Word.40 違エシ道 〈2〉
始忌の一人、桃真の力により、自身の“痛み”に囚われてしまったアヒルであったが、謎の声と差し伸べられた手により、救出された。そして、“痛み”から抜け出たアヒルの前へと現れたのは、同じく始忌の一人としてアヒルたちに敵対をする、灰示であった。
「俺に、聞きたいこと…?」
真剣な眼差しを向ける灰示に、アヒルが少し首を傾げる。
「何だぁ?」
「…………」
暢気な笑みを浮かべ、素直に聞き返すアヒルに、灰示が少し唖然とした様子で見つめる。
「ハァ…」
「あっ?」
深々と溜息をつく灰示に、アヒルが目を丸くする。
「んだよ?質問内容、忘れたか?」
「違うよ。少し呆れていただけさ」
問いかけるアヒルに、肩を落としながら答える灰示。
「君は、武器を構えもしないんだね」
「へっ?」
呆れたように言い放つ灰示に、アヒルが間の抜けた声を漏らす。
「僕は敵だよ?敵が武器を構えているというのに、何を、丸腰のまま、聞き返しているんだい?」
「だって、必要ねぇだろ?」
灰示の問いかけに、アヒルはすぐさま問いかけで返す。
「お前に俺を攻撃する気があんなら、もうとっくにその針、投げまくってるさっ」
アヒルが浮かべた笑みを、さらに大きなものとする。
「一回、戦ってんだ。それくらい、わかるって」
「……っ」
そのアヒルの微笑みを見つめ、少し目を細める灰示。
「……くだらないね」
口癖であるその言葉を、灰示は小さく落とした。
「んでぇ?俺に聞きたいことってのは?」
「……君は…」
聞き返すアヒルに、灰示がゆっくりと口を開く。
「君は、人が言葉を話すままでも、すべての“痛み”を無くすことが、出来ると思うかい…?」
「えっ…?」
その灰示の問いかけに、少し驚くように目を見開くアヒル。
「ず、随分といきなりな質問だなっ」
「…………」
「……っ」
突発的な灰示の問いかけに、思わず笑みを浮かべたアヒルであったが、灰示の真剣な表情を見ると、すぐにその笑みを止め、そっと目を細めた。
「ああ!勿論!」
大きな笑顔を見せたアヒルが、自信を持って頷く。
「……っ」
そのアヒルの笑顔に、途端に曇る灰示の表情。
「そう…」
「なぁーんてなっ」
「えっ…?」
そっと俯き、灰示が頷こうとしたその時、アヒルの覆すような声が聞こえてきて、灰示は戸惑うように顔を上げた。
「でっかい声で自信持って、そう言い切れたらいいんだけどな…」
浮かべていた笑みを薄くして、アヒルが視線を下へと向ける。
「けど、悪い。俺には、はっきり“出来る”だなんてこと、言えねぇ」
その力ない笑みを、アヒルは顔を上げ、灰示へと向けた。
「人の心は繊細で、そこに通う言葉ってのは、すごく難しいっ…」
アヒルがそっと、目を細める。
「何気ない言葉でも、言い方一つで、相手を傷つけちまったり、受け止め方一つで、自分で勝手に傷ついちまったりする…」
―――アーくんが言ったんだよ?“いなくなれ”って―――
―――違う…違うんだよ…!カー兄!―――
言葉を続けるアヒルの脳裏に、先程、アヒルを捕らえたアヒル自身の“痛み”、カモメの姿が過ぎる。
「何年経ったって、消えない“痛み”も、忘れられない“痛み”もあるから…」
カモメを思い出しながら、きつく自分の左手を握り締めるアヒル。
「人が言葉を話していく限り、“痛み”を無くすことなんて出来ないんじゃないかって、正直、俺は思う」
「…………」
はっきりと言い切るアヒルに、灰示は少し目を細める。
「じゃあ、“痛み”を無くすには、人を、人の言葉を、消すしかないと…?」
「そ、それは…!」
問いかける灰示に、アヒルは思わず声を張り上げた。
「それはっ…駄目だ…」
「何故…?」
灰示が、戸惑う表情をアヒルへと向ける。
「何故、駄目なんだい…?矛盾していないかな?安の神様」
鋭い灰示の瞳が、アヒルを突き刺す。
「人が言葉を持ったままでは、“痛み”は無くせないと、君は言った…」
アヒルを見つめたまま、灰示が言葉を続ける。
「なら、すべての“痛み”を消し去るためには、人の言葉を無くすしかない。違うかい…?」
「それはっ…」
灰示の言葉に、アヒルが思わず口ごもる。
「違わない…違わねぇけどっ…でも駄目だ!言葉を無くすなんてことはっ…!」
「何故、そうまでして、言葉を守るんだい…?」
声を張り上げたアヒルへ、灰示は不思議そうに問いかけた。
「言葉は“痛み”を生むばかり…」
煩わしそうに、灰示が声を低くする。
「人が言葉を持たぬ生物であったなら…君も、その“痛み”を抱えずに済んだかも知れないというのに…」
「えっ…?」
そっと人差し指をアヒルの心臓辺りへと向ける灰示に、アヒルが少し驚いた表情を見せる。
「僕ら始忌には、人の心の中の“痛い”という声が聞こえてくる…」
「声…?」
灰示の言葉に、首を傾げるアヒル。
「今も聞こえてくる…君の“痛い”という後悔の声が…」
「…………」
アヒルがそっと、視線を落とす。
「君だけじゃない…保も、君の他の仲間も、人は皆、何かしらの“痛み”を抱えている…」
そう言いながら、灰示がアヒルを差していた指を下ろした。
「不思議な生物だ、人は…」
灰示が少し上空を見上げ、遠くを見るような瞳を見せる。
「褒められた言葉よりも、傷つけられた言葉ばかりを、まるで大事なもののように、その心に刻んでいる…」
「別に、刻んでるわけじゃねぇーさ…」
「……っ」
アヒルの声に、灰示が視線を、天井から下ろしていく。
「勝手に刻まれてくんだ。傷ついた言葉や、傷つけちまった言葉ってのは」
刻まれた心に触れるように、左手を左胸へと当てるアヒル。
「勝手に、なんてことはないよ」
「えっ…?」
否定する灰示の言葉に、アヒルがゆっくりと顔を上げる。
「君たちは自分で刻んでいる。傷つけられた言葉を、憎しみとして」
灰示の突き刺すような瞳が、まっすぐにアヒルへと向けられる。
「傷つけた言葉を、戒めとして」
「……っ」
強調されるように放たれる言葉に、そっと目を細めるアヒル。
―――兄ちゃんなんて、いなくなればいいんだ!―――
「……そう、かも知れねぇな…」
灰示の言葉に動かされたからか、アヒルは考えを変え、ふと笑みを浮かべた。
「何故、そうまでして…自分の心を刻んでまで、言葉を話す必要があるんだい…?」
再び不思議そうな表情を見せ、問いかける灰示。
「言葉を無くせば、君たちはその“痛み”から解放される…逆に言葉を話し続ければ、永遠に“痛み”から逃れることは出来ない…」
灰示の刺すような瞳が、アヒルへとまっすぐに向けられる。
「君たち人が、言葉を話す必要は、どこにある…?」
「…………」
静かな表情で、アヒルは灰示の問いかけを受け止める。
「わからねぇ…」
小さく、声を落とすアヒル。
「そんな難しい質問の答え、俺はまだ、持ってない…」
俯いたまま、アヒルが言葉を続ける。
「もしかしたら、人だってまだ、その答えを見つけられてないかも知れねぇ」
「答えも知らぬまま、ただ話し続けているというのかい…?」
「ああ」
灰示の問いかけに頷いたアヒルが、ゆっくりと顔を上げる。
「だからそれが、“答え”なんじゃないかと思う」
「えっ…?」
顔を上げ、微笑んだアヒルのその言葉に、灰示がそっと眉をひそめる。
「言葉から生まれるのが、本当に“痛み”だけなら、人だってさすがに、話すの止めると思うんだ」
アヒルが笑みを大きくし、口調を少し弾ませる。
「それでも人が、長い間、言葉を話し続けてるってのは、言葉が生むのが“痛み”だけじゃない証拠だろ?」
アヒルが手を広げるようにして、灰示へと問いかける。
「人が言葉を話す必要があるって、証だろ?」
「……っ」
その言葉に、そっと目を細める灰示。
「それが…」
「へっ?」
口を開く灰示に、アヒルが目を丸くする。
「それが、君の言う“救い”だと…?」
―――言葉の中には“救い”もあるって、俺はそう、信じてるっ…!―――
アヒルと灰示が初めて戦った時、アヒルは灰示に、言葉の中には、“痛み”だけでなく“救い”もあるのだと、そう強く主張した。灰示の問いかけに、アヒルは笑みを止め、そっと俯く。
「……わからねぇ」
少し間を置いた後、アヒルがゆっくりと答える。
「言葉の受け取り方って、人それぞれ違げぇから、俺がそう思ってたって、誰かにとってはまるで違うもんかも知れねぇし…」
「わからないことの多い神様だね、君は…」
「ハハハっ、確かにな」
灰示の言葉に頷きながら、アヒルは再び笑みを浮かべた顔を上げた。
「悪いな。お前の問いかけに、何にも答えられなくてっ…」
「いや…」
「へっ?」
どこか否定するように言葉を挟む灰示に、アヒルが戸惑うように首を傾げる。
「くだらなくはなかったよ、君との会話…」
「灰示…?」
「これで僕も、答えが出せそうだ…」
「……っ」
気持ちの晴れたような笑みを浮かべる灰示を見つめ、アヒルは少し目を細める。
「お礼を言うよ。安の神様」
灰示が浮かべた笑みを、アヒルへと向ける。
「じゃあね…」
「あっ…」
軽く右手を上げて、アヒルへと背を向ける灰示に、アヒルが思わず身を乗り出す。
「お、おい!どこ行くんだよ!?」
「敵の君に、言う必要はないよ」
必死に問いかけるアヒルへ、振り向かずに、声だけを返す灰示。
「灰示っ…!」
「……っ」
アヒルに強く呼び止められ、奥へと消えようとしていた灰示は、ゆっくりとアヒルの方を振り返った。
「何だい…?」
「お前のっ」
問いかける灰示に、アヒルは大きく口を開ける。
「お前の、望みは何だっ…!?」
アヒルが真剣な瞳を、灰示へと向ける。
「……僕の望みは…」
少し間を置いた後、灰示がゆっくりと口を開く。
「僕の望みは、この世界からすべての“痛み”を無くすことだよ」
「……っ」
迷いなく答える灰示を見て、アヒルはその姿を焼き付けるように、目を見開いた。
「そうかっ」
その灰示の答えに、満足したような笑みを浮かべるアヒル。
「…………」
笑顔を見せるアヒルに灰示も薄く笑みを浮かべると、灰示はそのままアヒルへ背を向けると、黒い霧のようになって、その場から掻き消えていった。




