Word.43 灰示ト保 〈3〉
――――そこは、きれいな場所であった。
色取り取りの花が咲き乱れ、雲一つない空がどこまでも広がっている。小高い丘のようで、その向こうには、青い青い海が地平線の彼方まではっきりと見えていた。
「ここ、は…?」
“痛み”の塊として生まれた自分には、あまりにも縁遠い、美しいその場所に、灰示は戸惑うように周囲を見回した。その場に立つ灰示は、不思議なことに、伍黄との戦いで負った傷が一つもなく、その体は軽々と自由に動いた。
「僕は…」
「こんにちは」
「……っ」
後方から向けられる、よく聞き覚えのあるその声に、灰示が驚いたように目を見開き、恐る恐る、ゆっくりと振り返る。
「た、保っ…」
灰示が振り返ったその先に立っていたのは、穏やかな笑顔を見せた保であった。灰示が驚きの表情のまま、まっすぐに保を見つめる。
「こうして会うのは、初めてだね。えっと…灰示さん、だっけ?」
「……灰示でいいよ、保」
慣れない様子で名を呼ぶ保に、灰示は優しい笑みを向けた。
「そうか…ここは君の心の中か…」
美しい景色の広がる周囲を見渡し、時折吹く穏やかな風に、灰示が心地良さそうな顔を見せる。
「きれいなものだね…」
「何か、不思議な感じがするな…」
「ん…?」
目の前に立つ灰示をまじまじと見つめ、保がそっと笑みを零す。景色を見つめていた灰示が、保の方を振り向き、まっすぐに保を見つめた。
「こうして、向き合っているのが…」
「そうだね…」
保の言葉に納得するように、灰示が頷く。
「僕らは太陽と月のようなもの…どちらかが昇れば、どちらかは隠れてしまうから、こうして向き合うのは、確かに不思議だね…」
灰示が、例えた太陽を探すように、上空を見上げる。
「君ともう少し、ゆっくりと話していたいけど…でも、ごめん。僕、行かないと…」
空から視線を下ろし、灰示が再び保を見つめる。
「ずっと昔に、ずっと一緒に居た友達が…待ってるんだ」
伍黄の姿を思い出し、灰示がそっと目を細める。
「戦いに、行かないと…」
「……っ」
決意したような表情を見せる灰示を見つめ、保がそっと、その表情を曇らせる。
「もういいよ」
「えっ…?」
耳に入る言葉に、灰示が戸惑うように顔を上げる。
「もう、いい…」
「保…」
そう言って微笑みかける保に、灰示はさらに戸惑った表情となる。
「言葉が、人間たちの言葉が消えてしまっても、いいって言うのかい…?」
「ううん」
灰示の問いかけに、保は笑顔のまま、あっさりと首を横に振った。
「言葉は守る」
保がはっきりと、自信を持って言い放つ。
「俺が守る」
「……っ」
保の言葉に、灰示が驚いたように目を見開く。
「保っ…」
「俺はずっと、“痛み”から逃げて来た」
呼びかけた灰示から視線を逸らし、保が少し下を向く。
「君が助けてくれるって、俺の代わりに“痛み”を背負ってくれるって、心のどこかでわかってたから、何の躊躇いもなく逃げ続けてきた」
保がゆっくりと上げた右手を、自分の左胸へと当てる。
「でも、逃げてばっかりじゃいけないんだ」
―――この“痛み”を忘れたら、俺は…本当の笑顔で、笑えなくなる気がするから…―――
―――俺だって、半端な覚悟で、あいつらの神になろうってんじゃねぇんだよっ…!―――
「“痛み”を乗り越えて、強くなりたいって…」
アヒルの言葉を、姿を思い出し、保が笑みを浮かべ、ゆっくりとその顔を上げていく。
「あの人のように強くなりたいって、今は、そう思えるようになったから」
「…………」
迷いなく微笑む保を、灰示はまっすぐに見つめた。
「だから今度は…」
保が左胸に当てていた右手を、目の前に立つ灰示へと差し伸べる。
「君の“痛み”を、俺が背負うよ」
「……っ」
差し出された手を見て、灰示がそっと目を細める。
「ねぇ、保」
「ん?」
呼びかける灰示に、保が首を傾げる。
「初めて会った日のこと、覚えているかい…?」
微笑みを零しながら、灰示が保を見る。
「あの時も君はこうして、僕に手を差し伸べた…“君も痛いの?”って…」
「うん、だから君は言った」
保が代わるように、灰示の言葉の後に続く。
「“痛いよ”って…」
「そして、君が言った…」
―――じゃあ、じゃあさ…―――
「“痛みを分かち合って、生きていこう”って…“一緒に、乗り越えていこう”って…」
長い長い時を生きてきて、あの日やっと、初めてもらうことの出来た、温かい言葉。それだけで、苦しかった数百年が吹き飛ぶほどに、救われた言葉。
「うん。長い間、待たせてごめん」
さらに笑みを大きくし、保が灰示へと手を伸ばす。
「さぁ、分かち合おう?一緒に、乗り越えていこう?」
「……っ」
灰示がその手へと、ゆっくりと自分の手を伸ばしていく。
「この“痛み”を」
「ああ…そうだね…」
二つの手が重なり合うと、そこから白色の強い光が放たれた…――――
―――パァァァン!
「何…?」
灰示へと振り下ろしたはずの刀が、空中で突然止まり、伍黄は思わず表情をしかめた。止まった刀のすぐ下には、ピンと張り詰められた、赤い何かが見える。
「これは…糸…?」
「五十音、第十六音…」
「なっ…!」
聞こえてくる声に前方を見た伍黄が、驚きの表情となる。
「お、お前はっ…!」
「“た”、解放…!」
伍黄が驚きの表情で見つめる中、真っ赤な言玉を振り上げ、言葉を解放したのは、いつになく強い表情を見せた保であった。
「“倒せ”…!」
「クっ…!」
言玉から目覚めた無数の赤い糸を、一斉に向けてくる保に、伍黄が刀を引き、後ろに飛び下がるようにして、それを避ける。
「お、お前っ…」
態勢を立て直し、曇らせた表情で保を見つめる伍黄。
「安団、安附が一、“太守”高市保」
伍黄へと向けた糸を引き、手元へと戻しながら、保が立ち上がって、堂々と言い放つ。
「何故、お前が…?」
壁際で立ち上がった保を見つめ、伍黄が眉をひそめる。
「選手交代とは…ついに、灰示の奴がくたばったか?」
「俺たちは、二人で一つ。俺の望みも、灰示と同じ…」
両手の指に糸を絡ませ、保が鋭い瞳で、伍黄を見つめる。
「皆の言葉を守る為に、俺はあなたを倒します…!」
保が両手を構え、高らかと言い放つ。
「生意気な口をっ…」
顔をしかめた伍黄が、今まで以上に低い声を発する。
「きくなよ!たかだか人間の小僧が…!“焼け”…!」
「……っ」
向かってくる逆巻く炎に、保が両手を伸ばし、糸を向ける。
「“耐えろ”…!」
保が前方に糸を張り巡らせ、伍黄の炎を受け止める。
「“足せ”」
「何…?」
保の糸に包まれた伍黄の炎が、周囲の糸を取り込むようにして、その勢力を増す。
「力の増強だと…?」
「た…」
伍黄が戸惑いの表情を見せる中、保が間を置くことなく、口を開く。
「“滾れ”…!」
「うっ…!」
勢力を増した炎が、保の言葉により、伍黄のもとへと戻って来る。
「チっ…!“痩せろ”!」
言葉を発し、向かってくる炎を弱体化させる伍黄。だが保の言葉により、一度増強されたその炎は、伍黄の言葉を受けても直、十分の力を維持していた。
「グっ…!うううぅ…!」
もう一度、弱体化の言葉を放つことも出来ず、自らの炎を受けた伍黄が、その場で少し身を屈める。
「“高くなれ”!」
その間にも、数本の糸を床へと突き刺し、その反動を利用して、保が高々と上空へと飛び上がる。上空で勢いよく、両手を振り上げる保。
「“叩け”…!」
「あっ…!」
空中で絡まり合い、太い一本の綱のように姿を変え、降り落ちてくる糸に、伍黄が険しい表情を見せる。
「クっ…!グウゥ…!」
素早く突き出した刀で糸を受け止める伍黄であったが、その糸は予想以上に重く、伍黄の体が一気に押し込まれていく。
「うあああああっ…!」
糸に振り払われ、壁へと叩きつけられる伍黄。
「はぁっ…はぁっ…」
上空で保が、肩を揺らしながら、大きめに呼吸をする。言葉を連続で使い過ぎたためか、少し息が上がっていた。
「グっ…ウゥ…」
少し崩れた壁から体を起こしながら、伍黄が苦しげに表情をしかめる。
「この程度の“痛み”などっ…」
伍黄が刀を持つ手に、力を込める。
「俺に力を与えるだけだというのが…わからんかぁっ…!!」
「なっ…!」
激しく咆哮をあげた伍黄の体から、黒い光が放たれる。
「うわあああっ!」
目にも留らぬ速さで周囲一帯を駆け抜ける、伍黄の放った黒光。その光の一部に弾かれ、上空を舞っていた保が、地面へと突き落とされる。
「この光は…?」
床へと着地した保が、戸惑いながら、周囲に広がっていく黒い光を見つめる。
「“破”!」
「あっ…!」
振り上げられた伍黄の刀から、黒い衝撃波が放たれる。
「た、“耐えろ”…!」
保が先程と同じように糸を張り巡らせ、その衝撃波を受け止める。
「なっ…!?」
だが、その衝撃波のあまりの威力に、糸はすぐ解かれ、保へと迫って来る。
「うぅっ…!」
何とか必死に横へと飛び、衝撃波をすれすれのところで避ける保。
「力が、上がっている…?」
黒い光とともに上昇し始めている伍黄の力を察知し、保が厳しい表情を見せる。
「早めに、ケリをつけた方が良さそうだっ…」
その瞳を鋭くし、再び糸の絡まった両手を構える保。
「“猛ろ”…!」
保が勢いよく両手を突き出し、赤い光を帯びた鋭い無数の糸を、伍黄へと向ける。
「グゥゥ…ウウゥ…」
苦しげに声を漏らしながら、ゆっくりとその場で立ち上がる伍黄。
「ウウウゥっ…!」
「えっ…?」
立ち上がった伍黄は、思いきり顔を上げ、突き刺すような瞳で糸を睨みつけるが、その場を動こうとする素振りは見せなかった。
「避けない…?」
「うっ…!うあああああっ…!」
保が戸惑いの瞳で見つめる中、その場を一歩たりとも動かなかった伍黄は、大きく両手を広げ、まるで受け止めるように、すべての糸をその体へと喰らった。
「ううぅ…うっ…」
体のあらゆるところを突き刺した糸から、伝うようにして、伍黄の赤い血が滴り落ちる。その姿と苦しげな伍黄の声は、向き合っている保にも十分に、その痛みを伝えていた。
「そう…これが、“痛み”だ…」
伍黄がその痛みを確かめるように、そっと呟く。
「俺が…何百年と、魘され続けて来た…痛み…」
まるで噛み締めるような言葉が、ゆっくりと続く。
「だから俺は…痛みを消す…この痛みから、解放されるっ…」
もがくように、願うように、言葉を発する伍黄。
「その為になら、俺はっ…!」
伍黄が勢いよく、その顔を上げる。
「どんな痛みも受け入れようっ…!“宿れ”…!!」
「あっ…!」
辺り一面に広がった黒い光が、伍黄の言葉を合図に、一斉に伍黄の体の中へと吸い込まれていく。
「うあっ…!」
黒い光の吸い込まれていく勢いで、伍黄の体を突き刺していた糸がすべて弾かれ、返ってきた糸の勢いにより、少し後方へと押し出される保。嵐のように吹き荒れる強風の中、身を屈めながらも、保が何とか伍黄の方を見る。
「うううぅ…!うううぅっ…!」
「……っ」
黒い光の中心で、苦しげな声をあげる伍黄を見つめ、そっと目を細める保。
「ここら中の、すべての忌を取り込んでいる…」
どんどんとやって来る、黒い光の塊を見渡し、保がさらに、その表情を険しくした。
「伍黄、さん…」
「うううぅ…!がああああっ…!」
保がどこか哀しげに名を呼んだすぐ後、すべての忌を吸収し終えたのか、伍黄が一際大きな声をあげると、一瞬、強い黒光が放たれ、やがて光が収まった。風も止み、保がゆっくりと体を起こす。
「あっ…!」
前方に立つ人影を見つめ、大きく目を見開く保。
「フハハハハっ…」
保の目の前に立っていたのは、真っ黒な肌に、髪を逆立たせ、鋭く牙を生やし、赤い眼球を剥き出しにした、最早、人間とも呼ぶことの出来ない伍黄の姿であった。姿を変えた伍黄が、どこか不気味な笑みを零す。
「さぁ、終わりにしよう。五十音士…」
伍黄が黒い右手で、刀を構える。
「お前たち人間の、その言葉をっ…!」
「クっ…!」
勢いよく駆けこんでくる伍黄に、保が慌てて両手を構える。




