Word.43 灰示ト保 〈2〉
「“あ”の、言葉…?」
「…………」
緑呂を圧倒した篭也の前へとその姿を明らかにしたのは、五十音“あ”の言葉を口にした、謎の男であった。戸惑いきった表情を見せる篭也を見つめ、その男はどこか冷たく微笑む。
「どういう、ことだ…?あなたは、一体っ…」
「いずれ、すべてが明かされるよ」
問いかける篭也に、男はゆっくりとした口調で答える。
「その時にまた、俺とお前は会うことになる」
すべてを見透かすような、どこまでも透き通っていて、何よりも冷たい、その金色の瞳。
「そして、お前の神とも…」
「……っ」
神の名が出ると、篭也は眉間に強く皺を寄せた。
「じゃあ…」
男がそっと、篭也と同じ赤い言玉を持った右手を振り上げる。
「また出会う、その時まで…」
「あっ…!」
赤い光に包まれ、その姿を消していく男に、篭也が焦ったように身を乗り出す。
「ま、待っ…!」
「篭也!」
「……っ」
男へと伸ばそうとした篭也の手は、横から入って来た篭也の名を呼ぶ声に、思わず止められた。
「篭也…!」
「檻也…?」
遠い暗がりの廊下から、その場へと駆け込んできたのは、檻也であった。檻也の姿を捉えた篭也が、戸惑ったように首を傾げる。
「無事か…!?」
「何故、檻也がここに…あっ…!」
檻也へと問いかけようとした篭也が、ハッと気付いた様子で、再び前方を振り向く。
「あっ…」
だが、そこに、あの男の姿はなかった。
「……?どうかしたのか?」
「いやっ…」
不思議そうに問いかける檻也に、篭也は素直に頷くことはせず、咄嗟に否定してしまった。自身の神と同じ言葉を使ったあの男の存在を、今はまだ明かしてはならないと、咄嗟にそう、思ったのである。
「それより、檻也が何故ここに?言ノ葉は?」
「言ノ葉の忌は一掃された」
問いかける篭也へ、檻也が問われることをわかっていたかのように、冷静に言葉を返す。
「波城灰示が言ノ葉を、人の言葉を守ったんだ」
「……っ」
檻也の言葉に、篭也が眉をひそめる。
―――この先で、我のかつての友が二人、戦っておる…―――
緑呂の言葉から、灰示が伍黄と戦っていることは予想がついていた。だがそう聞いてはいても、かつて戦ったあの男が、人間の味方をしているなど、どうしても想像出来なかった。
「波城、灰示が…」
「ああ」
ゆっくりとその名を繰り返した篭也に、檻也が強く頷きかける。
「……っ」
篭也が顔を上げ、緑呂の指差した先を見つめる。
「灰示…」
名を呼んだ篭也は、まるで仲間を気遣うような、不安げな表情を見せていた。
「ううぅ…うっ…うぅ…」
斬り裂かれた全身から、ポタポタと赤い血を滴り落とさせながら、灰示が必死に踏ん張り、何とか倒れていた体を起き上がらせる。無理な動きに、体中の傷から、さらに血が流れ落ち、灰示の表情は大きく歪んだ。
―――“痛い”…“痛い”…―――
「…………」
頭の中に響き渡る自らの声に、灰示が少し目を細める。
「何故だ…?」
「……っ」
前方から聞こえてくる問いかけに、灰示は俯けていた顔を、ゆっくりと上げた。
「何故だ?灰示…」
灰示の血であろう、赤い液体を滴らせた刀を右手に、伍黄は戸惑いの表情で、まっすぐに灰示を見つめた。
「何故、お前はそうまでして…人間の味方をする…?」
伍黄の静かな問いかけが、灰示へと向けられる。
「思えば、お前は昔からそうだった…人間に興味を持ち、よく人間を見つめに行っていた…」
伍黄の言葉に、灰示がかすかに下を向く。
「何故だ?」
改めて、問いかける伍黄。
「人間たちがお前に、一体何をくれた?」
戸惑う伍黄の、問いかけが続く。
「響き割れる声を、眠れぬ夜を、引き裂かれる胸を、絶望の日々をくれただけだろう?」
伍黄の続く声が、かすかに震える。
「奴等は何も与えてなどくれなかっただろう!?“痛み”以外、何もっ…!」
徐々に伍黄の声が、大きくなっていく。
「なのに何故、お前はそんなにも人間の味方をするんだ!?灰示…!」
「……っ」
強く問いかける伍黄を見つめ、灰示がそっと目を細める。
―――君も…“痛い”の…?―――
脳裏を過ぎる、初めて差し伸べられた、小さな小さな手。
「くだらない、ことだよ…」
そっと答えながら、灰示がその場でゆっくりと立ち上がる。
「本当に、くだらない…だから…」
微笑んだ灰示が、その赤い瞳で伍黄を見つめる。
「君にはきっと…何百年生きたって一生、理解出来ないっ…」
「クっ…!」
挑戦的になる灰示の笑みに、伍黄が大きくその表情を歪め、右手の刀を強く振り上げる。
「“焼け”!」
「……っ」
伍黄の繰り出す炎に、灰示も血だらけの手を振り上げ、真っ赤な針を構える。
「“放て”…!」
炎へ向け、針を投げ放つ灰示。二人の丁度、中間地点で、針の纏った真っ赤な光と、真っ赤な炎が勢いよくぶつかり合い、どこまでも暗かったはずの空間を一気に照らし出す。
「“破”!」
灰示がぶつかり合っている力の後方から、さらに、衝撃波を放つ。ぶつかり合っていた力は、その衝撃波に押し出され、巻き込まれるような形で一つとなり、伍黄へと向かっていく。
「や…」
避ける素振りは見せず、冷静に口を開く伍黄。
「“痩せろ”」
伍黄が言葉を発すると、伍黄へと向かっていた三つもの力の塊は徐々にその規模を縮小し、速度も落としていく。
「力の弱体化…?」
小さくなっていく力を見つめ、灰示が眉をひそめる。
「“焼き払え”」
弱々しくなった小さな力の残骸を、伍黄が刀を一振りして、あっという間に掻き消す。
「“八つ裂け”…!」
さらに刀を振り、灰示へと赤い光の塊を放つ伍黄。
「“奔れ”…!」
灰示が言葉を発し、目にも留らぬ速さでその場を移動して、伍黄の放った言葉から逃れる。駆け出した灰示は、逃れるだけでなく、素早く新たな針を構え、伍黄へと投げ放った。
「“焼け”…!」
向かってくる針を、焼き落そうと刀を振るう伍黄。真っ赤な炎が、灰示の針を巻き込んでいく。
「“爆ぜろ”…!」
「なっ…!」
針が炎に包まれたその瞬間、針は周囲に弾け飛び、勢いよく爆発した。
「うがああぁっ…!」
炎も巻き込んで、その勢力を増した爆発をもろに受け、後方へと吹き飛ばされる伍黄。暗がりの地面に、伍黄の体が崩れ落ちる。
「ハァ…ハァ…」
右手に新しい針を出しながら、灰示が額に流れる汗を拭う。傷だらけの全身では、一つの言葉を使うだけでも、相当の負担がかかっていた。
「ううぅ…うっ…」
爆発に巻き込まれ、体のところどころに傷を負った伍黄が、苦しげな声を漏らしながら、ゆっくりとその体を起き上がらせる。負った傷からは、赤い血が流れ落ちる。
―――“痛い”…“痛い”…―――
「五月蝿いっ…」
頭に響く、もう数えきれないほどに聞いて来たその言葉に、伍黄が声を震わせる。
「五月蝿いぃぃっ…!!」
溢れる怒りをぶつけるように、叫びあげ、伍黄が鋭く刀を突き出す。
「“夜光”…!」
「……っ!」
突き出された伍黄の刀から、飛び出してくる高速の光に気付き、灰示が大きく目を見開く。
「熟語…!ううぅぅっ…!」
灰示に考える間を与えることもなく、その高速の光は、あっさりと灰示の腹部を貫いた。灰示の見開かれていた瞳が、さらに大きく開くと、今度はゆっくりとその瞳が細められていく。
「あ…うぁ…」
声にならない声を落としながら、血の流れ落ちる腹部を抱え込み、その場にしゃがみ込んでいく灰示。
「ううぅっ…!」
両膝を床についた灰示が、堪えるように、首を項垂れる。
「苦しいか?灰示…」
刀を軽く振り切って、伍黄がどこか単調に、灰示へと問いかける。
「それが、“痛み”だ」
「……っ」
放たれる言葉に、俯いたままの灰示が、少し表情を動かす。
「それが、何百年もの長い時間、俺たちを苦しめ続けた“痛み”だ、灰示」
伍黄が強調するように、さらに言葉を続ける。
「なぁ?灰示…」
問いかけるような声を発しながら、伍黄がゆっくりとした足取りで、しゃがみ込んでいる灰示へと歩を進める。
「お前は言ったな。“この広い世界のどこかには、きっと、悪意ある言葉を発しない人間もいる”と…」
言葉を静かに続けながら、足音を響かせ、灰示へと近付いていく伍黄。
「そんな人間を探すと言って、お前は俺と緑呂の前を去っていったよな…?」
やがて灰示の前へと辿り着き、伍黄が足を止める。
「見つかったか?そんな人間は」
どこか試すように、伍黄が問いかける。
「“八つ裂け”!」
「うあああああっ…!」
伍黄の振るった刀に斬り裂かれ、灰示が血を撒き散らしながら、さらに後方へと吹き飛ばされる。壁へと背をぶつけると、灰示は壁にもたれかかり、座りこんだまま、力なく体の動きを止めた。
「うぅ…うっ…」
「居なかっただろう…?」
弱々しい声を落とす灰示に、伍黄が冷たく言葉を投げかける。
「そんな人間は…この世界の、どこにもっ…」
「…………」
伍黄から突き付けられる言葉に、灰示がそっと目を細める。
「居なかった、よ…」
「……っ」
小さな、聞き取ることがやっとの言葉を発する灰示に、伍黄が少し眉をひそめる。
「悪意ある言葉を、人を傷つける言葉を…一つも口にしない人間なんて、この世界のどこにも居なかった…」
灰示がどこか、哀しげな笑みを浮かべる。
「そうだろう?」
灰示の言葉を受けた伍黄が、満足げに微笑み、大きく両手を広げる。
「だから、なぁ灰示。この世界から“痛み”を消し去る為には、人の言葉を消し去る以外っ…」
「でも」
伍黄の言葉を、灰示が強く遮る。
「でも、代わりに見つけた」
灰示が穏やかで、晴れやかな笑みを見せる。
―――言葉の中に“悪意”が潜んでいたとしても、それでも…言葉の中には“救い”もあるって、俺はそう信じてる…!―――
―――君も…“痛い”の…?―――
―――じゃあ、じゃあさ…―――
「“救い”ある、言葉を…」
噛み締めるように微笑んだ灰示が、きつく胸元の服を握り締める。
「だから、僕は守る…」
服を握り締める手をそのままに、灰示がそっと顔を上げる。
「人間たちの、言葉を」
「……っ!」
誇らしげに微笑む灰示のその笑顔を見て、伍黄は見るからに不快そうに、強く表情を歪めた。
「ならば…そんなに人間共の言葉が好きならばっ…」
しゃがみ込んだままの灰示へと、勢いよく刀を振り上げる伍黄。
「その言葉と共に死ね…!!」
「……っ」
振り下ろされる刀に、そっと目を細め、唇を噛み締める灰示。
「ごめん、ね…」
灰示の赤い瞳が、ゆっくりと閉じられていく。
「保っ…」
灰示の声が、小さく落とされた。




