Word.49 神ニ、集ウ 〈1〉
――――その人は、僕のすべてを変えてくれた人だった。
「檻也様が、“お”の言葉の力にお目醒めになられたぞ!」
「まだ四歳だというのに…檻也様は天才だ!」
「偉大なる於の神の誕生を、全力で祝わねば!」
僕が五歳の時、弟が“お”の言葉の力に目醒めた。於崎の屋敷の者たちは、それはそれは弟を称え、敬った。当然のことだろう。四歳などという、まだ言葉もろくに話せないような若さで、神の力に目醒めたのだから。父が、母が、皆が喜んだ。幼き神の誕生を。
「…………」
僕以外の皆が、喜んだ。
「“俺”も“お前”も“おかえり”も、“お”のつく言葉はすべて、口にしてはなりません!」
「“お”の言葉はすべて、檻也様のもの。あなたの言葉など、たったの一つもないのです」
「あなたは、神ではないのですから、身分を弁えて下さい」
皆が弟を崇める度、皆が僕を蔑んでいった。自然に話す言葉さえ制限されて、ひどく窮屈だった。息苦しかった。何故、弟が神になったのだろう。何故、僕は神に成れなかったのだろう。何故、この世界には、“神”なんてものがあるんだろう。答えの無い疑問ばかりが、頭の中を巡った。
「お前を、この屋敷から出そうと思う」
僕が八歳になった頃、父が僕に、そう告げた。
「檻也がどうも、お前の存在を気にしているようなのだ。あやつも、次代の於の神となるため、言葉の修練を始めねばならん年。今のままでは困る」
父の告げた理由の中に、僕を気に掛ける言葉は、一つもなかった。
「お前には於崎所有の別宅を与える。従者と共に、適当に暮らせ」
僕に意見を求めることはせず、最初から決めつけるように言う父に、“嫌です”などと言うことが無駄であると、子供ながらに理解した。
「今後一切、無断で、この屋敷に近付くことは許さない。いいな?篭也」
「…………」
その時の僕に、一体、何の言葉が言えただろう。
父の言葉に従い、僕はたった一名の、もう十分に老いて、隠居も間近であろう女性の従者と共に、於崎の家を出た。与えられた別宅は、住宅街に建ち並ぶ、ごく普通の一軒家であった。
「いってらっしゃいませ、篭也さま」
「うん…」
僕は、別宅の近くにある学校へと通うことになった。於崎家に居た時は、専属の家庭教師が来て勉学などを習っていたが、今の暮らしになってからは、そういうわけにもいかないからだ。僕に付いて来てくれた従者の老婆は、屋敷の者たちとは違って、僕を蔑みはしなかったが、こんな優しい人が自分の為に屋敷を出されたのだと思うと、余計に苦しくなった。
「於崎!遊ぼうぜ!」
「僕はいい」
「いいよ。こんな奴、一緒に遊んだって楽しくないって。行こうぜ」
「あぁ、おう」
「…………」
学校でも、友達と呼べる人間は、一人も居なかった。歩み寄ろうとする気持ちが、僕にはなかった。言葉を交わして、歩み寄っていく勇気が、僕にはない。僕は、言葉を話すことに、疲れていた。
「はぁ…」
一人きりの帰り道で、何度も溜息をついた。溜息をついたところで、この胸に抱える重たい何かが、軽くならないことは知っていたが、それでも吐きださなければいられないほどに、僕の胸は重たかった。
「はぁ…」
「うっわ、また溜息」
「え…?」
上から声が降って来て、僕は戸惑いながら、地面にばかり向けていた視線を、ゆっくりと上げた。
「ダメだよぉ?若いのに、そんなに溜息ばっかりついてちゃ!」
「……っ」
顔を上げた先に立っていたのは、僕より大きな男の人。制服を着ているから、学生だろう。中学生にしては大きいから、高校生くらいだろうか。僕より長い時間を生きているであろうその男は、子供っぽい無邪気な笑顔で、僕に笑いかけた。
「知ってる?溜息ついたら、幸せって逃げちゃうんだよ?」
「……知って、るけど…」
ただの迷信だろう、と言いたかったが、その男があまりに真剣な表情で言うので、僕は言葉を呑み込んだ。
「でさ、笑ったら笑った分、幸せは来るんだって」
男が真剣な表情を、すぐに大きな笑顔へと変える。
「だから、笑おうよ。あ、そうだ!これ読んだら、きっと楽しくなるよぉ?俺のおススメ本!」
右肩に掛けた鞄の中を漁って、男が僕の目の前へと本を突き出す。
「これ!メロりんこ斉藤先生作の恋愛小説!“恋盲腸”!」
「……は…?」
やたらとキラキラとした、少女と男の描かれているその本を見せられ、僕は思わず、引きつった表情を見せた。
それが僕と、朝比奈カモメとの出会いだった……――――
先代“安の神”、阿修羅に攻め込まれたアヒルたちは、宇団、“寸守”であったスズメと、“州守”であったツバメたち等に助けられ、阿修羅たちを退けた。
だが、アヒルは、自身の言玉を砕かれ、カモメの死の真相を一人、知らなかったことを知り、篭也たちの前から去っていってしまった。
夜もすっかり更けた頃、篭也たちは、為介の家へと戻って来た。
「外傷はほとんど、為介さんに治してもらったんだけど、体力が限界のところまで落ちてたみたいで」
布団で眠る檻也を前に、紺平が檻也の状態を説明する。
「しばらくは目を覚まさないだろうって…」
「そうか…」
紺平の話を聞き、篭也が眠る檻也へと、そっと視線を落とす。篭也も相当の傷を負っていたが、それも為介により治療されていた。今は腕や足に、多少の包帯を巻いているだけである。
「空音は?」
「隣の部屋で寝てる。韻へ行って、言姫様を問い詰めるって聞かなかったから、真田さんが“催眠”を…」
「そうか…それがいいだろう。少し気持ちを、落ち着かせることが必要だ」
「うん」
篭也の言葉に、紺平も納得するように頷いた。
「あの、神月くん」
改めて紺平に呼ばれ、篭也が顔を上げる。
「ごめん、ね…その、ガァに、しゃべっちゃって…」
「……っ」
申し訳なさそうに俯く紺平に、篭也はそっと目を細め、その表情を曇らせた。
「神月くんに頼まれてたのに、俺…」
「いや、あなたのせいじゃない」
続く紺平の声を、篭也がすぐさま遮る。
「僕が悪いんだ」
「え?」
自分を責めるように呟きを落とす篭也に、紺平が眉をひそめる。
「隠していた僕が、真実から逃げていた僕が、すべて悪い」
「神月くん…」
「すべて、僕が悪いんだ…」
「あっ」
篭也がその場で立ち上がり、すぐ後ろの襖を開けて、部屋を出て行く。
「か、神月く…!」
紺平の引き止めるような声が聞こえていながらも、廊下に出た篭也はすぐに襖を閉め、紺平を遮った。閉じたばかりの襖に少し背を預け、篭也が目の前に広がる庭を見つめ、そっと目を細める。
「はぁ…」
篭也の口から、溜息は自然と、零れ落ちた。
「…………」
篭也が懐から白いハンカチを取り出し、胸の前で丁寧に、そのハンカチを開く。するとそこには、粉々に砕け散った、アヒルの言玉の残骸が乗っていた。戦いが終わり、アヒルがその場を去った後、篭也が欠片の一つひとつを、拾い集めたのである。
―――知らなかったのは、俺だけかよ…―――
「……っ」
脳裏を過ぎるアヒルの悲しげだったあの表情に、篭也はそっと目を細めた。
「笑えない…笑えないよ、カモメさん…」
空を見上げた篭也が、どこか助けを求めるように、言葉を呟く。
「篭也」
横から聞こえてくる声に、篭也が振り向く。廊下の少し先に、どこか鋭い、まるで責めるような瞳を見せた、囁が立っていた。
「囁」
「少し話、いいかしら…?」
囁の言葉に、篭也の表情がすぐさま曇る。囁の話が何であるのか、だいたいの予想がついているのだろう。
「……ああ」
短く頷くと、篭也は囁の方へと歩み寄っていった。
その頃、為介の屋敷の別の場所では、神妙な面持ちを見せた恵が、縁側から、夜空に浮かぶ、大きく欠けた月を眺めていた。遥か先の空で輝く月を、恵はどこか、焦がれるように見上げる。
「カモメ…」
月を見上げ、恵が掻き消されてしまいそうなほどに小さな声で、そっと名を呼ぶ。
「お月さまに恋焦がれてんの?」
「……っ!」
背後からやって来る声に、恵が急に警戒態勢となって身構え、険しい表情を作り、振り返る。
「恵ちゃんも結構、少女趣味なとこ、あんだねぇ~」
「スズメ…」
感心するように言いながら、奥の部屋から恵の居る縁側へと出て来たのは、スズメであった。スズメとツバメも篭也と共に、為介の家を訪れていたのである。スズメの姿を目に映し、恵がそっと眉をひそめる。
「お月さまより俺のんが近いし、輝きもいいと思わなぁ~い?恵ちゃん」
「寝惚けたこと言うな」
恵が月に背を向けたまま、縁側から立ち上がり、靴を履いて、庭へと足を下ろす。
「ちょっとしたジョークじゃ~ん。阿修羅のことで、落ち込んでるかもな恵ちゃんを励まそうとさぁ」
「私のことを気に掛ける余裕があるんなら、自分の弟を気に掛けたらどうだ?」
鋭く問いかけた恵の言葉に、少し俯いたスズメが、苦い笑みを浮かべながら、軽く頭を掻く。
「お前たちの、弟を巻き込みたくないという気持ちはわかる」
俯いたままのスズメに、まっすぐに視線を向ける恵。
「だが、あいつはもう五十音士の一人、安の神だ」
恵が瞳の光を、より強いものへと変える。
「巻き込まれずにいられるような、立場でもなければ、お前たちが守らなければならないような、弱い奴でもない」
現実をわからせるように、はっきりとした口調で、告げる恵。
「“兄の代わりに守ってやらねば”などと思っているなら、それは単なる、お前たちのエゴだ」
さらに言葉を続ける恵に、スズメの表情が曇る。
「もっと、あいつの気持ちも考えてや…」
「随分と、アヒルの肩ばっか持つんだなぁ」
恵の言葉を、今までの明るい声とは異なる、少し不機嫌そうな声で、スズメが遮った。
「なんで?アヒルの方が兄貴に似てっから?」
「……っ」
挑戦的な笑みで問いかけるスズメに、恵が大きく顔をしかめる。
「……蹴られたいか?」
「マジ勘弁!恵ちゃんの蹴り喰らったら、さすがの俺でも骨とか折れちゃうよぉ」
恵は冷え切った表情で静かに問いかけると、スズメはすぐさま明るく笑い、全力でそれを否定した。スズメの軽い口調により、張り詰めていた空気が一掃されると、恵もすぐに表情を緩め、そっと肩を落とした。
「私は家へ帰る。後は任せると、為介に伝えておけ」
「送ってってあげよっかぁ?」
「結構だ」
スズメの申し出をあっさりと断ると、恵は右足を輝かせ、言葉を使ったのか、一瞬にしてその場から消えていった。月の輝く空の下に、スズメだけが取り残される。
「やれやれぇ」
縁側でしゃがみ込んだスズメが、月を見上げ、どこか困ったように声を漏らす。
「スズメ…」
「ん?おう、ツバメ」
廊下の曲がり角の向こうから、スズメの居る縁側へと姿を現したのは、ツバメであった。木の板で出来た廊下だというのに、ツバメは足音一つ立てずに、スズメのもとへと歩み寄って来る。
「恵さんは…?」
「家帰った」
周囲を見回しながら問いかけるツバメに、スズメが短く答える。月を見上げたまま、どこか冴えない表情を見せているスズメを見て、ツバメがそっと目を細める。
「フラれた…?」
「いい感じで」
「懲りないね、スズメも…」
少し拗ねたように答えるスズメに、ツバメが思わず笑みを零す。
「あの人はまだ、兄さんの幻影を追ってるんだよ…僕らと同じように…」
「わぁってるさ」
ツバメの言葉に、吐き捨てるように答えながら、しゃがみ込んでいたスズメが月から目を離し、再びその場で立ち上がる。
「スズメ君、ツバメ君」
「んあ?」
背後から呼ばれる声に、スズメとツバメが同時に振り向く。縁側の奥の部屋の襖が開くと、そこから雅が出て来た。何やら書類のようなものを、たくさん持っている。その書類を確認しながら、雅が二人のもとへと歩み寄って来る。
「おう、雅」
「於の神が持っていた資料を見てみたら、言葉に変化が起こった人間の、行動記録が記載されていました」
声を掛けたスズメに対し、雅は話をしながら進んで来る。
「これを見ると、皆、だいたい言ノ葉町のこの辺りで、あの謎の獣に襲われ…」
「あぁー、雅」
「え…?」
説明の言葉を遮るスズメに、雅が戸惑うように顔を上げる。
「んな説明は必要ない。言葉の変化がどうのってのは、俺たちにはどうでもいい話だ」
「え…?し、しかし…」
「この件は、於の神が受けたもので…安団と於団がそれに介入しただけの話でしょう…?僕ら宇団には、何の関係もないよ…」
言葉を返そうとした雅に、ツバメがさらに言葉を投げかける。
「ですが、先程は…」
「さっきは阿修羅が相手だったから、たまたま助けただけだ」
「阿修羅が相手じゃなかったら…僕たちは、他団を助けたりなんてしないよ…」
冷たく言い放つスズメとツバメに、雅が眉をひそめ、険しい表情を作る。
「しかし、朝比奈君は…!」
「俺たちは宇団だ。安団に協力する義理はねぇ」
「僕らは僕らで、好きなようにやらせてもらうよ…」
「あぁ、恵ちゃん、家帰ったから。為介にそう、伝えといてくれ」
「あ…!」
そう言い放ち、あっさりと雅に背を向けた二人が、靴を履いて、縁側から庭へと降りて、屋敷の裏口へと歩いていってしまう。
「ま、待って下さ…!」
「いいよぉ、止めなくってぇ」
「……っ」
スズメたちを追いかけようとした雅であったが、後ろから声を掛けられ、出そうとしていた足を止め、振り返る。
「為介さん…」
その場へと現れたのは、相変わらず扇子片手の為介であった。
「確かに彼等は宇団。彼等への命令権は、宇の神にしかないわけだしぃ」
「それは、そうですけど…」
頷きながらも、まだあまり納得の出来ていない表情を見せ、雅が俯く。
「彼等には彼等の都合があるのさぁ。しばらくは、放っておいてあげよぉ」
「……為介さんは」
為介の言葉を聞き、少し間を置いた後、雅がゆっくりと口を開く。
「為介さんは、知っているのですか?彼等の神が誰なのか…」
「…………」
雅の問いかけに、為介がそっと目を細める。
「そうだね…知ってるよ、よぉく…」
頷いた為介は、どこか意味深な笑みを浮かべた。




