Word.50 五人目ノ神附キ 〈3〉
「ふっはぁ~」
一方、末守の捜索から外されたアヒルは、学校を出て一人、とぼとぼとゆっくりとした足取りで、家へと続く道を歩いていた。まだ明るい空を見上げながら、少し欠伸を漏らす。
「ゲーセンとか行ったら、怒られるよなぁ。やっぱ」
アヒルがどこかボヤくように、言葉を落とす。
「けど、こんなに早く帰ってもなぁ。下手に親父に店、手伝わされても嫌だしなぁ」
「ぶっはぁ…」
「んあ?」
あれこれと考えを巡らせていたアヒルが、どこからか聞こえてくる、自分よりも遥かに憂鬱そうな溜息に気付き、空を見上げていた顔を下ろしてくる。
「ぶっははっはぁ…」
緩やかな土手の途中の草むらに腰を下ろし、溜息かどうかもよくわからない声を漏らしながら、深々と肩を落としているのは、アニキであった。いつもはばっちり決まっているリーゼントが、今日はどこか元気のない様子で、少し曲がっている。
「ぶっぶぶっははっはぁあ、は…」
「ぶっはぶっは、うっせぇなぁ」
「ぶはぁ!」
引き続き溜息を吐こうとしたアニキであったが、不意に背中を強く蹴られ、呼吸を詰まらせたような、苦しげな声を吐き出し、前へと体を押し出された。
「いきなり何しやが…!って、朝比奈ぁぁ!」
余程苦しかったのか、少し胸を押さえながら振り返ったアニキが、背後に立つアヒルを見上げ、勢いよくその表情をしかめる。
「てっめぇ!いきなり人の背中蹴るたぁ、どういうことだぁ!?どういう教育、受けてきやがったぁ!?」
「てめぇが、こっちまで不快になるような溜息、吐いてっからだろ?」
強く捲くし立てるアニキに対し、アヒルが呆れたように言い放つ。
「溜息ばっか吐いてっと、幸せが逃げてくんだぞ?」
「仕方ねぇだろ!俺には、溜息吐いても吐いても、吐き出せねぇほどの悩みがあんだよっ」
「お前に悩み?」
アニキの答えに、アヒルが意外そうに目を丸める。
「ハハハ!お前が“悩み”って面かよぉ?あんま、笑かすなよなぁ」
「にゃにをぉ~!?」
勢いよく笑い飛ばすアヒルに、アニキが顔をしかめ、その場で素早く立ち上がる。
「もぉー怒った!今日という今日こそ、コテンパンのパンダの赤ちゃんにしてやる!」
「はいはい」
「ぐふ!」
勇んでアヒルへと飛びかかっていったアニキであったが、アヒルが肩に掛けていた鞄を軽く一振りすると、それが向かって来ていたアニキの顔面に炸裂し、アニキは潰れたような声を漏らして、力なくその場に倒れ込んだ。
「うう、うっ…」
「ったく、懲りねぇよなぁ。お前も」
鞄をもろに喰らった顔面を押さえながら、必死に起き上がるアニキを見下ろし、アヒルが呆れきった表情を見せる。
「俺のせいで、出席番号が四年四組四番になったのなんて、もう何年前の話だよ?」
アヒルがその場にしゃがみ込み、土手の下に見える川を見下ろす。
「大昔の話だってのに、毎日毎日、懲りもせずに向かって来やがってさぁ」
「当たり前だろ」
「へ?」
弾くように返って来る声に、アヒルが不思議そうに振り向く。
「俺は男だ。一度、勝負を挑んだからには、勝つまで絶対、諦めたりしない」
「……っ」
そうはっきりと言い放つアニキに、少し驚いたように目を見開くアヒル。サングラスの下から、かすかに見えるアニキの瞳は、とてもまっすぐで、とても強い輝きを放っていた。その瞳に、アヒルが思わず口元を緩める。
「ハハハハ…!」
「んあ!?」
笑い声をあげるアヒルに、大きく顔をしかめるアニキ。
「てっめぇ!また馬鹿にしやがって…!」
「違げぇよ。馬鹿にしてるんじゃねぇ」
「何?」
すぐさま否定するアヒルに、アニキが少し首を傾げる。
「いいよな、そういうの。俺、わりかし好きだぜ」
まったく馬鹿にしているようには見えない、純粋な笑みを向けるアヒルに、アニキが目を丸くする。だがすぐにその表情をしかめっ面に戻すと、アニキはアヒルから目を逸らした。
「ケっ!てめぇに好かれたって、嬉しくも何ともねぇぜ」
「だろうな」
悪態づくアニキを見て、アヒルが納得しながらも、さらに微笑む。
「まぁ、真田さんに好かれるってんなら、話は別でぇ…」
「アニキぃ~!」
「んあ?」
囁のことを思い、締まりのない笑みを浮かべていたアニキが、遠くの方から聞こえてくる、自分の名を呼ぶその声に気付き、ふと振り向く。
「アニキ!」
「おう、ブラシ」
アヒルとアニキの居るその場へと、慌てた様子で駆け寄って来たのは、アニキと同じ黒い学ランに、派手な赤茶髪モヒカンの青年であった。アニキの呼んだ“ブラシ”というのは、恐らくあだ名であろう。髪型を見ると、まさにブラシの形である。
「って、朝比奈ぁぁ!?」
「よう」
アニキのすぐ横に立つアヒルの姿を見て、ブラシが激しく驚いた表情を見せる。毎朝、アニキと共に現れるその青年には、アヒルも十分に見覚えがあった。
「だ、大丈夫ですかぁ!?アニキ!手足の骨とか、叩き折られてませんかぁ!?」
「俺は怪物かよ…」
尋常じゃない心配振りを見せるブラシに、アヒルが思わず呆れた表情となる。
「大丈夫だ!今、まさに、朝比奈が俺に降参しようとしていたところだ!」
「嘘吐くんじゃねぇ!」
得意げに話すアニキに、勢いよく怒鳴りあげるアヒル。
「それよりブラシ、どうしたぁ?」
「あ、そうでした!」
改めて問いかけるアニキに、ブラシが思い出したように、ポンと手を叩く。
「パンチが大変なんス!母ちゃんとケンカしたらしいんですけど、その母ちゃんが鬼のようにキレて、衝撃波みたいなの、ぶっ放ってて!」
「何ぃぃ!?」
「……っ」
ブラシの言葉に、驚くアニキの横で、アヒルがそっと眉をひそめる。
「よ、よぉし!いっちょ、俺が行って仲裁を…!」
「案内しろ!ブラシ!」
「ウィっス!」
「へ?」
気合いを入れるように両拳を握り締めたアニキであったが、アニキよりも兄貴らしく指示をするアヒルに、ブラシが素直に頷き、二人が足早にその場を去っていくと、何故か、アニキだけが取り残されてしまう。
「お、おい!待て!俺を置いていくな!」
アニキも遅れるようにして、慌ててアヒルたちの後を追った。
「ひぃ…!ひぃ…!」
人気も車の通りもない、だだっ広い道を、必死に駆け抜ける、緑髪にパンチパーマという、派手にも程がある髪型の青年。額には汗が浮かび、青年はひどく追い込まれたような表情をしている。息も絶え絶えに、少しバランスを崩しながら、前へ前へと足を動かす。
「なんでっ…なんで、んなことに…!」
責めるような、悔いるような声を、青年が吐き捨てる。
「あ、居た居た!パンチ!」
「……っ!ブラシ!」
前方から聞こえてくる声に、パンチと呼ばれた青年が顔を上げる。すると、三つ程先の曲がり角から、ブラシとアヒル、そしてアニキが姿を見せた。大きく手を振るブラシに気付き、パンチが目を見開く。
「アニキも…!」
「おう、パンチ!」
「それにっ…朝比奈ぁぁ!?」
三人のもとへと駆けつけながら、アニキの姿を視界に入れ、嬉しそうな笑みを零したパンチであったが、アニキの横に立つアヒルの姿を見つけ、驚きの表情を見せる。
「大丈夫ですかぁ!?アニキぃ、肋骨バキバキにされてませんかぁ!?」
「だから、俺は化け物かっての」
ブラシと同じように、激しくアニキの身を案じるパンチに、アヒルが思わず顔をしかめる。
「一体、どうしたってんだよ?パンチ」
「それが、ちっとばかし、学校サボってること、うるさく言われて、おふくろとケンカしまして」
アニキのすぐ前までやって来て、やっとその足を止めたパンチが、困り果てた表情で、アニキへと状況を説明し始める。
「そんでつい、“あんたの子供になんか生まれたくなかった”って言ったら…」
パンチが恐る恐る、ゆっくりと後方を振り返る。
「グアアアアア!」
「何かいきなり、化け物みたいに襲いかかってきちまったんです!」
『……っ』
パンチが駆けて来た道の遥か向こうから、姿を現す、丸みを帯びた体型の中年女性。髪は地味だが、顔つきはよくパンチに似ている。だがその瞳は虚ろで、動きも人のものというには不自然であり、何より、女性のものとは思えない、低く重苦しい叫び声を放っている。やって来る女性の姿を見て、アヒルとアニキが同時に表情を曇らせる。
「忌…」
女から溢れるように見える黒い影と、確かに感じる気配に気づき、アヒルが眉をひそめる。
「お前ら、とにかく逃げっ…!」
「クソボケぇぇぇ!」
「どわあああ!」
パンチの母親であるというその女性に、忌が取り憑いていることを察し、自分以外の皆に逃げるよう指示を出そうとしたアヒルであったが、アヒルのその声は、思いきりパンチを殴り飛ばしたアニキの、大きな怒鳴り声に掻き消された。
「へ?」
「アニキ、何を…!」
目を丸くするアヒルの横から、ブラシが驚きの表情で身を乗り出す。
「あ、アニキ…?」
アニキに勢いよく頬を殴り飛ばされ、地面へと腰をついたパンチが、腫れ上がった頬を押さえながら、どこか唖然とした様子で、アニキを見上げる。
「てめぇの母ちゃんに向かって、“あんたの子供に生まれたくなかった”とは何事だぁ!?ああん!?」
アニキがサングラスの上に見える眉毛を吊り上げ、パンチへと強く怒鳴りあげる。
「自分を生んでくれた母ちゃんに向かって、よくも、んな口が聞けたもんだなぁ!」
さらに声を荒げ、アニキが言葉を続ける。
「母ちゃんに口にしていいのは、感謝の言葉だけだぁ!それ以外は、あり得ねぇ!」
眉間に皺を寄せたアニキが、何度も大きく、首を横に振る。
「…………」
熱く言葉を続けるアニキを、アヒルが真剣な表情で見守る。
「アニキ…」
「……なぁ、パンチ」
どこか弱々しくアニキの名を呼ぶパンチを見つめ、そっとしゃがみ込んだアニキが、サングラスの向こうから、まっすぐにパンチを見つめる。
「お前が生まれて来たことを、一番喜んでくれた人に、その言葉は、一番言っちゃいけねぇ言葉だ」
「……っ」
重みのあるアニキの言葉に、大きく目を見開くパンチ。
「か、母ちゃん!」
素早く体を起こしたパンチが、体の向きを変え、後方から迫って来る母親へと向き直って、地面に両膝をつく。
「済まねぇ…!」
膝の前に両手をつき、地面に額を擦りつけるようにして、パンチが深々と頭を下げる。
「俺、ついカッとなっちまって、あんなこと…!母ちゃんに、あんなこと…!」
パンチが唇を噛み締め、地面につけた両手を震わせる。
「本当に済まねぇ…!!」
「ググ…」
パンチたちの方へと向かって来ていた母親が、急に足を止め、何やら短く、声を発する。
「母ちゃん…?」
動きの止まった母を不思議に思い、顔を上げた後、戸惑うように首を傾げるパンチ。
「グアアアアア…!」
「うお…!」
次の瞬間、母親が激しい叫び声をあげると同時に、母親の全身から強い白光が放たれ、パンチや皆が、その強い光から目を逸らすように、俯いた。
「ううぅ、う…」
光が止むと、そっと目を閉じた母親が、力なくその場に倒れ込む。
「母ちゃん…?」
「……っ」
俯いていた顔を上げ、急に倒れた母親に首を傾げているパンチの後ろで、険しい表情を見せたアヒルが、ゆっくりと上空を見上げる。
<グググ…>
青い空にはっきりと、黒い影の塊が浮き上がっている。
「忌が出た…母親の痛みがなくなったのか…」
鋭い瞳で黒い影の存在を捉え、アヒルがそっと呟く。
「母ちゃん?」
「一体、どうなってんだぁ?」
「おい、お前等!」
戸惑っているパンチたちへと、アヒルが声を張り上げる。
「あの母ちゃんはどうやら、急に衝撃波撃っちゃう病にかかってたようだ」
「急に衝撃波撃っちゃう病?」
「んなもん、あんのかぁ?」
「ああ、ある。症状はもう消えたみたいだが、一応、病院に連れてった方がいい。今すぐ、連れてけ」
不思議そうな顔を見せるパンチたちに、いかにも正論を語る口振りで話を進め、アヒルがパンチたちへと指示を送る。
「けど、病院たって、何科にいけば…」
「何科でもいいから、とっとと行け!」
「ひええぇ~!了解しましたぁ!」
「待ってくれぇ!パンチ!俺も手伝うぜぇ~!」
アヒルに怒りの形相を向けられたパンチとブラシが、半ば脅されたような形でアヒルの指示を呑み、倒れている母親を両脇から抱え上げて、病院へ行くべく、その場を駆け出していく。
「さてと、んあ?」
「ん?何だ?」
パンチたちが母親を連れて去り、これでやっと忌に集中出来ると思ったアヒルであったが、すぐ横に立つ気配がいつまで経っても消えず、思わず顔をしかめて振り向く。すると、そこには、しかめっ面でアヒルを見返す、アニキの姿があった。
「“何だ”じゃねぇよ!お前もとっとと病院行けよ!」
「何で俺が、お前の言うことを、素直に聞かなきゃいけねぇんだ。それに、付き添い何人もで、病院行ったら迷惑だろうが」
「意外と律儀だな!」
病院に気を配るアニキに、アヒルが感心したような指摘を入れる。
<ググ…!おのれ、人間…!>
「……っ!」
上空から聞こえてくる禍々しい声に、素早く顔を上げるアヒル。空中で態勢を立て直した忌は、ここを去ったパンチの母親ではなく、今、この場に居るアヒルたちへと、狙いを定めている。
「とにかく、てめぇは下がってろ!」
「はぁ?フザけんな。てめぇが下がればいいだろうが」
「あのなぁ…!」
<消え去れ!“破”…!>
「やべ…!」
アニキと言い争いを続けていたアヒルが、こちらへ向け、上空から思いきり衝撃波を放った忌の姿を横目に入れ、焦ったように前方を向く。
「五十音、第一音…!って、あっ」
制服のポケットへと手を入れたアヒルが、間の抜けた声を漏らす。
「やっべ!そういや俺、今、言玉使えないんだった!」
言玉が粉々に砕かれ、為介の家に預けたままであることを今になって、やっと思い出し、アヒルが頭を抱え、慌てた様子を見せる。その間にも、忌が向けた衝撃波は、刻一刻とアヒルたちに迫って来ていた。
「マズい…!」
迫り来る衝撃波に、アヒルの表情が歪む。
「おい、アニキ!とにかく、逃げ…!」
「だから、てめぇは下がってろと言ったんだ」
「へ?」
焦るアヒルとは対照的に、普段以上に落ち着き払った様子のアニキが、上空から迫り来る衝撃波をまっすぐに見上げながら足を動かし、アヒルよりも数歩前へと出る。
「お、おい!何やってんだよ!?」
前へと出るアニキに、焦りながら声を掛けるアヒル。
「死にてぇのか!?」
「男は度胸」
アヒルの問いかけを背に浴びながら、衝撃波を見上げたアニキが、学ランのポケットへと右手を入れる。
「“逃げ”は、俺の辞書にはねぇ…!」
「なっ…!?」
そう堂々と叫びあげ、アニキがポケットから取り出したのは、手のひらにすっぽりと収まる、小さな赤い宝玉。その宝玉を見て、アヒルが大きく目を見開く。
「あ、あれは…言玉!?」
「五十音、第三十一音…」
右手に持った言玉を突き上げ、アニキが鋭い表情で言葉を放つ。
「“ま”、解放…!」
アニキがその文字を口にした途端、突き出した言玉から強い赤色の光が放たれ、一気に辺りを包み込んだ。その眩いばかりの光を、アヒルは目を逸らすこともなく、まっすぐに見つめる。




