Word.42 あラタナル闇 〈2〉
「“行け”!弓象!」
「パオォォォン!」
今まで以上に声を張り上げた虹乃に応え、弓象が足を捕らえていた花の茎や蔓を引き裂いて、力ずくでその巨体を解放する。自由になった弓象が、囁へと突進していく。
「“結え”!」
「……“遮れ”っ」
またしても囁の体を絡め取ろうと伸びてきた弓象の鼻を、囁が前方に赤い光の膜を張って遮る。囁へと向かっていた鼻は、その膜に正面から激突した。
「ふぅ…」
「それで防いだつもりっ?」
「え…?」
挑戦的に言葉を投げかける虹乃に、囁が表情を曇らせる。
「“融解”っ」
「……っ!」
微笑んだ虹乃の言葉とともに、融け始める囁の膜。
「熟語…!」
融けていく膜を見つめながら、囁がその表情に焦りの色を浮かべる。
「“結え”!弓象!」
「うっ…!」
融けた膜の向こうから、再び伸びてくる弓象の鼻。
「“遮っ…!……っ」
言葉を放とうとした囁だが、すぐに唇を噛む。
「同じものを、同じ言葉ではっ…」
同じ言葉で二度、同じものを防ぐことの出来ない、五十音のルールにより、囁は発せられる言葉を失ってしまう。
「ううぅ…!」
弓象の鼻が囁の体を絡め取り、囁の体を軽々と、上空まで振り上げた。
「いい眺めね…」
「クっ…!」
高々と舞い上がった囁を見上げ、涼しげに言葉を放つ虹乃。そんな虹乃の姿を見下ろし、囁は厳しい表情を作る。
「今度こそ、めっちゃくちゃにしてあげるっ」
虹乃が冷たく微笑み、囁へと右手を伸ばす。
「“逝け”…!」
「うっ…!」
虹乃の右手から放たれた、雨のような、鋭く尖った、無数の細い金色の刃が、上空の囁へと一斉に飛び出していく。
「ああああああっ…!」
全身を刃で貫かれ、激しく悲鳴をあげる囁。赤い血が、天井から床へと飛び散る。
「ううぅ…!うっ…」
弓象の鼻から解放された囁は、傷だらけの体で、床へと墜落した。鈍い音が響くと、無地の床に、囁の赤い血が広がっていく。
「“痛い”、“痛い”…」
少し耳を澄ませながら、虹乃がゆっくりと囁のもとへと歩み寄って来る。
「痛いほど、聞こえてくるわぁ。あんたの声がっ」
「はぁ…はぁ…」
息を乱しながら、顔を上げ、やって来る虹乃を見上げる囁。
「ホント、“痛い”ほどっ」
煩わしそうに吐き捨てた後、囁のすぐ前にしゃがみ込んだ虹乃が、床に力なく流れたままの、囁の右手を手に取った。
「“歪め”…」
「……っ!ああああああっ…!」
言葉と同時に、不自然な方向に曲がる囁の手。曲がった途端に激しい痛みが走り、囁は思わず、大きな声をあげた。
「ううぅ…うぅっ…」
「キャハハハっ」
蹲り、必死に痛みを堪える囁の姿に、虹乃が楽しげな笑みを浮かべる。
「“痛い”、“痛い”っ」
その楽しげな笑みとは、真逆の言葉を繰り返す虹乃。
「あぁ~、“痛い”っ」
「……っ」
そんな虹乃を前に、囁は痛みに苦しむことも忘れ、どこか見入るように虹乃を見つめていた。
「聞こえる、の…?私の“痛み”が…」
「勿論、聞こえるわよぉ。頭が割れそうなくらいっ」
笑顔で答える虹乃に、囁がそっと目を細める。
「だから嫌、もう嫌っ…こんな声は、“痛み”に苛まれるだけの存在は、もう嫌っ」
まるで我が儘を言う子供のように、ただ、ただ、言葉を続ける虹乃。
「こんな“痛み”は消さなきゃっ…だから、だから言葉を消さなきゃっ」
「…………」
言葉を続ける虹乃を、囁はまっすぐに見つめる。
「けど…言葉を消せば、あなたも消えるわ…」
「……っ」
放たれた囁の言葉を聞いた途端、虹乃の方の言葉は止まり、虹乃は言葉だけでなく、浮かべていた笑みも止めた。
「嫌よ…消えたくないわ…」
ゆっくりと首を横に振りながら、虹乃が少し低い声を漏らす。
「絶対に、消えたくないっ…」
「何故…そこまで、消えることを嫌がるの…?」
まるで願うように呟き続ける虹乃に、囁がそっと疑問を投げかける。
「あなたたちはただ、生じただけの存在…死ぬのではなく、ただ、消えるだけなんでしょう…?」
俯いたままの虹乃へと、まっすぐに視線を向ける囁。
「なのに何故…そんなに消えることを、恐れるの…?」
「だって…」
囁の問いかけに、虹乃が小さく口を開く。
「だって…やっと、手に入れたのよっ…?自分の体を、自分の言葉を、自分の存在をっ…」
その存在を確かめるように、虹乃が両手で自らの体を抱く。
「この後も虹乃は、きっと見つけていくの…!自分の道を、自分の未来を、自分の世界をっ…!」
顔を上げ、徐々に声を張り上げていく虹乃。
「だから消えたくないのっ!消えるのがっ…!」
不意に途切れる、虹乃の言葉。
「消える、のが…」
「……っ」
もう一度、繰り返した虹乃に、囁はそっと目を細めた。
「恐い…?」
虹乃の言葉の続きを補うように、その言葉を口にする囁。
「それはね、あなたが死ぬから…」
囁が、諭すように言葉を続ける。
「あなたが、“命”だからよ…」
「……っ!」
囁の言葉に、虹乃は大きく目を見開いた。
「あなたが選べる道は、私たち人と同じ…“痛み”と共に生きていくか、死ぬか…それだけよ」
「嫌…」
虹乃がすぐさま言葉を発し、拒むように首を横に振る。
「嫌よ、嫌…!嫌っ…!!」
立ち上がった虹乃は、徐々に強く首を振り、必死に言葉を繰り返す。
「私は生きるの…!“痛み”からも解放されて、自由になって、生き続けるのっ…!」
後方へと飛び下がり、囁と距離を取った虹乃が、囁へと右手を向ける。
「“破”!」
「……っ」
衝撃波を放つ虹乃を見て、目を細めた囁が、折られた左腕を下に垂らしたまま、右手だけで床に落ちていた槍を持ち、その刃先を衝撃波へと向ける。
「“逆らえ”…!」
突き出された槍先から、赤い光の玉が放たれると、その玉は向かってきていた衝撃波を弾き返し、衝撃波をも巻き込んで、虹乃へと襲いかかっていく。
「えっ…?」
目の前へと迫る赤い光に、焦った表情を見せる虹乃。
「ゆ、弓ぞっ…うぅっ…!」
弓象を呼ぶ間もなく、光が虹乃に降り注ぐ。
「きゃああああっ…!」
光を正面から受け、虹乃が勢いよく後方へと吹き飛ばされていく。
「ううぅ…う…あっ…」
さらに傷の増えた体を、すぐに起き上がらせた虹乃が、床に強くつけた自分の右手を見て、その表情を曇らせる。
「これ…って…」
弓の体であるその手から、黒い霧のようなものが、漏れ始めていた。媒体である弓の体から、忌である虹乃の体が、漏れ始めているのである。
「嫌…嫌っ…」
溢れ出る黒い影に、拒否するように、強く顔をしかめる虹乃。
「虹乃は消えないっ…!虹乃は存在し続けるのっ…!!」
必死に叫び、虹乃が勢いよく立ち上がる。
「弓象!“行け”!」
「パオオォォン!」
虹乃の強い言葉に応えるように、弓象も今までで一番の大きな鳴き声を発し、大きく地面を揺らして、囁のもとへと突っ込んでいく。
「……っ」
傷だらけの体を立ち上がらせ、冷静な表情で、向かってくる弓象を見つめる囁。
「さ…」
槍を構えた囁が、そっと口を開く。
「“叫べ”…!」
大きな赤色の光の塊が、まっすぐに弓象へと向かっていく。
「パっ…!」
そのあまりに強い光に、思わず足を止める弓象。
「パオオォォォォンっ…!」
「うあっ…!」
赤い光に掻き消されるようにして消えていく、弓象の金色の巨体。弓象が消え、金色の言玉が力なく床へと落ちると、虹乃は目を見開いたまま、茫然と立ち尽くした。
「そんな…弓象っ…」
「…………」
「うっ…!」
弓象の消えたその向こうから、突き刺すように向けられる囁の鋭い視線に、虹乃が思わず背筋を震え上がらせる。
「け、消すのっ…?虹乃を…」
どこか震えた声で、足を二、三歩下げながら、虹乃が囁へと問いかける。
「ええ…殺すわ…」
「……っ!」
はっきりと答える囁に、目を見開く虹乃。
「消えたく、ないのっ…死にたくないのよ!虹乃っ…!」
「そんなの、皆、そうだわ…」
必死に訴える虹乃へと、冷静な言葉を放ちながら、囁が歩を進め、徐々に虹乃との距離を縮めていく。
「私だって、死ぬのは恐い…命ある者は皆、自らの死を恐れるものよ…」
「じゃあっ…!」
「けれど…その体は、あなたのものじゃない…」
「……っ」
囁の言葉に一瞬、目を輝かせた虹乃であったが、続くようにして放たれた言葉に、一気に浮かべたばかりのその笑顔を掻き消した。
「あなたがそこで生き続ければ…本来、そこで生きようとしていた子の道も、未来も、世界も…すべてが閉ざされてしまう…」
―――私はもう二度と、仲間を捨てて逃げたりしないっ…!―――
仲間の為に立ちはだかった、まっすぐな瞳の少女の姿を思い出し、囁がそっと目を細める。
「だから私は…あなたが生き続けることを、認めるわけにはいかない…」
「…………」
告げられたその言葉に、虹乃は今までのように取り乱すことなく、一瞬、ひどく落ち着き払った表情を見せた。
「何よ、そんなのっ」
すぐさま虹乃が、冷たい微笑みを浮かべる。
「虹乃は認めるわぁっ。この五十音士は、虹乃が生きていく為の道具になるのっ!」
虹乃がさらに口角を吊り上げ、大きく両手を広げる。
「あんたたちが虹乃たちを戦争を治めるための道具にしたようにっ、虹乃もあんたたちを道具にしてやるわぁ!」
歩み続ける囁へと、右手を突き出す虹乃。
「“破”…!」
右手から繰り出された衝撃波が、まっすぐに囁へと向かっていく。
「“遮れ”…」
囁がそっと言葉を放つと、すぐさま囁の目の前に赤い光の膜が張られ、虹乃が放った衝撃波を簡単に弾き飛ばした。そのまま囁は歩を進め、虹乃のすぐ前までやって来る。だが目の前に立った囁を前に、虹乃がそれ以上、言葉を放つことはなかった。
「…………」
「さ…」
まっすぐに見つめる虹乃を前に、囁がゆっくりと口を開く。
「“咲き誇れ”」
「ううぅっ…!」
床から勢いよく伸びた色取り取りの花たちが、一斉に虹乃の体を突き刺した。
「ああぁ…あっ…」
苦しげな声を漏らしながら、虹乃がゆっくりと、その赤色の瞳を閉じていく。
<アアア…アア…>
すると次の瞬間、虹乃の、いや弓の体が床へと崩れ落ち、その体から抜け出るようにして、黒い影の塊が現れた。黒い影の中で、赤い二つの光が、弱々しく揺らめく。
「それがあなたの…本当の姿ね…」
槍を下ろした囁が、まっすぐにその黒い影を見つめる。
<やっと…>
黒い影から届く、虹乃の声。
<やっと…手に入れたのに、な…>
光る赤色の瞳が、倒れた弓を見つめる。
<お化粧の…出来る顔、も…オシャレの出来る…体も…>
未練ある黒い影の手が、少しだけ弓の方へと伸びる。
<やっと…>
「…………」
そんな虹乃の姿を見つめながら、そっと目を細める囁。
「私は神じゃないから…あなたを救う術は持たないわ…だから…」
囁が真剣な表情を、虹乃へと向ける。
「だから…今度は、神に祈ることの出来る形で、生まれて来なさい…」
<……っ>
囁のその言葉に、虹乃の瞳が少し、微笑んだような気がした。
―――パァァァァン!
目を逸らすことなく囁が見つめる中、その黒い影は、散り散りになって、やがて、跡形もなく消えていった。
「……“さようなら”」
天を仰いだ囁が、小さく別れの言葉を口にする。
「んん、んっ…」
「……っ」
下方から聞こえてくる声に気付き、囁が視線を下ろす。小さな声を漏らしたのは、床に倒れている弓であった。虹乃が消え、その体は解放されたはずである。
「んん…?あれ…?」
倒れたままの弓が、ゆっくりとその大きな瞳を開く。虹乃が残した厚い化粧は多少残っているが、その開かれた瞳は、透き通るような茶色で、虹乃の真っ赤な瞳ではなかった。
「気がついた…?」
「えっ?」
すぐ横にしゃがみ込んだ囁が声を掛けると、弓は戸惑いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「囁、さん…?」
弓はその大きな瞳で、戸惑うように囁を見つめる。
「あの、私…えっと、ここは…?」
体を起き上がらせた弓は、周囲を見回し、見慣れないその光景に、さらに戸惑った様子で首を傾げる。
「あの、私は一体…」
「大丈夫よ…」
問いかけようとした弓の言葉を、囁がそっと遮る。
「もうすべて…終わったから…」
そう言いながら、囁が少し視線を落とす。
「もう悪夢は…醒めたから…」
「囁さん…?」
囁の浮かべた笑みは、どこか哀しげで、見つめる弓は、ただ不思議そうに首を傾げた。




