Word.49 神ニ、集ウ 〈2〉
「ふぁ~あ、眠みぃ。とりあえず家帰って、寝るかぁ」
為介の家を出ると、スズメが大きな欠伸をし、思いきり腕を伸ばしながら言った。時はもう、道に人一人歩いていないような真夜中だ。眠気が襲ってくるのは、当然である。
「アヒルくんが居るんじゃない…?」
「ああ?んなもん気にしてたら、一生、家帰れねぇじゃねぇかよっ」
「それはそうだけど…ん…?」
「……っ」
人一人歩いていないはずの真夜中だというのに、暗い道の前方に気配を感じ、二人は同時に足を止め、鋭い表情を見せると、警戒するように身構えた。
「お久し振りです」
前方の人影が徐々に歩み寄って来て、月明かりにやっと、その姿が見えるようになる。
「スズメ氏、ツバメ氏」
二人の前へと現れたのは、黒く長い髪を一つにまとめあげ、赤い縁の眼鏡を掛けた、いかにもインテリ風のスーツ姿の女性。三十代半ばくらいであろうか、それにしても落ち着いた雰囲気を持っている。女性は眼鏡に指をかけながら、何の迷いもなくスズメたちの名を呼んだ。
「熊子」
スズメがその女性を見て、女性の名らしきものを呼ぶ。
「それに、塗壁も」
「久すぶりだなぁ。スズさん、ツバさん」
熊子と呼んだ女性から、スズメが少し視線を横へと逸らすと、そこには気の良い笑顔を見せた、角刈り頭の大男が立っていた。もう夜になると冷え込んで来る季節だというのに、塗壁と呼ばれたその男の上半身は、白いランニングシャツを一枚、着ているだけである。
「本当に久し振りだね…元気だった…?」
「おう、お陰さんでぇ、ツバさんの呪いも受けずに済んだからのぉ」
「そう…じゃあ久々に呪ってあげようか…?」
「ひいいぃぃ…!」
不気味に微笑むツバメに、大男である塗壁が、その巨体を小さく丸めて、震え上がる。
「そんなくだらない話をしている場合ですか?塗壁」
震えている塗壁に、熊子が冷たく言葉を投げかける。
「我々は再会を喜びに来たのではないのですよ?」
熊子のその言葉に、スズメがそっと眉をひそめる。
「じゃあ、何の為に来たっていうの?熊子ちゃんっ」
「そんなこともわからないほどに、低能でしたか?スズメ氏」
「低能って…」
微笑みながら問いかけるスズメに、熊子が厳しい口調で言い放つ。
「力を、使われましたね」
『…………』
強調するように言う熊子に、スズメとツバメの表情が同時に曇る。
「まぁ、そりゃあちょっと、野暮用ってかさぁっ」
「理由など聞いていません」
明るく言い訳をしようとしたスズメの言葉を、熊子が強く遮る。
「あなた方が力を使ったのは、これが三度目…あまり勝手な行動をされては、困ります」
熊子が、責め立てるように言葉を続ける。
「派手に力を使い、あなた方の言玉が韻に感知されれば、我らが神の存在まで、韻に気付かれてしまう恐れがあるのですよ」
「わかってるよ…」
「いいえ、わかっていません」
答えたツバメの言葉を、熊子はあっさりと否定する。
「神の存在が韻に漏れることは、決してあってはならない。我らが神の存在を隠すことこそが、我ら宇附の唯一にして最大の任務なのですよ」
『…………』
まるで子供をしかるように、厳しく言う熊子に、スズメとツバメは言葉を言い返すことはせず、ただ黙ったまま、熊子から視線を逸らす。
「まぁまぁ、熊さん」
どこか宥めるように、熊子へと声を掛ける塗壁。
「そんなのは、二人だって耳タコださぁ。何千回と言われてきとんでしぃ、十分にわかっとるでよぉ」
塗壁が巨体には似合わぬ穏やかな表情で、言葉を続ける。
「よっぽどの理由があったから、力を使ったんだぁ。スズさんもツバさんも、ついついとかで力を使うような人じゃないだでぇ」
「……ふぅ」
塗壁の必死の弁解を受け、熊子が深々と息をつき、肩を落とす。
「とにかく、今後は今まで以上に、軽率な行動のないよう、お願い致しますよ。スズメ氏、ツバメ氏」
「ああ」
「わかったよ…」
念を押すような熊子の言葉に、スズメとツバメがしっかりと頷く。
「用件は以上です。では、参りましょうか、塗壁。下手に集まっていて、韻に気付かれても困ります」
「ああだでぇ」
熊子が声を掛け、塗壁が頷くと、二人はスズメたちに背を向け、その場を去ろうと歩を進める。
「熊子」
不意にスズメに呼び止められ、数歩進んだところで熊子が足を止め、ゆっくりとスズメの方を振り返った。
「何でしょう?」
「今回の件…」
スズメが少し視線を落としたまま、険しい表情を作る。
「堕神、阿修羅の件…その、神は何て…」
「我が神は、まだ動く時ではない、と」
スズメが問いかけを終える前に、熊子が鋭く答えを告げる。
「まだ動く時ではないと、そう仰っていました」
「……そうか」
「では」
「元気でなぁ。スズさん、ツバさん」
頷いたスズメの姿を確認すると、熊子と塗壁は二人に挨拶の言葉を残し、再び背を向け、歩を進めていった。やがて夜の暗闇の向こうに、二人の姿が消え、その場にスズメとツバメだけが残る。
「まだ動く時じゃない、か…」
「…………」
熊子の言葉を繰り返すスズメの横で、ツバメがそっと何やら考え込むように、目を細めた。
囁に話があると言われた篭也は、為介の家を出て、近くの公園へと訪れていた。家の中で話すことも出来たが、為介たちや紺平も居るため、囁が外へ出るよう促したのである。設置された街灯が公園を照らし出しているが、公園には誰の姿もない。
「真夜中だと、さすがに静かなものね…」
誰もいない公園を見回しながら、囁がゆっくりとした足取りで奥へと進んでいく。囁の後を行く篭也は、深く俯いたまま、何も言葉を発することなく、ただ囁の後に続いて歩く。
「この辺りでいいかしら…」
公園の丁度中央に来た辺りで囁が足を止め、篭也の方を振り返る。
「さぁ、話を始めましょうか…」
切り出すように言う囁に、少し顔を上げた篭也が、そっと眉をひそめる。
「この間の恋盲腸の、先生の浮気疑惑に関する、ヒトミの心情の変化についての考察なんだけれどね…」
「…………」
「ふぅ…ツッコミも入れてくれないのね…」
冗談のつもりで恋盲腸の話題を出した囁であったが、まったく反応のない篭也に、どこか呆れたように肩を落とした。
「だいたいのことは、あの美守の眼鏡さんから聞いたわ…」
囁が真剣な表情を作り、やっと本題を話し始める。
「敵は先代の“安の神”で、死んだアヒるんのお兄さんの仇で、そのお兄さんは先代の“加守”…」
先程起こった出来事を、簡単にまとめて話す囁。
「つまり、あなたを今の加守に導いた人…」
その瞳を鋭く変える囁に、篭也が再び、俯いてしまう。
「やっと、わかったわ…」
―――告げることが、今の僕には一番、怖い…―――
「あの時のあなたの、あの言葉の意味が…」
俯いたままの篭也が、そっと目を細める。
「まぁ、一度、神を裏切ったことのある私が言うのもなんだけれど…すべてを知っていて、それでも黙っていたというのなら…」
俯いてしまった篭也に遠慮することなく、囁はさらに言葉を続けた。
「それは確かに、神に背く行為だわ…」
「……っ」
責めるように、どこか強い口調で言い放つ囁に、篭也は俯いたままそっと唇を噛み、眉間に皺を寄せ、険しい表情を見せる。
「本当に知っていたの…?」
確かめるように問いかけ、囁が少し首を傾ける。
「初めから、全部…?」
さらに問いかける囁に、篭也は一瞬、そっと目を伏せた後、またゆっくりとその瞳を開いた。
「知らなかったんだ…初めは…」
ゆっくりと、その重い口を開いた篭也に、囁が目を細め、耳を傾ける。
「僕は、カモメさんの名字すら聞いてなかったし…僕と同じくらいの弟がいるとは知ってたけど、そんなの、たくさんいるだろうし…」
一つひとつを思い出すように、篭也が言葉を続ける。
「一度だけ、家に行ったことはあったけど…それは、死んだカモメさんを、届けに行く時で…」
「……っ」
震えた拳をきつく握り締める篭也に、囁が表情を曇らせる。
「あの時は、頭の中が真っ白で…どんな家だったのかも、どんな家族だったのかも、全然覚えてなくて…」
言葉を続ける篭也の声が、かすかに震える。
「だから、知らなかった…本当に…情けないくらい、まったく気付かなかった…」
「初めて気付いたのは、ツバメさんが忌に襲われた後…?」
「ああ…」
問いかけた囁に、篭也がゆっくりと頷く。
―――カモメ…?―――
アヒルたちの部屋と並んで存在した、“カモメ”という名札のかかった空き部屋。
―――この部屋は一体、誰の部屋ですか?―――
「スズメさんから、“カモメ”という名の兄がいたことを、五年前に死んだことを聞いて…それでやっと、わかった…」
篭也が険しい表情から、どこか脱力したような表情へと変わる。
「間抜けなものだ」
俯いたままの篭也が、自嘲するような笑みを浮かべる。
―――ダチが泣いてるってのに、黙って見てられっかよぉ!―――
「神はあんなにも…あんなにも、あの人によく似ていたのに…」
「篭也…」
焼きついている姿を思い出すように、そっと目を伏せる篭也を見つめ、囁が目を細める。
「それからすぐに、事実をすべて話そうか悩んだ」
顔を上げた篭也が、暗い空を見上げ、遠くを見るような瞳を見せる。
「でも、言えなかった…カモメさんの死を背負って、言葉をあまりにも大事にする神を見ていたら、言えなくて…」
篭也の表情が、どんどんと曇っていく。
「言えなくて言えなくて…隠せば隠す程、言えなくなっていって…」
顔を下げた篭也が、今度は地面へと視線を落とす。
「このまま知られなければいいと、事実を伝えないまま、このまま時間が過ぎていけばいいと、そう思った」
篭也がそっと、唇を噛む。
―――知ってたんならなんで、なんで黙ってたんだよ!?―――
―――知らなかったのは、俺だけかよっ…―――
「その結果が、招いたっ…」
辛そうに表情をしかめたアヒルの姿を思い出し、篭也が深く頭を抱える。
「僕の安易な考えが、神の心を傷つけた」
俯いた篭也が、強く拳を握り締める。
「僕は確かに…神に背いたんだ…!」
「篭也…」
きつく拳を握り締め、苦しげに声を漏らす篭也を見つめ、囁が強く、眉間に皺を寄せた。
『…………』
二人が互いに言葉を交わさぬまま、しばらくの間、沈黙が訪れる。
「ねぇ、篭也」
沈黙を破ったのは、囁からの呼びかけであった。
「失礼するわ…」
「え…ぐは!」
呼びかけられ、篭也がゆっくりと顔を上げたその瞬間、囁が突き出した右拳が、顔を上げたばかりの篭也の左頬に炸裂し、篭也が勢いよく吹き飛ばされた。
「な…え?あ…」
地面に座り込んだ篭也が、真っ赤に腫れ上がった頬を押さえながら、怒るというよりは、すっかり戸惑った様子で、目を丸くして、囁を見つめる。
「さ、ささや…」
「大丈夫」
戸惑った表情で、囁の名を呼ぼうとした篭也の声を遮り、篭也へと微笑みかける囁。
「私、心は広い方だから…そんな些細なことは、きれいサッパリ、水に流すタイプよ…」
「じゃあ、何故殴った!?」
頼もしい笑みを浮かべる囁に、殴られたばかりの篭也が思わず、勢いのいい突っ込みを入れる。
「フフフ…やっと、いつもの篭也らしくなったわね…」
「え…?」
不気味に微笑む囁に、篭也が驚いたように声を漏らす。
「囁…」
「とても単純なことよ…ねぇ、篭也」
ゆっくりとした口調で話しかけながら、囁が歩を進め、篭也のすぐ前へとやって来て、座り込んでいる篭也に視線の高さを合わせるように、しゃがみ込む。
「背いたというのなら…また、向き直ればいい…」
「……っ」
いつになく心優しい笑みを浮かべる囁に、篭也がハッとしたように目を見開く。
「もう一度、前を向いて…正面からまっすぐに、神を見ればいい…」
囁がまっすぐに篭也を見つめ、言葉を続ける。
「私は、そうしたわ…」
囁の言葉を聞きながら、篭也がそっと俯き、何やら考え込むように唇を噛み締める。
「まぁ…あなたに私と同じことを求めるのは、少し荷が重いかも知れないけれど…」
「誰がだっ」
「フフフっ…」
素早く顔を上げ、鋭く言葉を挟む篭也の、そのしかめた表情を見て、囁が嬉しそうに笑う。
「そうそう、それがあなた…」
「…………」
どこか満足そうに言う囁を見て、篭也がそっと目を細める。
「ねぇ、篭也…」
もう一度、改まって、囁が篭也の名を呼ぶ。
「あなたは、誰…?」
「え…?」
急な囁の問いかけに、篭也が思わず目を丸くする。
「あなたは神附き…“安の神”朝比奈アヒルの神附き、“加守”の神月篭也でしょう…?」
囁が確かめるように、篭也へと問いかける。
「なら、こんなところで…尻ごみしたり、落ち込んだり、している場合…?」
少し首を傾げ、囁がどこか試すように声を掛ける。
「今、私たちの神が…大きな悲しみの底で苦しんで…力を砕かれ、折れてしまいそうになってる…」
そっと目を細め、表情を曇らせる囁。
「それなのに…あなたはここで、こうして落ち込んでいるの…?あなたの役目は何…?」
囁の優しい声が、声とは裏腹にはっきりと、鋭く届く。
「ねぇ、篭也…あなたは何の為に、加守になったの…?」
「…………」
まっすぐに届くその問いかけに、俯いた篭也は、何かを決心するように、強く唇を噛み締めた。




