Word.38 罪無キ痛ミ 〈4〉
――――確かにそこは、地獄だった。
―――痛い…痛いよ…痛い…―――
止むことなく聞こえてくる声が、頭から、耳から、僕を蝕んでいくようだった。聞こえ続ける声に、眠ることさえ許されないこの体で、僕は、生まれてすぐに死にたいと思った。でも、死に方もわからない。本当に生きているのかも、わからない。
「声の聞こえて来ない場所を探す?」
僕と同じ黒い影は、どこか驚いたように聞き返してきた。
「ハっ、冗談だろ?ハイジ」
仲間のイツキが、何となく決まった僕の名前を呼ぶ。
「この世界に、この声の聞こえて来ない場所なんてない。この世界に、人間が生きている限りな」
「でも、探す…」
僕はもう一度、主張した。
「このまま、この場所に居ることは…もう耐えられない…」
「お前がそう言うなら、止めはしない。俺やロクロも、生まれてすぐはそうだったからな」
冷静な、どこか悟りきってしまったような声が、返って来る。
「だが、一つだけ覚えておけ。ハイジ」
イツキは強く、僕を見た。
「どこまでも行けば行くほど、お前は人間に絶望する。それだけだ」
「…………」
すべてを諦めたような、言葉だった。
そうして僕は、どこまでも、どこまでも、行き続けた。
―――痛い…!痛いぃっ…!―――
「ううぅっ…」
でも、声の聞こえて来ない場所なんて、無かった。北の果てに行っても、南の果てに行っても、その声は聞こえてくる。その声は、僕を蝕み続ける。
「うるさい…」
必死に耳を塞いでも、聞こえてくる。
「うるさいっ…!」
どんなに拒絶しても、聞こえてくる。
「もう…嫌だっ…」
そこに在ったのは、確かな、絶望だった。
それから、数えきれない程、長い時が流れた。
「今日も…聞こえる…」
長い時の中で僕は、聞こえてくる声にも、それしか見えない絶望にも、すっかり慣れてしまっていた。どんなに大きな声が響いても、もう何の感情も湧かないほどに、僕は疲れ切っていた。
「消えたい…」
僕の望みは、それだけ。
「死にたい…」
他の望みなんて、何一つない。
―――痛い…―――
「……っ」
そこへ、声が聞こえてきた。特に大きくもない、か細い、弱々しい声。強く響いたわけでもないのに、その声だけが何故か際立って、まるで呼んでいるように、僕の耳に届いた。
「な、に…?」
呼ばれた気がして、呼ばれるがままに、僕はその声のもとへと急いだ。自分が何故、こんなことをするのか不思議だったが、行かずにはいられなかった。
「痛い…」
声の主は、まだ幼い子供だった。
「痛いっ…痛いよぉっ…!」
小さな体で、泣き叫ぶ子供。すべてを失った、深い悲しみが痛みとなって、強く僕に訴えかけてくる。痛みを嘆くその声は、幼いからか、ひどく純粋で、他のどんな声よりも強く、僕まで届いた。
「……っ」
その声にまた呼ばれて、僕は子供へと近付いていく。
「誰…?」
痛みを嘆くその子供は、涙をいっぱい溜めた瞳で、僕の、禍々しい姿を捉えた。
「君…」
小さな手が、臆することなく、僕へと伸ばされる。
「君も、“痛い”の…?」
………………――――
「……っ!」
大きく目を見開き、飛び起きたのは、灰示であった。そこは、先程まで保の眠っていた寝台である。寝台の上で起き上がった灰示は、ゆっくりと右手をあげ、自らの額に触れた。
「夢…」
夢だというのに鮮明に残る映像を思い出し、灰示が少し眉をひそめる。
「……くだらないね…」
呆れたように呟くと、灰示はすぐに寝台を降り、暗い空間を戸惑うことなく突き進んだ。やがて、始忌の皆がいる部屋へと、灰示が辿り着く。
「ん…?」
部屋へと入って来た灰示に、緑呂が気付く。
「もう良いのか…?灰示」
「まるで問題ないよ」
緑呂の問いかけに答えながら、灰示が部屋の中を進み、奥の椅子に腰かけている伍黄の方へと歩み寄っていく。灰示がすぐ前で立ち止まると、俯いていた伍黄がゆっくりと顔を上げた。
「どうした?灰示」
「少し、記憶が飛んでる…」
問いかける伍黄へと、視線を投げかける灰示。
「保が?」
「保…?ああ、お前が取り憑いている人間の名か」
眉をひそめる灰示に対し、伍黄はどこかわざとらしく答えた。
「出て来ていたよ、さっきまでな」
「保と話を…?」
「ああ」
「……っ」
頷く伍黄に、灰示はあからさまに表情を曇らせる。
「何だ?俺とは、会話をさせるのも嫌か?」
「別に。妙な詮索をされるのが、嫌いなだけだよ」
「詮索、ねぇ」
灰示の言葉を繰り返し、伍黄がそっと目を細める。
「まぁ確かに、興味は湧いている。あれほどに煩わしく、痛みの声を発している人間と、何故、お前が共に在るのか…」
試すような口調の伍黄に、厳しい表情を見せる灰示。
「だが、あの人間に聞いたところで、わからなかった。残念ながらな」
「保に忌のことを?」
「知られたくなかったか?」
「…………」
微笑んで問いかける伍黄に、灰示は答えを口にしない。
「あのような人間と共に在るとは…本当に、お前は何を考えているのか…」
伍黄が椅子から立ち上がり、体の向きを変えて、灰示へ背を向ける。
「僕は…」
「ん?」
灰示の声が聞こえ、伍黄がゆっくりと振り返る。
「僕は、この世界から“痛み”を消すことしか、考えていないよ…」
「……ああ、知っている」
灰示の言葉に頷き、楽しげな笑みを浮かべる伍黄。
「次の忌を撒く準備をしろ、灰示」
伍黄が灰示へと、指示を飛ばす。
「俺たちの手で、この“痛み”ある世界を終わらせるんだ」
「……そうだね…」
伍黄の言葉に、灰示は反論することなく、頷いた。
一方、その頃。始忌のアジトへの潜入に成功したアヒルたち。
「“抉れ”…!」
『ギャアアアア!』
前方に立ち塞がっていた忌の群れを、エリザが足を振り上げ、一瞬にして消し去る。
『グアアアアアっ…!』
「うっ…」
だが消し去った忌の後方から、すぐに新しい忌の群れが現れ、エリザは思わずその表情を引きつった。
「ったく、キリがないわねぇ」
「このまま相手してたんじゃ…始忌のところに行った頃にはクタクタよ…?フフフ…」
「言えてるっ」
不気味に微笑む囁の声に、大きく頷くエリザ。
「要は誰か一人が足止めして、他が始忌のところへ行けばいいのよねっ」
「そうだな」
エリザの意見に、アヒルも賛同する。
「じゃあ頼むわ、ザべス」
「エリザよ!ってか、何で私なのよ!?」
迷うことなくエリザを指名するアヒルに、エリザが不満この上ない表情で聞き返す。
「君がやればいいでしょ!?」
「俺はダメだ。灰示に用がある」
「ああぁ~、もうっ」
強く主張するアヒルに、仕方ないとばかりに頷くエリザ。
「じゃあ他がっ…!」
「僕は神附きだ。神と共に行く」
「私も神附きだから…神様を守らないと…フフ…」
「私も安附なので、出来れば朝比奈くんと一緒が…そのっ…」
「…………」
振り向いたエリザへと、口々に答える篭也、囁、七架の三人。その似たり寄ったりな答えを聞き、エリザが引きつった表情のまま固まる。
「ハハハっ!完全ハブだな!ザべス!」
「うっさいわね!」
勢いよく笑い飛ばすアヒルに、怒鳴りあげるエリザ。
「私だってねぇ一応、目白恵に君のこと、頼まれっ…」
「エリザ」
「えっ…?」
珍しく、間違えることなく呼ばれる名に、エリザが発していた言葉を途中で止めた。
「頼む」
アヒルが真剣な表情で、まっすぐにエリザを見る。
「俺たち、安団で決めたことなんだ」
仲間を見回し、アヒルが言い放つ。
「弓を、ヤ行の奴等を、絶対に助けるって」
「…………」
迷うことなく放たれるその言葉に、エリザはそっと目を細めた。
「わかったわよ。ただし、君への貸し二つ、これで一個減らさせてもらうからねっ」
「ああ。サンキュ、エリザ!」
渋々と頷くエリザに、アヒルは大きな笑顔で礼を言う。
「向こうにある突き当たり、とりあえずそこまで行きましょう」
エリザが右足から言玉を戻し、再び指先へと吸収させる。
「“描け”!」
緑色に輝く指先をエリザが振るうと、空間中に広がる忌の上空に光の橋が描かれ、忌の向こうに見える突き当たりの壁まで、一気に伸びた。
「走って!」
「おう!みんな!」
アヒルが皆を先導するように、その描かれた光の橋の上を駆け抜け、忌たちを一気に追い越して、壁際まで突き進んでいく。突き当たりは曲がり角になっており、さらに暗い空間へと続く道が広がっていたが、今までの道のように、忌の姿はなかった。
「ここから先に忌はいないようだな」
「君たちは先に行って」
続く道を見つめ、篭也がそっと目を細めると、一番最後尾で壁際へとやって来たエリザが、架かっていた橋を消しながら、指示を飛ばす。
「私はここに壁作って、忌を足止めするから」
「そんなことしたら、エリザベスさんの退路がなくなっちゃうんじゃっ…」
「大丈夫なのか?」
七架と篭也が、少し不安げな表情をエリザへと向ける。
「私を誰だと思ってるの?そんなこと言って、神への暴言で処分されても知らないわよっ?」
「物凄い自信ね…フフフ…」
偉そう極まりない態度を見せるエリザに、囁が感心するように微笑む。
「エリザなら大丈夫だって。何せ、衣の神様のだもんなっ」
「よくわかってるじゃないっ」
エリザを信頼しきった笑顔を見せるアヒルに、エリザも得意げに笑う。
「ここはエリザに任せて、先へ進もう」
「ああ」
「了解よ…フフフ…」
「エリザベスさんも、気を付けて」
「ええ」
アヒルの言葉に、素直に頷く篭也と囁。心配するように声をかける七架に、エリザは笑顔で答えた。
「じゃあっ」
「あ、アヒル」
「へっ?」
先へと足を踏み出そうとしたアヒルを、エリザが呼び止める。
「何だ?」
「私が足止めしてあげてるんだから」
エリザが強い瞳を、まっすぐにアヒルへと向ける。
「しくじったりしたら、蹴り倒すわよっ」
「……っ」
大きく笑って言い放つエリザに、アヒルもその表情から笑みを零した。
「ああっ!」
アヒルがしっかりと、頷く。
「行こう!」
「ああ」
強く言葉を放ち、アヒルが勢いよく先頭を駆け出していく。アヒルの言葉に頷いた篭也たちも、次々とアヒルの後を続いた。遠ざかっていくアヒルたちの背を、エリザが少しの間、見送る。
「さてとっ」
背を見送ることを止め、指先をあげるエリザ。
「“描け”…!」
エリザが指を動かし、曲がり角の手前へと、長方形を描き、壁を作り出す。作り出されていく光の壁の向こうに、駆けて行くアヒルたちの姿が消えていく。
『グアアアアアっ…!』
「…………」
目の前へと迫り来る大量の忌を見つめながら、エリザが指先から右足へと、言玉を移動させた。
「衣の神の名に懸けて、ここから先は、一歩も通さないわっ」
無数の忌へ向け、エリザは力強く言い放った。
『ハァ…!ハァ…!ハァ…!』
エリザに忌を足止めしてもらったアヒルたちは、忌のいない長く暗い道を、ひたすらに駆け抜けた。十分程駆け抜けたところで、細長い道は終わり、ただ何も見えない、真っ暗な空間へと出る。
「ここは…?」
「真っ暗…これじゃ、何にも見えないね」
その空間へと出たところで立ち止まり、囁と七架が周囲を見回す。だが、辺りは本当に真っ暗で、目を凝らしても、暗闇しか見えてこなかった。
「神」
「ああ。ガァスケ」
篭也の呼びかけに頷いたアヒルが、右手の上に乗っているガァスケを見る。
「“明るくなれ”!」
「グワァっ!」
アヒルが言葉を放つと、ガァスケが大きく口を開き、その中から赤い光の玉を吐き出す。その光の玉は、勢いよく上空へと上がると、そこで弾け飛んで、次の瞬間、その空間一面へ光を落とした。
「ふわぁ~」
あっという間に広がっていく視界に、七架が驚いたように声を漏らす。暗かった空間は、明るくなると予想以上に広く、ただ何もない、無地の床や天井が続き、その果てに白い壁が見える。
「アヒるん…いつの間に、そんな言葉を…?」
「俺だって、常日頃からちゃ~んと、辞書を引いて、言葉の勉強をだなぁっ…!」
「この前、朝比奈家が停電した時に、僕が教えた」
「あっさりバラすなよ」
神を立てることなく、淡泊に言葉を放つ篭也に、アヒルが少し不満げな表情を向ける。
「あぁ~、明るっ」
『……っ』
広い空間に響くようにして聞こえてくる声に、アヒルたちが一斉に振り向く。
「ずっと暗いところに居たからかなぁ~、急に明るくなると、目にくるよねぇ~」
「あいつは…」
何もない空間の中にポツリと立つ、派手な桃色の髪の、きれいな顔立ちの青年。その見覚えのある青年に、アヒルがそっと眉をひそめる。
「えっとぉ、誰だっけ?」
「始忌の格下だ」
「ひどい言い方だなぁ~そりゃ階級は一番下のト級だけどさぁ」
「ト級…」
「桃真だよぉ」
小さく呟いたアヒルへと、桃真が満面の笑みを向ける。
「ようこそぉ~、ボクらのお家へっ」
桃真が大きく両手を広げ、アヒルたちを出迎えるような動作を見せる。
「ちょうど暇してたんだぁ」
楽しげに、桃真の声が踊る。
「ボクと遊んでってよぉ、安の神っ」
「……っ」
微笑みながらも、鋭い瞳を見せる桃真に、アヒルはそっと険しい表情を見せた。




