Word.44 痛ミノ果テ 〈3〉
「うううぅ…うっ…」
激しく傷を負っているわけでもないというのに、床に小さく蹲り、苦しげな声を発しているアヒル。
「どうだ?言葉の神」
蹲っているアヒルへと、伍黄が問いかける。
「それが、“痛み”だ」
「……っ」
強調される言葉に、俯くアヒルの表情がかすかに動く。
「俺が何百年と浴び続けて来た“痛み”…お前たち人間の生み出し続けて来た、無限の“痛み”…」
言葉を続ける伍黄の表情は、どこか哀しみを帯びていた。
「少しは理解出来たか?俺の苦しみが」
自分を指し示すように、伍黄が左手で自分の胸に触れる。
「少しは理解出来たか?言葉を消そうという俺の望みが」
胸に触れた手は、またゆっくりと落ちていく。
「わからないだろうなぁ…一度や二度、その“痛み”を浴びた程度では…」
「…………」
どこか諦めるように呟く伍黄のその言葉を、保が真剣な、そして厳しい表情で聞き続ける。灰示の痛みを背負うと誓った保は、伍黄の言葉から目を逸らすわけにはいかなかった。
「そうだ…誰にもわかるはずなどない…この痛みも、この苦しみも…」
落とした左手をあげ、伍黄がまじまじと見つめる。
「誰にも…伝わりなどしないっ…」
「……っ」
諦めるように落とされるその声に、俯いているアヒルの頭が動く。
「さぁ、もう一度浴びろ」
伍黄が左手を刀の柄に戻し、再び刀を構える。
「そして、死ね」
冷たい言葉が、吐き捨てられる。
「“焼き尽くせ”…!」
振り切られた刀から炎が放たれ、炎が忌を巻き込んで黒色に染まり、アヒルへと向かっていく。
「ああっ…!」
目を口を、必死に見開き、何とかしようともがく保。だが先程、アヒルを助けた時に力を使いきってしまった保には、どうすることも出来なかった。
「アヒルさんっ…アヒルさん…!」
保の必死の呼びかけが、まるで助けを求めるように響き渡る。
「う、うぅっ…!」
アヒルが強く歯を食いしばり、床に両手を押しつけるようにして、上半身を起こし、その起こした勢いを味方につけ、その場で立ち上がる。
「まだ立ち上がる力があるか…」
立ち上がったアヒルを見つめ、感心するように微笑む伍黄。
「だがお前がどう攻撃したところで、その力が更なる“痛み”を生むだけで…」
「……っ」
「何っ…!?」
立ち上がったアヒルは、まるで受け入れ態勢を取るように、大きく両手を広げ、避けようともせずに、向かってくる伍黄の力を待ち構えた。そんなアヒルの姿に、伍黄が一気に驚きの表情となる。
「馬鹿な…!何を…!」
「ううぅ…!」
伍黄が戸惑う中、アヒルが黒々とした炎を、真正面から浴びる。
「うっ…!」
体に吸収されるようにして炎が消えた途端、アヒルが大きく目を見開いた。
「うああああああっ…!!」
炎から痛みが伝わったのか、アヒルがまたしても激しい叫び声をあげる。
「ううぅ…うっ…」
「な、何をっ…」
力なく膝をつき、再び蹲ったアヒルを見つめ、伍黄が戸惑うような表情を見せる。少し詰まったその声は、あまりの動揺に、震えているようであった。
「何のつもりだ!?気でも触れたか!?言葉の神…!」
「……っ」
ひどく困惑した様子で問いかける伍黄に、苦しげに自分の体を抱いていたアヒルが、そっと口を開く。
「わ、っかんねぇー…からっ…」
「何…?」
アヒルから返って来る小さな声に、伍黄が耳を傾ける。
「お前の言う通り…お前のこと、全然わっかんねぇー…」
戸惑う伍黄へ、アヒルがさらに言葉を続ける。
「お前の言う…お前の痛みとか苦しみってのが、全然わからねぇから…」
痛みを堪えた声が、辺りに響く。
「喰らえば、ちったぁ…わかるもんかと思って…」
「だから…だから、もう一度わざと、痛みを浴びたというのか…?」
アヒルの言葉を聞いた伍黄は、聞く前よりももっと、困惑した表情を作る。
「フザけたマネをっ…!言っただろう!?一度や二度、痛みを浴びたくらいでは、俺の痛みはっ…!」
「ああ。でもっ…」
伍黄の声を遮り、アヒルがゆっくりと顔を上げる。
「この痛みが、お前の言葉の代わりだってんならっ…」
顔を上げたアヒルが、まっすぐに伍黄を見つめる。
―――誰にも…伝わりなどしないっ…―――
「それでも…お前が、伝えようとしてんならっ…」
突き刺すように、伍黄を捉える瞳。
「俺はそれを、受け止めてぇ…!」
「……っ!」
力強く放たれるアヒルの言葉に、伍黄が大きく目を見開く。
「何、をっ…」
さらに震える、伍黄の声。
「フザけたことを抜かすなよ!言葉の神ごときがぁ…!」
怒りをブチ撒けるように叫びながら、伍黄が勢いよく刀を振り上げる。
「“焼け”!“焼け”!“焼き尽くせ”ぇぇっ…!!」
伍黄が右方へ左方へ、上へ下へと振り回し、膝をついたままのアヒルへと、何度も何度も、少しの間を置くこともなく、黒炎を放ち続けた。放たれたいくつもの黒炎は、互いに合わさり、アヒルの周囲を取り囲むようにして炎上して、アヒルの姿を隠してしまう。
「ああ…あっ…」
燃え上がる黒い炎を、不安げな表情で見つめる保。
「フハハハハハっ…!」
燃え上がる炎を崇めるように両手を振り上げ、伍黄が高らかと笑い声をあげる。
「どうだ!?どうだぁ!?言葉の神っ…!」
炎の中で、姿の見えないアヒルへ向け、伍黄が大きな声で問いかける。
「受け止められるかぁ!?神!所詮は人間であるお前に、俺のこの痛みがぁ…!」
伍黄の言葉が響く中、徐々に黒炎が収まり、中に居るアヒルの姿が明らかになってくる。
「か…カハっ…」
炎の中から姿を現したのは、膝をついたままの状態で、全身に火傷を作ったアヒル。アヒルが小さく咳を零すと、その口から赤い血が吐き出された。先程のように叫び声を発していないのは恐らく、あげないのではなく、あげる力もないのであろう。
「受け止められるはずがない…!」
アヒルの姿を捉えた伍黄は、さらにその声を大きくした。
「俺の、この俺の痛みは、誰にも、この世界の誰一人にも、受け止めることなどっ…!」
「……っ」
「なっ…!?」
ボロボロの体ながら、痙攣する両腕をゆっくりと広げ、またしても受け入れるような態勢を取ってみせるアヒルに、伍黄が眼球が飛び出しそうなほどに、目を見開く。
「何、を…何をっ…」
「…………」
戸惑う伍黄を、アヒルは目を逸らすことなく、まっすぐに見つめる。
「止めろ…止めろっ…!」
まるで願うように、伍黄が言葉を繰り返す。
「“止めろ”ぉぉぉっ…!!」
「ううぅ…!」
叫びあげる伍黄の全身から、強い衝撃波のようなものが放たれ、両手を広げる態勢を取っていたアヒルが、勢いよく後方へと吹き飛ばされる。飛ばされたアヒルは、そのままバランスを崩し、力なく地面へと倒れ込んだ。
「ううぅ…」
「何故、だ…?」
アヒルが苦しげに声を漏らしながら、必死に体を起こそうとする中、伍黄が戸惑いの心を声にして発する。
「何故だ…!何故、そうまでしてっ…!」
「これが…お前が何百年って長い時間、浴び続けてきた痛みか…?」
「……っ」
逆に問うように声を返してくるアヒルに、伍黄が自らの言葉を呑み込む。
「痛てぇなぁ…死ぬほど、痛てぇ…」
全身に走る痛みを確かめるように、アヒルが痙攣する両手で、自分の体の色んな部分に触れていく。
「けど、悪りぃ」
アヒルの口元が、そっと緩む。
「どんなに痛くても、後何回、この痛みを浴びても…やっぱ俺、言葉を全部消してやろうなんて、思えない」
痛みに引きつった笑顔を見せながらも、アヒルがはっきりと言い放つ。
「この世界に言葉が無かったら…きっと、今、俺の周りには、誰も居なかった…」
体を起き上がらせながら、アヒルが必死に言葉を続ける。
―――これが、あなたのやり方だろう?―――
―――俺だって、アヒルさんの力になりたいですから!―――
「言葉があったから…言葉でわかり合って来たから…今、俺の周りには、たくさんの仲間が居るっ…」
アヒルが噛み締めるように言葉を発し、床につけた右手を固く握り締める。
「言葉が、言葉がくれるっ…」
―――アーくぅ~ん!必殺レタスミサイルぅぅ~!―――
―――おはよう、ガァ!―――
―――何だぁ?今日は遅刻じゃないのか。珍しいなぁ、トンビっ―――
「当たり前のやり取りが、何気ない挨拶が、些細な言葉がっ…俺に、幸せをくれる…」
握り締めた拳を、左胸へと当てるアヒル。
―――きょ、今日も絶好の、焼きそばパン日和だね!朝比奈くん!―――
―――私が地獄まで附いていってあげる…フフフっ…―――
「嬉しいも、楽しいも…たくさんくれるっ…」
アヒルの顔から、笑顔が零れ落ちる。
「だから…どんなに痛くても…俺はっ…」
笑顔を止め、鋭い瞳を伍黄へと向けるアヒル。
「言葉を無くす方が、もっと痛いっ…!」
「……っ!」
放たれるアヒルの言葉に、大きく目を見開く伍黄。
「違うっ…違う違う違う!」
伍黄は両手で頭を抱え、ひどく混乱した様子で、必死に否定するように強く、何度も何度も首を横に振る。
「俺は…!俺はぁぁぁっ…!!」
≪グアアアアア…!≫
「あっ…」
伍黄の苦しい叫び声に呼応するように、天井や壁を形成していた忌たちも一斉に呻き声をあげていく。次々と新たな個体を生み出していた忌も、その活動を止め、力なく掻き消えていく。
「これは…」
消えていく忌に部屋が開け、徐々にその空間が広くなっていく。その様子を見つめながら、保はそっと目を細めた。
「アヒルさんの言葉が…痛みの連鎖を、止めていく…」
地獄の終わりのような光景を見つめ、保は感慨深い表情を見せる。
「止めろ…!止めろ!俺はこんな…!」
忌たちが掻き消えていく中、伍黄はさらに苦しげに、深く深く頭を抱える。
「俺はこんなことはっ…望んでいない…!」
自分に言い聞かせるように、必死に、その主張を続ける伍黄。
「俺の…俺の痛みがっ…」
―――ここは、どこ…?―――
生まれたその時から、たったの一人きりだった。
―――何?この声っ…―――
自然と耳に入って来る、無数の“痛い”と言う声に、ただ肩を震わせた。
―――誰か…!誰かいないの!?ねぇっ…!―――
助けを求めても、周りには一人の味方も居なかった。
―――怖いよっ…怖いよぉ…!ねぇ…!―――
届く“痛み”に、ただ怯え続けた。
「あの、俺の痛みがっ…」
数百年以上昔の時を思い出し、伍黄がきつく唇を噛み締める。
「こんなに簡単にっ、掻き消されて、たまるかぁぁっ…!!」
「うううぅっ…!」
伍黄の全身から、またしても強烈な衝撃波が放たれ、アヒルが身を屈め、何とかその場所で堪える。まるで嵐でも発生したかのように、辺りに強い風が吹き荒れ始める。
「これは…あっ!」
戸惑うように周囲を見回していた保が、何かに気付いた様子で目を見開く。
≪グアアアアア…!≫
天井や壁を形成していた忌が、次々とその形を崩し、忌本来の形になったかと思うと、その吹き荒れる風に巻き込まれ、伍黄の体へと吸収されていく。
「な、何をっ…!」
その光景に、思わず声をあげる保。
「やめて下さい…!それ以上やれば、あなたがっ…!」
「五月蝿い!」
「……っ!」
保の必死の呼びかけは、伍黄の強い怒鳴り声で止められてしまう。
「お前に、お前らに何がわかる…」
忌を吸収し続けながら、伍黄がまるで、怒りに震えたような声を発する。
「“痛み”も聞こえぬ人間のお前らに…たかが十数年しか生きていないお前らにっ…」
伍黄の手が、血が滲みそうなほど、強く握り締められる。
「俺の痛みが、わかってたまるかぁぁっ…!!」
「ううぅ…!」
再び放たれる衝撃波に、保が背中を壁へと押しつけられる。
「すべての忌よ、すべての“痛み”よ…俺にっ…“宿れ”…!!」
≪グアアアアアア…!!≫
伍黄の言葉を合図に、風に乗り、周囲を舞う忌が、一斉に伍黄のもとへと飛び込んでいく。
「うあああああああっ…!!」
さらに多くの忌を吸収し始め、全身から黒色の光を放ちながら、激しく荒々しく、そしてどこか痛々しい叫び声をあげる伍黄。
「伍黄、さん…」
叫び続ける伍黄を、その凄惨な光景を、保が圧倒されたような表情で見つめる。
「灰示…伍黄さんが…」
友のあのような姿を見て、もう一人の自分は、どう思うのであろう。
「伍黄さんがっ…」
止めたくても、どうすることも出来ない今の自分に、保はただ、もどかしい気持ちを抱いた。




