Word.1 あノ目醒メ 〈2〉
「はぁ~あぁ、すっかり遅くなっちまったなぁ」
資料室を出たアヒルは、すっかり静けさを増し、昼間とはまるで違う雰囲気を纏った廊下を歩きながら、ゆっくりと校舎を出た。暗くなった空には、丸い月が不気味なほど明るく、輝いている。
「正門も閉まってるし、裏門から帰るかぁ」
朝と同じように固く閉ざされた正門を確認し、アヒルが裏門へと歩いていく。小さく開いている裏門から、少し体を横に向けるようにして、アヒルは学校の外へと出た。
「ふぅ~っ」
「ハァっ…!ハァっ…!」
「ん?」
裏門を出たアヒルが、道の向こうから徐々に近づいてくる声に気づき、ふと顔を上げて振り向いた。
「ハァっ…!ハァっ…!」
「あれはっ…」
道の先から、アヒルの立っている方へと必死に駆けてくる、一人の少女。アヒルはその少女に見覚えがあった。
―――いい加減にしてよっ!―――
「今朝の女…?」
その少女が今朝、裏門の前で男とモメていた、あの少女であることに気づき、アヒルが戸惑うように眉をひそめる。
「何やって…んっ?」
駆けてくる少女を見つめていたアヒルが、少女の後方から駆けてくる、もう一つの人影に気づく。暗い空の下、目を凝らして、その人影を見つめるアヒル。
「あいつはっ…」
―――ううぅっ…―――
「あいつも今朝のっ…」
「グオオォォォォっ…!」
「……っ」
追って来ている男は、今アヒルの方へと駆けてきている少女に、酷い言葉を投げかけられ、裏門の前で泣き崩れていた、あの男であった。だが今朝とは様子が違い、その瞳は視点の定まっていない虚ろな状態で、目には力がないというのに大きく口を開き、人のものとは思えないような禍々しい叫び声をあげている。その叫び声を聞き、アヒルが少し眉をひそめた。
「んっ?」
さらに男を見ていたアヒルが、何かに気づいたように目を細める。
「あれはっ…?」
「グオオオォォっ…!!」
再び叫び声をあげる男の全身を、何かガスのような、実体のない黒い影が包み込んでいるように見えた。理由はわからないが、その黒い影から、何か嫌な空気のようなものを感じた。
「一体、何だって…」
「ハァっ…!ハァっ…!んっ?」
アヒルが戸惑うように声を漏らしたその時、後ろばかり気にしていた少女が、その声に反応したのか前を向き、すぐ前に立っているアヒルの姿を見つける。
「そこの学生!」
「あっ?」
大きな声で恐らくはアヒルのことを呼んでいるのであろう少女に、アヒルが少し首を傾げる。
「そこをどきなさい!どこでもいいから、とっとと逃げるなり、隠れるなりするのよっ!!」
「はぁっ?」
必死に叫ぶ少女であったが、その言葉の意味がわからず、アヒルはさらに首を傾げる。
「何言ってっ…」
「いいから私の言う通りにしなさい!死にたいのっ!?」
「……っ」
呆れたような表情を見せていたアヒルが、真剣そのものの様子で叫ぶ少女に、そっと表情を曇らせる。少女の様子は危機迫っており、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「グオオオォォっ…!」
「クっ…!」
背後から聞こえてくる男の叫び声に、振り向いた少女が、険しい表情を見せる。
「とにかく、とっととっ…!」
「……っ!」
「って、へっ!?」
再び前を向き、もう一度、アヒルに忠告するように叫ぼうとした少女であったが、アヒルがいきなり少女の手を掴み、無理やり引っ張って、少女よりも前に立って、少女と共にその場から勢いよく駆け出していく。少女が目を丸くして、前を走るアヒルを見る。
「何!?何なのっ!?私、ちゃんと日本語でしゃべったわよねっ!?」
アヒルの後を走りながらも、少女が困惑した様子で問いかける。
「それとも何?君、そんな顔のくせに、ハーフとかなわけっ?」
「うっせぇなぁ!国語の成績は二だけど、歴とした日本人だってのっ!」
だんだんと失礼な問いかけになってくる少女に、アヒルが思わず怒鳴り返す。
「とにかく逃げるんだろ!?ニュアンス的には合ってんじゃねぇかっ!」
「あのねぇ!そういう問題じゃっ…!」
「グオオオォォォっ…!“壊”…!!」
「……っ!」
叫び声ではない言葉を発する男に、少女が表情を厳しくする。
「曲がって!」
「へっ?」
「いいからコッチ!」
「うわわわっ!痛ててて!」
道を直進しようとしていたアヒルの腕を捻りあげ、曲がるよう指示する少女。腕を捻られたアヒルが、角の電柱にぶつかりそうになりながら、ぎりぎりのところで角を曲がる。
「痛ってなぁ!いきなり曲がるとか言うんじゃっ…!」
―――バァァァァァンっ!
「いいっ!?」
アヒルが少女に文句を言おうとしたその時、二人が直進しようとしていた道の、両側の壁が一斉に崩れ落ち、横に立っていた電柱までが倒れ込んで、あっという間に道を塞いでしまう。あのまま進んでいたら、今頃は電柱と瓦礫の下敷きであっただろう。
「んなっ…」
曲がった道を走りながらも、その崩れ落ちた電柱を見つめ、唖然とするアヒル。
「ねっ?曲がって正解でしょ?」
「んななななななっ…!」
冷静に問いかける少女とは異なり、アヒルは、震えた声で言葉にならない声を発する。
「地震っ!?」
「どう考えても違うでしょうが!!」
走り続けながらも周囲を見回すアヒルに、少女が思わず怒鳴り声をあげる。
「あいつがやったのよ!あいつが!空気で察しなさいよっ!」
「あいつがぁ?」
少女の言葉に驚いたように目を開きながら、アヒルが少し後ろを振り返り、まだ二人の後を追って来ている男の方を見る。
「何々だぁ?あいつ。さっきのとか明らかに人間技じゃねぇーじゃねぇしっ」
あまり焦った様子なく、少女へと問いかけるアヒル。
「何か変な黒い影、憑いてるし」
「えっ…?」
アヒルの言葉に、少女が目を丸くする。
「見えるのっ?あれが」
「はっ?」
アヒルの方を見上げ、少し驚いたように問いかける少女に、アヒルが首を傾げる。
「ああ、まぁ俺、視力は両目とも二.○だし」
「そういうことじゃなくて…まぁもういいわっ」
自分の目を指差しながら、どこか得意げに話すアヒルに、一度、否定しようとした少女であったが、どこか諦めたように肩を落とした。
「あれは忌っ」
「イミっ…?」
その聞き慣れぬ単語に、眉をひそめるアヒル。
「そっ、悪意ある言葉を向けられた人間の、傷ついた心を狙って巣食う悪霊よっ」
「悪霊って…」
少女の説明を聞きながら、アヒルが眉をひそめる。
「俺、集合写真が心霊写真になったことすらないのになぁ~」
「そういう次元の問題じゃないわっ」
「へっ?」
「グオオオォォォっ…!“壊”…!!」
「また来たっ…!」
「……っ!」
追ってくる男の声に反応し、またしても崩れ落ちる道の外壁や電柱。少女の言葉にアヒルが表情を鋭くし、さらに走る速度を速めた。崩れ落ちる瓦礫をぎりぎりのところでかわしながら、二人が無理やりに道を直進して行くと、二人が通り抜けた後、壁たちは完全に崩れ落ち、道が塞がった。
「良し!これでもう追って来れねぇだろっ…!」
「甘いわねっ…」
「へっ?」
「グオオォォっ!“砕”っ!!」
「んなぁぁっ!?」
塞がった道に行く手を阻まれたはずの男であったが、またも男が言葉を放ったその瞬間、崩れていた瓦礫がすべて、一瞬にして砕け散り、男の道を開く。
「地震っ!?」
「だから違うっつってんでしょ!」
先程と同じように周囲を見回すアヒルに、少女が先程よりもさらに強い口調で怒鳴りあげる。
「っつーか何々だよ?さっきから!あいつ、何かすっげぇことばっかやってねっ?」
「忌は言葉の力を操るの」
「言葉の力?」
少女の答えに、アヒルが表情を険しくする。
「忌の放った言葉は、すべて現実のものとなる」
「アリかよっ、そんなのっ…」
「“破”!!」
「げっ!また何か来たぞ!?」
「クっ…!」
男から放たれる衝撃波のようなものが、二人へと迫り、アヒルが焦る声をあげる中、少女が強く唇を噛み締める。
「コッチに!」
「うわあぁっ!」
今度は少女に引っ張られ、アヒルと少女は狭い路地裏へと入っていった。
その頃。言ノ葉町の八百屋・『あさひな』。
午後八時に店を閉め、それから後片付けなどを終えた朝比奈家は、午後九時、これから少し遅い夕食の時を迎えていた。和室の小さな丸テーブルに、アヒルの双子の兄・スズメとツバメが並んで座っている。
「あぁー諸君、説明しよう!今日のメニューはぁっ、八宝菜!焼きナス!ほうれん草のおひたしである!」
台所から料理を運びながら、やたらとテンションを上げる、朝比奈家の父。
「拍手ぅぅ!パチパチパチパチっ!」
『…………』
拍手をする父とは対照的に、まったく拍手をしようとしないスズメとツバメ。
「っつーかここ最近っ、売り物の残りばっかじゃんっ?」
「うっ…」
「成長期の息子相手に、野菜づくしってどうなの?とか、思うよね…」
「うっ…」
スズメとツバメの言葉に、父の笑顔が徐々に引きつられていく。
「っつーか俺、肉食いたいっ」
「僕、魚…」
「ううぅっ…!」
さらに続く二人の言葉に、父が唇を噛み締める。
「アカネぇっ!お前が出ていって早十一年…!男手一つで必死に育ててきた息子たちが、ついに反抗期をぉっ…!!」
「出て行った母さんに、んなこと嘆いても無駄だろ?」
「そんなんだから…出て行かれたんじゃない…?」
天井に向かって叫ぶ父に、スズメとツバメはさらに冷たい言葉を投げかける。
「そういえば…アヒル君、遅くない…?」
「んあっ?」
ツバメに問いかけられ、スズメが台の上に置いてある、小さな時計へと目をやる。もう九時を回っているというのに、末っ子のアヒルは学校に行ったまま、帰って来ていない。
「遅刻の罰で残されてたとしても…そろそろ帰って来ていい時間だと思うんだけど…」
「どっかのヤンキーとケンカでもしてんじゃねぇーのぉ?アイツ、短気でバカだしっ」
「スズメと一緒でね…」
「おう!そうそう!って、うっせぇーよっ」
一言付け加えるツバメに、一度は頷いたスズメが、しかめた表情を向ける。
「それか八宝菜が嫌で、どっかの家で肉とか食ってんじゃねぇーのぉっ?」
「ううぅっ…」
「父さんいじめも、そのくらいにしときなよ…スズメ…」
スズメの言葉に、さらに落ち込む父であった。