Word.44 痛ミノ果テ 〈2〉
「す、凄い…」
目の前で繰り広げられる戦闘を見つめ、保が圧倒されたような表情を見せる。
「神試験の時とは…比べものにならない…」
今はしっかりと開かれた瞳で、保はまっすぐにアヒルを捉える。
「本当に強くなった…アヒルさん…」
「ふぅ~っ」
保が見つめる中、銃を持った手を振り下ろし、一息つくように長く息を吐くアヒル。息を吐き切ったアヒルがゆっくりと顔を上げ、吹き飛んでいった伍黄へと視線を送る。
「うっ…ううぅ…」
床に倒れ込んでいた伍黄が、重い体を引きずるようにして起き上がる。その右手は、先程の炎と嵐に巻き込まれたのか、ひどく傷つき、だらりとぶら下がり落ちていた。握られていた刀も、力なく床に放り出されている。
「ハァ…ハァ…」
完全に体を起こし、前方に立つアヒルを見やる伍黄。その呼吸は苦しそうに、乱れていた。
「確かに強い…さすがは五十音士の頂点に立つ者だ、言葉の神…」
「……っ」
苦しげに表情を歪ませたまま、口元を緩め、笑みを浮かべる伍黄の姿を見つめ、アヒルが険しい表情で、目を細める。
「その手じゃもう、刀は振れねぇ」
アヒルが細めた瞳で、伍黄を見つめる。
「お前は、もうっ…」
「フフフフフ…ハハハハハハっ…!」
「へっ?」
突然、笑い出す伍黄に、アヒルが戸惑うように首を傾げる。
「この程度の傷を負わせたくらいで、もう勝った気か?言葉の神よ」
歪んだ笑顔を見せ、伍黄がアヒルへと語りかける。
「忘れたか?俺たちは忌…痛みより生まれ、痛みによりその強さを増す生き物っ…」
「何…?」
<痛い…痛い…>
「……っ!」
伍黄の言葉に表情を曇らせていたアヒルが、周囲から漏れてくる、どこか禍々しい、重く響く声を耳に入れ、目を見開いて、回し見る。
≪痛い…痛い…≫
「こ、これは…」
どんどんと重なり、響きあっていくその声に、保も顔を上げ、困惑した表情を見せる。壁から床から天井から、その部屋のすべてから漏れ出してくる声。その声は、アヒルたちのよく知る、忌の声そのものであった。
「ま、まさか…」
「そう…」
アヒルの声に頷きかけながら、伍黄が冷たく微笑む。
「このアジト内の部屋、廊下、すべての空間は、忌で出来ている…」
「忌で…?」
「そんな…」
伍黄の言葉に、驚きの表情を見せるアヒルと保。その間にも、壁や床や天井は、重なり合って一つの“痛い”という言葉を口にする。四方八方、すべての方角から攻め立てられているような、そんな感覚を覚えた。
「そして…」
さらに口を開いた伍黄が、力なく垂れ下がった右腕を、床へとつける。
「“養え”…」
≪グアアアアア…!≫
「なっ…!」
伍黄が言葉を放つと、床から数匹の忌が飛び出し、吸収されるようにして伍黄の右腕へと取り込まれていく。忌を取り込むと、伍黄の右腕が見る見る内に再生され、力を取り戻したのか、強く握り締められた。
「傷がっ…」
「この通り、俺は消えない」
再生させた右腕を振り上げ、伍黄が楽しげに笑う。
「この世界に痛みがある限り、言葉がある限り…俺は決して、負けはしない…!」
「うっ…!」
素早く床の刀を拾い、伍黄がアヒルのもとへと飛び出してくる。
「“焼け”!」
「“当たれ”…!」
アヒルへと駆けこんでいきながら、刀を振るい、炎の塊をアヒルへと向ける伍黄。アヒルはその炎を迎え撃つべく、素早く銃を構えて、光の弾丸を炎へと放つ。二人の中央でぶつかり合う二つの力は、先程は相殺したというのに、今度は炎が勢いよく弾丸を押し出した。
「あっ…!」
弾き出される弾丸に、アヒルが驚きの表情を見せる。
「力が、増してる…?ク…!“上がれ”!」
弾丸を圧倒してやって来る炎に、アヒルは戸惑いながらも立ち尽くしているわけにもいかず、すぐに自分へと次の弾丸を放って、上空へと飛び上がった。
≪痛い…痛い…≫
「何っ!?」
上空へと舞い上がったアヒルを、天井から抜け出るようにその姿を現した数匹の忌が、呪詛のように言葉を繰り返しながら、黒い霧状の手で捕らえる。
「離せ!このっ…!」
「……っ」
「えっ…?」
忌に捕らえられたアヒルのすぐ目の前へと、いつの間にか姿を現す伍黄。
「は、速いっ…!」
「や…」
焦って銃を振り上げるアヒルだが、それよりも先に、伍黄が刀を振り下ろした。
「“破れ”…!」
「ううぅっ…!」
「アヒルさん…!」
振り下ろされた伍黄の刀に、アヒルが胸部を勢いよく斬り裂かれる。上空を舞う赤い血に、アヒルが歪んだ表情を見せ、下方の保は思わず身を乗り出す。
「グ…!」
斬られた傷を左手で押さえながら、忌の手から離れたアヒルが、力なく下降していく。
「言葉と共に消え失せろ」
落ちていくアヒルへと、何の躊躇いもなく刃先を向ける伍黄。
「“破”!」
「クっ…!」
迫り来る衝撃波に、落下中で態勢を変えることも出来ないアヒルが、険しい表情を見せる。
「“助けろ”…!」
「なっ…!」
言葉と共に、アヒルの周囲を取り囲むようにして形成されていく、赤い糸の塊。糸が驚きの表情を見せるアヒルと包みこんで、アヒルの代わりに衝撃波を喰らう。
「あれは…」
その光景を見つめ、眉をひそめる伍黄。衝撃波を受けた糸は、焦げつきながらもゆっくりと降下し、床へと着地すると自発的に解けていき、中に居るアヒルの姿が再び露となった。
「これって…」
「ううぅ…!」
「あっ…!た、保…!」
戸惑うように糸を見下ろしていたアヒルが、聞こえてくる苦しげな声に振り向く。そこには、糸の張り巡らされた右手を床へと落とし、痛みを堪えるように深く俯く保の姿があった。
「保…!」
「ハァっ…ハァっ…」
アヒルの呼びかけに顔を上げることも出来ずに、ただ荒々しく息を乱す保。糸を向けた右手は痙攣しており、傷口から一度は止まった血が流れ始めていた。
「その傷で力を使うとは、大したものだ。だが…」
感心するように保を見下ろしていた伍黄が、不意にその瞳を、冷たいものへと変える。
「邪魔なんだよ。“夜光”」
伍黄が刃先を保へと向け、鋭い黒色の光線を放つ。すでに傷だらけで、指一本動かすことさえままならない保が、その光線を避けられるはずもない。
「保っ…!クソ…!ガァスケ!」
焦ったように叫んだアヒルが、右手に握り締めていた銃を、保へ向けて、勢いよく投げ放つ。
「クワアアアァァ…!」
「何っ…?」
空中を舞う赤銅色の銃が、黄金色の光を放ちながら、その姿を巨大な鳥へと変える。
「また言玉が姿を…?」
「クアアァァァ!」
「クっ…!」
巨鳥が保の前で、その美しく光る翼を大きく広げると、翼からさらに強い金色の光が発せられ、伍黄が保へと向けた光線が、あっという間に掻き消される。突き刺すように浴びせられる光に、伍黄は思わず身を屈め、目を細めた。
「はぁっ…はぁっ…」
呼吸を乱しながら、ゆっくりと立ち上がるアヒルのもとへと、保を守った巨鳥が翼を広げたまま、近付いてくる。
「助かった、ガァスケ」
「クワァ!」
礼を言うアヒルに、巨鳥は、ガァスケは、当たり前だとばかりに大きく鳴きあげた。
「また鳥…先程の小鳥の進化した姿か…」
アヒルの横のガァスケを見つめ、少し考え込むような表情を見せる伍黄。
「ア段の能力は武器…生物形態はウ段の五十音士の能力のはずだが…不思議な男だ、安の神」
眉をひそめた伍黄が、首を捻る。
「まぁいい。お前の力などに興味はない」
言葉を切った伍黄が、再び刀を振り上げる。
「俺が興味あるのは…お前の死のみ!」
鋭い刃先が、天井を向いて輝く。
「“遣れ”!」
≪グアアアアア…!≫
「あっ…!」
伍黄の言葉を掛け声に、天井から次々と無数の忌が抜け出て、まるで降り注ぐ雨のように、アヒルへと迫って来る。
「ガァスケ!」
ガァスケの名を呼びながら、アヒルが素早く身構える。
「“暴れろ”!」
「クワアアアァァっ!」
アヒルの言葉に応えるように、ガァスケが鋭い鳴き声をあげ、翼を広げて上空へと舞い上がっていく。上空で大きく転回するガァスケの翼に掻き消され、降り注いでいた忌が次々と散っていく。何度も転回するガァスケにより、やがて、無数居たはずのすべての忌が姿を消した。
「よし…」
何とか防いだことを確認し、アヒルが胸を撫で下ろす。
<い…た…い…>
「えっ…?」
そこへ聞こえてくる、今にも消えてしまいそうなほどに小さな、弱々しい声。
<痛い…痛い…>
≪痛い…痛い…≫
「なっ…!」
ガァスケの攻撃により、ほとんど消えかけていた忌の欠片が、ひたすらにその言葉を繰り返しながら、その個体を一個から二個へと分裂させる。すべての欠片が同じように数を増やし、そこから響く声が徐々に重なっていく。
「こ、こんなっ…」
忌の欠片からまた次の忌が、その忌からさらに次の忌が、次々と新しい忌が生み出されていくその光景に、思わず青ざめ、言葉を失ってしまうアヒル。
「痛みは無限…」
「……っ」
背後からする声にアヒルが振り返ると、上空へと舞い上がっていた伍黄が、静かに床へと降り立ってきていた。
「痛みを消そうとする力が、また新たな痛みを生む…」
伍黄の細められた瞳が、まっすぐにアヒルへと向けられる。
≪痛い…痛い…≫
「苦しいのに、消えない…痛いからまた、生まれる…まるで地獄のようだろう…?」
伍黄が口元を緩め、そっと微笑む。
「今のこの光景を、よく見ておくといい」
そっと左手を広げ、そこに広がるおぞましい光景を強調する伍黄。
「これが、お前たち五十音士の、お前たちの言葉のもたらした結果…これが、俺たち忌という存在…」
自分でも確かめるように、伍黄が次々と生まれていく忌を見回す。
「これが、この世の縮図だ」
はっきりと言い放つ伍黄に、アヒルの表情が険しく変わる。
「こんな世界を、良しとするか…?神」
試すように、アヒルへと問いかける伍黄。
「悪しに決まっているっ」
「……っ」
問いかけたというのに、伍黄が自らはっきりと答えを放つ。その力強い声に、アヒルは思わず唇を噛み締めた。どこかに強く力を入れていなければ、耐えられないような、そんな心情であった。
「だから俺は終わらせる。こんな世界を、地獄のような世界を終わらせる」
まるで自分に言い聞かせるように、伍黄が言葉を繰り返す。
「神を名乗るお前にも、この俺を止める権利などない…!」
叫びあげた伍黄が、勢いよく刀を振り上げる。
「“焼き尽くせ”!」
≪グアアアアア…!!≫
伍黄の刀から放たれた炎は、周囲で生み出されたばかりの忌を巻き込み、その赤々とした色を禍々しいばかりの黒色へと変え、アヒルへと向かってくる。
「ク…!“当たれ”…!」
「クワアアァァ!」
アヒルが言葉を放ち、炎へとガァスケを向かわせる。激しく燃え上がる黒炎と、翼を広げたガァスケの金色の巨体が、勢いよくぶつかり合った。
「うっ…!」
ガァスケが黒炎と当たったその瞬間、アヒルが大きく目を見開く。
「クワアアアア…!」
「う…!うああああああっ…!」
「アヒルさん…!?」
ガァスケが悲痛な鳴き声をあげたのと同時に、アヒルも天を仰ぐように体を反らしながら、激しい叫び声をあげる。そんなアヒルに、保が焦ったように名を呼びかける。
「ううぅ…うっ…!」
「鳥と感覚を共有しているのか…」
苦しむアヒルを見つめ、伍黄が感心するように呟く。
「どうだ?痛いか?」
「……っ」
問いかける伍黄に、アヒルが必死に歯を食いしばり、堪えるように自分の体をきつく抱きしめながら、少しだけ顔を上げる。
「それが、俺たちの浴び続けて来た“痛み”だ」
「な、に…?」
伍黄の言葉に、アヒルが戸惑うような表情を見せる。
「始忌の能力も五十音士と同じように、一人ひとり異なる」
困惑するアヒルに説明するように、さらに言葉を続ける伍黄。
「灰示の能力は“痛み”の増殖、緑呂の能力は“痛み”との同化…そして、俺の能力は…」
伍黄の口元が、そっと笑う。
「“痛み”の伝達」
「痛みの、伝、達…?」
アヒルが痛みの中で、ゆっくりと伍黄の言葉を繰り返す。
「ああ。俺の力を受けた者には、俺の浴びて来た痛みの一部が伝達される」
聞き返したアヒルに、答えるように言う伍黄。
「奪った“や”の言葉に、俺の始忌としての力を組み込んだ…」
伍黄が左手を振り上げると、床からすくいあげられるようにして忌が現れ、その忌がすぐさま、伍黄の刀の中へと吸収されていく。
「さぁ、存分に味わえ」
忌を吸収した刀を、伍黄が強く振り切る。
「この“痛み”を…!“八つ裂け”!」
振り下ろされた刀から放たれる、黒く輝く無数の刃。刃が先程の炎と同じように、周囲の忌を取り込み、その大きさを一回り大きくして、一気にガァスケへと攻め込む。
「クワアアァァァっ…!!」
「ガァスケ!うっ…!」
刃を浴び、悲鳴をあげるガァスケに身を乗り出していたアヒルが、その瞳を大きく見開く。
「うあああああっ…!!」
次の瞬間、喉が潰れそうなほどに激しい叫び声をあげるアヒル。
「うああ…!あああああっ…!!」
「あぁっ…」
叫び続けるアヒルを見つめ、保が声にならない声を発する。
「アヒル、さんっ…」
「あああああああっ…!!」
攻撃を受けているとはいえ、傷を負ったわけではない。少しの傷を負ったところで、アヒルはここまで激しい叫び声をあげたりしない。どれほどの痛みを受けているのか想像が出来ないほどに、あまりに、その声は悲痛であった。
「ク…クワァ…」
刃を受けたガァスケが、力なく声を漏らし、その姿を掻き消していく。ガァスケの姿がなくなると、床に力なく、もとの赤銅色の銃が落ちた。




