Word.52 堕神、強襲 〈4〉
「“神”…」
青い空を見上げた雅が、今度はどこか呼びかけるように、もう一度、その言葉を口にする。
「イヒヒ、さぁーてと、そろそろトドメを…」
「何度…」
「ああ?」
笑みを零しながら、勝敗をつけるべく、雅のもとへと歩み寄っていこうとしていた錨が、かすかに耳に届く小さな声に気付き、足を止めて、眉をひそめる。
「何度…言えば、わかるんです…?」
苦しげな呼吸で、途切れ途切れの言葉を吐き出しながら、重い体を奮い立たせ、必死に起き上がる雅。体中の傷から血が流れ落ちるが、雅は鋭い表情を見せ、痛みに顔を引きつることなく、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
「君は、“神”ではないと」
その言葉が、重く、強く、言い放たれる。
「“神”はもっと、尊いと…」
「……っ」
雅に突き刺さるような視線を向けられ、錨が思わず眉をひそめる。雅のその瞳には、何か気圧されるような、強い力が宿っていた。一瞬であれ、雅に気圧された錨は、その気圧された自分自身に苛立つように、あからさまに顔をしかめた。
「んなに神様が好きならなぁ、もっと神様に近けぇところに送ってやるよぉ!」
怒りを前面に押し出し、力強く叫びあげた錨が、言玉を持った右手を鋭く振り上げる。
「言葉は、大切な人を守るためにある」
構えを取った錨を、雅は落ち着いた表情で、まっすぐに見つめる。
「それが、僕の神の、唯一の教え…」
その言葉を噛み締めるように、そっと左胸に手を置く雅。
「……っ」
首だけを動かし、雅が後方を振り返る。ほんの少しだけ後方を見た雅は、校舎内の窓からこちらを見つめるスズメとツバメを、校舎内にも外にもいる多くの生徒を、グランドに倒れている者たちの姿を、視界の中に入れると、また前を向いた。
「だから、僕は守る」
再び錨を見た雅が、鋭く前を見据える。
「この命に代えても…!」
言玉を持った右手を、高々と上空へと突き上げる雅。
「“漲れ”…!!」
雅の周囲から、逆立つ滝のように勢いよく、水の柱が噴き上がった。
「雅…」
先程、一瞬だけこちらへと視線を移した雅を、今、青い光に包まれ、激しい水柱を上げた雅を見つめ、眉間に皺を寄せたスズメが、一際、険しい表情を作る。
「まさか、雅くん…」
「……っ」
予感めいたものを感じたのか、不安げに言葉を漏らすツバメの声を聞き、スズメが一瞬、唇を噛む。
「クソ…!」
居ても立ってもいられず、三階だというのに窓から飛び降りていくスズメ。
「スズ…!……っ」
スズメを呼び止めようとしたツバメであったが、少し唇を噛んだ後、意を決した表情となって、スズメの後に続くように、三階の窓から飛び降りていく。近くの木を一旦、足場にした二人が、器用にグランドへと着地する。
「雅!」
「雅くん…!」
グランドに居る雅のもとへと、駆けて行こうとするスズメとツバメ。
「お待ち下さい」
『……!』
グランドの中央へと駆けて行こうとした二人を止めるように、二人のすぐ前へと現れる人影。
「熊子…!」
それは、阿修羅が現れた夜も、突然二人の前へと現れた、眼鏡をかけたスーツ姿の女性、熊子であった。その隣には、あの夜と同じように、大男、塗壁の姿もある。熊子は、眼鏡のレンズを通して、突き刺すような鋭い視線を、スズメたちへと向けた。
「何をされる気ですか?スズメ氏、ツバメ氏」
「熊子…」
「そこを退いてくれ、熊子」
険しい表情を見せるツバメの横から、スズメが懇願するように言葉を放つ。
「退きません」
「いいから退けよ!」
「この戦いは、韻が監視しています!」
怒鳴るスズメに負けぬほど、熊子も強い口調で言い放つ。
「今ここで、あなた方が出て行けば、我ら宇附きの正体が知られ、韻は必ず我が神に辿り着く!」
熊子が熱く、言葉を続ける。
「それだけは決して、あってはならないのです!」
その強い言葉に目を細め、そっと俯くスズメとツバメ。熊子の言葉が正しいことも、今出て行くことを決してしてはいけないことも、二人は十分にわかっていた。
「すべては神を守るため。堪えて下さい」
「神を…」
俯いたままのスズメが、小さな声を漏らす。
「神を守れたって、ダチ一人、守れないっ…」
スズメが血が滲みそうなほど強く、拳を握り締め、悔しげに唇を噛み締める。
「何のために…何のために五十音士になったんだよ!俺は…!」
「スズメ…」
自身への憤りを言葉にするスズメを見つめ、ツバメはどこか悲しげに、目を細めた。
「イヒヒ、イヒヒ!いいねぇ!」
雅により噴き上げられた水柱を見上げ、錨が満足げな笑みを浮かべる。
「面白れぇぜぇ!たかだか美守のくせによぉ!」
目の前に現れた雅の力にも、焦った表情一つ見せず、楽しげに声をあげた錨が、待ち構えるように、大きく両手を広げる。
「さぁ!来い!」
「……っ」
錨の言葉に応えるように、雅がゆっくりと、上空へと突き上げていた右手を、前方へ向けるために下ろしていく。
「すみません…」
誰へ向けたものなのか、届かない謝罪を、そっと零す雅。下ろされていった手が、前方の錨へと向けられたところで、ピタリと止まる。
「これが、僕の力のすべて」
雅の右手の中で、言玉が強く輝き始める。
「“満ちれ”…!!」
力強く放たれた言葉と共に、突き上げられた水柱が、一斉に錨へ向けて、飛び出していく。
―――パァァァン!
だが次の瞬間、雅の放とうとしていた水柱たちは、錨に届くことなく、空中で一斉に弾け飛んだ。
「え…?」
雅の口から、困惑の声が零れ落ちる。
「為介、さん…」
「…………」
雅のすぐ目の前へと立ち、雅の突き出した右手を自身の左手で握り締め、雅の攻撃を止めたのは、どこか悲しげな表情を見せた為介であった。言玉から放たれる、強大な力を受け止めたからか、為介の左手からは、ボタボタと赤い血が滴り落ちる。
「なん、で…」
「いいんだよ、雅クン」
戸惑いの視線を向ける雅に、為介がそっと微笑みかける。
「ボクの言葉なんかのために、君が命を懸ける必要はないんだ」
為介の優しい微笑みに、雅が目を細める。
「けど…」
険しい表情を見せた雅が、すぐに言葉を発する。
「けど僕は…あなたの、神附きとして…」
「その気持ちだけで、十分だよ」
力ないながらも、必死に訴えかけようとする雅の言葉を、受け止めるように微笑む為介。その為介の言葉を聞き、脱力するように肩を落とした雅は、突き出していた右手を、ゆっくりと下ろしていった。
「んだぁ?」
「……っ」
後方から聞こえてくる声に、雅と向き合っていた為介が、首を動かし、少しだけ振り返る。
「せっかく楽しみにしてたのに、何止めてくれてんだよ、お前」
不満げに口を尖らせている錨を見つめ、為介がそっと目を細める。
「それとも次はお前が、この俺の相手をしたいってかぁ?」
すぐさま口元を歪め、笑みを浮かべる錨。
「いいぜぇ?どこの誰だか知らねぇが、お前にも、その、たかだか美守と同じように、神の強さってのを見せつけてやるよぉ」
「誰だか知らないけど、一つだけ、忠告しておいてあげるよぉ」
「ああ?」
まったく抑揚のない、落ち着き払った声を放つ為介に、挑発めいた発言をしていた錨が、眉をひそめ、少し戸惑うように首を傾げる。
「早々“神”の名は、騙らない方がいい」
為介が鋭く、その瞳を細める。
「ボクが許しても、彼が許さないからねぇ」
「何…?」
そっと微笑む為介に、曇る錨の表情。
「“行け”」
「え…?な…!?」
戸惑っていた錨の耳に届く、ひどく聞き慣れたその言葉。言葉と共に、上空から降り落ちてくる無数の水弾に、顔を上げた錨が、大きく目を見開く。
「ク…!」
勢いよく落ちる水弾を、錨は避ける暇もなく、一斉に浴びる。水弾がすべてグランドへと落ちると、砂煙が舞い上がり、錨の姿を一瞬、掻き消した。
「チィ…!」
砂煙が収まると、今まで見せたこともないほどに、大きく顔を歪めた錨が再び姿を現した。水弾を喰らったため、体のところどころから血を流している。だが、すべてを喰らったにしては、傷が浅い。あの一瞬の間に、何やら防御の言葉を使ったのだろう。
「俺と同じ言葉っ…俺と同じ、“い”の言葉だと…!?」
声を荒げながらも、戸惑うように言葉を続ける錨。
「まさか…!」
錨が勢いよく、上空を見上げる。
「あれは…」
同じように空を見上げた雅が目を見開く横で、為介が薄く笑みを浮かべる。
「…………」
青い空に映える、派手なオレンジ色の髪に、どこまでも冷たく、鋭い瞳を見せた男。全身真っ黒な服を風になびかせ、何も支えのない空中で、当然のように堂々と立っている。
「現“以の神”…」
男の姿を目に入れ、一気に険しい表情となる錨。
「伊賀栗イクラ…!」
「この世に“以の神”は、俺一人でいい…」
動揺する錨を下方に、イクラは静かに言い放った。




