Word.49 神ニ、集ウ 〈3〉
言ノ葉町。小さな町の八百屋さん『あさひな』。
「…………」
二階のアヒルの部屋の向かいにある、“カモメ”という名札の掛かった、今は空き部屋であるその部屋の、少し埃の溜まった机の上に、アヒルは突っ伏していた。机の棚には高校の教科書が並んでおり、その横には、まだアヒルが小学生の頃の、家族の写真が飾られていた。そこに並ぶすべてが、カモメの時が五年前で止まってしまったことを表している。
「カー兄…」
アヒルが少し顔を上げ、横目でその家族写真を見つめ、小さな声でカモメを呼ぶ。
―――おかえり、アーくん!今日の晩御飯は、アーくんの大好物のカレーだよ!―――
―――またリレーで一番取ったの?凄いなぁ、アーくんは。さすがは兄ちゃんの自慢の弟だ!―――
「……っ」
記憶の中のカモメの姿を思い出し、アヒルがそっと目を細める。記憶の中のカモメは、いつだって優しい笑顔をアヒルに向けてくれていた。アヒルが笑っていないカモメの姿など見たことがないほどに、カモメはいつも笑顔を浮かべていた。
―――兄ちゃんなんか、いなくなればいいんだっ…!―――
カモメの笑っていない顔を思い出せるとすれば、あの時だけ。
「…………」
笑顔でないカモメを思い出し、アヒルが深く目を閉じて、机の上に放り出している右手の拳を、強く強く握り締める。
「カー兄…俺、は…」
「レタスミサイルぅぅ~!」
「ぶふ!」
ゆっくりと瞳を開き、何かを言いかけたアヒルであったが、後方から勢いよく飛んで来たレタスが、アヒルの後頭部を見事に直撃し、アヒルは思わず、潰れたような低い声を漏らした。
「何を…すんだよ!クソ親父!」
「ぐはぁ!」
投げてきた者の姿を確認しないまま、頭を直撃したレタスを持ち直し、素早く振り返って、勢いよく投げつけるアヒル。アヒルの投げたレタスは、部屋の入口に立っていた朝比奈家、父の顔面に、大きな音を立てて炸裂し、父はそのまま後方へと倒れ込んだ。
「痛たたたた…ひどいよぉ、アーくぅ~ん」
「先にひどいことしたのは、そっちだろうが!」
鼻の頭を押さえながら、泣きそうな表情で起き上がる父に、アヒルが強く怒鳴りあげる。
「だいたい、なんでレタス投げられなきゃなんねぇんだよ!俺は何の寝言も言ってねぇぞ!?」
「だって、スーくんもツーくんも帰って来なくて、お父さん寂しかったから、ついっ」
「“つい”で息子、攻撃すんじゃねぇ!」
可愛らしく言う父に、アヒルの怒りは収まるどころか、増していく。
「だいたい、どうしたのぉ?こんな時間に、電気も点けずに」
やっと立ち上がった父が、入口のすぐ横にあるスイッチを押し、部屋の明かりを点ける。空き部屋ではあるが、定期的に電球は変えているため、電気はすぐに点いた。ずっと暗闇に居たため、急に入って来る光に、アヒルが思わず目を細める。
「眠るなら、自分の部屋で寝なよぉ?」
「……っ」
声を掛ける父に答えることなく、アヒルはそっと俯いた。そんなアヒルの姿を見て、父は何か察したように、穏やかな笑顔を作る。
「何か、あった?」
「え…?」
問いかける父に、アヒルが戸惑うように顔を上げる。
「何かなきゃ、アーくんは早々、カーくんのところに相談になんか、来ないでしょう?」
少し首を傾げ、父が問いかけを続ける。
「カーくんに心配かけるの、嫌だもんね」
「…………」
まるで赤子をあやすような、そんな緩みきった笑みを向けてくる父に、目を合わせていることが気まずくなり、アヒルが再び俯く。
「親父は…」
「ん?」
ゆっくりと口を開いたアヒルに、父がさらに首を傾ける。
「親父は知って…るに、決まってるよな。スー兄たちが知ってたくらいだし…」
言葉を途中で言い直し、自分自身で納得するように呟くアヒル。
「カー兄が、殺されたって…こと…」
「……っ」
アヒルの発したその言葉により、笑顔を見せていた父の表情が曇る。だがすぐにその曇りは晴れ、父はまた笑みを浮かべた。
「そうだね。知ってる」
父が、認めるように、大きく頷く。
「一応は、お父さんだからねぇ」
「……俺…俺だけ、知らなかった…」
「うん。お父さんたちが皆、言わなかったからね」
「なんで…」
疑問の言葉が、すぐにアヒルの口から零れ落ちる。
「なんで…?」
アヒルは俯けていた顔を上げ、まっすぐに父を見つめ、兄へ向けた問いを同じ問いを投げかけた。
「……誰かが死ぬ時、その死には、必ず理由がある」
父がアヒルから視線を逸らし、殺風景なカモメの部屋を見回しながら、話を始める。
「理由なく死んで逝く人なんて、この世界には居ないからね」
言葉を続けながら、穏やかな笑みを浮かべる父。
「でも、その理由の大半が、死んだ人間の近しい者にとっては、受け入れ難いものなんだ」
父の笑みが、少しだけ悲しげに曇る。
「寿命でも病気でも、受け容れ易い“死”なんて、この世界にはない」
「…………」
いつになく真面目に話す父の姿を、アヒルは目を逸らすことなく、まっすぐに見つめていた。
「受け入れられなかったんだよ。スーくんもツーくんも、お父さんも」
父がそう言って手を伸ばし、すぐ近くにある洋服箪笥へと手を触れる。
「カーくんが、殺されただなんて…カーくんがもう、この世界のどこにも居ないだなんて」
「……っ」
その言葉を発した父の表情が、本当に悲しそうで、アヒルの胸までひどく痛み、アヒルは思わず、込み上げて来た何かを押さえ込むように、右手で口元を覆った。
「言葉にすれば、それを、現実として受け止めなきゃいけないような気がして…」
埃の溜まった箪笥の上を、手のひらで撫でながら、父がさらに言葉を続ける。
「だから、言葉に出来なかった」
手のひらについた埃を見つめ、そっと目を細める父。
「だから、言えなかった…」
重く落とされた父の言葉には、偽りの色など一切なく、ただ伝わって来る悲しみに、アヒルは責めることなど、まるで出来なかった。
「ごめんね、アーくん」
「……っ」
心から謝る父に、アヒルが強く唇を噛み締める。
「違う…」
「え…?」
アヒルが発した小さな声に、父が戸惑うように首を傾げる。
「アーくん?」
「違う、んだ…」
搾り出すように、言葉を発するアヒル。
「俺にだけ言わなかったのは、スー兄やツー兄が、俺のことを思ってのことだって、ちゃんと、わかってた…」
所々、言葉を詰まらせながら、アヒルが必死に言葉を繋げる。
「カー兄が殺されたって聞いた時、俺が…俺が、一番初めに思ったことは、なんで俺だけ知らなかったんだって怒りじゃなかった…」
アヒルの声が、大きく震える。
「カー兄が…カー兄が死んだのは…」
―――兄ちゃんなんか、いなくなればいいんだっ…!―――
「俺の言葉のせいじゃなかったんだって…なかったんだって俺、心のどっかで、ホッとしたんだっ…」
震える口元に両手を近づけ、アヒルがその場で力なくしゃがみ込んでいく。
「ホッとしたんだ…俺っ…!」
床に膝を落とし、座り込むアヒル。
「そんなこと、思った…最低なんだ…!俺は…!」
肩を震わせ、背を丸めこむようにして大きく屈み、床に額をつけたアヒルが、震える叫びを発する。
「最低なんだっ…!」
「…………」
蹲り、その言葉を繰り返すアヒルを、父がまっすぐに見つめる。
「最低じゃないよ、アーくんは」
優しく語りかけながら、父がゆっくりと歩を進め、蹲っているアヒルの方へと歩み寄っていく。
「だってアーくんは、五年前のあの日からずっと、あの言葉を背負って来たじゃない」
父がアヒルのすぐ前で歩を止め、静かにしゃがみ込む。
「あの言葉を背負って、背負って、誰かの言葉を、みんなの言葉を、大切に、大切にして来たじゃない…」
諭すような声が、蹲ったままのアヒルへと落とされる。
「お父さんは、ちゃんと知ってるよ」
ゆっくりと伸ばされた父の手が、アヒルの頭の上へと乗る。
「ずっと、見てきたもん」
頭の上に乗った父の手が、優しくアヒルの頭を撫でた。
「カーくんだって、きっと見てくれてるさ」
「けど…」
床から額を離し、少しだけ体を起こして、アヒルが小さな声を発する。
「けど…俺はっ…!」
「それに、カーくんがアーくんのことを、“最低”だなんて思うはずないよ」
アヒルの言葉を遮って、父が優しく言葉を続ける。
「だって、カーくん、言ってたでしょう?」
首を傾け、アヒルの顔を覗き込む父。
「“アーくんは、自慢の弟だ”って」
「……っ!」
温かく微笑む父の姿を視界に入れ、顔を上げたアヒルが目を見開き、その表情を大きく崩す。
「うぅ…!」
ぐっと瞳を細め、再び顔を俯かせていくアヒル。
「大丈夫、大丈夫だよ…」
俯いたアヒルの頭を撫でながら、父が優しい微笑みを浮かべ、まるで言い聞かせるように、言葉を掛ける。
「大丈夫っ…」
「うううぅ…!うぅ…!」
その優しい言葉に、堪えるような、堪え切れないような、思いの溢れ出したアヒルの声が、カモメの部屋へと響き渡った。
『…………』
カモメの部屋の扉の外に立ち、中から聞こえてくるアヒルの声を聞いて、何やら考えるように、そっと目を細めるスズメとツバメ。
「家帰ったら…とりあえず寝るんじゃなかったの…?」
ツバメが前を向いたまま、中には聞こえぬような小さな声で、スズメへと問いかける。
「うん…」
ツバメの言葉に、短く頷くスズメ。
「もう、少し…」
どこか願うように呟いて、スズメはそっと俯いた。




