Word.27 思わク 〈1〉
檻也を襲った、謎の組織“七声”。
檻也の世話役の時定、止守の棘一、乃守の海苔次は、それぞれ七声の幹部の弔、轟、罵であった。
そして囁もまた、七声の幹部であり、アヒルたちにその事実を告げると、弔たちとともに、於崎の屋敷を去った。
そんな衝撃の一夜が明けた、翌朝。
「ん、んっ…」
広い和室の真ん中に一つ、ポツリと敷かれた布団で眠っていた檻也が、ゆっくりとその瞳を開く。
「ここ、は…」
「気が付いた?」
「んっ…?」
すぐ横から聞こえて来る声に、檻也が振り向く。
「紺、平…」
「ここは於崎の別邸だよ。本邸は壊れちゃったから、こっちに移ったんだ」
檻也の眠る布団のすぐ横に正座し、起きた檻也へと声をかけたのは紺平であった。笑みを浮かべた紺平が、檻也にここの場所を説明する。
「体の方は大丈夫?一応、傷は全部、奈々瀬さんが、言葉を使って治してくれたみたいなんだけどっ…」
「ああ、問題ない」
心配するように問いかける紺平に短く答え、檻也が布団から起き上がる。檻也は、昨夜着ていた服ではなく、 シンプルな寝着を纏っていた。袖から覗く手を見ても、昨日負わされた傷の跡は一つもない。
「状況は?他の者たちは、どうしている?」
「韻ってとこの人たちが、この辺りを捜索してるみたいだけど、まだ、あの人たちのことは見つけられてないみたい」
外の様子を気にする檻也に、紺平が冷静に答えていく。
「それと、ガァたちはっ…」
「起きたか、檻也」
「えっ…?」
話を続けようとした紺平が、開く襖の音と、入って来る落ち着いた声に、ゆっくりと振り返る。
「あっ…」
部屋へと現れたのは、渋い濃紺色の着物を纏った、四十代半ば頃に見える、どこか気難しそうな表情の男性と、こちらも地味めの薄紫色の着物を纏った、同じくらいの年の頃の、気品あふれる、美しい女性であった。見たことのない二人の姿に、紺平が少し戸惑うような顔を見せる。
「えっと…」
「父上、母上…」
「えっ!?お父さんとお母さん!?」
そっと呼ぶ檻也に、驚きの表情となって、檻也の方を振り返る紺平。
「ってことは、神月くんのっ…」
「夢言石を奪われたそうだな、檻也よ…」
「……っ」
父から放たれるその言葉に、檻也が少し俯く。
「も、申し訳ございません…」
「そう、気に病むことはありません」
「えっ…?」
すぐさま返って来る母の声に、どこか戸惑うように顔を上げる檻也。
「母うっ…」
「夢言石には、この事態に備え、前々から、韻が特別に作製した発信機が取り付けられていました。直に、七声の場所も知れるでしょう」
「この事態に、備えっ…?」
益々戸惑った檻也が、その表情を曇らせていく。
「母上、それはどういうっ…」
「ですが、あなたが“お”の言葉を奪われてしまったことは、計算外でした」
檻也に問いかける間すら与えず、母が深々と肩を落とす。
「言葉を奪われては、夢言石の奪還にも行けませんし、とんだ大失態ですね。まったく」
「……っ」
呆れたように、冷たく言い放つ母に、檻也は言葉を失う。
「これで万が一、“お”の言葉を悪用され、危害を及ぼす事態でも起これば、於崎家の名に傷がつきます。一刻も早く、七声を捕まえてもらわないと」
「ああ」
母の言葉に、短く頷く父。
「韻上層部とも少し話したが、お前が言葉を失った以上、夢言石の奪還は他神に任せることとなるだろう」
母に代わるようにして、父が表情を崩さぬまま、どこか単調に言葉を続ける。
「言葉を失った神になど、何の価値もない」
「……っ!」
「なっ…!」
はっきりと言い放つ父に、目を見開く檻也と、思わず座り込んでいた体を立ち上がらせる紺平。
「ちょっと待って下さい!そんな言い方っ…!」
「いい。紺平」
「えっ?」
強く言い返そうとした紺平を、檻也がすかさず止める。その止める檻也の声に、立ち上がった紺平は、戸惑うように振り返った。
「で、でもっ…!」
「いいんだ」
「……っ」
もう一度、強く告げる檻也の、その必死に耐えるような、唇を噛み締めた表情に、紺平はそれ以上、言葉を続けることも出来ず、ただ険しい表情で黙り込んだ。
「とにかく今回の事態は、韻の者以外には伏せておいてもらわねば、いけませんね」
「ああ。我が於崎家の失態は、何が何でも他の神や五十音士に知られないようにし…」
「そんな相談をしている時間があるのなら、この事態に戸惑っている屋敷の者たちに、一言でも声をお掛けになったらどうです?」
『……っ』
背後から聞こえてくる声に、あれこれと話していた父と母が、同時に振り返る。
「本邸には、かなりの被害が出ています。皆、どう動くべきか、迷っていますよ」
「か、篭也っ…」
二人の後ろから、その部屋へと現れたのは、篭也であった。篭也の両親でもあるというのに、二人は、篭也の姿を見た瞬間、あからさまに顔をしかめた。どこか責めるような口調で言いながら、篭也が二人の横を通り、檻也と両親の間へと割って入るように立つ。
「それが、屋敷の当主である、あなた方の役目でしょう?」
「…………」
強気に言い放つ篭也に、父がそっと目を細める。
「親を相手に生意気な口を…」
「育てられた覚えもないのに、親として敬う必要が?」
低い声を出す父に、篭也が負けじと言い返す。二人の間には、とても同じ血が通っているとは思えない、冷たい空気が立ち込めていた。
「篭也、あなたに対しては、この屋敷への出入りを禁じたはずです。即刻この場を出ていってもらっ…」
「今回の件は、我が団も関係しています。この屋敷への滞在は、韻からの命です」
「……っ」
言い終わらぬうちに答えを返してくる篭也に、母は不快そうに、さらにその表情を歪めた。
「はぁっ、とても気分が悪いです。もう行きますわっ」
「ああ。檻也、言葉が戻り次第、韻上層部へ謝罪に行くからな。体調は万全にしておけ」
深々と溜息を吐いて、部屋を去っていく母に続き、檻也に声を掛けて、出ていく父。だが、その最後に言い残した言葉にすら、檻也を想うような言葉は、一言も入っていなかった。
「ふぅっ…」
二人が去り、部屋の襖が閉まると、篭也はどこか疲れたように、少し肩を落とした。
「神月くん」
「んっ?」
背後から聞こえてくる声に、篭也が振り返る。するとそこには、まだ少し表情を曇らせたままの紺平が立っていた。
「ああ、済まないな。あの人たちの言動で、あなたも不快になっただろう」
「い、いやっ、俺は全然!それよりっ…」
「……?」
明るく首を横に振った後、そっと視線を流す紺平に、篭也が少し首を傾げる。
「…………」
紺平が見つめる先には、布団の上に起き上がったまま、深く俯き、黙り込んでいる檻也の姿があった。その檻也の姿を視界に入れ、篭也が少し目を細める。
「小泉、少し外してくれるか?」
「えっ?あ、う、うん!わかった!」
篭也の言葉に少し焦りながら頷くと、紺平は足早に歩を進め、素早く部屋を出て行った。篭也と檻也、二人だけとなった部屋が、より一層、静まり返る。
「檻也…」
体を檻也の座る布団の方へと向け、篭也が小さく呼びかける。
「笑いたければっ…笑えばいいだろう…?」
俯いたままの檻也から返って来たのは、どこか震えた、か細い声であった。
「皆が、お前よりも選んだ俺なのにっ…父上たちが、お前を屋敷から追い出しまでして、神になった俺なのにっ…」
檻也の声の震えが、徐々に大きくなっていく。
「言葉を失くしたってだけで、この扱いだっ…!」
張りあげられた声が、静かな部屋中に響き渡る。
「皆、俺が“お”の言葉を持ってたから、チヤホヤしてただけなんだっ…親も、使用人も、附き人もっ…」
「…………」
どこか必死に言葉を続ける檻也を、篭也は目を逸らすことなく、まっすぐに見つめる。
「俺の言葉しかいらないんだ…神じゃない俺なんて、いらないんだっ…」
布団の上に置いた手を、檻也が強く強く握り締める。
「誰も、俺自身なんて、必要としてないんだよっ!!」
「檻也…」
勢いよく顔を上げる檻也と、目を合わせる篭也。その必死に開かれた檻也の瞳には、かすかに光る何かが滲んでいた。
「笑えよ!お前と違って何でも持ってるって顔してたのにっ、お前よりも選ばれた存在だって偉ぶってたくせにっ、俺はこんなに惨めだ!」
篭也を見上げ、檻也が怒鳴りあげる。
「笑えよ!自分をこんな目に遭わせた報いだとか何とか言って、笑ってみせろよっ!」
「…………」
必死に叫び続ける檻也を、篭也はただ黙ったまま、細めた瞳でまっすぐに見つめる。
「笑えよっ…!わらっ…うっ!ううぅっ…!」
言葉の途中で、瞳から涙が零れ落ちると、檻也は言葉を詰まらせ、そのまま力なく俯いた。すすり泣く声とともに、強く握られた拳の上に、透明な滴が何度も落ちる。
「……っ」
その姿に少し眉をひそめると、篭也は静かにその場にしゃがみ込み、檻也に視線を近づけた。
「檻也…」
篭也が、俯いたままの檻也へと声を掛ける。
「あなたが僕を兄と思っているかどうかはわからないが、僕はあなたを弟と思っている…今も…」
落ち着いた声が、檻也の耳へと届いていく。
「それは、あなたが神でいようが神でいまいが、言葉を持っていようが持っていまいが、変わらない…」
単調な、だがどこか優しい声。
「それと…」
その声が、そっと付け加えられる。
「僕は、あなたを“必要ない”と思ったことは、一度もない…」
「……っ!」
放たれる言葉に、檻也が大きく目を見開く。
「それだけだ。邪魔をしたな」
素っ気なくそう言い残すと、篭也はすぐにその場を立ち上がり、檻也の方を振り返ることもなく、部屋を去っていった。襖の閉まる音の後、廊下を歩く、部屋を遠ざかっていく足音が、どんどんと小さくなっていく。
―――あなたを“必要ない”と思ったことは、一度もない…―――
「……っ」
思い出される篭也の言葉に、目を細め、唇を噛み締める檻也。
「うぅ…うぅっ…!」
閉じられたその瞳から、再び涙が零れ落ちた。
「あっ、神月くん!」
「んっ?」
篭也が檻也の部屋を出て、廊下を進んでいると、突き当たりのところで、紺平が待っていた。篭也の姿を見つけ、紺平が篭也のもとへと駆け寄っていく。
「檻也くん、どうだった?大丈夫そうかな?」
「どうだろうな」
「えっ…?」
自分でもわからないといった様子で首を傾げる篭也に、紺平が少し戸惑うように声を出す。
「僕は神と違って、気の利いた言葉を使えるわけではないから…」
「神月くん…」
自らを嘲るような笑みを浮かべる篭也を見つめ、目を細める紺平。
「もうしばらく、一人にしておいてやってくれるか?檻也も色々と、考えたいだろうから」
「そうだね。うん、わかった」
篭也の言葉に、紺平が大きく頷く。
「それと、小泉」
「んっ?」
「ありがとう…」
「えっ…?」
急に向けられる礼の言葉に、紺平が思わず目を丸くする。
「あなたが居なければ、檻也は死んでいたかも知れない。感謝する」
「神月くん…」
深々と頭を下げる篭也に、少し目を細める紺平。紺平は篭也のことをよく知るわけではないが、篭也が頭を下げるその姿は珍しく、そして何よりも檻也のために頭を下げる篭也に、どこか心が温まった。
「於附として、当然のことをしただけだよ」
顔を上げた篭也に、紺平が穏やかな笑みを向ける。
「神様を守ることが、神附きの責務なんでしょう?」
「ま、まぁそうだが…」
得意げに微笑みかけて来る紺平に、篭也が少し濁しながら頷く。
「それでぇそのぉ…」
「……?」
どこか躊躇うように言葉を伸ばす紺平に、篭也が首を傾げる。
「ガァ、や皆はっ…?その、真田さん、のことっ…」
「……っ」
紺平の言葉に、一気に曇る篭也の表情。
「正直、こんなにも目を逸らしたくなるような気持ちになるとは、思ってもみなかった」
「神月くん…」
その言葉の通り、紺平から瞳を逸らし、誰もいない静かな庭を見つめた篭也が、どこか複雑そうな表情で、そっと言葉を落とす。
「それは僕だけじゃなく、皆きっと、同じなんだと思う」
庭先を見つめ、どこか遠い瞳を見せる篭也。
「だが」
「えっ?」
「僕は、安附だから…」
遠くを見つめていた篭也の瞳が、急に強く光る。
「神の出す答えを待つだけだ」
「……っ」
はっきりと言い放つ篭也に、どこか驚いたような表情を見せる紺平。
「じゃあ、僕は行くところがあるから。檻也のことを頼む」
「あ、う、うんっ」
紺平にそう言うと、篭也はすぐさま紺平に背を向け、足早に廊下を歩き去っていった。紺平はその場に立ちつくしたまま、見えなくなるまで、篭也の背中を見送った。
「はぁっ、強い人だなぁ」
篭也の背が見えなくなると、紺平はどこか感心するように、しみじみと呟く。
「んん~と、えぇ~っと」
「んっ?」
近くから聞こえて来る唸り声のような声に気づき、紺平が、先程まで篭也が見つめていた庭へと視線を流す。すると、庭の木陰の背後に、かすかに動く人影のようなものが見え、紺平は庭へと下りていった。
「空音、さん…?」
「へっ!?」
紺平の声に、ひどく驚いた様子で振り返ったのは、於団の曾守であり、和音の妹でもある、空音であった。
「な、何だ。あんたかっ」
振り返った空音が、紺平の姿を確認し、どこか安心した様子で肩を落とす。
「何してるの?こんなところで」
「べ、別に!散歩よ、散歩!」
「散歩っ…?」
明かに木陰に隠れていたというのに、散歩と言い張る空音に、紺平が少し首を傾げる。
「で?その、どうなのよっ?」
「へっ?どうって…」
空音が何を聞いているのかがわからず、さらに首を傾げる紺平。
「何が?」
「き、決まってんでしょ!?神よ!神!」
「ああ、檻也くんか」
言葉を少し詰まらせながら、怒鳴るように答える空音に、紺平がやっとわかった様子で大きく頷く。
「さっき気がついたよ。全部が全部大丈夫になったわけじゃないけど、傷も平気そうだったし」
「そ、そうっ…」
紺平の言葉に、空音がどこかホっとした様子で、薄く笑みを浮かべる。
「し、シブとい神ね!あのまま、くたばっちゃえば良かったのに!」
「えっ?」
無理やり悪態づく空音に、思わず目を丸くする紺平。
「アハハっ…!」
「な、何よ?笑ってんじゃないわよ!」
急に大きな笑い声を発する紺平に、空音が勢いよく顔をしかめる。
「ごめんごめん。そうだよねぇ、空音さんもいるもんねぇっ」
「はっ?何の話よ?」
「んっ?」
眉をひそめる空音に、紺平が大きく笑いかける。
「“於団はこれからだ”って話っ」
「はぁっ?」
明るい笑顔を見せる紺平に、空音は思いきり首を傾げた。




