Word.1 あノ目醒メ 〈1〉
言葉には、霊が宿る。
言葉には、魂が宿る。
やがて神は、言葉の力に目を醒ます…。
そう田舎でも都会でもない、ごく普通の町、言ノ葉町。そこの商店街の一角にある、小さな八百屋。まだシャッターの降りている店の看板には、『あさひな』と、大きく書かれていた。
その八百屋の二階、数個ある部屋の一つ、六畳足らずの部屋に置かれた、簡素なベッドの上に、一人の少年が、何とも気持ち良さそうな表情で眠っている。
「んん~っ…ふじ…りんごぉ~っ…」
妙な寝言を呟きながら、少年が寝返りをうつ。その瞬間、部屋の扉が、勢いよく開いた。
「アーくぅ~ん!朝だっよぉ~んっ!」
開いた扉の向こうから、大声を放って部屋へと飛び込んできたのは、満面の笑顔を見せた、ヒゲ面の中年男。その両手は、大量の真っ赤なトマトで、すっかり塞がっている。
「必殺!トマト攻撃ぃ~っ!」
「ブハっ!」
ヒゲ親父が持っていたトマトを、寝ている少年へと連続で投げつける。すると、トマトの一つが寝ていた少年の顔面を直撃し、汁を飛び散らせて、勢いよく潰れた。その衝撃で、気持ち良さそうに眠っていた少年が、目を覚ました。
「あっ!アーくん!起きっ…!」
「朝っぱらから何してくれとんじゃあっ!クソ親父ぃぃっ!!」
「ぐほぉぉぉうっ!」
素早く起き上がった少年が、少年の目覚めを喜んでいたヒゲ親父の顎を、下から勢いよく蹴り上げる。少年は、ボサボサに乱れた、少し茶色がかった髪に、あまりいいとは言えない目つき。今、その顔面は、トマトの汁まみれである。
「さすがは我が息子っ…天晴れな蹴り技っ…」
「たくっ…!」
少年の父親らしきヒゲ親父が、顎を押さえ、苦しそうに呟く中、少年は近くにあったティッシュを一枚取り、顔についたトマトの汁を拭う。
「もっとマシな起こし方しろ!」
「だってアーくんがトマトを呼ぶから…」
「俺が呼んだのは富士りんごであって、トマトじゃねぇっ」
「仕方ないでしょ~っ?ウチは八百屋なんだから!ってか、アーくんて、自分の寝言とか覚えてんのぉ~っ?」
「俺が変態かのような言い方をすんなっ!」
怒鳴り返しつつも、ベッドに転がったトマトを拾う少年。
「だいたい売り物投げるかぁ?普通っ!」
「それっ、熟れ過ぎちゃって、もう売れないトマトだもんっ」
非難するように言い放つ少年に、父がどこか得意げに答える。
「熟れてたから汁の出も抜群だったでしょ~?」
「おおっ…そうだな…」
笑顔で話す父に、少年が頷きながらも、勢いよく表情を引きつった。
「あぁ~あ…今日、トマト…?」
『んっ?』
あれこれと話していた少年と父が、部屋の外から聞こえてくる声に、同時に振り向く。
「帰ったらシーツ洗わないと…」
少年の部屋のすぐ外の廊下に立ち、部屋の中を覗き込みながら、少し面倒そうに呟いているのは、制服姿の青年であった。少年とよく似た顔立ちをしているが、少年よりは少し年上に見える。
「ツー兄っ」
「げぇ!今日、俺、洗濯当番なんだから止めてくれよなぁ~っ」
「スー兄っ」
呟いていた青年のすぐ横から、まったく同じ顔をした、同じ制服の青年が出てくる。二人の青年は、雰囲気こそ違うが、その顔はまさに瓜二つ。どうやら双子のようである。
「スーくん!ツーくん!アーくんがお父さんに冷たいよぉ~っ!」
『だからっ?』
「ううぅ…」
声を揃えて冷たい言葉を放つ双子に、父が落ち込み、その場に膝をつく。
「ってか、“アヒル”ぅ~っ」
「へっ?」
青年の一人に“アヒル”と呼ばれ、少年が顔を上げる。
「今、何時だか知ってっかぁ~?」
「何時っ…?」
青年に言われ、少年が部屋の掛け時計へと目を移す。時計の針が指し示しているのは、八時十分。
「だあああああっ!遅刻だぁぁぁっ!!」
八百屋『あさひな』の末っ子、朝比奈アヒル。今年高校に入学したばかりの十五歳。
八百屋を営む父と、二つ年上の双子の兄、スズメ・ツバメとの四人暮らしである。母親は諸事情で家を出ていったそうだが、温かくも明る過ぎる家庭で、元気に育った。
「あんのアホ親父!あれだけ派手に起こしといて、一時間遅かったとか、マジありえねぇ!!」
ボサボサのままの頭を掻きながら、急いで着替えたと言わんばかりの制服姿で、八百屋を飛び出していくアヒル。
「八時二十分!ダッシュすればいけるかっ…!」
腕時計を見ながら、アヒルがさらに足を速める。
「おぉぉ~いっ!朝比奈!」
「ああっ?」
自分の名を呼ぶ声が聞こえ、アヒルが眉間に皺を寄せながら顔を上げる。するとそこには、今時珍しい程にヤンキーオーラを放っている、丈の長い学ラン姿の男が十人程、アヒルの行こうとする道に、ずらりと立ち並んでいた。前方を塞がれ、アヒルが仕方なく、急いでいた足を止める。
「ちょっと面貸せやぁっ!」
「はぁっ…」
集団の中心で、挑戦的にアヒルへと言い放つサングラスを掛けた、金髪の男。その男の言葉を聞いて、アヒルが深々と溜息をつく。
「色々と鬱憤も溜まってから、相手してやりてぇのは山々なんだけどよぉ…」
アヒルが持っていた鞄をその場に捨て置き、ゆっくりと拳を鳴らす。
「生憎っ、てめぇーらに面貸してる時間はねぇんだよっ」
『へっ…?』
さらに目つきを鋭くするアヒルに、ヤンキー達が皆、顔を引きつった。
『あっぎゃああああぁぁ~~っ!!』
次の瞬間、悲痛な叫びが響き渡り、ざっと十人、さらに酷い顔となって倒れ込んだ。
「ふぅ~っ」
一息ついたアヒルが、捨て置いていた鞄を拾い上げる。
「うわ!八時二十三分!」
再び腕時計で時間を確認したアヒルが、倒れたヤンキー達を飛び越えて、慌てて走り去っていく。
「アニキぃ~、あいつ、やっぱ強いよぉ~っ…」
「もうケンカ売んの、やめましょうよぉ~…アニキぃ~っ…」
「うるせぇ!勝つまでやるんだよっ!」
「でも俺、一生、勝てる気しなっ…痛っ!」
皆からアニキを呼ばれるサングラスの男が、弱音を吐こうとしていた、横の小男の頭を、勢いよく殴る。
「何も殴らなくても…」
「うるせぇっ!」
アニキはツンと口を尖らせた。
公立・言ノ葉高等学校。
偏差値、制服、校風、すべてにおいて、中の中としか言いようのない、ごく普通の学校である。ここが、アヒルの通う高校であった。
「げぇっ、正門閉まってるよぉっ…クッソ!あいつ等さえ出てこなきゃ、間に合ったのにっ」
曲がり角の壁際に身を潜め、ひっそりと正門の様子をうかがうアヒル。固く閉ざされた正門の前には、教師と何人もの風紀委員が立ち並んでいる。今出ていけば、間違いなく連行されるであろう。
「仕方ねぇっ、裏門から忍び込むかっ」
そう呟くとアヒルはそのまま急ぎ足で、角の道から学校の裏側へと大きく回り込んだ。そこには、誰もいない小さな門がある。
「よしよしよしよしっ」
思わず笑顔を零して、軽々と裏門を駆け上がるアヒル。
「いよぉっ…!」
「一年D組二番・朝比奈アヒル君!今月十回目の遅刻っ!」
「ひぃ!おわぁっ!」
アヒルが裏門の上から飛び降りようとしたその時、突如、大きな声がアヒルの耳に入り、慌てたアヒルはバランスを崩し、裏門の上から勢いよく転げ落ちた。
「痛ててててっ…」
「って、なってたとこだよぉ?“ガァ”っ」
「へっ…?」
打ちつけた背中を押さえながら、起き上がったアヒルが、上から降って来る声に、戸惑うように顔を上げる。
「俺が裏門当番じゃなかったらねっ」
「紺平っ!」
「おはよう、ガァ」
驚いたように名を呼ぶアヒルへと笑顔を向けるのは、サラサラと流れるような髪に、整った顔立ちをした、いかにも優等生といった雰囲気の、大人しそうな少年であった。制服の袖に『風紀』と書かれた腕章をしている。
「んだよぉ~っ…驚かすなよなぁ…」
アヒルが制服についた砂を払い落しながら、その場でゆっくりと立ち上がる。
「紺平が裏門当番だって知ってたら、走ってなんか来なかったのによぉっ」
「走って来なくても間に合うように、ちゃんと来なよ」
「間に合うとこだったんだよ!あいつ等が出て来なきゃ!」
「あいつ等って、また隣校のアニキ?また朝っぱらからケンカしてきたの?」
「ああっ」
「はぁっ…」
素直に頷くアヒルに、紺平が深々と溜息を吐く。
「何度も言ってるけど、ケンカばっかりしちゃダメだよ?ガァっ」
「何度も言ってっけど、いい加減、“ガァ”って呼ぶの、やめろよっ」
紺平を同じ言葉を繰り返しながら、アヒルが少し引きつった表情を向ける。
「それ、幼稚園時代のあだ名だろ?」
「何かもう“ガァ”って呼ぶのが癖になっちゃって。“アヒル隊長”に変える?」
「あのなぁっ…!」
「しつこいわねぇ!いい加減にしてよっ!」
「あっ?」
紺平へ怒鳴り返そうとしたアヒルが、裏門の向こうから聞こえてくる、どこか荒々しい女の声に気づき、振り返った。
「でっでもっ…」
「これ以上、私に付き纏わないで!本当に警察呼ぶわよっ!?」
裏門の向こうの道端で、後を追ってきている冴えない男に、勢いよく怒鳴りつける一人の女。流暢な日本語を話してはいるが、縦に巻かれた金色の派手な髪に、日本人離れした翠色の瞳をしていた。平日の朝から私服で道端を歩いてはいるものの、どう見てもアヒルと同年代、学生の年頃に見える。
「でっでもっ…僕…初めて見た時から、君のことっ…」
「ああぁー!気持ち悪い!それ以上、口開かないでっ!」
冴えない男が言葉を続けることも許さず、少女はさらに強く怒鳴りつけた。
「とっとと消えてよ!二度と私の視界に入って来ないでっ!!」
そう言い捨てて、少女が足早にその場を去っていく。
「うっ…」
その場に一人残った男が、ゆっくりとその場で膝をつく。
「ううぅ…」
男は力なく、その場に泣き崩れた。
「ひっでぇ…」
男と少女のやり取りの一部始終を見ていたアヒルが、裏門の向こう側で泣き崩れている男を見て、思わず呟く。
「あそこまで言うかぁ?普通っ」
「あの二人、最近毎朝、モメてたんだよねぇ」
去っていった少女に批判的な言葉を送るアヒルの横から、紺平が口を挟む。
「一週間くらい前に、あのキレイな子に男の人が声掛けて、それからは毎日、男の人が待ち伏せみたいな感じでさっ」
詳しく事情を語る紺平。
「男の人しつこいなぁ~って思ってたけど、あそこまで言われてると、さすがに可哀想になってくるねぇ~」
「ううぅっ…」
まだ泣き崩れている男を、少し同情するように見つめる紺平。
「さぁ~てとっ、じゃあまぁホントの遅刻にならない内に、とっとと教室行くかぁっ」
「ホントの遅刻って…まだ見逃すって言った覚えはっ…」
「いいじゃねぇの!幼稚園の時からの腐れ縁なんだからさぁ!」
口を尖らせる紺平に笑顔を向けて、アヒルが紺平の横を通り過ぎ、校舎の方へと歩いて行く。
「今度、何か奢ってやっから!」
「あのねぇ、俺にも風紀委員の立場ってものがっ…あっ」
「あっ?」
言葉の途中で何かに気づいたような声を発する紺平に、向き合っていたアヒルが首を傾げる。アヒルのすぐ後方を見つめる紺平の視線を追って、アヒルがゆっくりと振り返った。
「うげっ!」
「なぁ~にを奢ってくれるんだってぇ~?」
アヒルのすぐ後方に立っているのは、長い黒髪を一つに束ねた、鋭く細い瞳の、軽い装いのまだ若い女性。女性の出現に、アヒルが思わず顔を引きつる。
「ええっ?朝比奈っ」
「めっ…恵先生…」
アヒルが力なく、その女性の名を呼ぶ。
「今月十回目の遅刻。罰として今日、放課後、国語資料室の掃除なっ」
「うげぇっ!」
「あぁ~あっ…」
怪しく微笑む恵に、アヒルは大きく口を歪ませ、紺平はどこか疲れたように肩を落とした。
「うう…うぅ…」
アヒルたちが校舎の中へと去った後も、裏門の前で泣き崩れたままの男は、その場を動かず、ただ擦り切れたような声を、ぽとぽとと落としていた。
「うぅっ…!」
ゆっくりと顔を上げた男の背後に、黒い影が立ち込めた。
その日・放課後。国語資料室。
「はぁ~あっ…」
本棚ばかり立ち並んだ部屋で、大量の本を抱え、深々と溜息を吐くアヒル。その表情には、面倒臭いという思いが前面に出ている。
「なんで俺がこんなことっ…」
「ちゃっちゃか働かないと、広辞苑で頭、カチ割るよぉっ?」
「怖ぇーよっ」
真顔で広辞苑を振り上げる恵に、思わず顔を引きつるアヒル。
「だいたい俺、基本的に国語って嫌いなんだけど…」
「日本人のクセにバチ当たりなこと、言ってんじゃないよっ」
ボヤくように呟くアヒルに、恵が注意するように言い放つ。
「こぉ~んな美しい母国語を持てたことに感謝して、国語の授業に真剣に取り組むのが、お前らに与えられた使命だっ、使命っ」
「こぉ~んな美しい母国語なのに、何で自分の名前がこぉ~んな変ちくりんなのかって考えると、やる気が失せるんだよっ」
強く言い切る恵に、アヒルも負けじと答える。
「何言ってんだ。いい名前じゃないかぁっ、トンビっ」
「アヒルだ!認識もしてねぇーくせに、適当に誉めてんじゃねぇよっ!」
名前を間違う恵に、アヒルが勢いよく怒鳴り返す。
「まっ、そう細かいことは気にすんなっ」
「どこが細かいんだよっ…」
「んっ?」
アヒルが呆れたように肩を落としていると、資料室の奥にある机で本を読んでいた恵が、ふと顔を上げ、部屋の掛け時計へと目をやる。針は九時を示していた。窓の外を見ると、日はすっかり沈んでおり、他の教室の電気も消えて、真っ暗である。
「おっ、もうこんな時間かっ」
「おうよっ、学生への労働過多で逮捕されっぞぉ?」
「本読んでると、時間がすぐ経っちまうねぇ~ホントっ」
「聞けよ…」
アヒルの言葉をまるで無視する恵に、アヒルが引きつった表情を見せる。
「後は私がやっとくから、お前はもう帰りなぁっ、トンビの家族が心配すんだろ?」
「アヒルだっての!」
恵にそう怒鳴り返しながら、アヒルが持っていた本を床に置き、近くに置いてあった自分の鞄を手に取る。
「じゃあ俺、帰るわっ」
「ああ、気をつけてな」
軽く笑みを浮かべた恵に見送られ、アヒルは資料室を後にした。
「…………」
静かになった資料室に一人残った恵が、そっと目を細め、鋭い表情を見せる。
「言葉が…揺らめいてる…」
そう呟いた恵が、机の上に置いてある、先程まで読んでいた本のすぐ上で、描かれた文字をなぞるように、細い指を動かす。すると、恵の指が辿った文字たちが、紙の上でかすかに動いているように見えた。
「特別な夜に、なりそうだね…」
恵が、どこか楽しげな笑みを浮かべた。
「ハァっ…!ハァっ…!ハァっ…!」
暗い夜道を駆け抜ける、荒々しく乱れた少女の声。
「ハァっ…!ハァっ…!」
「グオォォォォっ…!!」
少女を追うように、深く呻くような声が、夜の闇の中に響いた。