Word.37 始マリノ忌 〈2〉
「“安の神”…?」
灰示の言葉に反応し、七架と戦っていた桃真が、灰示のすぐ傍へと現れたアヒルの方を振り向く。アヒルの姿を確認し、その表情を曇らせる桃真。
「あれが、今の…」
「“巡れ”っ」
「へっ?」
アヒルを見たまま、何やら考え込むような表情を見せていた桃真が、どこからか響く言葉と、前方から漏れる緑色の光に気付き、再び前を見る。すると、前方に広がっていた緑色の光が消え、先程までそこに倒れていたはずの七架の姿が、なくなっていた。
「あれ?消えちゃったぁ」
「何をしておる」
間の抜けた声を出す桃真に、緑呂が後方から呆れきった言葉を向ける。
「キャハハハハ…!」
甲高い悲鳴を、辺りに響かせる虹乃。
「死んじゃってぇ!“砕”!」
「クっ…!」
黒い光を纏った右手を振り下ろしてくる虹乃に、そのすぐ前でしゃがみ込んだままの囁が、険しい表情を見せた。
「よいしょっ」
「んん~っ?」
鋭く伸びてきた足により止められる手に、虹乃が首を傾げる。
「だぁれぇ?あんたっ」
「どうやら、さっきまでの由守とは別人のようだな」
不快そうに問いかける虹乃を見つめ、少し困ったように言い放ったのは、小脇に七架を抱えた恵であった。
「恵、先生っ…」
「奈々瀬と一緒にじっとしてろ。真田」
「わわっ」
どこか茫然と恵を見つめる囁へと、恵が抱えていた七架を放り投げる。七架は少し焦りながら、囁のすぐ前へと転がり込んだ。
「だっから誰なのよ!?あんた!」
「小娘に名乗る名前は、持ち合わせていない」
「何ですってぇ!?」
虹乃を方を振り向き、挑発的な言葉を投げかける恵に、虹乃が大きく顔をしかめる。
「ムカつく!そいつらより先に、あんたから殺してやるわぁ!」
「め…」
叫び散らす虹乃に構うことなく、恵がそっと口を開く。
「“滅せ”…」
「えっ…?」
虹乃の右手を止めていた恵の足が、強い緑色の光を放ち始める。その光が浸透するように、虹乃の右手を包み込んだ。
「うっ…!あああああっ!」
光に包まれた右手を、すぐさま恵の足から離し、激しい悲鳴をあげる虹乃。
「虹乃っ…?」
「グゥ…!」
悲鳴に緑呂と桃真が振り向く中、虹乃が右手を抱え、苦しげに声を漏らす。
「虹乃…!」
「クっ…」
「これは…」
苦しむ虹乃の元へと駆け寄って来る、緑呂と桃真。俯いた虹乃の額からは汗が流れ落ち、恵の足に触れた虹乃の右手は、黒い霧のように実体のない姿となっていた。その様子を見て、緑呂が曇った声を発する。
「あぁ~あ、痛そぉ~」
「何なのよ!?一体っ…!」
「これ程の力、あの女…」
怒りに震えた言葉を吐き出す虹乃の横で、緑呂がそっと恵の方を振り向く。
「大丈夫かぁ?お前らっ」
「あ…は、はい…」
振り返る恵に、その強さに圧倒されていた七架が、唖然としながら返事をする。
「アヒるんの…」
「んっ?」
ゆっくりと口を開く囁に、恵が少し首を傾げる。
「アヒるんの力は、戻ったの…?」
「ああ。まっ、一応な」
「一応…?」
恵のどこか曖昧な答えに、囁は眉をひそめた。
「ふぅ…」
恵が現れ、囁と七架が助けられたことを確認すると、篭也が少し安心した様子で息をつく。息をつくと篭也は、すぐにまた、目の前のアヒルと灰示の方へと視線を戻した。
「灰示…」
アヒルは灰示をまっすぐに見つめ、もう一度、灰示の名を呼ぶ。
「なんでお前が…こんなことっ…」
「それは、“痛み”を失くす為…」
『……っ』
灰示の方を見ていたアヒルと篭也が、上空から降るように聞こえてくる新たな声に、ハッとなって顔を上げる。
「あっ…!」
上空に見える人影に、アヒルが大きく目を見開く。
「この世界から、すべての“痛み”を消し去る為…」
アヒルたちの見上げた上空に浮かんでいるのは、金色の短髪に、何よりも印象的な真っ赤な、切れ長の瞳の、まだ若い青年であった。闇に紛れる黒い服を纏い、手足や首に、包帯を巻いている。
「お前、はっ…」
どこか見覚えのあるその青年に、アヒルが眉をひそめる。
「“離れろ”」
「あっ」
アヒルが青年に気を取られていたその時、灰示が言葉を放ち、掴まれていたアヒルの手から逃れて、上空へと舞い上がり、現れた青年のすぐ横まで寄っていく。
「灰示っ…!」
「…………」
思わず身を乗り出し、灰示の名を呼ぶアヒルであったが、灰示がその呼びかけに答えることはなかった。
「ハイジ…?」
「初めて聞く名前なんだけどぉ、誰ぇ?伍黄」
その青年、伍黄のもとへと、灰示と同じように舞い寄っていく緑呂と桃真。
「あれっ?」
鉄仮面の男、緑呂をその視界へと入れ、アヒルが再び眉をひそめる。
「あいつも、どっかで…」
「也守と与守だ。写真で見ただろう」
「ああっ!そうそう!あの鉄仮面!」
横から口を挟む篭也の言葉に、アヒルが納得した様子で大きく手を叩く。
「だが、気をつけろ。見た目は也守たちであっても、中身はまるで別物だ」
「そうみてぇだな…」
アヒルが表情を曇らせ、そっと視線を流す。
「大丈夫か?虹乃」
「平気よ。これくらいっ」
アヒルが視線を流したその先には、緑呂たちと同じように、伍黄のもとへと寄っていく虹乃の姿があった。問いかける伍黄に、虹乃が強気に答える。
「体が手に入ったからって、調子乗り過ぎたんじゃねぇのぉ?」
「勝手な行動ばかり、するからだ」
「うるさいわね!」
伍黄の後方から姿を見せた碧鎖と萌芽に口々に言われ、虹乃がその表情を大きくしかめる。
「弓っ…」
今はまるで別人となってしまった弓のその姿を見つめ、アヒルがそっと目を細める。
「あなたたちは…」
上空に顔を揃えた伍黄たちを見上げ、鋭い表情を見せる篭也。
「あなたたちは一体、何者だ!?」
「何者?」
篭也の言葉を聞き返し、伍黄が少し不思議そうな顔を見せる。
「可笑しなことを言う。もうとっくに、気付いているのではないのか?」
伍黄が口角を吊り上げ、冷たく微笑む。
「俺たちは忌…お前たち五十音士のよく知る、忌だ」
『……っ!』
はっきりと答える伍黄に、皆が衝撃を走らせるように、大きく目を見開く。
「忌、だとっ…?」
伍黄の答えに、益々困惑の表情を見せる篭也。
「随分と驚いた顔をするのだな」
衝撃を走らせたアヒルたちの顔を見回し、伍黄が薄く微笑む。
「こいつの存在を知っているのであれば、容易に想像がつくかと思ったんだが」
そう言って伍黄が、隣に居る灰示の方を見る。
「そいつは、“痛み”を持った人間と強く同調し、実体化した」
「ん?」
アヒルたちから少し離れた場所で、伍黄へ向け、言葉を投げかけたのは、恵であった。別方向から聞こえてくる声に、伍黄はゆっくりと振り向いた。
「奇跡的とも言える存在だ。そんな奴が、早々簡単に生み出されるはずがない」
「ああ、その通りだ」
恵の鋭い言葉を、認めるように大きく頷く伍黄。
「灰示と、灰示の取り憑いた人間との同調は、あまりに特異的…俺たちがそうしようとしたところで、出来るものではなかった」
「…………」
振り向いた伍黄の方を見ることもなく、灰示は細めた瞳を、ただ下へと向けている。
「だが俺たちは、灰示の存在に、一つの可能性を見出した」
「可能性っ…?」
伍黄の言葉に、恵が眉をひそめる。
「取り憑いた人間が五十音士であったことが、灰示の実体化に関与したのではないかとな」
「……っ」
恵の表情が、徐々に険しくなる。
「灰示は“は”の言葉を支配することで実体化し、その人間の中に存在し続けている。ならば俺たちも、五十音士の言葉を呑み込めば、実体化出来るのではないかとな」
「言葉を、呑み込むっ…?」
「そんなことが…」
伍黄の話を聞き、表情を曇らせる囁と七架。
「五十音士の言葉を呑み込むなんてことが、そこら辺の忌にそう簡単に出来るはずがっ…」
「確かに、そこら辺の忌には出来ないだろうな」
否定しようとした恵の言葉を、伍黄があっさりと肯定する。
「だが、俺たちには確信があった」
伍黄が言葉の通り、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「俺たちは灰示と同じく、忌の中でも特別な存在だからな」
「特、別…?」
「どういう意味だ!?」
眉をひそめるアヒルの横から、篭也が鋭く問いかける。
「俺たちは“始忌”…始まりの忌」
「始忌…?」
「始まりの、忌…?」
伍黄の言葉に、皆が戸惑いの表情を見せる。
「この世界に生み出された初めての忌…それが俺たちだ」
『なっ…!?』
皆の表情に、再び走る衝撃。
「初めて生み出された忌、だとっ…?」
「ああっ」
困惑した様子で聞き返す篭也に、伍黄が大きく頷きかける。
「俺たちは、お前たちが生まれる数百年も前から、この世に存在したのさ。“痛み”と共にな」
伍黄が左手を胸に当て、自分の存在を主張するように、堂々と言い放つ。
「数百年…」
「そんな、ことってっ…」
「……聞いたことがある」
『えっ…?』
あまりにも信じがたい話に唖然としていた囁と七架が、ポツリと落とされた恵の声に、同時に振り向く。
「初めてこの世に生まれた七匹の忌…その忌たちをもとに、今の忌の強さを示す、七つの階級が作られたとな」
「七匹…」
「数はぴったりね…」
上空に並ぶ七人を見上げ、囁がそっと眉をひそめる。
「階級…」
恵の言葉を受け、何やら考え込むような表情を見せる篭也。
―――ボクは仲間の中じゃ、一番階級も下だしねぇ―――
「階級…一番下っ…」
先程の桃真の言葉を思い出し、篭也がさらに考えを巡らせる。
「イロハニホヘト…そうかっ」
「篭也?」
俯けていた顔を勢いよく上げ、伍黄の横に並ぶ桃真の方を見上げる篭也に、アヒルが少し首を傾げる。
「そぉ。ボク、一番格下のト級の桃真!」
「嬉しそうに言うことか」
明るく微笑み、答える桃真に、緑呂が冷たく言葉を投げかける。
「んで俺が、ヘ級の碧鎖」
「ホ級、萌芽」
「ニ級の虹乃よぉ!キャハハっ」
「我、ロ級の緑呂」
桃真に続くように、皆が自らの階級と、名を名乗る。
「成程。一番格上のイ級がお前ってわけか」
「ああ。名は伍黄だ」
恵の言葉に答えるように、伍黄も名を名乗る。
「じゃあ、灰示はっ…」
「ああ、こいつはハ級の忌。俺たち六人と同じ、始忌だ」
「…………」
伍黄の言葉にも、灰示は相変わらずの無言である。
「長い時を生き、その内にバラバラになった俺たちだったが、灰示が実体を得たことに気付き、再び集結した」
伍黄が話を戻すように、言葉を発する。
「灰示のように実体を得るため、俺たちは先程の考えを実行に移し…」
「ヤ行の五十音士を、襲った…」
「ああ。結果は見ての通りだ」
也守・刃のものであった体を見せるようにし、伍黄が楽しげに微笑む。
「そうして俺たちは五十音士、元五十音士を襲い、やっとこうして、全員が実体化することが出来た」
『……っ』
並んだ虹乃や碧鎖たちが、皆、笑みを浮かべる。
「数百年前生まれた大昔の忌共が、今更実体化して、何しようって言うんだ?」
「言っただろう?俺たちの望みは唯一つ、この世界、すべての“痛み”を消し去ることだと」
恵の問いかけに、伍黄がもう一度、強く答える。
「すでに、種は蒔いた」
「何…?」
「あっ」
恵が眉をひそめる中、アヒルがハッとした表情を見せる。
「言ノ葉っ…!?」
伍黄を睨みあげ、アヒルが勢いよく声をあげる。
「神っ…?」
少し驚くように、篭也がアヒルの方を振り向く。
「まさかお前たちが、言ノ葉を忌だらけにしたってのか!?」
「当たり前じゃんっ」
「ボクはああいうバカな人、結構好きだよぉ」
呆れたように言い放つ虹乃の横で、桃真がそっと微笑む。
「お前が、安の神か」
注がれる伍黄の視線に、アヒルが警戒するように、眉間に皺を寄せる。
「そうだ、安の神。お前の町を忌で埋め尽くしたのは、俺たちだ」
「……っ!」
あっさりと認めるように頷く伍黄に、アヒルが大きく目を見開く。
「一体、何の為にそんなことっ…!」
「さっき言っただろう?何度言えばわかる」
声を荒げるアヒルの言葉を、伍黄が冷静に遮る。
「この世界の、すべての“痛み”を、消し去る為だ」
「“痛み”…?」
強調するように言われたその言葉に、アヒルが眉をひそめる。
―――僕は、この世界からすべての“痛み”を消し去る…―――
それは、かつてアヒルが対峙した時に、灰示が放った言葉と、同じものであった。そのことを思い出し、アヒルが伍黄のすぐ横に居る灰示へと、少しだけ視線を移す。
「お前たちも見ただろう?町中の人間が忌に取り憑かれた光景を」
『……っ』
続く伍黄の言葉を聞きながら、篭也や囁たちも、そっと表情を曇らせる。
「あれ程の人間が忌に取り憑かれた。つまり、あれ程の人間が、言葉の中にある“痛み”に傷ついているということだ」
「そんなことっ…あなたたちが町人たちに、強制的に忌を取り憑かせただけだろうっ…!?」
「俺たちは、町に大量の忌を蒔いただけだ、加守」
力強く言い放つ篭也に、伍黄は余裕の笑みを浮かべる。
「何なら、忌を放った本人にでも聞いてみるか?」
そう言って、伍黄が灰示の方を振り向く。
「まさか、お前が言ノ葉に忌をっ…?灰示…!」
「…………」
アヒルが険しい表情で見つめるが、灰示は無表情のまま、眉一つ動かしはしなかった。
「世界は“痛み”に溢れている…お前たちの町に証明されるようにな」
「だからまた、忌増やして、“痛み”増やして、みんなに“痛み”のある言葉を言わせないようにしようっていうのかよ!?」
「いいや」
「えっ…?」
あっさりと否定する伍黄に、アヒルが戸惑いの声を漏らす。
「その方法もいいとは思うが…だが根治的ではない」
伍黄が少しだけ灰示に視線を流した後、再びアヒルの方を見て、言い放つ。
「“痛み”を完全に消し去る為には、人間に“痛み”を教え込むだけでは駄目だ」
鋭い瞳を見せ、伍黄がさらに言葉を続ける。
「そう、“痛み”を完全に消し去る為には、世界中、すべての人間が、言葉を話さなくなればいい」
「なっ…!」
伍黄のその言葉に、アヒルが大きく目を見開く。
「んなバカなことっ…!」
「お前たちの町を埋め尽くした忌は…」
アヒルの声を、伍黄が力強く遮る。
「更なる“痛み”を生み、新たな忌を生む…忌は次の町、次の町へと、どんどんと広がって、やがて世界中を埋め尽くす…」
包帯の巻かれた右手を、ゆっくりと広げる伍黄。
「忌に支配された世界に、一切、通う言葉は無い」
「……っ!」
言い切られる言葉に、さらに目を開くアヒル。
「その世界に、一切、“痛み”はない」
そう言った伍黄が、一際冷たく笑う。
「んなことっ…んなこと、させるわけがっ…!」
「なら、倒してみせるか?」
声を荒げるアヒルへ、伍黄が試すように問いかける。
「世界中の人間に取り憑く忌を、お前たち、たったの五十人で」
「……っ」
伍黄のその言葉に、放とうとしていた言葉を呑み込んでしまうアヒル。言ノ葉町を埋め尽くした忌すら、どうすることも出来なかったアヒルに、言い返す言葉はなかった。
「そん、な…」
「…………」
茫然とする七架の横で、恵も厳しい表情を見せる。
「後悔するといい、五十音士」
黙り込んだアヒルたちを見下ろし、伍黄がそっと微笑む。
「自ら生み出した、この過ちを…」
「えっ…?」
伍黄のその言葉に、アヒルが戸惑いの声を発する。
「行くぞ」
「えぇ~?狩らねぇのぉ?」
「一人で勝手に狩れ」
アヒルたちへと背を向ける伍黄に、碧鎖が不満げに声をあげ、そんな碧鎖に萌芽が冷たく言い放つ。
「そこの女!覚えておきなさい!」
「おぉ~、怖っ」
「とっとと行け、虹乃」
恵へ向け、宣戦布告する虹乃に、桃真がふざけた口調で身震いするような動作を見せ、緑呂が注意するように声を掛ける。そんなやり取りをしながら、伍黄を先頭に一人ずつ、黒い霧の中へと、その姿を消していく。
「……っ」
「あっ…!」
最後に灰示が霧の中へと入ろうとした時、アヒルが大きく口を開いた。
「は、灰示っ…!」
「…………」
必死に呼びかけるアヒルに、灰示が足を止め、ゆっくりと振り返る。
「お前っ…!お前なんで、あんな奴等とっ…!」
「何故…?君にしては、くだらない問いかけだね、安の神様」
いつもと変わらぬ口調で、灰示がまっすぐにアヒルを見下ろす。
「聞いていただろう?僕は始忌。彼等の仲間だ」
冷たい赤色の瞳が、正面からアヒルを捉える。
「それに本来、君と僕とは敵同士だろう…?」
「……っ」
灰示のその問いかけに、アヒルが眉をひそめる。
「け、けど…!保はっ…!」
「僕の望みは、伍黄と同じ。この世界から、すべての“痛み”を消し去ることだよ」
「望みって…」
はっきりと言い切る灰示に、アヒルが少し表情をしかめる。
「世界中の人間を忌にして、世界中から通う言葉を奪って、そうやって“痛み”を消すことが、本当にお前の望んだことなのかっ…!?」
アヒルが身を乗り出し、灰示へと必死に問いかける。
「お前が保のために目指した世界は、本当にそんなものなのかよっ…!?灰示…!」
「神…」
必死に叫ぶアヒルの背を見つめ、篭也がそっと目を細める。
「……っ」
「あっ…!」
灰示がアヒルたちへと背を向け、黒い霧の中へと呑み込まれていく。
「灰示っ…!」
そのアヒルの呼びかけが、灰示に届くことはなく、灰示はそのまま、黒い霧と共に消えていった。
「灰示…」
アヒルの小さな声が、その場に落ちた。
「…………」
黒い霧の中を通り、元居た場所へと戻って来た灰示が、その場で静かに立ち尽くし、何やら考え込むような、神妙な表情を見せる。
「保…僕は…」
どこか弱々しいとさえ思える声が、そっと落とされる。
「いつまで、そんなところに突っ立っている?」
灰示が立ち尽くしているその場へと、奥から萌芽が姿を現した。
「伍黄が集合をかけている。早く来っ…」
「……っ」
「んっ?」
面倒臭そうに灰示へと声を掛けていた萌芽であったが、不意に前方へと倒れ込んでいく灰示に、眉をひそめる。
「お、おいっ」
「…………」
驚く萌芽に構うことなく、灰示はそのまま倒れ、地面にうつ伏せとなった。
「な、何だ…?」
萌芽が戸惑いながら、倒れた灰示のもとへと歩み寄っていく。
「んん~っ」
「……っ」
聞こえてくる寝言のような声に、少し警戒するように表情をしかめる萌芽。
「なっ…」
「こんな俺がぁ…眠っちゃってすみませぇ~んっ…」
そこで気持ち良さそうに眠っているのは、灰示ではなく、保であった。まるで別人となった灰示に、萌芽が驚いたように目を見開く。
「に、人間っ…?」
萌芽の口から、戸惑いの声が漏れた。




