Word.49 神ニ、集ウ 〈4〉
――――あの人と出会ってから、一ヶ月の時が、流れていた。
学校帰り、学校から家に帰る途中にある公園に立ち寄る。その公園の隅にある小さなベンチに座って、背景に花の飛び交う、やたらとキラキラした男と少女の描かれている表紙の本を読みながら、待つことが僕の日課になっていた。
「篭也!」
僕よりも学校が終わるのが遅い、あの人を待つことが。
「ただいまぁ」
今日もニコニコと笑みを浮かべながら、あの人が、僕の座っているベンチへと歩み寄って来る。大きく手を振るその姿は、あまりにも無邪気で、僕より十程も年上の人とは、とても思えない。だが、僕は特に言葉は返さずに、読んでいた本を閉じ、顔を上げる。
「どうだった?恋盲腸“落雷警報、これが恋の始まり”の巻は」
「何がいいのか、まったくよくわからなかった」
興味津津に問いかけるその人に、僕は素っ気なく答えて、閉じたその本を差し出した。
「そっかぁ。じゃあ、はい、次の巻!“恋の鼓動はマグニチュード二百十”の巻ね」
「…………」
返して数秒も経たぬうちに差し出された、先程まで読んでいた本とそう変わり映えもしない、相変わらずキラキラとしている本の表紙を見て、僕は思わず固まる。
「僕は、“何がいいのかわからない”って、言ったんだけど」
「うん。けど別に、“面白くない”わけでも“嫌い”なわけでも、ないんでしょ?」
あっさりと頷いたその人が、僕へと笑顔で言い放つ。
「わからないだけなら、わかるまで読めばいいだけだよ。ほらっ」
無理やり本を手渡されると、突き返すことも出来ず、僕は仕方なく、次の巻を受け取った。
「あ、それとさぁ、篭也」
僕が返した方の本を、大事そうに鞄の中に片づけながら、その人が僕へともう一度、呼びかける。
「考えてくれたぁ?加守の件」
「……っ」
その人の言葉を聞いた途端に、僕は表情を曇らせた。
「考えるまでもない」
僕は煩わしげに、はっきりと言葉を放つ。
「あんなもの…あんなものの為に戦うなんて、絶対したくない」
「“あんなもの”とか言わないでよぉ。一応、俺ら五十音士が崇めてる神様なんだから」
「なら、勝手に崇めていればいい」
困ったように言うその人に、僕は冷たく言葉を投げかける。
「でも、僕は崇めない」
自分自身に忠告するように、強く言う。
「あんなものが…」
―――“お”のつく言葉は、すべて檻也様のものです。あなたの言葉など、一つもありません―――
「あんなものが在ったから、僕の言葉は消えたんだ…」
「……っ」
そう言った僕をまっすぐに見つめ、その人はそっと目を細める。
「そっかぁ、また勧誘、失敗かぁ。残念っ」
軽く肩を落としながら、その人がまたそっと、笑みを浮かべる。
「ねぇ、篭也」
「何だ?」
「加守にならない?」
「断ってから、一分も経っていないだろう!」
肩を落としたのも束の間、再び勧誘をしてくるその人に、僕は思わず怒鳴りあげた。
「えぇ~、篭也なら頭いいし、子供のくせに俺より語彙多いし、ぴったりだと思うんだけどなぁ」
「というか、加守の後継者なんて、まだ必要ないだろう?あなたはまだ若いし、無駄に元気そうだし」
「まぁ、そうなんだけどねぇ」
僕の言葉に頷きながら、その人が僕の横へと、腰を下ろす。
「でも、篭也」
ゆっくりと顔を横へ向けて、まっすぐに僕を見るその人。
「例え、手にしたかった言葉じゃなかったとしても、何か一つでも言葉を持ってないと、他の誰かと、言葉を交わせないよ?」
真剣な表情を向けるその人に、僕は思わず逃げるように目を逸らし、地面を見るように俯いた。
「……交わさなくていい…」
「篭也…」
答えた僕に、その人はどこか寂しそうに目を細める。
「あのさぁ、篭…」
「カー兄!」
「ん?」
その人が僕に話しかけようとしたその時、公園の外の方から、呼びかける大きな子供の声がして、その人は素早く反応し、顔を上げた。
「アーくん!」
嬉しそうな笑顔を見せて、その人が勢いよく立ち上がる。公園の外には、こちらへ向けて、大きく手を振っている、僕と同じくらいの子供の姿があった。弟だろうか。そういえば、檻也の話をした時に、自分にも弟がいると話していた。血筋なのだろうか、その弟も、何が楽しいのかわからないほどに、大きな笑顔を浮かべている。
「ごめん、篭也。俺、今日はもう帰るよ」
「うん」
謝るその人に、別に引き止める理由もなく、僕は素直に頷く。
「じゃあ、また明日ね!篭也!」
「…………」
満面の笑みを見せ、大きく手を振るその人に、僕は手を振り返すことも、何かの言葉を掛けることも出来ず、ただ遠ざかっていくその背中を見送った。その人は駆け足で公園の出口へと向かい、外で待っていた弟と合流する。
「おかえり、お兄ちゃん!」
「ただいま、アーくん!」
笑顔で迎える弟に、その人はとびきりの笑顔を向け、まだ小さな弟の頭を撫で回す。
「アーくんは、どっか行ってたのぉ?」
「うん、紺平ん家」
楽しそうに言葉を交わしながら、二人は足並みを揃え、家へと帰る道を歩いていく。徐々に見えなくなっていく二人の姿を、僕はその姿が見えなくなるまで、ずっと見つめていた。
―――おかえり、お兄ちゃん!―――
あんな風に自然に、言葉を投げかけられたら、どんなにいいだろう。
―――“お”のつく言葉を、一切、口にしてはなりません!―――
でも、言えない。それは、叶わない。
「……っ」
借りたばかりの本を抱えて、僕は、深く深く、俯いた。
次の日も同じように、僕は公園のベンチに座って、あの人が帰って来るのを待っていた。
「篭也!」
そろそろかと思った丁度その時、僕を呼ぶ声が聞こえて来て、僕は顔を上げる。
「ただいま!」
「……っ」
いつものように大きな笑顔を見せて、やって来るその人の姿を見つめ、僕はそっと目を細める。
―――おかえり、お兄ちゃん!―――
「あ…」
昨日の弟の姿が過ぎり、同じように言葉を投げかけられないかと口を開いた。だが、どうしても、最初の一字の音を口にすることが出来ず、僕はすぐに言葉を止めた。
「篭也?」
「あ、こ、これ」
不思議そうに首を傾げるその人に、僕は少し慌てながら、誤魔化すように、昨日借りたばかりの本を、その人へと差し出した。
「え?もう読んだの?」
「うん」
「早いなぁ」
感心しながら、その人が僕から本を受け取る。
「こんなに早く読み終わると思ってなかったから、今日は続きの巻、持って来てないんだよねぇ」
「じゃあ明日、持って来て」
「うん。って、へ?」
一度は頷いたものの、急に目を丸くして、その人が顔を上げる。
「来週じゃダメ?」
「出来れば明日がいい」
その人の問いかけに、僕は再度、強く主張する。
「何だぁ。結構気に入ってるんじゃん」
「続きが気になるという気持ちが、少し芽生えただけだ」
「素直に“面白い”って言えばいいのにぃ」
「……っ」
その人が不意に口にしたその言葉に、僕はすぐさま反応し、あからさまに表情を曇らせてしまった。そんな僕の様子に、その人は素早く気付く。
「どうかした?」
眉をひそめ、問いかけるその人に、僕は思わず俯く。
「そんな言葉…言えるわけない…」
「え…?」
僕の答えに、その人は戸惑うように首を傾げる。
「それは…僕の言葉じゃ、ない…」
言葉を途切れさせながら、僕がゆっくりと答えを口にする。
「その文字のつく言葉を…僕が口にすることは、許されて、ない…」
「……そっか」
少しの間を置いて、その人がゆっくりと頷く。
「だから、言わないのか…」
どこか納得したように呟きながら、その人が僕のすぐ前まで歩み寄り、その場でしゃがみ込んで、ベンチに座っている僕に、視線の高さを揃えた。
「ねぇ、篭也」
僕をまっすぐに見つめ、その人が穏やかな笑みを浮かべる。
「誰に、許されてないの…?」
「え…?」
その人からの問いかけに、僕は少し戸惑うように顔を上げた。
「誰って、その…」
「於の神になるっていう、君の弟?それとも、於崎の人たち?」
「……っ」
言い切れずにいた僕の代わりに答えるように、その人が問いかけてくる。その人には、僕の思っていることなど、すべて見透かされているようで、僕は思わず俯いた。
「篭也」
その人がもう一度優しく、僕の名を呼ぶ。
「君の言葉は、君だけのものだよ?他の誰のものでもない」
優しい声が、まっすぐに僕へと向けられる。
「自分の言葉を、閉じ込めちゃダメだよ」
その人の僕のものよりずっと大きな手が、両手でそれぞれ僕の両頬を包み込み、俯けていた僕の顔を、ゆっくりと上げていく。
「君の言葉は、もっと自由なんだ」
僕の顔が上がると、目の前に、優しく微笑むその人の顔があった。
「ただいま、篭也」
「……っ!」
その人があまりにも優しく笑うから、その笑顔があまりにも温かかったから、僕は思わず目を見開き、その瞳を潤めた。
「……おっ…」
恐る恐る口を開き、零れ落とすように、その文字を呟く。
「“おかえり”…!」
その言葉を落とした瞬間、僕の瞳から、涙も同時に零れ落ちた。檻也が“お”の言葉に目醒めて、於崎の家を出されてから、涙を流したのは、それが初めてだった。
「うぅ…!うっ…!」
「……っ」
涙を流す僕を、その人は、優しく抱き締めてくれた。とても、温かかった。
それからまた、しばらくの時が流れて、僕はカモメさんの後継者となることを決め、“加守”としての指導を受けることとなった。
「いやぁ、篭也はホント、何でも覚えが早いなぁ」
加守の指導が始まって、数週間が経った頃、カモメさんが、どこか感心するように言った。
「このまま行くと、一年くらいで俺、抜かれちゃうんじゃないかなぁ?」
「半年もあれば十分だと思う」
「あ、言ったなぁ!」
自信を持って言う僕に、カモメさんが不満げに顔をしかめる。
「あなたの言葉覚えが悪過ぎるんだ。それで本当に、五十音士をやれているのか?」
「俺、国語苦手なんだよぉ。担任の先生にいっつも怒られてるし」
軽く頭を掻きながら、カモメさんががっくりと肩を落とす。
「篭也が安附になってくれる、安の神様は幸せだろうねぇ」
「…………」
しみじみと呟くカモメさんを見て、僕は少し目を細める。
「カモメさんは…なんで僕を、加守の後継者にしようって思ったの?」
「え?うぅ~ん…」
少し改まって問いかけると、カモメさんが少し悩むように、首を捻る。
「俺より、頭良さそうだから?あ、後、恋盲腸好きだから!」
「あっそう…」
笑顔で答えるカモメさんに、僕は呆れたように頷く。
「それとぉ」
言葉を付け加え、笑みを浮かべるカモメさん。
「言葉の重みを知ってるから、かなぁ」
「……っ」
告げられた言葉に、僕は少し目を見開く。
「言葉の重みを知ってる人は、その分、言葉を大切に出来る。それが、五十音士にとって一番大事なことだって、俺は思ってる」
少し遠い方を見つめながら、カモメさんが話を続ける。
「だからかな。篭也なら絶対、いい神附きになれるって、そう思うんだよね」
「ふぅーん」
「ねぇ、篭也」
優しい声が、また僕の名を呼んで、遠くの方を見ていたカモメさんが、僕の方を振り向く。
「君がいつ加守になるのかも、君の神様がどんな人になるのかも、今はまだ、全然わからないけど…」
カモメさんの瞳が、まっすぐに僕を捉える。
「一つだけ、約束して」
強調するように、放たれる言葉。
「何があっても、どんな時も…誰よりも近くで、神を支えて、誰よりも強く、神の力になるって」
差し出された小指を見つめ、僕はそっと目を細める。
「うん…」
僕はしっかりと頷き、カモメさんの小指に、自分の小指を絡めた。
それが、僕とあの人との、最初で最後の約束……――――




