Word.49 神ニ、集ウ 〈5〉
朝日が昇ったばかりの早朝。朝日に照らされ、美しく輝く言ノ葉川のすぐ傍の川原に座り込み、真剣な顔つきで本を読んでいる一人の青年の姿がある。時たま、土手の上の道を行くランニング途中の人間が、その青年へと視線を落としては、すぐに目を離して、駆け抜けていく。
「面白いか?」
「……っ」
背後からの声に気付き、その青年が本を読むのを止め、ゆっくりと顔を上げる。
「いや、何が面白いのか、まったくわからねぇ」
読んでいた本を閉じ、青年が、アヒルが、はっきりと答える。やたらとキラキラとした少女と男の描かれたその本の表紙には、『恋盲腸』の文字が刻まれていた。
「だろうな」
アヒルの言葉に頷きながら、座り込んでいるアヒルのすぐ横まで歩いて来たのは、篭也であった。
「あなたが読むには、漢字が多過ぎる」
「ああ!?」
刺々しく言い放つ篭也に、アヒルがしかめた表情を、勢いよく上げる。
「読めない漢字には、振り仮名振ってあったっつーの!」
「そうか」
強く言い返すアヒルに、あしらうように短く頷く篭也。
「僕も、初めて読んだ時は、あなたと同じように、何が面白いのかわからなかった」
「え?」
目の前で流れる川を見下ろし、篭也がどこか懐かしむように語る。急に語り始める篭也に、アヒルが少し戸惑うような表情を見せる。
「だが、二巻を読んだ後、急激に続きが気になって、気になったと思ったらいつの間にか、恋盲腸の虜になっていた」
「別に、お前と恋盲腸の歴史に、興味ねぇよ」
「恋盲腸を読んでいると、思い出すんだ」
アヒルがどこか呆れたように肩を落とす中、川を見つめたままの篭也は、眩しそうにそっと目を細めた。
―――篭也!ただいまぁ!―――
「いつも思いきり笑っていた、あの人のことを」
「…………」
篭也の言葉を聞いて、アヒルもその瞳を細める。
「毎年さ」
閉じた恋盲腸の本をすぐ横の地面に置き、その場でゆっくりと立ち上がったアヒルが、篭也と同じように、目の前の川へと視線を向ける。
「カー兄の命日には必ず、朝一番に、家族全員揃って、墓参りに行くんだけどさ」
篭也は川の方を見たまま、アヒルの方は振り向かずに、アヒルの言葉に耳を傾けた。
「毎年毎年、俺らが行ったらもう、墓の前に、でっかい白菜が供えてあんだよ。こんなでっかい白菜っ」
アヒルが白菜の大きさを表すように、少し両手を上げ、手元で広げる。
「誰が供えてんだろってのも気になったけど、なんで白菜なんだろってのが、一番、不思議だった」
川を見つめ、アヒルが口元を緩める。
「確かに俺ん家は八百屋だけど、カー兄はどっちかっつーと、ナスビのんが好きだったしなぁって」
当時の戸惑いを示すように、アヒルが少し首を傾ける。
「そしたらさ、親父が教えてくれたんだ。白菜の花言葉」
アヒルが上げていた両手を下ろし、川を見つめていた視線を、空へと持っていく。
「野菜にも、花言葉ってあるんだなぁ。俺、八百屋の息子だけど、それ聞いた時、初めて知った」
そっと目を細め、まっすぐに空を見上げるアヒル。
「白菜の、花言葉は…」
「“固い約束”」
アヒルが口にする前に、答えたのは篭也であった。
「うん…」
篭也の答えに頷きながら、アヒルが空へと向けていた視線を、ゆっくりと下ろしてくる。
「親父は、この人にはきっと、カー兄との大事な約束があるんだろうって、そう言ってた」
「ああ…」
アヒルのその言葉に、篭也がしっかりと頷く。
「約束、したんだ」
自分自身でも確かめるように、はっきりと言葉を発する篭也。
「“何があっても、どんな時も…」
篭也がゆっくりと、横を振り向く。
「誰よりも近くで、神を支えて、誰よりも強く、神の力になる”と…」
まっすぐに向けられた篭也の視線が、アヒルへとぶつかった。
「だから、これを」
「え?」
そう言って篭也がアヒルへと差し出したのは、白いハンカチであった。手のひらの上に乗せたハンカチを、篭也が慎重に広げていく。ハンカチが広げられると、そこには、赤く光る、宝石か何かの欠片が、たくさん集まっていた。
「これ…俺の、言玉?」
「ああ」
戸惑うように聞き返したアヒルに、篭也がしっかりと頷く。
「すっげぇ粉々…」
阿修羅に砕かれたその瞬間は、その他に色々と気に取られることがあったため、よく見れていなかったが、改めて見ると、あまりにひどい惨状である。そんな自分の言玉に、アヒルはただ苦い笑みを浮かべることしか出来なかった。
「わざわざ、集めてきたのか?」
「ああ。あなたに渡そうと思ってな」
「渡すって…見りゃ、わかるだろ?いっくら何でも、この状態じゃ、もう…」
「例えそうであったとしても」
アヒルの言葉を遮り、篭也が強い瞳をアヒルへと向ける。
「これがあなたの武器であるなら、最後の一欠片まで集めることが、僕の役目だ」
「……っ」
はっきりと言い放つ篭也に、アヒルがそっと眉をひそめる。
「僕は加守として、安の神を支え、安の神の力になると、そう、あの人に、先代加守に誓った。だから…」
篭也の視線が、まっすぐにアヒルに突き刺さる。
「だから、僕はもう逃げない」
その言葉が、まるで誓いのように、辺りに強く響き渡る。
「あの人の死からも、あの男の存在からも、すべての真実から、もう逃げない」
篭也の言葉が、さらに続く。
「だから、あなたには、僕の前に立って、これからも戦っていって欲しい」
篭也の瞳が、アヒルを捉える。
「僕の神は、僕にとっての安の神は、あなたしかいない」
「…………」
何の迷いもない篭也の言葉がまっすぐに届くと、アヒルはそっと目を細め、その視線を篭也から、再び目の前に流れる川の方へと移した。
「俺の言葉、同じ“あ”の言葉使ってんのに、まるで、あいつに通用しなかった」
「ああ」
「あいつの方が、使える言葉多いし、あいつの方が、比べもんにならねぇくらい、めちゃくちゃ強ぇ」
「ああ」
川を見つめながら、ポツリポツリと言葉を落としていくアヒルに対し、篭也はただ、頷きを落とすだけであった。
「言玉だって、粉々になっちまった…」
「ああ…」
篭也の頷きが、アヒルの言葉を受け止めるように、そっと響く。
「なぁ、篭也」
いつかのカモメと同じように、アヒルの声が篭也の名を呼ぶ。
「それでも俺は、戦えるか…?」
「無論だ」
ゆっくりと振り向いたアヒルに、篭也は迷うことなく頷いた。
「あなたには…」
篭也の視線が動き、土手の上の方へと移っていくと、アヒルの視線も、それを追っていく。
「アヒるん…」
「アヒルさぁ~ん!」
「朝比奈くん!」
二人の視線の先には、土手の上の道に立ち、それぞれにアヒルへと笑顔を向けている、囁、保、七架の姿があった。
「僕たちが附いている」
大きく手を振る三人の姿を見つめ、自信を持った笑みを浮かべる篭也。
「そっか…そう、だったなっ…」
集った仲間たちの笑顔を見回し、アヒルも零れんばかりの笑みを見せた。
一方その頃、アヒルたちの前を去った阿修羅と棗は、自分たちの根城へと帰還していた。
「阿修羅!」
戻って来た阿修羅を、根城の入口ですぐさま出迎えたのは、杖をついた小柄の老人、現であった。
「やぁ、現。ただいま」
「ただいまじゃ、ありゃせんわい!」
笑みを浮かべ、挨拶を向ける阿修羅に、現が大きな怒鳴り声をあげる。
「まぁた、礼獣を一匹、駄目にしよったな!」
「そうなんだ。今回は気を付けようと思ってたんだけど、意外と苦戦してさ」
「まったく!」
あまり悪びれもない様子で答える阿修羅に、現は不満げに口を尖らせた。
「なぁにが、意外と苦戦してじゃ!一般人の振りをして、変に関わったりするから、そんな間の抜けたことになるんじゃ!」
次々と阿修羅を罵倒する言葉を吐く現に、阿修羅の後ろに立つ棗が、不快そうに顔をしかめる。
「現、我が神にそのような口をきくことは…」
「大丈夫だ、棗」
現へ向け、右手を構えようとした棗を、阿修羅が素早く止める。止めた阿修羅に、棗は少し驚いたような顔を見せた。
「しかし、神…」
「悪かったよ、現。申し訳ないが、また新しい礼獣を創ってくれないか?」
異論を唱えようとした棗を背にし、阿修羅が穏やかな笑みを浮かべ、現へと頼みかける。
「お前さんは創れ創れと簡単に言うがなぁ、創るには時間も体力もかかっ…!」
「ウルサイでございます」
さらに声を荒げようとした現の言葉を、割って入って来た声が遮る。
「あれこれと怒鳴る暇があるなら、その時間を使って、とっとと創れって感じでございます」
丁寧なのかよくわからない、不思議な口調で、根城の奥からその場へと姿を現したのは、長い茶色の巻き髪を、頭のてっぺんで団子状にまとめた、宝石のような大きな青色の瞳の、洋風の顔立ちをした、美しい女性であった。二十代半ばから、後半くらいの年であろうか。女性の大きな瞳には感情の起伏が見られず、何を考えているのか、読めない表情である。
「問題は時間より、体力なんじゃねぇのぉ?なんせ、じじいだからなぁ。イヒヒっ」
女に続くようにして現れたのは、二十代半ばあたりの、体格のいい金髪の男であった。短い金髪を立て、広い額を、強く主張させている。
「はぁ…どうでもいい…」
二人の後に遅れるようにしてやって来たのは、どこか憂鬱そうな表情を見せた、整った顔立ちの黒髪の青年。こちらももう一人の金髪の男と、同じ年頃であろうか。深い溜息をつきながら、定まらない視線をあれこれと動かしている。
「やぁ、皆来ていたのか」
現れた三人の姿を見て、阿修羅がそっと笑みを浮かべる。
「堕ちし“以の神”。堕神、一条錨」
「イヒヒっ」
阿修羅の言葉に、額を出した金髪男が楽しげに笑う。
「堕ちし“衣の神”。堕神、榎本エカテリーナ」
「はいでございます」
続いて、茶髪の女性が返事をする。
「堕ちし“於の神”。堕神、於崎 沖也」
「はぁ…」
阿修羅の言葉を聞き、憂鬱そうな青年が、さらに憂鬱そうに深々と溜息をつく。
「そして、堕ちし“宇の神”。堕神、浮世現」
「ふん…」
ゆっくりと振り向く阿修羅を見て、現がいかにも面白くなさそうに、鼻を鳴らす。
「今ここに、堕ちし五神が、すべて揃った…」
集った仲間たちを見回し、阿修羅が満足げに微笑む。
「さぁ、始めようか。そして、終わらせよう…」
ゆっくりと右手をあげ、顔の目の前で、その拳を握り締める阿修羅。
「すべてを…」
その声が、重々しく響き渡った。




