Word.34 ゆガム世界 〈1〉
とある町。月の輝く、とある夜。
「グガアアアアア!」
静かな夜に、荒々しい叫び声を響かせるのは、赤い瞳を光らせた、不気味な黒い影であった。
「出たか…忌…」
叫ぶ黒い影を見つめ、鋭く切れ長の青い瞳の、まだ若い男。金色の短髪に白いバンドを巻いており、夜にまぎれる黒い服、怪我をしている素振りはないが、首や手首、そして足首に包帯を巻きつけていた。男は、落ち着いた様子でそう呟き、懐に手を入れ、何かを取り出す動作を見せる。出てきた男の手には、真っ赤な宝石のような玉が握られていた。
「五十音…第三十六音…」
男の手の中の玉が、淡い赤色の光を発し始める。
「“や”…解放…」
より一層、強い光を放って、その形を変えていく男の手の中の赤い玉。やがて玉は、鮮やかな赤色の、太身の大剣へと姿を変えた。男がその真っ赤な大剣を、そう太くもない腕で、力強く振り上げる。
「“焼け”…!」
男が大剣を勢いよく振り下ろすと、振り下ろされた剣先から、赤々と輝く、大きな炎が放たれた。炎はあっという間に夜空を駆け昇り、上空に浮かぶ忌へと迫る。
「グっ…!ギャアアアアア!」
忌は炎を避けることも出来ず、あっさりとその身を焼かれ、激しい悲鳴をあげて、掻き消されていった。
「ふぅ…」
忌が消えたことを確認し、男が肩の力を抜き、ホッと一息つく。
「刃!」
「ん…?」
後方から聞こえてくる声に、刃と呼ばれた男がゆっくりと振り返る。
「弓…」
後方から刃のもとへと駆け込んでくるのは、長い黒髪を一つに束ねた、美しい少女であった。短パンから長い脚を惜しみなく出しており、刃へと大きく手を振る姿など、とても元気そうである。
「そっちは終わったのか?」
「うん!」
刃の問いかけに、弓と呼ばれた少女は大きく頷く。
「これで任務完了だな。帰るぞ」
「えっ?でもまだ、鎧が…」
「鎧なら、お前が来るより前から、そこに居る」
「えっ?」
刃の指差す方向へと、顔を上げる弓。
「あっ」
「…………」
二人の居るすぐ傍の電柱の上に、器用に立っているのは、全身を鎧兜で覆った人間であった。重々しくつけられた鉄仮面で、その顔も今の表情も、まるで覗くことが出来ない。身長や体格から、男であることはうかがえる。
「鎧!」
「待たせたな、鎧。帰るぞ」
「来る…」
「ん…?」
小さく落とされる、鎧の仮面でくぐもったその低い声に、刃が少し眉をひそめる。
「どうした?鎧」
「何か…来る…」
「何…?あっ…」
鎧の言葉に首を傾げていた刃であったが、迫り来る何かを感じ、その表情を不意に険しくし、振り向く。
「刃?鎧?」
警戒した様子を見せる二人に、戸惑うように首を傾げる弓。
「何?一体、どうしっ…」
「来るぞ…」
「避けろ!弓っ!」
「えっ…?きゃあああ!」
鎧の言葉を合図に、必死に叫んだ刃が、戸惑ったままの弓を勢いよく突き飛ばした。後方に吹き飛ばされた弓が、近くの壁に背中を打ちつける。
「痛たた…何?いきなり…」
背中を押さえながら、弓が閉じていた瞳を、ゆっくりと開く。
『ううぅ…ううっ…!』
「あっ…!」
開かれた弓の瞳が、さらに大きく開かれる。弓の目の前では、刃と鎧が、周囲を覆い尽くすような黒い影に手足を捕らわれ、全身を呑み込まれようとしていた。
「刃…!鎧…!」
「来るな!弓っ!」
「うっ…!」
二人のもとへと駆けて行こうとした弓が、刃の声に、その足を止める。
「逃げろ!今すぐ、ここから離れるんだ!弓!」
「で、でもっ…!」
「ぐあああああっ!」
『……っ!』
飛び交っていた二人の声が、大きな叫び声に掻き消される。二人が振り向くと、鎧が、完全に黒い影に呑み込まれてしまっていた。
「鎧っ…!」
「グっ…!」
呑み込まれていく鎧に、思わず身を乗り出す弓。刃も、首元まで迫り来た黒い影に、強くその表情を歪めた。
「早く行け!弓!」
「刃っ…」
「行くんだ!早くっ!」
「……っ」
黒い影に徐々に顔まで浸食されながら、それでも必死に叫ぶ刃に、弓は逆らうことが出来ず、辛そうに歪めた表情で、強く唇を噛み締めた。
「うううぅっ…!」
涙を零しながら、弓が刃へと背を向け、その場を必死に駆け出していく。
「頼むぞ…弓っ…うぐううぅっ!」
祈るように呟いた刃の体を、黒い影が完全に呑み込んでいく。
「ぐああああああっ…!!」
刃の悲痛な叫び声が、静かな夜に響き渡った。
その頃、言ノ葉町。とあるコンビニ。
「はぁ!こんなすでに目障りなくらいでっかい俺が、牛乳なんて買っちゃってすみませぇ~ん!」
「あ…ありがとうございました…」
コンビニのレジの前で、いつもの調子で謝り散らしているのは保。保へと牛乳の入ったレジ袋を差し出した店員は、引きつった表情で礼を言った。
「ふぁ~、風呂上がり用の牛乳も無事買えたことだし、家に帰るかぁ」
コンビニを出た保が、袋の中の牛乳を確認しながら、家へと帰る道を進み始める。辺りはすっかり更けっており、コンビニの明かりが一際目立っている。その明るい場所を離れ、薄暗い道を歩く保。
「今日はいつもより、明るい感じがするなぁ。あっ」
周囲を見回していた保が、何かに気付いた様子で、顔を上げる。見上げたその先の夜空には、真ん丸の月が明々と輝いていた。
「今日は満月…それで明るかったのかぁ」
ふと足を止め、保がまじまじと満月を見つめる。
「綺麗だなぁ~」
―――見つけた…―――
「へっ?」
頭の中に響くようにして聞こえてくる声に、保が目を丸くする。
「だ、誰っ…?」
声の主を探そうと、周囲を見回す保。だが保の傍には、人影一つありはしない。
「あれっ…?空耳かな…」
―――やっと…見つけた…―――
「……っ」
空耳として片付けようとしたその時、再び響くその声に、保は大きく目を見開いた。
「こ、これはっ…」
―――見つけた…見つけた…―――
「ううぅ…!」
頭の中で徐々に大きくなっていくその声に、保は思わず頭を抱える。
―――灰示……―――
「……っ!」
満月へ向けて顔を上げた保の手から、牛乳の入ったレジ袋が零れ落ちた。
アヒルたちが、於崎家から言ノ葉町へと戻った翌朝。町の小さな八百屋『あさひな』こと、朝比奈家。
「んん~っ…」
二階の自室のベッドで、大きく寝返りをうったアヒルが、小さく口を開ける。
「アメリカ…合衆国っ…」
アヒルの口から零れ落ちるのは、相変わらず意味不明の寝言。
「アーくぅ~ん!ハッピーニューイヤァー!」
勢いよく部屋の扉を開き、新年でもないのに、めでたさ全開で部屋の中へと飛び込んできたのは勿論、アヒルの父であった。
「喰らえぇい!アスパラガース、シューティーング!!」
「喰らわねぇよっ!」
「ぐほおおぉう!」
アヒルへ向けて、両手いっぱいのアスパラガスを投げ放とうとした父であったが、素早く起き上がったアヒルがそのアスパラの一本を奪い取り、父の鼻の穴へと、勢いよく突き刺した。突き刺された父は、床にアスパラを撒き散らしながら、力なく後方へと倒れ込む。
「ううぅ~、アーくん、冷たいぃ~」
「朝からアスパラ投げつけてくる親父に、優しく出来るかっ」
鼻の穴からアスパラを抜きながら、悲しげな表情を見せる父を、アヒルが睨みつける。
「だいたい俺が呼んだのは、アメリカ合衆国だっての!」
「朝からアメリカ合衆国を呼ぶ意味がわからないが…」
「お、篭也」
いつものように父を倒し、強く主張しているアヒルに、扉のすぐ横に立った篭也が、ひっそりと突っ込みを入れる。
「はよっス!囁は?」
「いや、それが…」
「あっ?」
アヒルの問いかけに、途端に表情を曇らせる篭也に、アヒルは戸惑うように首を傾げた。
朝比奈家一階、台所。
「うん…完璧だわ…」
ぐつぐつと、食べ物とは思えない、何とも気持ちの悪い色で煮立っている鍋を前に、どこか満足げに頷く、おたま片手にエプロン姿の囁。
「後はワサビで最後の一味ね…」
「あ、あのっ、さ、囁ちゃんっ…?」
「ん…?」
背後からスズメに呼びかけられ、囁がゆっくりと振り返る。
「今、料理に集中してるの…話しかけないで…」
「ごめんなさい」
囁に鋭く睨みつけられ、スズメが大人しく頭を下げる。
「ダメだ。阻止に失敗した」
「料理だったんだね…アレ…」
囁に謝り、大人しく居間へと戻って来たスズメを、感心したように呟くツバメが迎える。
「とりあえず胃薬、用意しようかな…」
「胃薬で何とかなる代物には、見えなかったぞぉ?」
「おはよ」
「おっ」
スズメがボヤいていたその時、階段から降りてきたアヒルが、篭也とともに居間へと入って来た。
「よぉ、不良少年っ」
「だぁれが不良少年だよっ」
軽い口調で声を掛けるスズメに、アヒルが顔をしかめる。
「無断で一週間も家空けてた奴の、どこが不良少年じゃないっつーんだよ?」
「だっから言っただろ?連絡しようにも、ずっと山の上でっ…」
「修行してたってかぁ?どっかの僧かよ、お前はっ」
「うっ…」
スズメの突っ込みに、思わず口ごもるアヒル。七声の件でしばらく家を空けていたアヒルは、今回は課題をやるため、泊まりに行っていたとも言えず、苦しまぎれに、山登りをしてそのまま戻れず、しばらくこもっていたということにしたのである。
「い、いやっ、だからそれはぁっ…!」
「もういいでしょ…スズメ…終わったことなんだし…」
「ツー兄っ」
助け舟を出してくれたツバメを、アヒルが目を輝かせて見つめる。
「けど…」
「へっ?」
低い声で言葉を付け加えるツバメに、アヒルが目を丸くする。
「あんまり勝手が過ぎると…呪うよ…?いいね…?アヒルくん…」
「は、はい…」
藁人形片手にそっと微笑むツバメに、何やら命の危機のようなものを感じ、アヒルは逆らうことなく、大人しく頷いた。
「出来たわ…」
「あっ?」
台所から聞こえてくる囁の声に気付き、アヒルが顔を上げる。
「囁?んなとこで何やって…」
「さぁ、アヒるん…」
笑顔を見せた囁が、台所から居間へと入って来る。
「たぁーんと、お食べ…」
「…………」
差し出された、ぐつぐつと煮立っている不気味な汁に、アヒルの動きがしばし、固まる。
「いや、絶対無理」
大きく手を振り、囁の料理を、一瞬にして拒否するアヒル。
「フフフ…やってみなきゃ、わからないわよ…アヒるん…」
「やってみなくてもわかるわぁ!んなもんっ!」
おたまに不気味汁をすくい、無理やり飲ませようとする囁に、アヒルが必死の抵抗を見せる。
「料理に挑戦なんて…山ごもりの間に何かあったの…?囁ちゃん…」
「こっちが聞きたいくらいです…」
ツバメに問いかけられた篭也が、肩を落としながら、引きつった表情で答える。
「あぁ~あ、たもっちゃんもいねぇし、今日は全員、買い弁だなぁ」
「えっ?」
スズメのその言葉に、顔を上げる篭也。
「高市、来てないんですか?」
「ああ、今日は来ないみたいだなぁ」
「そう、ですか…」
頷きながら、篭也は少し眉をひそめた。
言ノ葉高校、一年D組。
「セェェェーフ!」
大きく両手を横に広げながら、教室へと駆け込むアヒル。
「セーフだろ!?恵先っ…!って、あれ?」
「はいはい。セーフにしてあげるから、早く席に座ってねぇ、朝比奈くん」
主張しようとしたアヒルであったが、教壇に立つ、恵ではない、小太りの男教師の姿に、思わず言葉を途中で止めた。
「あれ?恵先生は?」
「目白先生は今日はお休み。さっ、出席の続き、取るよぉ」
「休みっ…」
降って来ない怒鳴り声に、どこか物足りなさを感じながら、アヒルが大人しく自分の席へと座る。
「良かったねぇ、遅刻にならなくって」
後ろの席から、紺平がアヒルへと声を掛ける。元気に学校に登校しているところを見ると、紺平も無事、於崎の屋敷から戻って来たようである。
「ああ。恵先生、休みなんだな」
「うん、珍しいよね。そういえば高市くんも休みみたいだけど…」
紺平が、アヒルの横の空席を見る。
「やっぱり疲れてたのかなぁ。昨日は元気そうだったのにね」
「…………」
紺平の言葉を聞きながら、アヒルは保の席を見つめ、そっと目を細めた。
放課後。
「為の神のところへ寄っていく?」
「ああ、ちょっとスー兄に頼まれた買い物があってさっ」
恵が休みだったこともあり、放課後残されることもなく、あっさりと帰ることの出来たアヒルは、昇降口で篭也にそう告げた。
「なら、僕たちも…」
「大した用じゃねぇから、お前らは先帰っててくれよ」
笑顔を見せたアヒルが、篭也の言葉を途中で遮る。
「だが…」
「すぐ帰っから!じゃあなぁ!」
「あっ…!神…!」
篭也に止める暇も与えず、アヒルは自分の靴を履くと、そそくさとその場を駆け去っていった。
「まったく…」
思わず伸ばした手を下ろし、篭也が呆れたように肩を落とす。
「何か妙だな…」
すでに正門を出て、道を曲がろうとしているアヒルの背中を見つめ、篭也が少しその表情を曇らせる。
「どう思う?囁」
「えっ…?」
篭也の問いかけに、何か考え事でもしていたのか、囁は驚いた様子で顔を上げた。
「そうね…やっぱり突然、訪れるものだと思うわ…恋って…」
「何の話だ」
真面目に答える囁に、篭也は呆れきった表情を見せた。




