Word.42 あラタナル闇 〈3〉
その頃。始忌アジト内、篭也 vs 緑呂。
「……っ」
篭也と向き合っていた緑呂が、振り上げようとしていたその腕を、ふと止める。腕を止め、体全体の動きを一瞬止めた後、緑呂はそっと天井を見上げた。
「お前も逝ったか…虹乃…」
緑呂が、仮面の奥から、篭也の耳には届かないほどの小さな声を放つ。仲間である虹乃の気配が消えたことを、察したのであった。虹乃だけではない。桃真も萌芽も、そして碧鎖の気配も、虹乃の気配が消える少し前に、同じように消えてしまった。
「限りない“痛み”で生まれた我らも、残りは三名か…」
「……?」
小さな呟きばかりを落とす緑呂に、向き合っていた篭也が少し首を傾げる。
「どうした?」
「いや…」
問いかける篭也に、そっと首を横に振る緑呂。
「我らは…」
ゆっくりと口を開いた緑呂に、篭也が耳を傾ける。
「我らは、道を、間違えたのやも知れん、と…そう思ってな…」
「……っ」
緑呂の口から放たれたその言葉に、篭也は反応を返すことなく、そっとその表情を曇らせた。
「革新など求めず、ただ、この“痛み”を耐え抜いてさえ居れば…誰も消えずに済んだというのに…」
緑呂の声が、どこか哀しげに響く。
「若き五十音士よ」
緑呂が顔を前へと向け、正面から篭也を見る。
「少しばかり、我の話を聞いてはくれんか…?」
「僕はあなたと戦いに来たのであって、楽しく会話をするつもりはない」
「まぁ、そう言うな」
不快そうに顔をしかめる篭也に、緑呂は微笑んだ声を向ける。
「ほんの少しだけ、聞いてくれ…」
「…………」
願うように放たれるその緑呂の声を、篭也は跳ねのけることが出来ず、ただ静かに、緑呂の声へと耳を傾けた。
「今、この先で…我の古くからの友が二人、戦っておる…」
「二人っ…?」
緑呂の言葉に、眉をひそめる篭也。
「まさか…波城が…?」
「二人は決して、仲が悪かったわけではない。むしろ、とても仲が良かった…」
緑呂が懐かしそうに、話し始める。
「ただ、正反対な二人だった…よく似ているようで、まったく似ていない二人だった…」
表情を曇らせる篭也を前に、緑呂は自分の話を進める。
「この世界から“痛み”が消えることを、誰よりも強く願う二人だったが…人間に対するその感情は、まるで違っていた」
緑呂の声が、穏やかに二人の人物を語る。
「一人は、よく、人間を観察しに、一人で人間の居る場所まで行っていた」
語られる緑呂の話を、篭也は真剣な表情で聞く。
「“痛み”を発する人間だというのに、我らを苦しめる人間だというのに、其奴はとても、人間に興味を持っているように見えた」
天井を見る緑呂は、どこか遠いところを見ているようであった。
「そして、見つめる人間たちが他者を傷つける度、“痛み”が生まれる度、哀しそうに、我らのもとへと戻って来た…」
言葉とともに、その声も哀しく響く。
「もう一人は、出来る限り、人間から離れた場所に閉じこもり、ひたすら、その耳を塞いでいた…」
緑呂の声が、かすかに曇る。
「人間の“痛い”という声が聞こえてくる度、自分を苦しめる人間という存在を、自分の運命を、呪っていた…」
天井を見上げていた緑呂が、ゆっくりとその顔を下ろしていく。
「誰よりも人間に絶望し、誰よりも人間を憎んでいた…」
「……っ」
急に低くなる緑呂の声に、篭也も表情を曇らせる。
「我は、人間に、彼奴ほどの憎しみを抱いてはおらぬ…」
低い声のまま、緑呂が言葉を続ける。
「だが、我は、二番目に生まれた始忌…存在した時にはすでに彼奴はおり、激しく頭に響く、“痛い”という声にも、二人で耐えゆくことが出来た…」
低い声が、暗い部屋に響き渡る。
「ならば、一番目に生まれた彼奴はどうだったのであろう、と…ふと思うことがある」
緑呂が仮面に覆われた顔で、そっと俯く。
「割れんばかりに響くこの無数の声の中、たった一人で…どんな孤独を味わったのであろうと思うと、我の胸も恐怖に震える…」
「……っ」
その言葉を理解するように、目を細める篭也。
「そう思うと、彼奴の底知れぬ憎しみも…無理はないと思った…」
緑呂がゆっくりと、顔を上げる。
「それを思うと、“人間からすべての言葉を奪おう”と言った彼奴を、止めることが出来なかった…」
緑呂の手が、何もない空へと伸ばされる。
「止めることなど…出来なかった…」
「…………」
何もない空を掴んだ緑呂が、その拳をきつく握り締める。そんな緑呂の姿を、篭也は目を逸らすことなく、まっすぐに見つめ続けた。
「其方たち人の言葉に、“後悔先に立たず”という言葉があるな…?」
拳を下ろし、篭也へと問いかける緑呂。
「まったく、その通りだ…」
緑呂が、噛み締めるように、天井を見上げる。
「其方たちは本当に…言葉を生み出すのが上手い…」
どこか感心したように、緑呂の声が響く。
「だがなぁ、五十音士よ…」
緑呂の顔が、再び篭也の方を向く。
「どんなに後悔をしたとしても、一度、踏み出した我らには、退く道などない」
まっすぐ、突き刺さるように、放たれる言葉。
「この道を突き進む他に、戻る道も、進む道も、我らにはないのだ…」
「……っ」
緑呂の言葉を受け、篭也がそっと目を細める。
「あなたたちに、同情するつもりはない」
篭也が鋭く、言葉を投げ放つ。
「あなたたちが言葉を消すというのであれば、僕は全力であなたたちを消す」
「ああ」
はっきりと言い切る篭也に、緑呂は認めるように頷きかけた。
「当然だろう…」
「だが」
「……?」
遮る篭也の声に、少し首を傾げる緑呂。
「なっ…!?」
篭也の姿に、緑呂が驚いた様子で声を漏らす。
「済まなかった…」
そう言葉を放った篭也は、深々と、緑呂へと頭を下げていた。
「な、何をっ…!?」
「詫びて済むこととは思っていない。だが、一度こうせねば、僕の気が済まない」
「馬鹿なっ…!我らを生み出したのは、其方が生まれるよりも遥か前の五十音士だぞ…!?」
「僕は五十音士」
戸惑う緑呂へと答えながら、篭也がゆっくりと、下げていた頭を上げていく。
「すべての言葉から逃げぬと、そう誓った」
まっすぐに緑呂を見つめ、篭也が言葉を続ける。
「だから、どんなに大昔の五十音士が放った言葉であっても、その言葉には責任を持つ」
「……っ」
真剣な篭也の眼差しに、思わず言葉を呑み込む緑呂。
「それが僕の、五十音士としての信念だ」
「…………」
曇りの一つもない、まっすぐな瞳を見せる篭也を、緑呂は黙ったまま、しばらくの間、見つめていた。
「何とも潔いことだな…」
感心するように放たれたその声は、どこか微笑んでいるように聞こえた。
「若き五十音士よ」
呼びかける緑呂に、篭也が続けて視線を送る。
「其方の言葉、確かに頂戴した」
受け取ったことを表すように、緑呂が自らの手を胸へと当てる。
「これで我は、迷いなく戦える」
「ああ」
身構える緑呂に対し、大きく頷いた後、篭也も素早く格子を構える。
「僕も、迷いはない」
「……っ」
はっきりと答える篭也に、仮面の奥の緑呂が、そっと微笑んだような気がした。
「“過ぎれ”…!」
緑呂が白い言玉を持った右手を突き出し、言葉を放つ。すると、緑呂の右手から、無数の白い光の刃が放たれ、まっすぐに篭也へと向かっていく。
「か…」
右手に持った格子を空中へと放り出し、篭也が大きく口を開く。
「“囲え”」
空中で六本へと分かれた格子が、篭也の前に立ちはだかり、緑呂の放った白光の刃を、一つとして残すことなく受け切る。
「“変格”」
攻撃を防ぐと、すぐに一本に戻った格子を手の中へと戻し、その形を鎌へと変える篭也。
「“刈れ”…!」
篭也が鎌を振り下ろし、緑呂へと赤い一閃を向けた。
「よ…」
向かってくる一閃を見つめながら、緑呂が口を開き、言玉を構える。
「“避けろ”」
緑呂が言葉を放った途端、緑呂の体が白い光に包みこまれ、その体が、足も動かしていないというのに、わずかに横へとずれる。ずれた緑呂のすぐ真横を、通り過ぎていく篭也の一閃。
「今のは…」
「“浴せ”」
「……っ」
戸惑っている篭也へと、さらに言葉を投げかける緑呂。今度は白く光る滝のような大波が、篭也のもとへと押し迫って来る。
「“固まれ”…!」
篭也が鎌を振り上げ、言葉を放つと、篭也へと迫り来ていた大波が、凍りつくようにして一瞬で固まり、大波の形を作ったまま、空中でその動きを止める。
「ふぅ…」
目の前で止まった波を見上げ、篭也がどこかホッとしたように一息つく。
「素早い反応だ」
波の向こうから、感心するような声が聞こえてくる。
「さすがは、安附の中でも最強の加守、といったところか…だが」
「……っ?」
付け加えられる緑呂の声に、篭也が少し眉をひそめる。
「“蘇れ”」
「なっ…!」
緑呂が言葉を放つと、凍りついていた大波の氷部分に勢いよくヒビが入り、あっという間にそのヒビが全体へと駆けていくと、氷が砕け、再び動き出した波が、篭也へと襲いかかった。
「うっ…!うああああ…!」
今度は止めることの出来なかった篭也が、降り注ぐ大波に呑み込まれる。
「グっ…うぅ…」
波が掻き消えると、そこには苦しげに倒れ込む篭也の姿があった。体の所々に傷を負い、その傷から赤い血を流している。
「だが、三言衆と呼ばれる“与守”の力を、そうナメてかからぬことだな」
「……っ」
強気に言い放つ緑呂を見つめ、少し眉をひそめる篭也。
「よくもそこまで、人の言葉を使いこなせたものだな」
「我らは元々、言葉より生まれた存在…」
篭也の言葉に、緑呂がすぐさま反応する。
「言葉のことは、人よりもわかっている」
「……そうか…そうかも、知れないな…」
緑呂に頷きかけながら、篭也が素早く、傷を負った体を立ち上がらせる。
「だが、僕も言葉の戦士…」
立ち上がった篭也が、両手で鎌を握り直す。
「言葉の強さで、負けるわけにはいかない…!」
両手で持った鎌を、高々と上空へと放り投げる篭也。
「“鎌鼬”…!」
「……っ」
鎌が上空で激しい風の塊となり、さらにその勢いを増して、緑呂のもとへと駆け込んでいく。
「熟語か…」
分析するように呟きながら、右手を振り上げる緑呂。
「“避けろ”…!」
緑呂が先程と同じように、その体を白い光に包み込ませ、わずかにその体を動かして、鎌鼬の直線上から逸れる。
「“重なれ”」
「何っ…!?」
篭也がさらに言葉を放つと、鎌鼬が分裂するように二つになり、横へと広がって、避けたはずの緑呂を、その射程距離へと入れる。
「重語狙いか…」
もう“避けろ”の言葉を使うことの出来ない緑呂が、少し曇った声を発する。
「ならばっ…」
すぐに、右手を構え直す緑呂。
「“抑止”…!」
緑呂が力強く言葉を発し、直前へと迫ってきていた鎌鼬を、何とか抑え止める。
「あちらも熟語か…」
言葉を止められた篭也は、そっと眉をひそめた。
「“寄れ”!」
「うっ…!」
緑呂が新たに言葉を放つと、止められていた篭也の鎌鼬がその向きを真逆に変え、戻って来るようにして、篭也へと迫り来る。
「クっ…!“変われ”!」
少し表情を険しくしながら、篭也が素早く言葉を放ち、向かってきた鎌鼬を、元の鎌の姿へと戻して、その右手の中に、きつく握り締める。
「“刈れ”…!」
「“過ぎれ”!」
一閃を放つ篭也に対し、緑呂もすぐさま、無数の刃を投げかける。赤と白の二つの光は、二人の間で、勢いよくぶつかり合った。
「ううぅ…!」
「グっ…!」
互いの言葉を打ち破った一部の光が降り注ぎ、篭也と緑呂がそれぞれ、後方へと弾き飛ばされる。
「ハァ…ハァ…」
少し息を乱しながら、額に流れ落ちる汗を拭う篭也。
「強い…さすがはロ級といったところか…」
そう呟きながら、篭也が厳しい表情を見せる。
「ふぅ…」
一方の緑呂は、一部砕けた、鎧の右手部分をすべて払い落し、大きく一息ついて、肩を落とした。
―――痛い…―――
「……っ」
頭の中に響いてくるその声に、緑呂が少し俯く。
「後、何度…」
緑呂がゆっくりと、言葉を発する。
「後何度…この言葉を聞けば、我らは解放されるのだろうな…」
誰へともなく問いかけた緑呂が、その場で立ち上がり、言玉を持った右手を突き上げた。
「“装え”」
言玉から放たれた白い光が、緑呂の鎧で覆われた体を、さらにその上から包んでいく。
「ん…?」
光に包まれると、勢いよく地面を蹴り、篭也のもとへと駆け込んでくる緑呂に、篭也が少し眉をひそめる。
「飛び込んでくる気かっ…?」
戸惑うように呟きながらも、向かってくる緑呂へ向け、篭也が鎌を構えた。
「“刈れ”…!」
篭也が鎌を振り下ろし、赤色の一閃を放つが、緑呂は言葉を発することもなく、そのまま駆け込み続けてくる。
「直撃する気か…!?」
そんな緑呂の様子に、さらに戸惑った表情を見せる篭也。
「……っ」
「んな…!」
緑呂が避けようともしなかったため、緑呂の体へと見事に直撃した篭也の一閃であったが、緑呂の体に当たった途端、まるで金属にでも衝突したような、甲高い音を響かせた後、一閃は軽々と弾き飛ばされてしまう。その光景に、篭也が驚いた様子で目を見開く。
「まさか…さっきの言葉は身体強化…?」
「終わりだ、五十音士」
「うっ…!」
篭也の攻撃を弾いた緑呂が、篭也のすぐ目の前まで辿り着き、その足を止める。鋭く振り上げられる緑呂の右手に、篭也は身構える間もなく、大きく目を見開くだけであった。
「“砕”…!」
「ううぅっ…!」
突き出された緑呂の右手が、勢いよく篭也の胸部を貫く。
「うぁ…あぁ…」
苦しげに漏れる、篭也の声。
「これで…」
目の前の篭也を見つめ、緑呂がどこか安堵したような声を発する。
「これで…我らは…」
「“霞め”」
「なっ…!?」
一つの言葉が落ちると同時に、緑呂が貫いたはずの篭也の体が、徐々に霞み、消えていく。
「ざ、残像っ…!?」
「か…」
「うっ…!」
消えた篭也に、焦っていた緑呂が、すぐ背後から聞こえてくる声に、振り返ろうと体を動かす。
「“刈れ”…!」
「クっ…!」
だが緑呂が振り返り切る前に、緑呂のすぐ後ろへと立った篭也は、緑呂に鎌を振り切った。
「うわあああああっ!」
篭也の一閃に斬り裂かれ、緑呂が勢いよく吹き飛ばされる。
「ううぅ…!」
壁へと打ちつけられ、床に崩れ落ちる緑呂。その身につけていた鎧の右半分が崩れ落ち、鎧の奥まで届いた傷口から、赤い血が滴り落ちた。




