Word.42 あラタナル闇 〈4〉
「グっ…うぅぅ…」
倒れた緑呂が、床を両手で強く押し、何とか起き上がろうと上半身を起こす。
「このっ…」
顔を上げた緑呂が、何とか上げた左手を、前方に立つ篭也へと向ける。
「“破”…!」
緑呂の左手から放たれる、巨大な衝撃波。
「…………」
篭也は迫り来る衝撃波を、落ち着いた表情で見つめ、そっと鎌を振り上げた。
「“返せ”」
「うっ…!」
振り下ろされた鎌により、あっさりと弾き返って来る衝撃波に、緑呂は大きく目を見開いた。
「ああああああっ…!」
立ち上がれてすらいなかった緑呂に、さらに自らの衝撃波が降り注ぎ、緑呂は再び壁へと打ちつけられる。あまりに強い衝撃に、少し壁が崩れ落ちた後、緑呂は力なく、その場に倒れ込んだ。
「ううぅ…う…」
もうほぼ原型のない、緑呂の身につけていた鎧兜。唯一残った仮面の向こうから、緑呂が声にならない声を漏らす。
「これほどまで、とはな…」
緑呂がどこか、自嘲するような声を発する。
「我も…ここまで、か…」
―――バァァァァン!
「……っ」
緑呂が諦めるように弱々しく、言葉を発したその時であった。遠くの、空間のさらに奥の方から、大きな衝撃音が響いてきて、緑呂たちの居る空間までもを、かすかに揺らす。
「戦いの音…?」
その衝撃音に気づき、篭也がゆっくりと振り返る。
「ここまで響いてくるとは…余程、激しい戦いが行われているのか…」
「…………」
篭也が表情を曇らせる中、倒れたまま、じっと床を見つめた緑呂が、何やら考え込むように黙り込む。
―――人間たちが、悪意ある言葉を言わなくなればいいのに…―――
「灰示…」
―――人間どものすべての言葉を奪い去り、俺たちは、この“痛み”から解放される…―――
「伍黄…」
かつての友の言葉を思い出し、その友の名を呟き、緑呂は握り締める拳に、さらに力を入れる。震えるその拳からは、強く握られ過ぎたのか、血が滲み始めていた。
「まだ、終われぬよな…我らの、数百年、はっ…」
言葉を発しながら、ゆっくりと、徐々に体を起こしていく緑呂。
「そうだ…まだ、終わらせるわけにはいかんっ…!」
「……っ」
勢いよく立ち上がる緑呂に、篭也が驚いたように眉をひそめる。
「“呼び、起こせ”…!!」
今までのどの言葉よりも強く、その言葉が放たれたその瞬間、立ち上がった緑呂の周囲から、真っ黒い光が柱のようにき上げられ、そのまま天井まで伸びていく。
「あれは…」
その黒い光を見上げ、表情を曇らせる篭也。
「忌の力を…増幅させているのか…」
そう呟き、篭也が鋭い瞳を見せる。
「はぁっ…はぁっ…」
黒い光の中心で、大きく息を切らしながら、言玉を握り締めたままの右手を振り上げる緑呂。
「すべての“痛み”よ…」
乱れた呼吸の中、緑呂がそっと、声を落とす。
「我に力をっ…!“砕”…!」
周囲を噴き上げていた黒い光が、緑呂の右手へと集約し、右手に覆いかぶさるようにして、刃の形を作っていく。黒い光で形成された刃を、緑呂は勢いよく振り上げた。
「はあああああっ…!」
「……っ!」
刃を振り上げ、まっすぐに駆け込んでくる緑呂に、篭也は少し驚いたような顔を見せる。
「正面攻撃かっ…」
そう言いながら、鎌を振り上げる篭也。
「“駆け…!……っ」
言葉を放ち、その場から去ろうとした篭也であったが、ふと何かが過ぎった様子で言葉を止め、緑呂の向かってくるその場に残った。
「来いっ…!」
緑呂の刃を受け止める姿勢を全開に示し、篭也が鋭く鎌を構える。
「はああああああっ!」
篭也へと勢いよく、刃を振り切る緑呂。
『……っ!』
篭也の鎌と、緑呂の黒い刃が、正面から強くぶつかり合う。
「クっ…!」
「グゥ…!ウゥ…!」
互いに一歩も譲らない、力勝負をする篭也と緑呂。武器を伝ってかかる、相手の重みに、二人はそれぞれに表情をしかめた。
「グウゥゥ…!」
「……っ」
力の攻防が続く中、すぐ目の前にある緑呂の体から、徐々に漏れ始めている、黒い影のようなものに気付き、篭也はそっと眉をひそめた。
「あなたは…」
「何も言うな…」
「……っ」
言葉を投げかけようとした篭也であったが、その声は、緑呂によって遮られてしまった。緑呂のどこか悟ったような声に、篭也が表情を曇らせる。
「この世界にとって…我らは、何であったのだろうな…」
「えっ…?」
不意に放たれる問いかけに、篭也が戸惑うように首を傾げる。
「生まれたその瞬間から…“痛み”に魘され、眠りも出来ずに…ただ苦しいだけの時間を生きて来た…」
武器を交えたまま、緑呂が物静かな声を続ける。
「その苦しみから解放されたいと願っても…行き着く先は、消滅のみ…」
「……っ」
緑呂の言葉を至近距離で聞きながら、篭也がそっと目を細める。
「世界にとって…我らの存在は、何かに成り得たのだろうか…」
緑呂が刃を構えたまま、深く俯く。
「それとも…何でもなかったんだろうか…」
「…………」
俯いた緑呂を、篭也が細めた瞳のまま、まっすぐに見つめる。
「さぁな」
緑呂の問いかけに対し、篭也は素っ気なく、とても短い答えのみを放った。
「僕はまだ、生まれてたったの十六年しか経っていない人間だ」
篭也が素っ気ない声を、緑呂へと向ける。
「長い時を生きて来たあなたたちのことも、世界のことも、到底わかりはしない」
答えではない言葉を、緑呂へと向ける篭也。
「だから、今の僕が、あなたに出来ることがあるとすれば、一つ」
篭也の瞳が、強く光る。
「もう二度と、あなたたちのような存在を生み出さないと、誓うことだけだ」
「……っ」
篭也の言葉に、俯いていた緑呂が、その顔をかすかに動かす。
「それくらいだ」
「…………」
その言葉を聞きながら、緑呂が刃を構えている方ではない、下に下ろしてある左手を、そっと握り締めた。
「本当に不思議なものだ…言葉とは…」
穏やかに流れる、緑呂の声。
「それだけで十分と、思わせるのだから…」
ゆっくりと顔を上げた緑呂が、刃に込められていた力を、少しずつ抜いていく。
「……っ」
かかる重さがなくなっていくのを感じながら、篭也はゆっくりと鎌を振り上げた。
「か…」
篭也が大きく、口を開く。
「“刈れ”…!」
「……っ」
放たれる言葉に、そっと目を細める緑呂。
―――パァァァン!
「うううぅっ…!」
振り下ろされた篭也の鎌が、真正面から、緑呂の体を斬り裂いた。血飛沫が舞う中、ゆっくりと、緑呂が後方へと倒れ込んでいく。
「ああぁ…あっ…」
右手を覆っていた黒光の刃が掻き消える中、緑呂は力なく、床へと倒れ込んだ。
「はぁっ…はぁっ…」
篭也が少し息を乱しながら、構えていた鎌を下ろす。
「見事であった…若き五十音士よ…」
倒れたまま、篭也を見上げ、緑呂がそっと声を発する。
「最後に…其方と戦えて良かったよ…」
「緑呂…」
緑呂の言葉に、篭也が少し目を細める。
「これで我も…」
先程の篭也の攻撃がかすめていたのか、緑呂の顔を覆っていた鉄仮面に、勢いよくヒビが入る。
「やっと…逝ける…」
ヒビにより、真っ二つに割れた仮面の向こうから現れたのは、そっと微笑む、燃えるように真っ赤な髪の、まだ若い青年の顔であった。色白の肌に、美しく整った顔立ちはどこか神秘的で、何より、鋭い金色の瞳が印象的であった。
「緑…んっ…?」
やっと素顔をさらした緑呂を見た途端に、篭也が眉をひそめる。
「ん…?どうした?五十音っ…」
「誰、だ…?誰だ…?あなたは…」
「何…?」
問いかける篭也に、緑呂も戸惑いの声を発した。
同刻、韻本部。
「ただいま戻りましたぁ~、言姫様っ」
軽い口調でそう言いながら、韻本部の和音の部屋へとやって来たのは、派手な桃色髪の青年。始忌の一人、桃真に取り憑かれていた、というよりは取り憑かれている振りをしていた、あの青年であった。桃真が消え去った後、アジトを出て、韻本部へとやって来たようである。
「ご苦労さまでした」
扉の方を振り返った和音が、青年を出迎える。
「“毛守”、百井桃雪さん」
「いいえぇ~、お安いご用ですよぉ」
名を呼ばれた桃雪は、和音へと、気のいい笑みを向ける。
「と、言いたいところですけどぉ、今回はさすがにきつかったですねぇ~」
桃雪が途端に、顔をしかめる。
「真っ暗で陰気なとこで、ずぅーっと忌ごっこしてなきゃだったし、言姫様の命令じゃなきゃ、絶対に断ってますよぉ~」
「それは、申し訳ありませんでした」
「うわぁー、心こもってない感じっ」
笑顔で謝罪する和音に、桃雪も少し楽しげに笑みを零す。
「まぁ、無事に終わったからいいですけどねぇ」
桃雪が首を回しながら、気楽に答える。
「さっ、潜入調査してる間のこと、とっとと報告しちゃっていいですかぁ~?」
「ええ。ですが、その前に一つ、私からも報告があります」
「へっ?」
和音の言葉に、桃雪が目を丸くする。
「報告?」
「今朝、芽得町というところで、重傷の一人の青年が発見されました」
首を傾げる桃雪に、和音が言葉を続ける。
「身元を調べたところ、五十音士“与守”、横川鎧であったそうですわ」
「……っ」
和音のその言葉に、桃雪の表情が、険しく変わる。
「どういう、ことです…?与守は確かに、始忌に乗っ取られてたはず…」
「ええ、ですから…」
答える和音が、鋭い瞳を見せる。
「あなたの他にも、始忌の中に潜入された方が、いらっしゃったようですわね…」
「潜入…緑呂に…?」
和音の言葉に、そっと俯く桃雪。
「一体、誰が…?」
「な、何を…言っているんだ…?五十音士…」
戸惑った声を、篭也へと向ける緑呂。
「我は、始忌で…」
「あなたじゃない。あなたが乗っ取っている、その人間のことだ」
「人間の…?」
篭也の言葉に、緑呂が少し確かめるように、自らの手を見る。
「今更、何を言う?我が乗っ取ったのは、与守の五十音士で…」
「あの女教師から、与守の素顔の写真を見せてもらった。だがその顔は、与守とはまるで別人だ」
「何っ…?」
緑呂がさらに戸惑い、眉間に皺を寄せる。
「それに…」
まだ、言葉を付け加える篭也。
「始忌に取り憑かれた人間は皆、赤い瞳を持っていた…だが、あなたの瞳は、赤じゃない」
「えっ…?」
緑呂の赤色ではない、金色の瞳が開かれた、その時であった。
「うううぅっ…!」
緑呂が急に苦しげに声をあげ、右手で頭を抱える。
「な、何だっ…?急に…」
途切れた声を、発する緑呂。
「緑呂っ…?」
突然、様子の変わった緑呂を、戸惑うように見つめる篭也。
「おいっ」
「頭に…何かがっ…」
篭也が呼びかける中、緑呂は徐々にその表情を歪めていく。
「何かが…入り込んでくるっ…!」
「えっ…?」
緑呂の言葉に、眉をひそめる篭也。
「どういうことだ?一体、何だとい…」
「ダメだ!もう…!掻き消されるっ…!!」
「ろ、緑っ…!」
「ああああああああっ…!!」
「……っ!」
激しい叫び声をあげた緑呂の体から、黒い霧状の塊が、勢いよく溢れ出ていく。それは、忌である緑呂の、本来の姿であった。
<イ、イツキっ…ハイジっ…>
黒い霧が、まるで追い求めるように、その手ともわからない体の一部を伸ばす。
<グア…!アアアアアアアっ…!!>
人の体から吐き出された黒い霧の塊は、激しい断末魔を残し、掻き消えるようにして、その存在をこの世界から無くしていった。
「あっ…」
消えていく黒い影を、茫然を見つめる篭也。
「……緑呂が、死んだ…」
先程まで戦っていたはずの緑呂が、突如として消え去り、篭也は動揺した表情を見せる。
「一体…」
「驚いたな」
「……っ」
唖然とした様子で、霧の掻き消えた空中を見つめていた篭也が、後方から聞こえてくる、緑呂のものとは別の声に気付き、目を見開いたまま、どこか恐る恐る、ゆっくりと振り返った。
「いくら、他人の言葉しか使えなかったとはいえ、俺がここまで苦戦するとは、思ってもみなかったよ」
「あっ…」
篭也の振り返った先に立っていたのは、赤い髪に、鋭い金色の瞳の青年。
「あなた、は…」
「ふぅー…」
篭也が困惑した視線を向ける中、少し息をついたその青年が、床に落ちていた白色の言玉を拾い上げ、右手の中で軽く転がす。
「“明かせ”…」
「えっ…?」
そっと落とされたその言葉に、大きく目を見開く篭也。言葉が落ちると、青年の体に刻まれていた、篭也がつけたはずの傷の数々があっという間に消え去り、青年の右手の中の言玉は、その色を白から、真っ赤へと変化させた。
「あ、“明かせ”…?」
青年が放った言葉を、篭也が戸惑うように繰り返す。
「“あ”…?」
混乱するように、表情を曇らせる篭也。
「“あ”の、言葉…?」
「……っ」
戸惑う篭也を前に、青年はどこか冷たい微笑みを浮かべた。




