Word.53 いガいナ救援 〈3〉
「強い…」
避難したグランドの隅から、イクラの戦い振りを見つめ、雅が思わず呟く。
「当然だろぉ?我が神だぜっ」
「ウザい、金八」
「俺、今、何か間違ったこと言ったぁ!?俺、泣いちゃうよぉ!?シャコ!」
雅と為介のいるすぐ横で、錨の攻撃を受けた生徒たちの治療を行っている金八とシャコが、相変わらずのやり取りを繰り広げる。二人の会話を聞きながら、雅が少し呆れたように肩を落とす。
「それにしても、堕神の彼」
雅が金八たちとは逆方向を振り向き、隣に立つ為介の方を見る。
「彼は今、何故、伊賀栗イクラと同じ言葉を使わなかったのでしょうか?」
「使わなかったんじゃなくて、使えなかったんだよぉ」
「え…?」
あっさりと答える為介に、雅が眉をひそめる。
「使えなかった?」
「同じ文字を持っていても、人にはそれぞれ、使える言葉と使えない言葉っていうのがあるんだぁ」
イクラも見つめ、薄く笑みを浮かべる為介。
「あの言葉、“怒れ”は、イクラクン独特の言葉…」
為介がそっと、目を細める。
「“神”でありながら、激しく“神”を憎む彼にのみ、使える言葉だよ」
「こんの…!」
地面に倒れた錨が、険しい表情の顔を上げ、素早く体を起こす。
「“挑め”!」
上半身を起き上がらせた錨が、鋭く右手を突き出し、大きな声で言葉を放つ。放たれた大波が、中央に向かって凝縮し、ドリルのような鋭い刃を形成して、イクラへと突き進んでいく。
「これで終わりだ!後釜!」
錨の高らかとした声が響く中、イクラは落ち着き払った表情で、言玉を持った右手を突き出した。
「“憤れ”」
イクラがそっと、言葉を落とす。落ち着いた声とは裏腹に、グランド全体から、先程よりもさらに激しく、大量の水が一斉に噴き上げた。
「あ…!」
猛烈な勢いで噴き上げる水に、一瞬にして砕かれる、錨の水。
「クソ…!ぐあああ!」
再びグランドから噴き上げた水に突き上げられ、錨が吹き飛ばされていく。
「グア…!」
吹き飛ばされた錨が、やがて落下し、強くグランドへと叩きつけられる。
「ク…うぅ…」
錨の体の所々には、イクラの水に突き上げられた時に出来たのか、傷が刻まれており、そこから赤い血が流れ落ちていた。
「血…?俺が、血…?」
グランドに落ちる自らの血を見て、錨が表情を険しくする。
「この俺に…神である俺に…」
錨の声が、かすかに震える。
「歯向かうんじゃねぇよぉ!たかだか俺の後釜がぁ!」
勢いよく声を張り上げ、力強く立ち上がった錨が、言玉を握り直し、右手を突き出す。
「“茨”!」
怒りを感じる声で錨が言葉を放つと、棘のように鋭く尖った無数の水の粒が、まるで留っている雨のように、イクラの周囲に張り巡らされる。
「…………」
取り囲む水粒を見回しながらも、冷静な表情を崩さないイクラ。
「今度こそ終わりだぜぇ!後釜ぁぁ!」
錨が大きく、声を張り上げる。
「“埋けろ”!!」
言葉が放たれると、それを合図として、イクラを取り囲んでいた水粒が、一斉にイクラへと向かっていく。
「……っ」
降り落ち、突き出し、噴き上げて来る水粒にも動じず、イクラはその場から一歩も動こうとせずに、言玉を持つ右手をそっと胸の前へと持って来て、握り締める手に力を込めた。
「い…」
イクラがゆっくりと、口を開く。
「“祈れ”…!」
とても大事そうに、言玉を抱え込んだイクラがその言葉を放つと、イクラの後方から、美しい女性を象った水の像が姿を現し、イクラへと向かって来ていた水粒を、あっという間にすべて、外面へと弾き飛ばした。
「な…!?」
その目を奪われる光景に、錨が大きく目を見開く。
「こ、こんな…」
イクラの後方に立つ、巨大な水の像を見上げ、錨が圧倒された様子で、声を震わせる。
「馬鹿な…俺が、神であるこの俺がっ…」
「貴様は、神などではない」
聞こえてくる言葉に、錨が、水像からイクラへと視線を移す。
「神は、以の神は、この俺だ」
はっきりと言い放ち、イクラが言玉を持った右手を突き出した。
「“行け”」
水像の女性が、ゆっくりとしなやかな動作で身を屈めると、そこから一気に速度をあげ、その姿を水の塊へと変えて、錨へと飛び出していく。
「う…うあああああ!」
大量の水に呑まれ、激しい叫び声を残し、姿を消す錨。
「よっしゃあ!」
「さすが神…」
『やったぁ~!神!』
生徒たちの救護を終え、戦いを見守っていた金八たち以附の面々が、錨を圧倒したイクラの姿に、思い思いに喜びの表情を見せる。
「口程にもないな」
ゆっくりと右手を下ろしたイクラが、どこか物足りなさそうに呟きを落とす。
「この世に“以の神”は、俺一人でいい…」
もう一度、確かめるように呟き、イクラがグッと拳を握り締める。
「チィ…!」
その時、イクラが放った水の塊の中から、先程までよりさらに傷を増やした錨が、勢いよく飛び出てくる。
「はぁ…はぁ…」
空へと舞い上がった錨は、空中で止まり、乱れた呼吸を整える。錨が険しい表情と鋭い視線で、下方に居るイクラを突き刺すように見つめる。
「んの、たかだか後釜がぁ…」
まだ少し乱れた呼吸のまま、錨が恨みのこもったような、低い声を漏らす。
「調子こいてんじゃねぇぞぉ…!」
「……っ」
怒り狂った様子で叫び、勢いよく右手を振り上げる錨。錨の持った言玉が、今までとは異なる、少し赤色の混ざったような、青光を放っていることに気付き、イクラがそっと眉をひそめた。
「“神格”…!」
「そこまでです」
「……!」
言玉が一層輝きを増し、錨が何かをしようとした丁度、その時、横から入って来た細い手が、振り上げられていた錨の右手を、強く掴み止めた。掴まれる手に、錨が続けて発しようとしていた言葉を呑み込み、大きく見開いた瞳で、ゆっくりと横を振り向く。
「お前は…棗」
「そこまでです。一条様」
錨の手を掴み止めたのは、阿修羅に附き従っている美しい女性、棗であった。棗は無い表情で、まっすぐに錨を見つめる。
「これ以上の戦いを、我が神は望んではおられません」
「あいつが望もうが望むまいが、俺の知ったこっちゃねぇよ!」
声を荒げた錨が、勢いよく棗の手を振りほどいた。
「俺は、あの後釜をだなぁ…!」
「一条様」
主張を続ける錨の言葉を、棗が強く遮る。
「その力は、我が神があなたにお与えになったものであって、あなたのものではありません」
棗の言葉に、錨が表情をしかめ、あれほど強く怒鳴りあげていたというのに、あっという間に黙り込む。
「我が神の意志に反し、勝手に使おうと言うのであれば、私は我が神の意志を守るため、あなたを排除いたします」
無表情とは裏腹に、本気の殺意のこもった瞳が、錨へと遠慮することなく向けられる。
「……わかったよ」
棗に言われ、少しの間を置いた後、錨が仕方なさそうに頷く。
「おい、後釜ぁ!」
すぐに表情をしかめた錨が、イクラを見下ろし、声を張る。
「今度やる時は、絶対ぶっ潰してやるからな!覚えとけよ!」
イクラにそう言い放つと、錨の体は空中で、水滴となって掻き消えた。錨が消え一人、その場に残った棗も、すぐさまその場を飛び出し、あっという間に見えないところまで去っていった。
「…………」
二人を追う素振りは特に見せず、そっと肩を落としたイクラが、右手に握り締め続けていた言玉を、静かに懐へと片づける。
「神!」
戦いを終えたイクラのもとへと、素早く駆け寄っていく金八。
「神、最後の時の、あの野郎の言玉っ…」
「……っ」
眉をひそめ、小声で訴えかける金八に、イクラが表情を曇らせる。最後に何かをしようとした時の、錨の言玉から放たれた光は、明らかにそれまでのものとは異なっていた。錨が、それまでのものとは違う攻撃を仕掛けようとしていたのは、確かであろう。棗が止めに入らなければ、戦いはどうなっていたのか。そう考えると、錨を圧倒したとはいえ、イクラの心は晴れやかではなかった。
「帰る。とっとと事後処理を済ませろ」
「ええぇ、無視!?俺、泣いちゃうよぉ!?神!」
「うるさい。早くしろ」
「へぇーい」
イクラに冷たい言葉を投げかけられた金八が、ひどく落ち込んだ表情を見せながら、まだ生徒たちの治療を続けているシャコたちのもとへと歩いていく。
「“神格”…」
金八が気にかけていたことを、イクラも気にかけ、錨が口にした言葉を、そっと繰り返す。
「やっほぉ~」
そこへ軽い口調の声が聞こえてきて、イクラがゆっくりと振り返る。明るい笑顔を見せた為介が、右手の扇子を振りながら、イクラのもとへと歩み寄って来ていた。
「何だ。井戸端為介」
「お礼言おうと思ってさぁ。さっきは、助けてくれてあんがとぉ~」
緊張感のまるでない口調で、為介がイクラへと礼の言葉を向ける。
「まっさか君に助けられる日が来ようとはねぇ~、いやはや、君の師匠やってた頃は、思ってもみなかったなぁ」
「別に貴様を助けた覚えはない」
嬉しそうな笑みを向ける為介に対し、イクラが冷たく言い捨てる。
「俺は俺以外の神を潰す。それだけだ」
「まぁ、別にいいけどねぇ。それで」
呆れたように肩を落としつつも、為介は浮かべた笑みを消すことはしなかった。
「ホントに素直じゃないよねぇ。イクラクンてばぁ」
「あいつ等…」
「ん?」
小さく落とされたイクラの声に気付き、為介が少し首を傾げ、聞き返す。
「あいつ等…手強いぞ」
「……っ」
イクラの短いその言葉に、為介がそっと眉をひそめる。
「うん、わかってる」
頷きながらも、為介は何やら考え込むように、そっと目を細めた。
一方、イクラたちの参戦により、言ノ葉高校を去ることとなった錨は、棗と共に、自分たちのアジトへと戻って来ていた。
「クソ…!」
時間を置きはしたが、怒りが収まらないのか、錨がしかめた表情で言葉を吐き捨てる。錨の全身には、イクラに負わされた傷が目立ち、血も滲んでいるが、当の錨は、傷を気にしている様子はまったくなかった。痛みよりも、怒りの感情の方が先をいっているのだろう。
「傷の治療を致しましょうか?」
「んなもん、自分で出来るっつーの!」
アジトの入口へと足を踏み入れながら、錨のすぐ後ろを歩く棗が声を掛けると、錨が棗の方を振り返り、まるで怒鳴るように答えた。
「クソ…!」
「元気そうだな」
「……っ」
再び言葉を吐き捨て、アジトの奥へと進もうとした錨が、前方から聞こえてくる声に、すぐさま足を止める。
「現“以の神”に圧倒されたと聞いていたから、安心したよ」
「阿修羅…」
一気に眉をひそめた錨の前へと現れたのは、穏やかな笑みを浮かべた阿修羅であった。阿修羅のその瞳は、穏やかな笑みとは裏腹に、まったく笑っておらず、ひどく冷たく、突き刺すように感じ、錨が思わず表情を曇らせる。
「油断しただけだ。誰も圧倒なんか、されてねぇ」
「そうか」
阿修羅から視線を逸らし、強気に言い放つ錨に対し、阿修羅は素直に頷く。
「油断しただけで“神格”を使うのか?お前は」
「……!」
鋭く言葉を投げかける阿修羅に、錨は動揺を見せ、大きく目を見開く。
「そ、それは…!」
「別にいい。実際に使ってしまったわけじゃないんだ。お前を責めるつもりはないよ、錨」
訴えかけようとした錨を、阿修羅が手を差し出し、制止する。
「代々“以の神”が好戦的なことは、俺も知っているし、俺は、お前のそういう所が嫌いじゃないけど」
少しの間を置いて、周囲へと視線を動かしていた阿修羅が、まっすぐに錨を見つめる。
「勝手なことをして、俺の計画を乱されるのは、ちょっと困るな」
微笑みを浮かべながら、ゆっくりとした足取りで、錨のもとへと歩み寄っていく阿修羅。
「もう、今回限りにしてくれないか?錨」
錨のすぐ横に立った阿修羅が、口元を錨の耳の方へと近付け、そっと囁くように言葉を発する。
「これ以上、勝手なことをされると、俺はお前を消したくなる…」
「……っ」
言葉がまるで刃物のように、錨の耳に鋭く突き刺さり、突き刺さった何かが、一瞬にして体中に伝染し、錨は全身が激しく震えるのを感じた。
「数少ない堕神仲間だ。出来れば、そんなことはしたくない」
阿修羅が体の向きを変え、再び錨の前方へと歩を進めていく。
「頼むよ、錨」
「あ、ああ。わかった…」
少し後方を振り返り、笑みを浮かべる阿修羅に、錨は震えた声を詰まらせながら、その震えを隠すように、素早く頷いた。
「行くぞ、棗」
「はい、我が神」
阿修羅が棗へ声をかけると、棗はすぐさま頷き、茫然と立ち尽くしている錨の横を、何もないかのように通り過ぎて、阿修羅の後ろに附き、二人で足並みを揃えて、アジトの奥へと姿を消していった。
「ク…!」
阿修羅たちの姿が見えなくなった途端、錨は力なく膝を折り、その場に深々と座り込んだ。
「ハァ…!ハァ…!」
床へと座り込んだ錨が、ずっと息を止めていた後のように、必死に呼吸を整える。
「クソ…!」
そんな自分の状態にか、悔しげな声を漏らす錨。
「やれやれ。自ら進んで出向いて、あのザマとは…情けない男にございます」
錨の様子を、入口付近の壁際から見つめ、エカテリーナがどこか呆れたように肩を落とす。エカテリーナの横に立つ沖也が、阿修羅の去っていった方を振り向く。
「神さえも逆らえない…」
もう見えない阿修羅の姿を思い返しながら、沖也がそっと目を細める。
「恐ろしい男だ。どうでもいいけど…」
沖也の憂鬱な声が、アジトに静かに響き渡った。




