Word.45 波紋 〈1〉
――――孤独でいることが嫌で、存在することが嫌で、人のように儚く消えて無くなれるのかと、左胸を突き刺してみた。
でも、消えて無くなれなかった。
―――痛い…痛い…―――
いつもの声が頭の中に響けば、すぐに貫いたはずの胸の大穴は埋まった。
喉を引き裂いても、腹を抉っても、“痛い”の声に、俺の体は逆に癒えていく。
消えてしまいたいのに、無くなってしまいたいのに、死ねない。
どんなに足掻いても、死ねない。
痛い。存在し続けることが、痛い。
「うっ…うううぅ…!」
ただ、声を枯らせて、泣いた……――――
「ああ…そうか…」
激しくぶつかり合う二つの力により、周囲に巻き起こる嵐のような強い風。その風に吹かれながら、過去を思い出した伍黄は、懐かしむようにそっと目を細めた。
「俺の、俺の望みは…“痛み”の消滅でも、言葉の消滅でもなかった…」
やがて伍黄の放った黒い光の塊が、アヒルの放った赤と金の強烈な光に呑み込まれ、消えていく。
「俺の望みは…俺自身の、消滅っ…」
伍黄の光を破ったアヒルの光が、伍黄へと迫る。
「……っ」
目の前の光を確かめると、伍黄はそっと、その瞳を伏せた。
――――………………!
強い強い、どこまでも響きそうなほどに強い音が一瞬だけ聞こえ、すぐに止む。
アヒルと伍黄、二人が互いに残っているすべての力を集約し、ぶつけ合った二つの巨大な光も、あれだけの光を放っていたというのに、今はどちらも一片の欠片の残っていない。巻き起こされた強風も、すっかり収まり、崩れかけのその空間には、静けさが漂っていた。長い長い戦いの、終わりを告げるような、そんな静けさである。
「はぁ…はぁ…」
右手に構えていた銃を下ろし、アヒルが上空からゆっくりと地面へと降りる。
「う、うぅ…」
地面に足を着けると、アヒルはすぐに左肩を抱え込むようにして、身を屈めた。激しく負った傷からは、まだ赤い血が流れ落ちている。
「あ…あぁ…」
「……?」
前方から聞こえてくる、声にならない声に気付き、アヒルが少し顔を上げる。
「あぁ…ぁ…」
取り込んでいた忌の力がすべて消え失せたのか、背中の刃も、爪も牙も無くなり、黒い肌ではなくもとの人の肌色に戻った伍黄が、力なく地面に倒れ込んだ。
「忌の気配が…消えてる…」
倒れ込んだその者から、忌の気配は感じられない。恐らく、もうその男は伍黄ではなく、伍黄の支配から逃れ、也守の刃に戻ったのであろう。
「あいつっ…あいつは…?」
刃の体から抜け出ているはずの伍黄の姿を探し、アヒルが周囲を見回す。
<グゥ…ウゥっ…>
「あっ…」
漏れるように聞こえてくる禍々しい声に、振り向いたアヒルが眉をひそめる。
<ウウゥ…ウ…>
刃から少し離れた地面に、這いつくばるように伏せている、黒い影の塊。それは、刃の体から出た伍黄の、本来の姿なのだろう。その体は少し溶けるように崩れており、見るも無残な姿であった。
<ア…アァ…ウゥ…ウ…>
「伍黄…」
最早、言葉にもならないのであろう、細かく途切れた声を発する伍黄のその姿を見て、アヒルがそっと目を細める。
「……っ」
どこか意を決したような表情を見せ、アヒルが右手の銃の銃口を、もう動くことも出来ないであろう伍黄へと向けた。
「“当た…」
「……っ」
「えっ…?」
アヒルが言葉を発しようとしたその時、アヒルの銃の上に、銃を下ろすように、一本の手が乗って来た。
「灰示っ…」
「…………」
その手は、真剣な表情を見せた灰示のものであった。
「お前、なんっ…あっ」
アヒルが問いかける間もなく、灰示はアヒルの銃から手を離し、傷だらけの両足をゆっくりと動かして、伍黄のもとへと歩いていく。灰示のその様子を見つめ、アヒルは一瞬、どこか悲しげに目を細めた後、銃を持つ右手を下ろした。
「イツキ…」
<ウ…ウゥ…>
倒れている伍黄のすぐ横に座り込み、伍黄へと呼びかける灰示。灰示のその声に反応し、伍黄が顔と思われる部分を、かすかに上げる。中央に輝く二つの赤い瞳は、今は弱々しく瞬いていた。
<ハイ、ジ…>
力ない声が、懐かしそうに灰示の名を呼ぶ。
<俺が…この俺が、負けるとは…思っても、みなかったよ…>
赤い瞳が少し細まり、ただの黒い影の伍黄が、どこか微笑んでいるように見える。
<“痛み”を…生むばかりだと、思っていたが…>
伍黄が視線を落とし、徐々に消え始めている自分の体を見つめる。
<“痛み”を…消し去る言葉も、あるんだな…>
禍々しかったその声は、今はとても、穏やかに響いていた。
<初めて…知った…>
「うん…」
ゆっくりと零れ落ちる言葉を、受け止めるように、灰示が頷く。
「僕も、知らなかったよ…」
―――君も…“痛い”の…?―――
今までの痛みを拾いあげるように、掛けられた言葉。
「つい、この前までは…」
<そう、か…>
今までのように、灰示の言葉を批判することはなく、伍黄は納得した様子で頷く。
<ハイ、ジ…ハイジ…>
伍黄が弱り切った声で、必死に灰示へと呼びかける。
「何だい?イツキ…」
その呼びかけに、灰示は優しく応じた。
<声が…あの声が、聞こえないんだ…>
少し戸惑うように発せられる、伍黄の声。
<一瞬も止まることなく、聞こえていたのに…あんなに強く、頭の中に…響いていたのに…>
伍黄の心の中の戸惑いを表すように、赤い瞳が左右に揺れる。
<今はもう…こんなに、静かだ…>
「うん」
頷きながら、灰示がそっと目を細める。
「うん…」
もう一度頷きながら、灰示が地面に力なく放り出されている、伍黄の手を取る。その手は溶けるように消え始めており、灰示はすくい上げるように持ち上げ、自分の手でそっと包み込んだ。
「静かに、眠るといい…」
灰示が伍黄の手を握る手とは別の手に、一本の赤い針を構える。
「おやすみ、イツキ…」
穏やかな笑みを浮かべると、灰示は包み込んだ伍黄の手に、構えたその針の先を、優しく、決して痛くないように優しく、突き刺した。
「“果てろ”」
灰示が静かに、言葉を落とす。
<……っ>
針から放たれる赤い光を見つめながら、灰示の言葉を聞き届け、伍黄はゆっくりとその瞳を閉じた。
―――パァァァン!
針から発せられた赤い光に包まれると、伍黄の黒い影の体は、高い音を響かせた弾け飛んだ。宙を舞う水粒のような黒い欠片が、引き寄せられるように空へと舞い上がり、そして、消えていく。
「…………」
その場に立ち上がり、その欠片を見送る灰示。
「灰示…」
アヒルが灰示の後方へと歩み寄り、上方を見上げる灰示へと呼びかける。
「ただの、“痛み”の塊だから…かな…」
「えっ?」
背中の向こうから聞こえてくる灰示の声に、アヒルが少し首を傾げる。
「こういう時…どうしたらいいのか、よくわからないんだ…」
「……っ」
聞こえてくるその言葉に、アヒルがそっと目を細める。
「祈ってやれよ」
「えっ…?」
返って来る答えに、灰示が少しだけ後ろを向く。
「あいつが…今度こそゆっくり、眠れるように…祈ってやれよ」
「……そうか…」
アヒルからの言葉を受け、灰示が再び、上を見上げる。
「…………」
そのまま目を伏せ、しばらくの間、立ち尽くす灰示。数秒の時が経つと、灰示はまた、その赤い瞳を開いた。もう、黒い欠片は一粒もなく、すべて消えてしまっている。
「神に…」
上を見上げたまま、灰示がゆっくりと口を開く。
「神に祈るのなんて、生まれて初めてだ…」
「そうか…」
そう言った灰示の背を見つめながら、アヒルは小さく笑みを零す。
「安の神様…」
「ん?」
背を向けたままの灰示に呼ばれ、少し首を傾げるアヒル。
「一応、礼は言っておくよ」
素っ気ない声が、アヒルへと届く。
「ありがとう…」
「……っ」
灰示から届けられるその言葉に、アヒルはより一層深く、笑みを浮かべた。
「ああ…」
小さな礼を受け止めるように、アヒルはしっかりと頷いた。
「んあっ?」
何やら重く響く音が聞こえ、アヒルが不思議そうに顔を上げる。崩れ始めていた天井や壁のあらゆるところから、大きなヒビが入り始め、アヒルたちの居る空間は、本格的に崩れ始めていた。
「やっべ!マジ崩れが来てんぞ!」
どんどんと崩れ落ちて来る天井を見上げ、焦ったように声をあげるアヒル。
「やべぇぞ!灰示!急いでここをっ…!」
「んん~、こんな年中、寝惚けっぱなしの俺が眠っちゃって、すみませぇ~んっ」
「ええ!?もう交代してるぅ!?」
灰示が先程まで立っていた場所に横たわり、気持ち良さそうに眠っている保の姿に、アヒルが勢いよく驚く。
「ええぇっと…あぁ!あいつも居るし…!」
少し離れたところで倒れている刃の方を振り向き、焦ったように頭を掻くアヒル。
「とにかく、ガァスケで…!ううぅ…!」
銃をガァスケの姿へと変えようとしたその時、アヒルの全身に激しい痛みが走り、アヒルが思わずその場に膝をついてしまう。
「やべっ…もう力が…」
アヒルが力なく声を発すると、右手の銃が赤い言玉へと戻ってしまう。
「ク、っソ…」
「情けない声を出すな」
「……っ」
すぐ目の前から聞こえてくる、聞き覚えのあるその声に、アヒルがパッと目を見開く。
「諦めないことが、あなたの唯一の取柄だろう?」
「か…篭也!」
アヒルのすぐ前に立ち、手を差し伸べる篭也の姿に、アヒルが思わず嬉しそうな笑みを零す。
「悪りぃ、マジ助かった」
「あのバカだけに、神を任せてはおけないからな」
篭也が肩を貸し、アヒルがその場で立ち上がる。
「刃…!」
「弓?」
倒れている刃のもとへと駆け込んでいく弓に気付き、アヒルが振り向く。
「戻ったのかっ」
「手当ても会話も、全部後回しにして!」
アヒルがホッとしたように笑みを浮かべていると、唸り始めた崩壊音の隙間から、高らかと声が響いた。
「ザべス!」
「エリザよ!とにかく、この場から脱出するわよ!」
眠りこけている保を背負い、勇ましく声をあげたエリザが、緑色に輝く右足を勢いよく振り上げる。
「“描け”…!!」
エリザの振り切った足から放たれた強い光が、崩れゆく真っ黒な壁に、大穴をあけた。
「あっ」
まだ日の昇っていない暗い朝空の下、広がる森の向こうを見つめ、紺平が何か気付いたような表情を見せる。果てしなく広がる森の光景の一部に、大きなヒビが入り、そこから無数のヒビが空へ、地面へと走っていくと、割れた景色の向こうに、黒い影の塊のようなものが見えた。
「あれは…」
「アジトに張り巡らされていた結界が、壊れたのね…」
「結界がっ?」
冷静に言い放つ囁の言葉に、紺平が素早く振り向く。
「もうすぐ、アジトも崩れ落ちるわよ…」
「えっ!?じゃあ、ガァたちは!?」
「フフフ…生き埋めかしら…?」
「ええぇっ!?」
囁が不気味に微笑むと、紺平が焦ったように声をあげる。
「ど、どうしよう!?早く、助けに行かないとっ…!」
「落ち着け」
慌てふためく紺平に、檻也が短く声を掛ける。
「落ち着いてられるわけないよ!だってガァたちが…!」
「あれを見ろ」
「へっ?」
前方を指差す檻也に、紺平が言葉を止め、檻也の指の先へと視線を移す。
「あっ…!」
その瞬間、大きく目を見開く紺平。
「ったく、アヒルと戦うといっつも最後、こんな感じねぇっ」
「全部、俺のせいみたいに言うなよ、ザべス」
「エリザよ!」
あれこれと言い合いながら、紺平たちの居る方へと歩いてくるのは、アヒルとエリザ。アヒルに肩を貸している篭也や、エリザに背負われた保、そして刃を背負った弓の姿もある。
「ガァ!」
「アヒるん…」
紺平と囁が思わずその場を飛び出し、歩いてくるアヒルの方へと駆け出していく。
「大丈夫?ガァ」
「おお、紺平。お前も来てたのか」
紺平が篭也とは逆側に肩を貸し、アヒルを支えると、アヒルは紺平へと笑顔を向けた。
「フフフ…地獄の底からこんばんは…アヒるん…」
「おお、お前も無事みたいだな…囁…」
不気味な笑みを向けてくる囁に、アヒルはすぐに表情を引きつる。
「はぁ!」
背負っていた保を地面へと下ろし、その場にしゃがみ込んで、一息つくエリザ。
「ったく、足止めして散々疲れてる私を、よくもまぁ、更に疲れさせてくれたものよねぇっ」
「足止めしかしていないから、体力は有り余ってるんじゃなかったのか…?衣の神…」
自由気ままな物言いを見せるエリザに、呆れたように言葉を投げかけながら、檻也も皆のもとへと歩み寄って来る。
「奈々瀬、あのバカの治療を頼む」
「あ…うん…」
「……?」
篭也に言われ、ゆっくりとした足取りで皆のもとへとやって来て、地面で眠る保へと両手を差し伸べる七架の様子を見て、アヒルが少し首を傾げる。アヒルたちが無事に帰って来たというのに、七架は笑顔一つ見せず、淡々と保の治療を始めている。
「奈々、瀬…?」
そんな七架の様子を見つめ、首を傾げるアヒル。
「刃…!刃っ…!」
「……っ」
後方から聞こえてくる声により、七架へと向けられていたアヒルの注意は、すぐに動かされる。
「刃…!!」
アヒルたちの少し後方では、地面に座り込んだ弓が、両手に抱えるようにして横たわらせた刃に向かい、必死の呼びかけを行っていた。
「神…」
「大丈夫だ」
不安げに振り向く篭也に、アヒルはすぐさま笑顔を見せる。
「刃っ…!」
「ん…」
「刃!?」
薄く開かれた刃の口から、わずかに漏れる小さな声。その声を逃さず耳に入れた弓は、さらに声の音量をあげ、刃の名を呼んだ。
「ゆ…み…?」
刃がゆっくりとその瞳を開き、すぐに視界に入った弓の名を、そっと呟く。開かれたその瞳は、忌の真っ赤ではなく、透き通った青色をしていた。
「刃…!刃っ…!」
「弓…?」
両目から涙を溢れさせた弓が、倒れたままの刃の首元へと、強く両腕を回し、抱き締める。
「俺は…一体…」
泣きじゃくる弓を見つめながら、刃は戸惑うような表情を見せた。
「ふぅ」
「何とかなったわね…フフ…」
刃と弓の様子を眺め、篭也と囁が、どこかホッとしたように胸を撫で下ろす。
「……っ」
始忌から解放された刃と弓、二人の姿を確認し、安心した笑顔を見せるアヒルであったが、刃のその姿に、伍黄がもうここには居ないことを思い知らされるようで、そっとその瞳を細めた。
「あ、そういやもう一人の鎧とかって奴は?助けられたのか?」
「与守は、ここには居なかった」
「へっ?居ない?」
「また戻ったら、説明する…」
アヒルへ答えながら、篭也は厳しい表情を見せた。
「見ろ」
『……っ』
檻也の声に、皆が一斉に後方を振り返る。
「始忌のアジトが、完全に崩れ落ちるぞ」
まるで、その檻也の言葉を合図にするかのように、割れた景色の向こうから見えた、黒い忌たちの塊であるアジトは、大きな音を立てて爆発した。爆発が次の爆発を呼び、吹き荒れる風の中に、アジトの姿は完全に消えてなくなっていった。
「終わったな」
「いや…」
「えっ…?」
すぐさま否定するように声を発する篭也に、檻也が眉をひそめる。
「終わりじゃない」
「そうね…」
篭也の言葉に頷くように、エリザが続く。
「例え彼等が消えても、この世界に“痛み”がある限り、忌はまた生まれる…生まれ続ける…」
アジトが消え去り、ヒビも無くなった景色を眺めながら、エリザがどこか遠くを見るような瞳を見せる。
「私たち五十音士が、本当に戦わなきゃいけないのは…忌ではなく、言葉に潜む、“痛み”の方なのかも知れないわね…」
「ああ…」
エリザの言葉に、アヒルが深く頷く。
「そうだな…」
アヒルの声が風に乗り、空へと舞い上がった。消えていった始忌たちのその後を、追いかけるように。
こうして、アヒルたち五十音士と、始忌との戦いが終わった。
たくさんの、大きな波紋を残して……。




