Word.44 痛ミノ果テ 〈1〉
始忌アジト、最奥。
「“安の神”…朝比奈アヒル…」
始忌リーダー、伍黄と、激しい戦闘を繰り広げた灰示。灰示と入れ替わり、応戦する保であったが、多くの忌の力を取り込んだ伍黄を前に、力尽きようとしていた。その時、保と伍黄の前へと現れたのは、アヒルであった。
「よっ」
「アヒル…さん…」
笑顔で振り返ったアヒルを見て、傷だらけの保が、弱々しい声で、もう一度確かめるようにアヒルの名を呼ぶ。
「久し振りだなぁ、保」
アヒルが伍黄へ背を向け、保のもとへと歩み寄っていく。アヒルが壁際に倒れ込んでいた保へ手を貸し、そのボロボロの体を起こして、後ろの壁にもたれかけさせる。
「元気そうではねぇけど」
「アハハ…」
起き上がった保が、あまり表情を動かさぬまま、力なく笑みを零す。
「こんな俺を…助けてもらっちゃって…すみません…」
「何言ってんだよ」
申し訳なさそうに謝る保へ、アヒルが優しく笑みを向けた。
「仲間なんだから、助けんのは当り前だろ?」
「……っ」
当然のように言い放つアヒルに、保は力ないながらも、嬉しそうに微笑む。
「俺、手当ての言葉使えねぇーから、痛てぇだろうが、篭也か奈々瀬が来るまで、ちょっと我慢しててくれな」
そう言ってアヒルがポケットからハンカチを取り出し、一番出血のひどい、保の右足の傷へと、そのハンカチをきつく巻きつける。縛っていたアヒルの手が離れると、血の染みるハンカチの模様が明らかになる。愛らしい、あひるの描かれたハンカチだ。
「また…あひるさん柄…」
「仕方ねぇだろ?」
そのハンカチを見て、笑みを浮かべる保。そのハンカチは、アヒルが灰示と戦うため、遊園跡地へと行ったあの時、怪我をした保に、今と同じように巻いてあげたものであった。
「やるっつってんのに、お前が洗って返してくっから」
「だって…あひるさん柄は、アヒルさんが持ってないと…意味ないじゃないですか…」
顔をしかめるアヒルへ、保が笑みを向ける。
「折角、そんなに面白い名前、なのに…」
「だっれが面白いだよ!」
「すみません…」
「……っ」
一度は怒鳴ったアヒルであったが、微笑みながら謝る保を見ると、すぐにまた、笑みを浮かべた。
「ここに居ろ、保」
座り込んだままの保の肩を手で軽く叩き、アヒルがその場で素早く立ち上がる。保へと背を向けると、アヒルは数歩前へと出て、再び伍黄と向き合った。
「よぉ」
「…………」
改めて挨拶とばかりに、短めに声を発するアヒルを正面に見て、伍黄はその赤い眼球だけの瞳を、そっと細めた。
「お前、あん時の奴だろ?イ級の。見た目結構変わってるから、初め、わかんなかったぜ」
アヒルが初めて会った時の伍黄は、也守の刃の姿、そのものであったが、今は肌も黒く、瞳は赤色だけに染まり、鋭い牙も生えている。アヒルがわからなくても、当然であろう。
「安の神、か…」
アヒルの姿を確認し、低い声を発する伍黄。
「知りたくもないが…まぁ一応、聞こう」
伍黄がアヒルへと、鋭い眼光を向ける。
「この場へ、何をしに来た?言葉の神」
伍黄の問いかけに、アヒルが真剣な表情を見せる。
「お前を、消しに」
アヒルが迷いなく、はっきりとした口調で答える。
「俺を、消しに…か」
伍黄がゆっくりと、アヒルの言葉を繰り返す。
「さすがは、愚かなる五十音士の頂点に立つ神…実に、勝手極まりないっ」
伍黄が呆れたように、言葉を吐き捨てる。
「自ら生み出した過ちが、自らの手に負えそうになくなったら消す」
少し微笑んでいた伍黄の表情が、そっと冷たく変わる。
「それだけのことだというのに、自分たちが言葉を守ったなどと言って、胸を張るのだろう?お前たちは」
軽蔑するような瞳が、アヒルへと向けられる。
「本当に、愚かで醜い生き物だ。お前たち、人間は…」
「…………」
重々しく言い放つ伍黄に、アヒルがそっと目を細める。
「まぁいい」
言葉を切った伍黄が、右手に持っていた刀を振り上げる。
「お前が俺を消す前に、俺がお前を消し去ってやろう」
振り上げられた刃先が、まっすぐにアヒルへと向けられる。
「この世界の、すべての言葉と共に…」
構えた伍黄の姿を強く目で捉えたまま、アヒルが懐へと手を入れ、何やら取り出す。
「ガァスケ」
「グワァ!」
「ん…?」
アヒルが取り出したのは、手のひらサイズの愛らしい、金色に光るあひるであった。アヒルの手の上で、戦う気満々の勇ましい表情で、鳴き声をあげるガァスケを見て、伍黄が眉をひそめる。
「あひる、さん…?」
保も驚いた表情で、アヒルの手の上のガァスケを見つめる。
「ハッハッハッ!」
ガァスケを見た伍黄は、大きな声で高らかと笑いあげた。
「何だぁ?その、見るからに脆弱そうな生き物は!ペットの自慢でも始めようというのかぁ?」
「…………」
小馬鹿にしたように笑う伍黄の前で、アヒルは鋭い表情を見せた。
――――アヒルが言玉を復活させるため、恵と別行動を取った際、篭也たちと別れたアヒルは、恵と共に矢文町の人通りのない河原へとやって来た。
「じゃあ、やるぞ」
「ああ、頼む」
恵の言葉に、アヒルが大きく頷く。
「五十音、第三十四音…」
恵がポケットから取り出した緑色の言玉を、右手のひらの上で輝かせる。
「“め”、解放…!」
一際強く輝いた言玉が、恵の右手の中へと吸収されていく。恵が言玉の光を受け継いだ右手を、赤い言玉を持つアヒルの右手へと向ける。
「め…」
ゆっくりと口を開く恵。
「“目醒めろ”…!」
「……っ!」
放たれる強い光に、アヒルは思わず目を伏せた。
「グワァっ」
「……へっ?」
固く瞳を閉じていたアヒルが、自分の手の方から聞こえてくる、恵のものではない、明らかに鳴き声なその声に、首を傾げる。言玉を乗せていた手からも、何やら動く、ふわふわとした感触が伝わってきており、アヒルは戸惑うように目を開いた。
「グワァ!」
「んなっ…!ななななっ…!」
手の上に乗る小さなあひるの姿に、開いた瞳をアヒルが勢いよく見開く。
「なぁぁっ…!?」
「どうやら、上手くいったようだな」
「どこがだよ!」
あまりの衝撃に、顎がはずれそうなほど口を開いていたアヒルは、自分の言玉を手の中から取り出しながら、満足げに頷く恵に、強く怒鳴りあげた。
「な、何だよ!?これ!こんなので、どうやって戦えってんだよ!?」
「まぁ落ち着け」
必死に問いかけるアヒルに、恵が宥めるように声を掛ける。
「別に失敗したわけじゃない。これはお前の言玉の、もう一つの姿だ」
「もう一つの、姿…?」
恵の言葉に、アヒルが戸惑うように眉をひそめる。
「ああ。お前は弔って奴との戦いの時に、一度見てるだろう?」
「弔との戦いの時…?」
―――クアアアァァ…!―――
アヒルの頭に浮かんだのは、美しく巨大な、黄金色の怪鳥。
「あ、あれがこれぇっ!?」
あまりにも巨大で、優美であった記憶の中の鳥と、手のひらの中のちっぽけなあひるを見比べ、アヒルが驚きの表情を見せる。
「ま、まじかよ…」
「まぁ、眠ってた力の一部を起こしただけだからな。大きさとしては、そんなもんだろう」
唖然と呟くアヒルへ、恵がさらに説明を続ける。
「だが、その姿でも言玉は言玉だ。ちゃんと言葉も使えるから、安心しろ」
「安心って…」
アヒルが手の中のあひるを見た後、不安げに顔を上げる。
「いくら言葉が使えるったって、この鳥抱えて、あいつ等と戦えっていうのかよ?」
「言玉は、自分の力が必要になる時を知っている」
問いかけるアヒルへ、恵が力強い笑みを向ける。
「こいつの全力が必要な場面が来たら、こいつは自分で勝手に目醒めるさ」
「ふぅ~ん…」
「グワァ!」
まだどこか疑わしげな視線を送るアヒルへ、その小さな鳥は、頼もしく鳴きあげた――――
恵の言葉を思い出し、さらに研ぎ澄ませた表情を見せるアヒル。
「相手にとって、不足はねぇか?ガァスケ」
「グワァっ!」
問いかけるアヒルに、ガァスケは思いきりのいい返事を返した。
「そうか。じゃあ行こう!」
満足げに微笑んだアヒルが、指で軽くガァスケの頭を撫でると、その小さな体を、高々と空中へと放り投げる。
「五十音、第一音」
アヒルが上空を見上げ、高らかと声を張る。
「“あ”、解放…!」
空中で羽根を広げたあひるが、全身から強い金色の光を放ち、その姿を光の塊へと変える。光は形を作り直し、やがて放つその光を、金色から赤色へと変えた。
「行くぜっ…!」
赤い光の中から落ちてきた真っ赤な銃を、アヒルが素早く受け止め、力強く構える。
「言玉が姿を、変えた…?」
「あ…」
戸惑いの表情を見せる伍黄へと、アヒルが銃口を向ける。
「“当たれ”…!」
銃口から、赤い光の塊が、勢いよく放たれる。
「クっ…!“焼け”…!」
伍黄が表情をしかめながも刀を振るい、迫りくる光へと、赤々とした炎を向ける。同じ色をした二つの力は激しくぶつかり合い、やがて互いを掻き消した。
「俺の力と、互角…」
「“当たれ”!」
「何…!?」
アヒルの力を分析するように呟いていた伍黄のもとへ、さらに赤い光が駆け抜けてくる。
「連射か…!“痩せろ”!」
伍黄が言葉で、弾丸の威力を落とし、小さくなった光を刀で振り払う。アヒルの攻撃を防いだ伍黄は、すぐさま刃先をアヒルへと向けた。
「“夜光”!」
刀の先から、鋭い黒色の光線が放たれる。
「……っ」
迫る光線を見据え、自らのコメカミへと銃口を向けるアヒル。
「“上がれ”!」
アヒルが自らに弾丸を放ち、赤い光に包まれて、上空へと舞い上がる。アヒルを捉えることの出来なかった光線は、そのまま壁の向こうまで貫いて、消えていった。
「熟語か。危っね」
光線が貫いていった壁の跡を見下ろし、アヒルがホっとしたように肩を落とす。
「飛べるのか…」
上空のアヒルを見上げ、そっと目を細める伍黄。
「だが…」
「あっ!」
いやらしく口元を歪める伍黄の姿に、保がハッとした表情となって、顔を上げる。
「逃げて下さい…!アヒルさん…!」
「へっ?」
「“闇討て”…」
保の声にアヒルが目を丸くしたのとほど同時に、伍黄が言葉を放った。
「ううぅっ…!」
「アヒルさん…!」
突如、左肩を斬り裂かれるアヒルに、保が悲痛な声をあげる。
「ハハハハハ…!神附きが神附きなら、神も神だなぁ!」
斬り裂かれていくアヒルの姿を見て、楽しげに笑いあげる伍黄。
「そのまま、見えない刃に斬り裂かれ続けて、死ぬがいっ…!」
「……っ」
「何…!?」
伍黄が高らかと言い放とうとしたその時、刃に斬り裂かれ続けていたアヒルの体が、突然、霞のように薄れて、あっという間に上空から消えてしまう。
「これはっ…」
「“欺け”っ」
「なっ…!」
戸惑いの表情を見せていた伍黄が、背後から聞こえてくる声に、すぐさま振り返る。伍黄が振り返った先には、まるで無傷のアヒルが立っていた。
「幻覚か…」
「残念だったな」
眉をひそめる伍黄に対し、アヒルはどこか得意げに微笑む。
「アヒルさんっ…」
微笑んでいるアヒルの姿に、保も安心したように笑みを零す。
「残念?一度、避けたくらいで、防ぎきった気か?」
「えっ…?」
問いかける伍黄に、曇るアヒルの表情。
「幻覚を作れたところで、お前にこの刃が見えない限り、防ぐことなど不可能…!」
伍黄が勢いよく、刀を振り上げる。
「“闇討て”…!」
「またか…!」
伍黄の放った言葉を聞き、アヒルが険しい表情を見せる。
「うっ…!」
見えない刃がアヒルの右腕をかすめ、斬り傷を作って、赤い血を流す。
「まぁ確かに、見えなきゃ防ぐことなんて出来ねぇよなっ…!」
傷を負いはしたが、すぐさま笑みを零し、アヒルが余裕の様子で上空へと弾丸を撃ち抜いた。
「“赤くなれ”!」
アヒルの放った弾丸が上空で弾け飛ぶと、辺り一面に赤い光が広がり落ちる。光が落ちると、やがて、数本の刃のような物体が、赤く染め上げられるようにして、その姿を現した。
「うあ…!」
姿を見せた刃に、伍黄が驚きの表情を見せる。
「“赤くなれ”だと…?そんな言葉が…」
「一回、自分の姿を消す忌と戦ったことがあってな。それで学んだんだ」
茫然としている伍黄へと、得意げな笑みを見せるアヒル。
「これで安心して防げるぜっ」
周囲の刃の位置と数を確認し、アヒルがさらに引き金を引く。
「“荒れろ”」
短めに落とされる、言葉。
「“嵐”…!」
銃口から放たれた逆巻く嵐が、アヒルの周囲で猛威を振るい、アヒルへと迫り来ていた赤く染まった刃を、一つ残らず叩き落とした。
「名詞…」
落とされた刃が、次々と力なく消え失せていく光景を見つめながら、険しい表情を見せる伍黄。
「こんな…」
「余所見してていいのか?」
「なっ…!」
唖然としていた伍黄が、聞こえてくる声に顔を上げると、鋭い表情を見せたアヒルが立っていた。
「チ…!“焼き尽くせ”!」
伍黄がすぐさま刀を振り下ろし、アヒルへと燃え上がる炎の塊を向ける。アヒルは冷静な表情で炎を見つめたまま、まだ右方で逆巻いている嵐へと、さらに一発、銃弾を撃ち抜いた。
「“荒れ狂え”!」
「何…!?」
逆巻くその勢いを、それ以上に増した嵐が、伍黄の向けていた炎を一瞬にして取り込む。炎を取り込み、燃え上がる嵐となったその巨大な塊は、まっすぐに伍黄へと向かっていく。
「うっ…!うあああああ!」
燃え上がる炎に巻き込まれ、斬り裂かれ、焦がされ、弾き飛ばされる伍黄。




