったよ。“ああ、あの時の子だ”って」
「すみません…」
「謝罪の言葉なら、あの時、十分に貰ったよ」
再び謝る篭也に、ウズラが軽く首を横に振る。
「それに、カーくんが死んだことは、君の責任じゃない」
「それでも」
ウズラの言葉に、篭也がすぐさま言葉を返す。
―――ま、待って!カモメさん!―――
―――俺が行かなきゃいけないんだ。ごめんね、篭也―――
どうしても止めることの出来なかった、あの日。
「それでも僕は、責任を感じずにはいられません…」
あの時、篭也がもっと強く止めていれば、カモメは死なずに済んだのではないだろうか。もっと早く駆けつけていれば、カモメを助けることが出来たのではないか。五年前、カモメを失ったあの日から、そう後悔しない日など、一日もなかった。
「僕は…」
「じゃあ、その責任を利用させてもらってもいい?」
「え?」
返って来るウズラの言葉に、篭也が戸惑うように顔を上げる。
「あの子を、死なせないで」
顔を上げた篭也へ、薄く笑みを浮かべたウズラが、どこか願うように言葉を掛ける。その言葉を耳に入れ、篭也は少し驚いたように、目を見開いた。
「どうしても責任を感じるっていうなら、その責任で、あの子を守ってあげて欲しい」
ウズラの言葉をまっすぐに受け止め、少し考え込むように俯いた後、篭也はゆっくりと顔を上げた。
「必ず」
大きく頷く篭也に、ウズラが小さく笑みを零す。
「では僕も、そろそろ行きます」
「うん」
ウズラに軽く一礼した篭也が、足早に歩を進め、台所を出て、居間を通り、通用口の方へと行く。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように声を漏らしたウズラが、居間から顔を出し、通用口の方を覗き込む。
「篭也くん」
「え?」
「篭也くんも今晩、一緒に食べようね」
呼びかけに振り返った篭也に、ウズラが大きく微笑みかける。
「キャベツとナスビのセロリあんかけ、ニンニク味っ」
「……っ」
その言葉に、篭也は一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐにその表情を嬉しそうな笑顔へと変えた。
「はい」
ウズラの言葉にしっかりと頷くと、篭也は再びウズラに背を向け、アヒルの後を追うように、通用口を出て、家の外へと駆け出していった。居間にウズラだけが残り、やっといつもの早朝の静けさが戻る。
「いい後継者を持ったね、カーくん」
振り返ったウズラが、仏壇のカモメの写真を見て、笑う。
「君はこの戦いを、どんな気持ちで見守っているのかな…」
笑みを消し、真剣な表情を見せたウズラが、遠くを見るような瞳を見せ、そっと言葉を落とした。




