Word.3 神トナル日 〈3〉
その日・夕方。朝比奈家。
「はぁ~あぁ~…」
学校から家へと帰宅したアヒルは、二階の自室へと戻り、まだまったく眠気もないながら、ベッドへと横たわった。ジャージのポケットに手を入れ、言玉を取り出す。小さな赤い玉を天井へとかざし、アヒルはまじまじとそれを見つめた。
―――僕たちだって、好きであなたを選んだわけじゃない―――
―――でも何か、ガァにお礼言わなきゃいけないことが、あった気がしてさっ!―――
篭也の冷たい言葉と、紺平の明るい笑顔が、同時に思い出される。
「俺はっ…」
「“先生、私、心臓がバクっちゃって死んじゃいそうなんです。盲腸ですか?”」
「んあっ?」
言玉を見つめていたアヒルが、狭い部屋の中から聞こえてくる、居るはずのない自分以外の声に、勢いよく顔をしかめる。
「“それは恋盲腸だよ、ヒトミくん。そして発病の原因はこの僕っ…!”“先生っ…!”」
「…………」
アヒルがベッドから起き上がると、アヒルの狭い部屋の、壁にもたれかかり、床に堂々と座り込んで、何やら本を朗読している囁の姿があった。囁の姿を確認し、アヒルがその表情を固まらせる。
「“それなら私、手術なんていらない!一生、この痛みに耐えて生きる!”“ヒトミくっ…!”」
「おいっ」
「んっ…?」
音読に徐々に熱を入れ始めた囁に、アヒルが冷たい声を発すると、本に注がれていた囁の視線が、ゆっくりとアヒルへと向けられた。
「何っ…?アヒるん。私、今…真剣に読書に取り組み中よ…?」
「お前のやってたのは読書じゃなくて音読な上に、絶対、真剣に取り組むような内容じゃなかったっ!」
真面目な表情を向ける囁に、アヒルが細かい指摘を入れていく。
「だいたい何だぁ?そのアホ臭い、デロ甘な本は!」
「これっ…?これはね…“恋盲腸~ヒトミ発病・この痛み、竜巻より廻る~の巻”よ…」
「うわっ…聞いただけで胸やけしそうっ…」
囁が本の表紙を見せ、丁寧に題名を読み上げると、アヒルは吐き気を覚え、思わず自分の胸を押さえた。
「あなたの上のお兄さんの本棚から拝借したわ…」
「えっ!?それ、スー兄の本っ!?」
知らされる真実に、かつてない衝撃を走らせるアヒル。
「あんニャロー…そういう趣味がっ…」
「アヒるんも読む…?」
「読むかぁ!んなもん、高一男子が読むもんじゃねぇっ!」
「えっ…?けど…」
アヒルの言葉を受け、囁が、狭い部屋の中の、自分の座る位置とは逆側の方へと視線を移す。
「ふむふむふむっ…」
「篭也はすこぶる真剣に読んでるわよ…?」
「…………」
囁の見つめる先には、アヒルの部屋の机に座り、真剣な表情で『恋盲腸』と書かれた本を読み耽っている篭也。そんな篭也を視界に入れ、アヒルが呆れきった表情で立ち尽くす。
「お前…」
「んっ?ハっ!」
アヒルからの冷たい視線を感じたのか、顔を上げた篭也が、慌てて読んでいた本を閉じた。
「ち、違う!僕が読んでいたのは、“恋盲腸~ジャンボパフェ級の痛みと甘みを君へ~の巻”だ!」
「どっちでもいいわ、んなもんっ」
必死に言い繕う篭也に、アヒルがまったく興味なさそうに言い放つ。
「つーか!何でお前らが、俺ん家にいんだよっ!?」
『安附だから』
「声を揃えるな!」
二人してあっさりと答える篭也と囁に、強く怒鳴りあげるアヒル。
「言っただろう?常にあなたの傍に仕えることが、僕たちの使命だと」
「というわけで…私たち今日から、この家のお隣のお家に住むことになったから…」
「はぁっ!?」
囁の言葉に、アヒルが大きく目を見開く。
「お隣の佐々木さん一家はっ!?」
「誰も言玉を使って、“貸し渡せ”などとは言っていないぞ」
「言ったな。確実に言ったな」
恋盲腸を読みながら、白々しく答える篭也に、アヒルは冷たい視線を送る。
「そして食費もままならない、可哀想な私たちのために、朝比奈家には食を提供していただくわ…」
「はぁっ!?」
さらに続く囁の言葉に、勢いよく顔を引きつるアヒル。
「バッカ言うなよっ!誰がんなこと許しっ…!」
「アーくんの友達が引っ越して来たってことで、今夜は野菜パーティーだねぇ~!アッハッハぁ~!」
「あなたと血が繋がってるらしき、アホそうなヒゲ親父から、許可を取った」
「…………」
アヒルの声を遮り、部屋の扉から明るさ全開で現れる父に、アヒルが一瞬にして、凍りついたように固まる。
「父さん、張り切っちゃうぞぉ~!アハハァ~!アハハァ~!」
「…………」
アヒルが固まったままの中、父は部屋を出て、家中に笑い声を響かせて、一階へと降りていく。まだ笑い声の響く部屋で、再び三人だけとなる。
「熱烈歓迎ね…照れちゃうわ…フフっ…」
「あんのバカ親父っ…」
楽しげに微笑む囁と、拳を強く握り締め、怒りを煮えたぎらせるアヒル。
「だいったい食を提供たってなぁ!この家には野菜しかなっ…!」
『……っ!』
「あっ?」
二人への文句を続けようとしたアヒルであったが、急に表情を鋭くし、顔を上げる二人に気づき、眉をひそめる。
「篭也…」
「ああ」
「な、何だよっ…?」
厳しい表情で頷き合う二人に、戸惑うように問いかけるアヒル。篭也がゆっくりと振り向き、その鋭い表情をアヒルへと向けた。
「忌の気配だ」
「何だってっ…!?」
篭也の言葉に、アヒルが衝撃を走らせ、大きく目を見開く。
「三日連続なんて…結構な出没率ねぇ…」
「とっとと行くぞ!案内しろ!」
「へっ…?」
どこか考えるように呟いていた囁が、強く言い放ちながら、足早に部屋を出て行くアヒルに、目を丸くする。
「案内しろですって…朝は“お前らだけで勝手にやってろ”とか言ってたのに…フフフっ…」
「くだらないことはいい。行くぞ」
「ええ…」
そっと微笑む囁に、本を置き、立ち上がった篭也が、短く言うと、囁が頷き、二人も部屋を後にした。
言ノ葉町・河川敷。
「ひええぇぇっ!」
月も雲に隠れ、真っ暗な空の下、闇に目立つ金髪に、ピアスやネックレスを大量につけた軽い感じの男が、必死に逃げ惑っていた。
「グオオォォォっ!」
「うわあああ!」
男を追うのは、まだ若い一人の女。女のものとは思えない低く重い声を放つ、その女性の周囲を取り巻くように、黒い影が見える。
「グオオォォっ…!“破”っ!」
「うっ…!」
女が勢いよく手を振り下ろし、前方で走る男へと衝撃波を飛ばす。何かが向かってくることを察した男は、焦りながらも、逃げ道もなく、大きく目を見開いた。
「ひっ…!ひえええぇぇ!神様ぁぁっ!」
叫びあげた男が頭を抱え、救いを求めるように神の名を呼んで、その場にしゃがみ込む。
「“妨げろ”…」
―――パァァァァーンっ!
短い言葉の後に、美しい音色が流れると、男へと向かって来ていた衝撃波が、男の前で突然、二つに割れ、男を避けるようにして、両側を通り過ぎていった。
「へっ…?」
「グっ…」
その光景に、男と女が、それぞれ驚きの声を漏らす。
「な、何が…」
「助けてあげたわよ…?」
「えっ…?」
すぐ後方から聞こえてくる声に、戸惑っていた男が振り返る。
「あっ…」
「私は神じゃないけれど…フフっ…」
男が振り返ると、そこには、横笛を右手に、少し怪しく微笑む囁が立っていた。“さ”の力を使い、男に飛んで来ていた衝撃波を妨げたのだ。囁の横には、共に駆けつけた、アヒルと篭也の姿もあった。
「忌が取り憑いているのは、あの女か」
「グゥゥっ…」
唸り声を漏らす女を見つめ、篭也が表情を鋭くする。
「第六の音、“か”・解放」
篭也が制服のポケットから、アヒルと同じ赤色の言玉を取り出し、言葉を発する。すると言玉は強い光を放ち、六本の格子へと姿を変えた。篭也が軽く右手をあげると、六本の格子が重なり合って一本となり、篭也の右手の中に自動的に収まる。
「あなたは、ここで見学だ」
「あっ?何でだよ?」
アヒルの方を振り向き、言う篭也に、アヒルが素直に聞き返す。
「昨日のような無茶をされては、こちらが迷惑だから」
「んだとぉ!?」
「まぁまぁ…迷惑極まりないのもご愛敬よ…?アヒるんっ…」
「なっにがご愛敬だ!」
宥めようとする囁であったが、その言葉がさらにアヒルを怒らせる。
「とにかく、今日はあなたは…」
「は、早くあいつをぶっ倒してくれよっ!」
『……っ?』
あれこれとモメながら話していた三人が、すぐ前で座り込んでいる男の声に、同時に顔を上げる。男は忌に取り憑かれた女を指差し、必死の表情で三人を見上げていた。
「とっととあいつを、俺の前から消し去ってくれよっ!」
「……っ」
男の言葉に、アヒルが眉をひそめる。
「彼女…あなたの恋人とかじゃないの…?」
「んなわけねぇーだろっ!ちょっと優しくしてやったら、つけ上がって、付き纏ってきやがったんだよっ!」
囁の問いかけに、どこか煩わしそうに答える男。
「ウザいっつってんのに、あのクソ女っ!ちっとも付き纏うのやめなくてっ…!そしたらっ…!」
「忌が取り憑いたというわけか」
「ありがちな話ね…」
男の言葉の途中で、納得したように頷く篭也と囁。男の放った悪意ある言葉に女が傷つき、その心に忌が取り憑いたのであろう。そして、女を傷つける言葉を放った男を、今、襲おうとしている。
「グオオオォォっ…!」
「んっ」
さらに激しく声をあげる、忌の取り憑いた女に、篭也が再び正面を見つめ、その瞳を細めて、右手の鉄格子を構えた。
「さて、とっとと…」
「…………」
「んっ?」
格子を構えた篭也の横から、アヒルが足を進め、前へと出て行く。
「おい、何をっ…」
「……っ」
「えっ…?」
篭也が戸惑うように見つめる中、男のすぐ目の前に立ったアヒルが、鋭い表情を見せ、勢いよく右足を振り上げた。
「どわあああ!」
「なっ…!?」
迷いなく振り下ろされたアヒルの右足が、男を横へと勢いよく吹き飛ばした。蹴り飛ばされた男を目で追いながら、篭也が大きく目を見開く。アヒルがさらに歩を進め、蹴り飛ばされた男のもとへと歩み寄っていく。
「ぐぎゃん!がびん!ぐほっ!ぷぷんっ!」
「なっ…」
男にさらに、殴る蹴るの暴行を加えるアヒル。あまりの驚きに、大きく口を開いた篭也が、少し右手を震わせながら、その光景を見つめる。
「何をしているっ!?」
「あっ?」
「ぐ、ぐぷっ…」
強い口調で問いかける篭也に、アヒルがしかめっ面で振り返る。アヒルに胸倉を掴まれ、立たされる格好となっている男は、頬を腫らし、鼻血を垂らして、力なく頭を垂れていた。
「アヒるん…忌に取り憑かれてるのは、あっちよ…?」
「わかってるっ」
囁の言葉に、短く頷くアヒル。
「ムカってきたから殴った」
「どんな単純な思考回路をしているんだ!あなたはっ!」
素直に答えるアヒルに、篭也が責めるように言い放つ。
「どうだぁ?ちったぁ反省したかぁ?」
「ひゃい…しみゃした…」
顔を覗き込み、問いかけるアヒルに、男が先程までとは態度を一変させ、何とも素直に頷く。
「良ぉーし!」
頷いた男を見て、満足げに微笑むアヒル。
「何が良しだっ」
「あっ?」
呆れたように聞こえてくる声に、アヒルが振り向く。
「そいつを殴り倒して、一体何になる?僕たちの敵は、忌であってっ…」
「俺の敵は忌じゃねぇーさっ」
「何っ…?」
あっさりと言い切るアヒルに、篭也が眉をひそめる。
「忌じゃ…ないっ…?」
「ああっ」
戸惑うように聞き返した篭也に、アヒルが明るい笑みを浮かべる。
「だって、忌に取り憑かれてんのは、傷つけられた人間だろ?そいつを倒すって、何か違う気するしっ」
「……っ」
続くアヒルの言葉に、篭也がさらに眉間に皺を寄せる。
―――あいつが悪いってのか…?ふざけんじゃねぇっ!―――
昨夜の紺平の時も、アヒルは紺平は何も悪くないと叫び、紺平ごと忌を傷つけた篭也に、ひどく怒りを向けていた。
「なら、傷つけた人間が敵だとでも言う気か?言っておくが、そいつをいくら殴り飛ばしても、傷ついた方の人間を攻撃しなければ、取り憑いた忌を倒すことなどっ…」
「臭いはもとから断つって言うだろっ?」
「え…?」
すぐさま答えるアヒルに、首を傾げる篭也。
「忌は傷ついた人間の心に巣食うんだ」
アヒルが単純そうな、笑みを浮かべる。
「だったら俺の敵は、言葉に傷つけられた、その心の痛みだっ!」
「……っ!」
アヒルの言葉に、篭也が大きく目を見開く。
「だから俺は痛みを倒すっ」
「わけのわからないことをっ…!それとそいつを殴ることと、一体何の関係がっ…!」
「幼稚園で習わなかったかぁ?」
「えっ…?」
どこかムキになって言い返そうとした篭也の言葉を遮り、アヒルが軽い口調で問いかける。
「ひどいこと言ったら、ちゃんと謝れってよぉ!ほらっ!」
アヒルが掴んだ胸倉を動かし、男を、忌の取り憑いている女へと向き直らせる。
「ひどいこと、色々と言ってすみませんでしたっ…本当にごめんなさいっ…」
「グっ…」
ボロボロになった顔で、謝罪の言葉を述べ、深々と頭を下げる男。男から逸らすことのない視線を受け、女がかすかに、その表情を動かした。
「グウゥゥっ…!」
『……っ!』
大きく声を漏らす女に、篭也たちが一斉に振り返る。呻くような苦しげな声を響かせる女は、深く頭を抱え、もがくように、体を揺れ動かしていた。
「何だ?何が…」
「グアアアアアっ…!!」
「うっ…!」
―――パァァァァァンっ!
女がより一層、大きな声を放つと、女の全身から強い白色の光が放たれ、篭也たちは、闇夜に馴染んでいた目を思わず伏せた。




