Word.32 神ニ、捧グ 〈3〉
――――私の世界は、嘘ばかりだった。
「安団へ潜入?私が?」
それは、囁が弔と出会って数年が過ぎた頃。弔の新しい嘘言玉創りも順調に進行し、轟や罵をはじめとする、二人の仲間になる者が一人、また一人と増えた頃のことであった。
「ああ。丁度、安団が新しい左守を探しているんだよ」
「私に五十音士になれと言うの…?」
「そんなに怖い顔、しないでくれよ」
表情を曇らせ、問いかける囁に、弔は少し困ったように微笑む。
「俺たちの夢を実現するためには、五十音の世界への潜入が必要不可欠なんだ」
弔が、どこか諭すように言う。
「俺は於崎家に潜入しているし、轟と罵には於団に入ってもらうつもりだ。他に務められるのは、君しかいないんだよ、囁」
「でもっ…」
説得されながらも、納得できない様子で囁が俯く。
「君をまた、嘘だらけの世界の中に戻すのは、俺としても心苦しいことだよ?囁」
弔が冷たい瞳のまま、優しい笑みを浮かべ、囁へそっと話しかける。
「けど、これが上手くいけば、必ず言葉世界は変わる。わかってくれないかい?囁…」
「…………」
少し考え込むように間を置いた後、囁はゆっくりと顔を上げた。
「わかったわ…」
こうして、囁は五十音士、左守の試験を受け、適任者として認められ、安団への潜入に成功した。
「神は不在?」
「ええ」
囁に左守の資格を与えた言姫、和音は、正式に安団へと入った囁に、現在、安の神が不在であることを伝えた。安の神に近しい者となることが、弔に与えられた囁の使命であったため、その言葉に、囁は動揺を隠せずにいた。
「ちなみに太守と奈守も不在ですので、現在、安団は計二名となりますわね」
「二名って…」
最早、団とも呼べないその人数に、囁は思わず表情を引きつる。
「守るべき神もいないのに、一体、何をしろと…?」
「その守るべき神を探すことが、あなたの左守としての初めての任務ですわ」
「神を…探す…?」
楽しそうな笑顔で話す和音に、囁は益々、表情を曇らせた。
「紹介しますわ、真田囁」
「……っ?」
不意に足を止める和音に、眉をひそめる囁。
「彼があなたと同じ安附の一人、神月篭也です」
「篭、也…?」
和音が囁へと紹介したのは、すでに安団の一員、加守となっていた篭也であった。
「では篭也、彼女の指導、お願いしますわね」
「ああ」
和音は篭也へと囁のことを託すと、次の用があるのか、足早にその場を去っていった。その場に二人だけが残り、沈黙の時間が流れる。
「あ、あの…えっと…」
沈黙を破ろうと、囁が口を開く。
「初めまして。今回、新しい左守になった、真田囁といっ…」
「自己紹介はいい。名前や他の必要最小限のことは、和音から聞いている」
「えっ…?」
勢いよく言葉を遮った篭也に、囁は少し戸惑うように首を傾げた。
「僕は、あなたに左守としての素養があるのなら、それだけで十分だ。他のことに興味はない」
「ああ、そう…」
すらすらと言い放つ篭也に、とりあえず頷く囁。
「新人相手に、随分と冷たいのね…」
「…………」
囁がどこか、呆れたように肩を落とすと、篭也は少し目を細めた。
「冷たくて当然だろう」
「えっ…?」
「僕は、あなたに優しくする理由がない」
「……っ」
迷うこともなく自然に、はっきりと言い放つ篭也に、囁は驚いたように目を丸くする。
「フフフっ」
「んっ?何だ?」
急に吹き出すように笑みを零した囁に、篭也が不快そうに顔をしかめる。
「あなたに笑われる理由もないはずだが?」
「あら、ごめんなさいっ」
問いかける篭也に、囁がそっと笑いかける。
「あなた、優しくはないかも知れないけれど、とても素直な人ね」
「はっ?」
囁のその言葉に、篭也の眉間に皺が寄る。
「意味のわからないことを言うな。とっとと我が神を探しに行くぞ」
「ええ…」
乱雑で、ぶっきらぼうで、温かみのまるでない言葉。
でも、その言葉は、幼い頃に浴びてきた、どんなに優しい言葉よりも、真実に近い気がした。
それから半年程の時が流れ、安の神を探し続けていた篭也と囁は、ようやく、自身の神を見つけることとなった。
「こんにちは、朝比奈アヒル…」
「えっ?なんで、俺の名前っ…」
「フフっ…あだ名は“ガァ”、だったかしら…?」
朝比奈アヒルと、出会うこととなった。
「ダチが泣いてんのに、黙って見てなんか、いられっかよぉ!」
「お前が受け止めなかったアイツの言葉は、アイツ自身に戻って、アイツの痛みになった」
「言葉の中には“救い”もあるって、俺はそう、信じてるっ…!」
「俺だって、半端な覚悟で、あいつらの神になろうってんじゃねぇんだよっ!!」
その言葉は一つずつ、囁の心に響き、少しずつ、囁の心を動かしていく。
「おっ前、また勝手に人の部屋にあがりこみやがってっ」
「あら、おかえりなさい…フフフっ…」
ある日、学校から帰ったアヒルを、すでに部屋で寛いでいる様子の囁が出迎えた。
「ったく、勝手に入んなって何回言わせれば気が済っ…」
「今、読書中だから…邪魔しないでくれる…?」
「邪魔してんのは、お前だ!」
偉そうな物言いの囁に、机の上へと鞄を放り投げ、アヒルが勢いよく怒鳴り上げる。
「だいたいっ、読書たってまたどうせ、しょうもないあの本だろうがっ」
「“恋盲腸―声なき告白・ヒトミvsエヘン虫―の巻”よ…」
「あっそう…」
丁寧に答える囁に、アヒルが一気に呆れた表情となる。
「エヘン虫によって声を失ってしまったヒトミが、その状態で直、先生に愛を伝えようとするの…」
「聞いてねぇよ…っつーか、エヘン虫だろ?薬かなんか、飲めば良くねっ?」
物語の内容まで話す囁に、アヒルが色々と突っ込みを入れる。
「……ねぇ、アヒるん…」
「ああっ?」
ふいに真剣な表情を見せた囁が、読んでいた本を閉じ、制服の上着をハンガーへと掛けているアヒルの背中へと呼びかけた。
「もしね…アヒるんがエヘン虫で、すべての言葉を失ったとして…」
「大げさだな、エヘン虫」
アヒルが囁の方を振り返りながら、突っ込みを入れる。
「それでも…どうしても、私に愛の告白をしたいとして…」
「何か不快な例え話だな」
「その時、アヒるんは…どうする…?」
「……っ」
少しふざけた例え話をしているだけだというのに、囁のアヒルを見つめるその瞳は何故か真剣で、アヒルは思わず呆れきっていた表情を変えた。
「んん~、そうだなぁ…」
窓の方を見つめ、頭を掻きながら、アヒルが少し考え込む。
「叫ぶ、かな。叫び続けるっ」
「えっ…?」
アヒルの言葉に、囁は思わず、戸惑いの表情を見せた。
「どんなに声を出しても…それは言葉にならないのに…?」
「ああっ」
「そんなことしたら…喉が潰れるわよ…?」
「どうしても伝えたいんだろっ?なら、仕方ねぇさっ」
次々と問いかける囁に、アヒルは迷うことなく微笑む。
「叫び続けてたら、いつか…」
その微笑みが、囁へと向けられる。
「いつか、俺の想いが言葉になるっ」
「……っ」
その言葉に、囁は大きく目を見開いた。だがすぐに目を細め、囁が穏やかな笑みを浮かべる。
「そうね…きっと、そうだわ…」
零れんばかりの笑みを浮かべ、そっと頷く囁。
「まぁ、俺がお前に愛の告白をすることは、絶対ねぇけどな」
「あら、わからないわよ…?フフフっ…」
あなたに出会って、嘘ばかりの私の世界は、ゆっくりと変わり始める…――――
「アヒるん…!!アヒるんっ!」
力なく床へと落ちたアヒルのもとへと、囁が必死に駆け込んでいく。
「アヒっ…!あっ…」
「…………」
床へと仰向けに倒れ込んだアヒルは、先程まで開いていた瞳を深く閉じ、指一本動かすことなく、固まっていた。倒れたアヒルに遅れるようにして、いつの間にか銃から戻った言玉が、アヒルのすぐ横へと落ちた。アヒルのすぐ横に座り込み、囁が床へと槍を置いて、アヒルへと右手を伸ばす。
「アヒ…るん…?」
囁の右手が、アヒルの頬へと触れる。
「……っ」
冷たいその頬に、囁は少し目を見開いた。
「アヒるん…」
触れていた右手を下ろし、囁はただ茫然と、目の前のアヒルを見つめる。
「これが、真実だよ。囁」
アヒルに遅れるようにして床へと降り立った弔が、勝ち誇った笑みを浮かべ、囁へと語りかける。
「ねぇ?俺を倒すと言った彼の言葉も、嘘だっただろう…?」
静まり返った部屋に、弔の冷たい声がよく響いた。
「君の信じた神の言葉も、所詮は虚像だ…やはり真実なのは、俺の言葉だけでっ…」
「ぼろぼろ…」
「……っ」
小さく落とされた囁の声に、弔の言葉は止まる。
「傷だらけ…骨も折られて…きっと、物凄く痛かったね…」
アヒルの傷だらけで、骨も砕かれてしまった左手を撫でながら、囁は、深く目を閉じたアヒルへと話しかけるように、小さな言葉を続ける。
「ごめんね…いっぱい、痛い思いをさせて…」
左手を撫でた後、囁が再び、アヒルの頬へと手を触れる。
「ごめんね…こんなことに、巻き込んで…」
冷たくなった頬に触れ、囁がそっと目を細める。
「ごめんねっ…」
今まで以上に深く落とされる、謝罪の言葉。
「私…アヒるんのために、何にも出来なかったけれど…」
頬に触れていた手を離し、囁が床に置いていた槍を再び手に取る。
「これが…今の私に出来る、ただ一つのことっ…」
そっと微笑んだ囁が、槍を握る手に力を込めた。
「……っ!」
「んっ…?」
アヒルのすぐ横で、槍の先を天井へと突き上げる囁の姿に、弔が戸惑うように眉をひそめる。
「何だ…?一体、何をっ…」
「これが私の…」
弔が戸惑う中、突き上げた槍を見上げ、囁は目つきを鋭くする。
「最期の言葉っ…」
突き上げた槍から、赤い光が溢れだす。
「“捧げろ”…」




