メトロノーム
キッチンの床に座り込んで女は電話をしていた。部屋のいたる所に引っ越し屋のロゴがプリントされた段ボール箱が無造作に置かれている。
「ちょうど食器類を棚にしまったところ。うん。数が半分になっちゃったから、ずいぶんすかすか。え、あのお皿。あれは使わないから置いてきちゃった」
女は電話を耳に当てたまま、食器棚、そして冷蔵庫とを見上げた。どれも使い慣れているものだが、ここではどこか見慣れぬもののように目に映る。それらは突然色褪せ、古ぼけたような印象を発し始め視線をそらせた。
「建物は古いけれどリフォームがしっかりとされているからきれいだよ。うん。前のところと比べたら狭いけど、一人で暮らすにはこのくらいがちょうどいいかな。そう、駅から歩いて10分くらい。うん……。うん。スーパーも近いしね」
ふわふわと視線を漂わせるとシンクの上に置かれた新品の哺乳瓶が目に入った。胴には製品紹介のシールが貼られたまま。彼女は手近な段ボールを引き寄せると開けてみた。中にはセーターなど冬物の衣料がぎっしりと詰まっていた。手を伸ばし哺乳瓶をとると、段ボールに詰まったセーターの隙間にねじ込み、そして箱を閉めた。
「ううん、まだ決まってない。しばらくは、もらったお金をやりくりして過ごすつもり。え、……そう、ありがとう。その時はお願いするね。うん、落ち着いたら遊びに来てね、うん、うん、旦那さんにもよろしく。うん、それじゃあ」
ふう、とため息をつき、電話を床に放り投げると座ったままシンクにもたれかかり目を閉じる。通りを学校帰りの子どもたちがきゃっきゃと声を上げながら駆けていくのが聞こえる。彼女はふたたび深いため息をつくと、四つん這いになって段ボールの所に行き中を覗き込んだ。目当てのものはそこに入っていなかったので、次の段ボールへ、そしてその次の段ボールへと渡っていった。
それは三つ目の段ボール箱に入っていた。プラスチック製の薬箱。その中に入っていた薬局の紙袋を取り出した。そのとき、薬箱の隣に収められていたメトロノームに気がついた。彼女が小学校に入学した時に買ってもらった白いメトロノームだが、今では全体が淡く黄ばんでしまっていた。彼女は薬の入った紙袋とメトロノームを持って立ち上がると部屋を見渡した。メトロノームは長い間アップライトピアノの上の定位置に置かれていたが、ここにはそのピアノはない。彼が買い手を見つけ処分したら連絡をくれる手はずになっていた。居場所を失ってしまったメトロノームをキッチンテーブルの中央に置き、そのとなりに薬の袋を置いて席に着いた。
紙袋の中には処方してもらったが手付かずのまましまっておいた睡眠薬が入っているはずだ。見てみると10錠入りのシートがぎっしりと詰まっていた。女は紙袋からシートを一枚ずつ取り出すとポーカーの手の内を晒すようにテーブルの上に並べていった。シートは8枚、80の錠剤が整然と並び彼女はじっとそれを見つめた。
ベランダだろうか、窓のすぐそばでカラスが短く鳴き、女は我にかえった。反射的に時計を探すが段ボール箱から出していないことを思い出した彼女は、メトロノームを手に取り慎重にネジを回してみた。重みと手触りに懐かしさがこみ上げる。ネジはカチ、カチと軽快な音をたてゼンマイが閉まっていく感触が指先に返ってくる。壊れてはいないようだ。指先に力を込めて勢いよくカチカチカチといっぱいまで絞り込みテーブルに置いた。振り子を留め金から解放し指先で軽く弾く。
チーン カッ カッ カッ
チーン カッ カッ カッ
テンポ120で4拍子のリズムが部屋の中に響く。
チーン カッ カッ カッ
チーン カッ カッ カッ
女はテーブルのふちに両手を置くと目を閉じ、鍵盤上に指先を走らせた。
チーン カッ カッ カッ
チーン カッ カッ カッ
リズムに合わせハノンを演奏する。無心で指先を走らせると大音量でピアノの音が鳴り響き彼女の身体を包み込んだ。その響きに心を高揚させ彼女はひたすらに演奏を続けた。身体が舞い上がるような感覚に涙が頬を伝った。
チーン
突然のことだった。最後のベルをひとつ鳴らすとメトロノームは沈黙し、部屋には静寂が訪れた。目をあけると部屋はすっかりと暗くなっていて、急に寒気を感じ女はぶるっと身を震わせた。テーブルのふちを右手の指先で叩いてみたが木の乾いた小さな音がするだけだった。だが、彼女は右手の親指から小指へとひとつずつ順番に、指先でくりかえし何度も叩き続けた。いつまでも、くりかえして何度も叩き続けた。




