Word.46 訪ネビト 〈2〉
言ノ葉町、町の小さな八百屋『あさひな』。
「毎度あり!」
太い大根の入った袋と釣銭を渡し、買い物に来た主婦へと笑顔を向けるのは、紺色のエプロンを纏ったアヒルであった。頭には白いタオルを巻いており、学生というよりは、どう見ても商売人のスタイルである。
「あら、アーくん」
「ああ、おばさん。こんちはっ」
前の道を通りかかった、近くに住んでいる顔なじみの女に声を掛けられ、アヒルは軽く頭を下げた。
「お父さんのお手伝い?珍しいわねぇ」
「あぁ~、何か町内会の集まりがあってどうしてもっつーから、その間だけ」
「あら、そうなの」
アヒルの言葉に、女が納得したように頷く。
「ダメよぉ?普段からちゃんと、手伝いしないと。お父さんいっつも、息子たちが冷たいって嘆いてるんだからっ」
「アハハ…」
嘆いている父の姿が目に浮かぶようで、アヒルは思わず乾いた笑みを零した。
「じゃあ、頑張ってね」
「ありがと」
去っていく女に応えるように、軽く手を振るアヒル。
「はぁっ」
女の姿が見えなくなると、深々と肩を落とし、疲れた様子で溜息をついた。実はもっと手伝いをするよう注意されたのは、先程の女が初めてではなく、通っていくあらゆる町人が、アヒルへと小言を呟いていったのである。父はいつも、どれだけの人間に愚痴を零しているのかと、不安にすら思えた。
「たっるいなぁ~まだ帰って来ねぇのかなぁ?オヤジ」
店の奥にかかった時計を見つめ、アヒルがうんざりとした表情を見せる。
「こんな日に限って、スー兄もツー兄も帰って来ねぇし…」
「うぅん…」
「んっ?」
何やら唸るような声が聞こえてきて、時計を見ていたアヒルが、再び店頭へと視線を移す。
「ううぅん…」
アヒルが振り向くと、そこには、店の前にしゃがみ込み、店頭に並んだ野菜の一つ、トマトをじっと見つめている男の姿があった。派手な赤毛に、鋭い金色の瞳の、印象的な顔立ちの男だ。真剣にトマトを見ているその男に、アヒルは思わず顔を引きつる。
「何だ?こいつ…って、言ってちゃダメか」
すぐに引きつった顔を戻し、店頭へと出て行くアヒル。
「いらっしゃい!トマト、包みましょうか?」
「え…?」
声を掛けたアヒルに、男がゆっくりと顔を上げる。目が合うと、その金目はさらに深く思え、どこか吸いこまれてしまいそうな、そんな感覚すら起きた。
「いや、その…」
「トマトじゃなくて、ピーマンですか?」
「いや…」
ピーマンへと視線を移した男に、アヒルがさらに問いかけるが、男はすぐにまた否定する。
「えっと…道を聞きたいんだが…」
「道?ああ、どうぞ」
遠慮がちに言った男に、アヒルがすぐに快い笑顔を向ける。
「この辺りに、“あさひな”という八百屋はないか?」
「はっ?」
男の問いかけに、思わず大口を開いてしまうアヒル。
「この辺りだとは聞いていたんだが、細かい場所がよくわからなくて…」
「いや、あのっ…」
呆然とした様子で頭を掻きながら、アヒルが男へと声を掛ける。
「ここ、だけど。“あさひな”って八百屋」
「えっ?」
アヒルの言葉に、男が目を丸くする。
「ここ、八百屋なのか?」
「どう見たって、八百屋だろうが!」
「てっきりケーキ屋かと…」
「どっこの世界にトマトやピーマンのショートケーキが売ってんだよ!」
驚いた様子で問いかけてくる男に、アヒルが思わず怒鳴りあげてしまう。これだけ野菜の並んでいる店頭を見て、ケーキ屋と思う方が器用である。
「ああ、そうか。これが八百屋か」
「…………」
その場で立ち上がり、まじまじと店の全体を見回す男を見つめながら、引きつった表情を見せるアヒル。男が変わった人間であることは、もう明らかであり、瞬時にあまり関わり合いになりたくないと思ってしまったのである。
「あのぉ、折角来てもらって悪いんだけど、今、オヤジ出掛けて…」
「じゃあここが、朝比奈カモメの家か?」
「えっ?」
父が出掛けていることを理由に、とっとと男を追い払おうとしたアヒルであったが、男が口にしたその名に驚いたように目を見開き、言葉の続きを呑み込んだ。
「そう、だけど…」
「成程な。そう言われて見れば、カモメとよく似ている」
「えっ…?」
懐かしむようにアヒルを見る男に、アヒルが少し戸惑うように首を傾げる。
「お前がカモメの父親か」
「どういう目ぇ、してんだよ!どう考えたって、俺のが年下だろうが!弟だ、弟!」
「ああ、なんだ。弟か」
再び怒鳴るアヒルに、すんなりと納得して頷く男。男のあまりのマイペースに、アヒルはすっかり振り回されていた。
「ったく、で?あんたは?」
「ああ、カモメの学生時代の友達なんだ」
「友達?」
男の答えに、目を丸くするアヒル。男の見た目は、二十三、四歳。確かにカモメが生きていたら、同じくらいの年であっただろう。
「ああ。五年振りに近くまで来たもんだから、ついでに、カモメの家に寄って行こうと思ってな」
「あ…」
そっと微笑む男に、アヒルが少し気まずい表情を見せる。
「あの、そのぉ、あんたは知らないかもしれねぇけど…カー兄はその、五年前に…」
「大丈夫」
「え…?」
遮って言い放つ男に、俯いていたアヒルが顔を上げる。
「線香を持参した。焼香、させてくれないか?」
「……っ」
ポケットから線香を取り出し、穏やかに微笑む男を見つめ、アヒルはそっと目を細めた。
『用があったら、家の中まで大声で呼んでください』との看板を残し、盗まれる心配はしなかったのか、店頭の野菜たちをそのままにして、アヒルは男を家の中へと招き入れた。
「…………」
カモメの写真の飾られた仏壇の前に正座し、持って来た線香で焼香を済ませた男が、両手を合わせ、深く瞳を閉じたまま、しばらくの間、じっとしている。カモメへ祈りを捧げているのだろう。だがその時間は長く、台所で茶を淹れていたアヒルが、淹れ終わり、居間へとやって来ても、男は祈りを送り続けていた。
「……っ」
アヒルがテーブルへと湯呑を置く音が響くと、男はやっと瞳を開き、仏壇に背を向け、テーブルの横に座るアヒルの方を向いた。
「ツー兄特製の不味い麦茶しかねぇけど、良かったら」
「ああ、済まない」
目の前に差し出された湯呑を見て、男がそっと微笑む。
「随分と話し込んでたみたいだな」
「ああ…」
麦茶を一口、口にし、男が小さく頷く。
「五年振りだと、色々と話すことも多くて…済まなかったな」
「いやっ」
申し訳なさそうに言う男に、アヒルがすぐさま首を横に振る。
「友達とか来てくれんの、久し振りだったから、カー兄も嬉しかったと思うよ」
「そうか」
アヒルの言葉を聞くと、男はどこか安心したように微笑んだ。
「学生時代の友達ってことは、あんたも言ノ葉高?」
「いや、学校は違うんだ。俺はこの町からは、少し離れたところに住んでいたから」
「へっ?」
男の答えに、アヒルが首を傾げる。
「じゃあどこで、カー兄とは友達になったんだ?」
「うぅん…」
それ程、難しい問いかけではないはずだが、男は悩むように、小さく声を漏らした。
「ボランティア活動、かな」
「ボランティア活動?」
その言葉に、思わず眉をひそめるアヒル。
「んなこと、やってたっけな?カー兄」
「とても優しい男だったよ」
アヒルが深々と首を傾げる中、湯呑をテーブルの上へと戻した男が、仏壇に飾られたカモメの写真を振り返り見て、懐かしそうに話す。
「誰に対しても公平で、誰に対してもその優しさを崩さなかった」
カモメを見つめ、男がそっと目を細める。
「それなのに…いや、それだからかな、とても頑固な男で…」
男が少し、困ったように笑う。
「一度、こうと決めたら、絶対に曲げないもんだから、俺たちはよく衝突していた」
「…………」
懐かしむように話を続ける男を見て、アヒルが嬉しそうに笑みを零す。
「まぁ、今となってはいい思い出だが…」
「あんた、仲良かったんだな。カー兄と」
「えっ?」
アヒルの言葉に、戸惑うように振り向く男。
「よくわかってる…カー兄のことっ…」
「……っ」
大きく笑みを零すアヒルを見て、男がそっと目を細める。
「そうだな」
そして再び、カモメの写真の方を振り返る男。
「仲が良かった、本当に…親友だった、俺たちは…」
自分でも確かめるように、言葉を呟くその男の声は、どこか哀しく響き渡った。
「さぁて、じゃあそろそろお暇するかな」
「えっ?もう!?」
そう言ってすぐさま立ち上がる男を見上げ、アヒルが驚きの声を発する。
「お前も店番があるんだろう?邪魔して悪かったな」
「も、もう少しゆっくりしてけば、いいじゃねぇか!」
アヒルが男を追いかけるように、慌てて立ち上がる。
「もうちょっとしたらオヤジも、スー兄とツー兄…あ、俺の他の兄ちゃんとかも帰ってくるし、だから…!」
「生憎、急ぎなんだ。ここには本当についでで、寄っただけだから」
「そ、そっか…」
引き止めようとするアヒルであったが、男の言葉に仕方なく納得し、どこか残念そうに肩を落とす。男を先頭にして、居間を降り、店の前へと出る男とアヒル。
「お前のお陰で、久し振りにカモメと話すことが出来た」
振り返った男が、アヒルへと笑顔を向ける。
「ありがとう、アヒル」
「いや、いつでもまた来てくれよ!」
「……っ」
明るく言葉を返すアヒルに、男の表情が一瞬だけ曇ったが、それはまたすぐに、笑顔へと変わった。
「そうだな、また来る」
笑顔を浮かべ、しっかりと頷く男。
「じゃあ」
「あ、ちょっと待ってくれ」
引き止めて、何やら店頭へと手を伸ばすアヒルに、男が少し首を傾げる。
「これ!」
「え?」
アヒルが男へと投げ渡したのは、赤々ときれいに熟れた、一つのトマトであった。
「やるよ!土産!」
「……ありがとう」
右手の中に収まったトマトをじっと見つめた後、男が顔を上げ、アヒルへと笑顔を向ける。
「もらっていくよ」
「おうっ」
トマトを持った右手を軽くあげた後、男が背を向け、歩き出して行く様子をしばらく見つめた後、アヒルが店の方を向き、空けていた間に置いていた看板をどかせる。
「あっ」
看板を持ち上げたまま、何か思い出した様子で声をあげるアヒル。
「そういえば、あんた、名前…!あれ?」
男の名を聞き忘れたことを思い出し、すぐさま振り向いて、問いかけようとしたアヒルであったが、アヒルの振り向いた先に、すでに男の姿はなかった。長い一本道、つい先程までそこを歩いていたはずだというのに、男の姿はきれいに消えている。
「歩くの、早えぇな」
「あっれ~?アヒル~?」
「ん?」
向いていた方とは逆の方向から聞こえてくる、自分の名を呼ぶ声に、アヒルが素早く振り返る。
「スー兄!」
「何してんだぁ~?お前っ」
少し顔をしかめながら、アヒルの方へと歩み寄って来るのはスズメであった。学校のある方角とは別方向から帰って来たところを見ると、どこかへ行っていたようである。
「オヤジが町内会の集まりだっつーからさ、その間だけ店番頼まれて」
「ああ、町内会か。そりゃお疲れさん」
「えっ…!?」
軽く手を振り上げ、そのまま店の奥へと入っていってしまうスズメに、アヒルが思わず驚きの声を出す。
「ちょ…!手伝ってくれよ!スー兄!」
「やなこった。俺は今から、恋盲腸のドラマCD聞いて、ヒトミにフォーリンするんだよぉ」
「んなくだらねぇこと、やる暇があんなら、家業手伝えよ!」
「うっせぇなぁ。お前が頼まれたんだろ~?責任持って、お前がやれよっ」
抗議の声をあげるアヒルをあっさりとあしらい、スズメが靴を脱ぎ、店の奥から居間へと上がっていく。
「んあ?」
居間へと入ったスズメが、煙をあげている仏壇の線香に気付く。その線香は長く、まだ火がつけられてから真新しい。テーブルの上には、飲みかけの客用湯呑も置かれていた。
「誰か来たのか?……っ!」
疑問に思い、首を傾げていたスズメが、急にその表情を変える。部屋にかすかに残るその気配は、スズメが昔、感じたことのある気配であり、そして決して、忘れることの出来ない気配であった。
「なぁ?スー兄、晩飯のおかず一個やるから、店番代わってくんねぇ~?」
そこへ、店の方から顔を出したアヒルが、居間に立ち尽くしているスズメへと、懇願の声を向ける。
「アヒル、誰が来た?」
「へっ?」
スズメの急な問いかけに、目を丸くするアヒル。何故、スズメが客が来たことを知っているのか疑問に思ったが、テーブルに残っている湯呑を見て、アヒルがすぐに納得する。
「ああ~、カー兄の友達って人」
「兄貴の?」
「うん、カー兄とは相当、仲良かったっぽかったぜ」
聞き返したスズメに、アヒルが笑顔を見せて答える。
「けど、名前聞くの忘れちゃったんだよなぁ~まぁ、また来るっつってたし、そん時聞くかなぁ」
「…………」
アヒルの言葉を聞きながら、スズメが俯き、何やら考えるような表情を見せる。そんな様子のスズメを見て、アヒルが少し首を傾げる。
「スー兄、もしかしてあの人のこと、知ってんのか?」
「え…い、いやっ」
問いかけるアヒルに、スズメが少し慌てた様子で、否定する。
「何でもねぇ。店番、ちゃんとやれよ」
「ええぇ~!?」
不満げに声をあげるアヒルに背を向け、足早に居間を出て、階段を上り、二階へと行くスズメ。
「まさか、な…」
そう呟きつつも、どこか不安げな表情を見せるスズメであった。
「はぁ…!はぁ…!はぁ…!」
夜の暗闇の中、人気のない道を必死に逃げる一人の男。時折照らされるライトを眩しく光返すスキンヘッドに、何故か前髪だけを生やした不思議な髪型。真っ赤な学ランに蝶ネクタイとしたその男は、ひどく怯えた表情を見せ、後方をうかがうように、何度も何度も振り返る。
「うっ…!」
振り返った男の表情が、急に強張った。
「グウゥゥゥ…」
後方から唸り声をあげ、男の方へとゆっくりと歩み寄って来るのは、全身金色の輝く、鋭い紫目の、謎の獣。ライオンや豹のようにも見えるが、背中からは金色の羽根が生えており、人がよく知る動物の姿はしていない。
「う、うあ…!来るな!来るなぁ…!」
「グアアアアア!」
「う…!うあああああ…!!」
男の凄惨な叫び声が、夜の闇にこだました。




