Word.40 違エシ道 〈3〉
「ふぅ…」
アヒルの前を去った灰示は、まるで明かりのない道を迷いなく進みながら、一息つくように、深々と息を落とした。
「……っ」
息を落とした灰示が足を止め、そっと目を細める。
「いつまで、付いてくるんだい…?」
横を振り向き、誰へともなく問いかける灰示。
「さすがにちょっと、鬱陶しいんだけど…」
「…………」
灰示の問いかけたその先の暗闇から、灰示の前へと姿を現したのは、始忌の一人、萌芽であった。萌芽は鋭い視線を、灰示へと浴びせる。
「こんなところで僕を追い回しているくらいなら、侵入した五十音士の排除にでも行ったらどうだい…?」
萌芽の鋭い視線にも動じることなく、灰示が挑発的な問いかけを向ける。
「安の神様なら、そこに居たよ?一人、もうやられていたみたいだったけど…」
「なら何故、お前はあいつを排除しなかった…?」
「……っ」
鋭く問いかける萌芽に、灰示がかすかに表情をしかめる。
「かつて仲間だった神には、その針を向けられないか?」
「くだらないね…」
萌芽の問いかけを、そっと笑い飛ばす灰示。
「僕と彼は仲間じゃないよ。排除しなかったのは、今、そういう気分じゃないから」
「そんな言葉を、俺が信じると思うか?」
素早く言葉を返し、萌芽がさらに鋭く灰示を睨みつける。
「俺はお前が信用出来ない」
「……っ」
はっきりと言い切る萌芽に、灰示は少し眉をひそめる。
「人と、五十音士と共に在ったような者を、俺は仲間として信じようとは思えない」
萌芽が突き刺すような視線を、灰示へと向ける。
「例え伍黄が何と言おうと、俺はお前を信用する気はない」
「別に、信用して欲しいとも思ってないよ」
強く言葉を続ける萌芽に、どこか開き直ったように言い放つ灰示。
「僕らは“痛み”より生まれた存在…他者と分かり合えるようになんて、元から出来ていないんだしね」
「ならば…」
萌芽がゆっくりと、白い右手をあげる。
「俺がここでお前を殺してしまっても仕方無い、ということだな…」
「…………」
殺気を見せ、身構える萌芽に、灰示がそっと目を細める。
「ああ、仕方の無いことだよ…」
灰示が向き合うように、萌芽の方を見る。
「僕らは、“痛み”しか知らない生物だからね…」
「……っ」
冷たく微笑み、灰示は右手に真っ赤な針を構える。その灰示の様子を見て、萌芽は少し距離を取るように後方へと飛び、真っ白な二本の腕を、灰示へと向けた。
「消えろ!“破”!」
灰示へ向け、大きな衝撃波を向ける萌芽。
「……“阻め”」
そっと言葉を落とし、灰示が針を一本放つと、針は萌芽の衝撃波に突き刺さり、衝撃波の動きが、その場でピタリと止まった。
「“撥ねろ”」
止まったままの衝撃波にもう一本、針が突き刺さると、衝撃波は萌芽の方へと勢いよく戻っていく。
「チっ…」
少し顔をしかめながら、上空へと飛び上がり、戻って来た衝撃波を避ける萌芽。
「よくもまぁ、ぬけぬけと五十音士の言葉ばかりをっ…」
「…………」
「なっ…!?」
気に食わぬ様子で呟いていた萌芽が、気配に気づき、飛び上がった状態のまま、さらに上へと顔を向けると、そこには静かな表情で、針を身構えた灰示の姿があった。
「いつの間にっ…!」
「は…」
必死に身構えようとする萌芽を下方に、灰示がそっと口を開く。
「“磔”」
「うっ…!」
言葉と共に、赤い雨のように、萌芽に降り注ぐ無数の針。
「うぐぅ…!」
そのまま勢いよく地面へと落下した萌芽が、強く背中を打ちつける。
「ク…!グクっ…!」
萌芽の体を貫き、さらに地面まで鋭く突き刺さった無数の針に捕らえられ、地面に張り付けになったまま、動きを封じられてしまう萌芽。必死に足掻きながら、その表情を引きつる。
「クソっ…!」
「…………」
「なっ…!?」
もがく萌芽を横目に見た後、あっさりと背を向け、その場を歩き去っていこうとする灰示に、萌芽が驚いた様子で、大きく目を見開く。
「ま、待てっ…!どこへ行く気だ!?」
「どこへ…?」
萌芽の問いを繰り返しながら、灰示がゆっくりと、萌芽の方を振り返る。
「くだらない問いかけだね…」
「うっ…」
灰示の浮かべたその冷たい微笑みに、思わず言葉を呑み込んでしまう萌芽。
「折角だけど…君に“痛み”を与えている時間はないんだ…」
落ちついた口調で、灰示が萌芽へと言葉を向ける。
「少し…やることがあるんでね…」
鋭い赤色の瞳を見せ、灰示はその場を後にした。
「灰示…」
一方、アヒルは、灰示の消えていったその場所を、しばらくの間、見つめ続けていた。
「って、ボーっとしてる場合じゃねぇなっ」
気を取り直すように、勢いよく顔を上げるアヒル。
「とっとと、皆の後追わねぇとっ。行くぞ?ガァスケっ」
「グワァ!」
ガァスケの頷きを確認すると、アヒルは急いで、その広い空間を駆け出していった。
「…………」
誰も居なくなり、騒がしかった空間が、やっと静まりかえる。
「……ふぅっ」
静まり返っていたそこに、一つ落とされる小さな息。どこか疲れたような息をつきながら、その空間で起き上がったのは、気を失い、倒れていたはずの桃真であった。いや、始忌の桃真はすべに消滅しているので、正確には、桃真に取り憑かれていた五十音士の青年である。始忌から解放されたからか、その瞳は忌の象徴である真っ赤な瞳ではなく、どこか冷たい真っ青な瞳であった。
「はぁ~あ。意識保ったまま、忌に取り憑かれとくってのも、結構ダルかったなぁ」
少し腕を伸ばしながら、青年がその場でゆっくりと立ち上がる。
「さてとぉ」
青年がアヒルの駆け去っていった方を振り向き、そっと目を細める。
「面倒だけど、言姫様に連絡にでも行こうかなぁ」
そう呟き、青年はどこか不敵な笑みを浮かべた。
その頃、言ノ葉町。
「“捩れ”…」
言玉を吸収した大きな瞳を、緑色に輝かせ、向かってくる忌たちへとその視線を向ける、禰守の音音。
『ギャアアア!』
音音へと向かって来ていた忌たちは、その霧状の体を掻き回されるように捻られ、叫び声とともに消えていった。
「はぁ…はぁ…」
忌を撃退した音音が、かすかに息を乱す。肩は少し上下に揺れ、額からは汗が流れ落ち、その表情からは確かな疲れが感じ取れた。
『グアアアア…!』
「うっ…!」
そんな音音に、更なる忌の大群が迫り、音音が思わず表情を引きつる。
「“満ちれ”」
『ギャアアアアア!』
「あっ…」
そこへ、横から大きな波が押し寄せ、音音へと向かって来ていた大群を、一気に掻き消していった。そのまま流れていく波を、音音が少し唖然をした表情で見送る。
「大丈夫ですか?禰守さん」
その場に姿を現し、音音へと声を掛けたのは、相変わらず指先で眼鏡を押し上げている、雅であった。
「美守…」
互いに名を知らぬ二人が、五十音士としての呼び名で呼び合う。
「恩に、着なくもない…」
「微妙な言われ方ですね」
歯切れの悪い言葉を投げかける音音に、思わず引きつった表情を見せる雅。
『グアアアアア!』
『……っ』
けたたましい叫び声に、二人が同時に振り向く。前方には、先程掻き消したばかりだというのに、溢れんばかりの忌が存在していた。
「悪夢でも見ているようだ…」
「…………」
音音のうんざりとしたような言葉を聞きながら、雅がそっと目を細める。
「さすがに、そろそろ限界ですよ…為介さん」
そう呟いた雅の額からも、焦りの汗が流れ落ちた。
一方、『いどばた』。
「はぁっ…!はぁっ…!はぁっ…!」
大きく肩を揺らし、激しく息を乱しているのは、七架の弟、六騎であった。
「うっ…!うぅ…」
六騎が、どこか力尽きたように、その場にぺたりとしゃがみ込む。すると、六騎の横に立っていた、金色の光の馬が、一瞬にして掻き消え、金色の言玉が力なく床へと落ちた。
「ありゃりゃ、ついに電池切れですかぁ~」
「無理もない。言葉に目醒めたばかりな上に、あいつはまだガキだ」
しゃがみ込んだ六騎を見つめ、冷静に言葉を交わす、為介と恵。
「店に入って来た忌を、ほぼ一人で倒したんだ。初戦にしては、上出来だろう」
「そうですねぇ~お陰で僕らは、戦わずに済みましたしぃ」
扇子を扇ぎながら、為介が恵の言葉に暢気に頷く。
「でもこっから先は、どうしますぅ~?」
窓際へと歩いて行きながら、為介が恵へと問いかける。
「雅くんたちも、いい加減、限界っぽいですよぉ~?」
「……っ」
為介の問いかけにそっと目を細め、恵が厳しい表情を見せる。
「間に合わないか…」
恵が窓の外の暗い空へと、視線を投げかける。
「朝比奈…」
言ノ葉町、南西部。
「“鉄拳”!」
『ギャアアアア!』
緑色に輝く拳を繰り出し、向かってきた忌を殴り飛ばしたのは、天守の徹子。悲鳴とともに、徹子を取り囲んでいた忌が一斉に消える。
「ふぅ…痛っ!」
一息ついていた徹子が、不意に表情をしかめ、右手を抱え込んだ。光の止んだ拳は、真っ赤に腫れ上がっていた。
「嫌ですわねぇ…白魚のような、乙女の拳なのにっ…」
腫れ上がった拳を見つめ、険しい表情を見せる徹子。
「グアアアアア!」
「なっ…!?」
拳を見下ろしていた徹子へと、新たな忌が飛び込んでくる。
「うっ…!」
すでに至近距離に迫った忌に、拳を構える暇すらない徹子は、きつく唇を噛み締めた。
「“正拳”突きぃぃ!」
「ギャアアアア!」
そこへ現れた誠子が、徹子へと向かって来ていた忌の上空から飛び降りてきて、重力の勢いもそのままに拳をぶつけ、あっという間に忌を掻き消す。
「大丈夫ですか?徹子」
「誠子お姉さま!」
忌を消し、そのまま地面へと着地した誠子に声を掛けられ、徹子が嬉しそうな笑みを浮かべる。
「助かりましたわっ」
声を弾ませ、誠子のもとへと駆け寄っていく徹子。
「私、拳が腫れ上がってしまって」
「私もですわ」
そう言った徹子に、誠子も真っ赤に腫れ上がった右手を差し出した。
「まったく、スプーンよりも重いものを持ったことのない、乙女の拳ですのに…」
「苦戦しているのでしょうか?エリザ様たち」
「そのようですわねぇ」
徹子の問いかけに、誠子が厳しい表情を作る。
「このままでは…」
『グアアアアア…!』
「あっ…!」
「誠子お姉さま!」
不安げな表情を見せた誠子の後方から、群れを成して襲いかかって来る忌たち。振り返った誠子が大きく目を見開き、徹子が必死に誠子の名を呼ぶ。
『グっ…!』
すぐに拳を出すことも出来ず、表情を引きつる誠子と徹子。
「“貫け”」
その時、落とされる言葉。
『ギャアアアア!』
「えっ…?」
金色の閃光のようなものが一瞬、空中を駆け抜けたかと思うと、二人に襲いかかろうとしていた忌たちが、激しい叫び声をあげて、一斉に掻き消えていった。大量に居たはずの忌が消え、一気に広がった視界に、誠子が戸惑うように声を漏らす。
「だ、大丈夫ですの!?誠子お姉さま!」
「今、の…」
駆け寄る徹子を余所に、茫然とした表情を見せる誠子。
「今の、言葉は…」
「ふぅっ…」
挙げていた手を下ろし、ホッとしたように一息ついたのは、ツバメであった。人気のない学校の屋上から、あちこちで戦いの繰り広げられている言ノ葉の町を見下ろしている。
「大丈夫かな…?誠子ちゃんたち…」
どこか心配するように、声を落とすツバメ。
「ねぇ…?スズメ…」
「ああんっ?」
ツバメが振り返ると、そこには、屋上に大の字に寝そべりかえり、相変わらず、“恋盲腸”の本を読んでいるスズメの姿があった。
「邪魔すんなよ、ツバメ。今、ヒトミが先生に激甘アタックしてる、超いい場面なんだからさぁっ」
「はぁ…」
強く言い放つスズメに、ツバメが呆れきった溜息を漏らす。
「呪っちゃおうかな…」
「はい!何でございましょうかぁ!?ツバメくん!」
不気味に呟き、どこからともなく藁人形を取り出すツバメに、スズメが素早く本を閉じて、その場から起き上がる。
「どうするの…?これから…」
「へぇっ?」
問いかけるツバメに、起き上がったスズメが目を丸くする。
「どうするってぇ?」
「さっきより忌が倍増してる…もう、於の神たちだけじゃ、止められないよ…」
聞き返すスズメに、ツバメが真剣な表情を向ける。
「もう忌を言ノ葉だけには留めておけない…このまま忌が広がれば、世界が…」
「そりゃ、信じるしかねぇんじゃねぇのぉ?」
ツバメの言葉を少し遮り、スズメがはっきりと言い放つ。
「“安の神”って奴をっ」
「……っ」
強調されるスズメの言葉に、ツバメはそっと眉をひそめた。
「……もどかしいものだね…神を信じるだけっていうのも…」
再び町を見下ろし、ツバメはどこか不安げな表情を見せた。




