葉桜の日々
黒いナイロン製の重そうなショルダーバッグを肩から下げ、ジャケットに肩紐を食い込ませた男がタブロイド判夕刊紙に目をやっている。隣では座席に座り前のめりになって、どこかの書店の紙カバーをかけた文庫本を読みふける白髪の男。吊革につかまらずに携帯電話の画面をのぞき込むミニスカートの女子高生たち。平日の夕方の地下鉄の電車の中は家路へと向かうサラリーマンや学生たちで混み合っている。その中をかき分けながら、銀座線三越前駅を下車し、雑居ビルが立ち並ぶ裏通りを抜け、会社へと足を速めた。
夕方も六時を過ぎるころになると、編集部はにわかに慌ただしくなる。営業部員はもちろんのこと、取材をして帰ってきた記者たちが明後日の新聞に載せる原稿を書き始めるからだった。新米記者の黒田亮介はこの雰囲気が何よりも好きだった。資料が積み上げられた雑然とした机があり、周りは電話で話す大声やパソコンのキーボードを叩く音で騒々しい。その新聞社、といってもごく小さいが、東京繊維ニュース社は日本橋の老舗百貨店の本店から少し離れたところにあった。銀座へと繋がる目抜き通りを曲がって裏通りに入り、「平成女学園」という如何わしいファションヘルスのある脇道を通り過ぎたビルにあった。
「増田君、追い込みなんか出る?」
デスクの奥村さんの声が飛ぶ。追い込みとは明後日付けの新聞に載る記事を前々日の夕方から書くもののことである。大新聞と違い、東京繊維ニュース社のような小さな業界紙では日常的に記事が足りない。全国紙のようにニュースバリューを考慮して記事を選択している暇はないのである。とにかく毎日紙面を埋めるのが精一杯なのだ。
「今日取材に行ってきたショップの記事、一本出します」
そう言ってしばらくすると、増田は後輩記者に近くのコンビニで買ってこさせた発泡酒を勢いよく開けた。
「増田君頼むで。それトップ記事やわ」と何気もなく奥村さんが言った。
「えっ、トップですか。プレッシャーだなあ」と増田は嬉しそうに言った。
「それ、オリジナルやろ」
「はい、そうです。人気のセレクトショップで、やっとアポ取れたんで」
「発表ものばっかりじゃ、だめやからな。売り上げはいいの?」と奥村さんはパイプを吸いながら言う。
「ここは調子がいいです。売り上げが四〇%増ですわ」と言って増田は発泡酒を飲んだ。
「トップ記事決定やわ」と奥村さんは笑った。
増田はアルコール中毒気味で、夕方になるとアルコールを飲みながら記事を書くというのが慣例となっていた。この会社では日常的な光景だ。電車通勤の都会だからこそできるともいえ、マイカー通勤の田舎では絶対にできることではない。亮介も初めは驚いていたが、今は完全に慣れっこになってしまっている。
増田は不惑の年を過ぎた出戻り社員で、以前は総会屋系の経済雑誌に在籍していた。取材がいい加減で文章もうまくないが、記者のほかに営業もこなし、広告を獲ってきた。おまけに巨漢でお喋りのお調子ものだったので、会社の幹部には好かれていた。大関までなったハワイ出身の相撲取りに風貌が似ていた。亮介の大学の先輩だったが、いい加減な性格だったので嫌いだった。しかし、同じ紳士服担当ということもあり、少なくとも表面上は気を使わないわけにはいかなかった。
デスクの奥村さんは大阪支社にいたのだが、やり手だったために本社に呼ばれたとのことだった。地元の私大の法学部を出ており、司法書士を目指していたと亮介に話したことがあった。デスクとは原稿の掲載の可否を判断する権限を持つ人のことで、編集長の下におり、部門ごとに配置されている。そんな奥村さんは変わり種の記者だった。取材先と喧嘩をしてしまうのである。もちろん、実際に喧嘩をするわけではないのだが、企業を批判する記事を書いて、ある企業から出入り禁止になっていた。批判精神を持つことはジャーナリストとしては褒められるべきことだが、提灯記事を書くのが当たり前の業界紙の世界ではまずあり得ないことだった。それも流通業界のトップ企業から出入り禁止をくらっては元も子もない。ニュースバリューの高い記事が全く新聞に載らないことになるからだ。
しかし、奥村さんは信念を持って書いていた。「叩くなら一番でかいところをやらないとだめだ」。いつもそう言っていた。そんな奥村さんをジャーナリスト志望だった亮介は密かに尊敬していた。それはある大手流通企業の二重価格セールについて追及するものだった。値札に二つの価格を併記し、価格を訴求する手法だが、今では公正取引委員会によって原則的に禁止されていた。その情報は全国紙の記者も知っていたが、一般紙ではスポンサーの絡みがあり、記事にできないということらしかった。「だから、俺がやる意味があるんだ」と奥村さんは言っていた。
その企業は流通業の優等生としてマスコミに取り上げられ、生え抜きではないその経営トップは時代の寵児として扱われていた。しかし、流通業の優等生と言われる所以の利益率の高さは、取引先に不良在庫を押し付けるという強引なやり口で、取引先泣かせとして業界では有名になっていた。優等生とは、株主から見た場合の一面的な表現であり、社会的な責任ある大手企業としては問題があった。二重価格の記事は一部のスーパー経営者には好評だったらしいが、企業側は完全無視、大手マスコミの反応もなかった。だが、亮介はこんな記事を掲載する会社の心意気にも感心したし、将来はそんな鋭い記事を書ける記者になりたいと思っていた。
「奥村さん、決算記事一本出します」
亮介は奥村さんにそういって窓際の自分の席に座り、決算記事を書いていた。例年、四月は二月決算の企業の決算発表が集中する時期で、毎日夜十時近くまで仕事をすることになるのだった。上場する企業がマスコミ向けに記者会見を行う。
「黒ちゃん、何か政策記事出る?」と奥村さんが尋ねた。
「いいえ、特にありません。業績も悪いんで、どうにもならないみたいです」
その企業は地方地盤のスーパーで業績は減収減益だった。近くに大手スーパーが出店したために客足が一気に減ったのだ。
「こりゃ、だめやわ」と奥村さんは決算短信を見て言った。「にせ札刷って出店してるけど、全部失敗してるやんか」
「にせ札って何ですか?」と亮介は尋ねた。
「第三者割当増資をして金を集めるんやわ。経営が苦しい会社のよくあるパターンやな」
「なるほど。勉強になります」と亮介は言った。
「悪くても悪いって書くんやで。うちは広告貰ってないんやから」
「はい、分かりました」と亮介は答えた。
亮介の担当する流通面だけは企業から広告を貰っていなかった。その分、ジャーナリスティックなことができるなと考えていた。決算記事は決算短信に書いてある売上高、営業利益、経常利益、純利益の数字を打ち込むのだが、重要なのはなぜ売り上げや利益が増えたのか、あるいは減ったのか、さらに今後の営業戦略などを聞き出してくることだった。例えば、売り上げが減ったのはデフレの影響で客単価が下落したからかもしれないし、単に客足が遠のいたからかもしれない。利益が増えたのは取引先を絞り込んで売上原価を改善したからかもしれないし、人員削減などでコストカットが奏功したからかもしれない。しかし、聞き出してくるといっても、記者会見で企業側の担当者が説明したり、他社の記者が質問したりするので、それをノートにできるだけもれなくメモしてくるのが亮介の仕事だった。
数週間後、いつものように十時五分前に出社すると、何か社内の雰囲気が違っていた。定時は九時半だが、タイムカードも出勤簿もないので誰も定時には来ない。亮介は朝が弱いという社会人としては致命的なタイプだったので、毎日のように遅刻していた。しかし、記事さえ出稿すれば、朝遅くても日中どこへ行ってもいいという社風だったので、怒られることはなかった。席に着くと隣の席の先輩女性記者が言った。
「黒ちゃん、労働組合がストライキしてるらしいよ。嫌だよねえ。今の時代にこんなことやってる会社ないよ」
「ついに来ましたか。ヤバいなあ」
「うちらは無視して原稿書かないとね」と先輩記者はキーボードを叩いている。
「でも、ちょっとドキドキしますね」と亮介は笑った。
どうやら、労働組合主導でストライキをやっているようだ。午後二時までに記事をすべて埋めなければならない。幹部たちが記事を焦って書き、紙面を埋めようともがいていた。
増田は取材先に直行していているようだ。編集長の古河が亮介に声をかけた。
「黒田、何か記事ないか?何でもいい」
亮介は大学生の時、全共闘世代の学生運動の本を興味があって読んでいたので、人生初のストライキを興奮して見ていた。しかし、年配の記者で役付きでないものは仕事をサボタージュしてストに参加していたが、若手の記者たちは政治的な行動には関心がなく、普段通りに記事を出稿していたので、亮介も仕方なく仕事を始めた。
「リリースでこれから書きます」
そう言って、亮介は机の上に無造作に置かれているニュースリリースの山の中から、ショッピンセンターのオープン記事のものを選び、パソコンを起動した。
会社の上層部は共産党員が仕切っていたが、その共産党員がやることは給与の遅配だった。亮介の給与は額面十九万円だったが、これをひと月に三回に分けて支給された。幹部はなぜか日本共産党員が仕切っていた。社長のほか、総務部長、営業部長、整理部長と肝心なポストに就いていた。何か月も続く遅配にしびれを切らし、労働組合がストを決行したのである。昔はこの新聞社も業界一位で、社員も二百人ほどいたらしい。ボーナスも羽振りが良く、給料袋にいれまま札束が立ったという。
繊維業界紙で唯一、全国紙や地方紙、スポーツ紙などが加盟する日本新聞協会に入っているのが幹部たちの自慢だった。新聞協会に加盟していると二重橋前の日本プレスセンターを使用できるというステータスがあった。そこでファッション業界の講演会を開いたりしていた。加盟する会社の名札が並べられているのが、「まだうちの名前があるな」と幹部が冗談まじりに言っていたものだった。
しかし、スト当日を過ぎればまたいつもと同じ日常が繰り返されていった。
そもそも業界紙というシステムが破綻しかけているのかもしれない。通常、一般紙では取材相手、読者、広告主は三者三様異なる。つまり、官公庁の要人に取材したものを一般読者が読み、企業が広告を出す。これが一般的な新聞のシステム だが、業界紙の場合は違う。取材対象、読者、広告主が同一業界なのである。つまり、ある素材メーカーの社長インタビューを掲載したとする。記事広告としてその素材メーカーから広告を獲る。社員の士気を高めるため、掲載紙を社内に掲示する。そんな使い方をされるのが業界紙というもの。同じ場所をぐるぐる回っているだけで何も生産性がないと言われればそうかもしれない。要するに業界紙はあってもなくてもいい存在なのだ。企業が経費節減を進める中、業界紙の購読数は激減し、「お付き合い」の広告出稿も一気に減った。業界紙の経営はどこも厳しいといっていいだろう。
入社して何年か経つと、亮介は百貨店と量販店担当になった。仕事内容はデパートやスーパーの婦人服や紳士服の売れ筋情報を取材してくることである。ファッションの花形はやはり婦人服だ。ファッションショーでも女性モデルの方が華やかだし、実際トレンドは婦人服から発信される。ファッショントレンドは一体どこから作られるのかという疑問が成り立つが、私も入社当初はそれが知りたかった。何年か業界紙にいると、何となく分かってきた。まず、ミラノ、パリ、ニューヨークなどでコレクションと呼ばれる各ブランドのショー形式の発表会が行われる。特にスーパーブランドと呼ばれる高級ブランドが発信するその季節の素材やカラーが重要視され、それが様々なライセンスブランドが真似をしてトレンドを作りあげていく。あとはファッション雑誌で訴求すれば、流行を追うことがお洒落だと勘違いしている人々は挙って商品を買い求めることになる。人と同じ格好をしていると安心する、流行っているものを着ていると優越感を感じるという日本人の心理がトレンドを作り出すのだろう。
亮介はファッションデザイナーを何人かインタビューしたことがあるが、そのうちの何人かはゲイと噂される人だった。僕がきもの担当だった時、芸能人のステージ衣装も手掛け、パリコレにも出ている人気ファッションデザイナーがきものブランドを立ち上げた時に取材した。その人物も人気デザイナーを何人も輩出している服飾専門学校の出身だったし、僕も好きなブランドでどんな人物か興味があったのでインタビュー前は緊張していた。僕が「なぜきものを始めたのか」と質問をぶつけると、「今の日本人は旬というものを忘れてません」と女性口調で返してきたのだ。
顔は端正な男前で、先輩の女性記者がファンだったくらいなのだが、話し出すとどうもいけない。語尾に「ですよねえ」をつけるし、声が女っぽいのだ。以前から業界の噂では聞いていたが、これは確実にゲイだと思った。ファッション業界のタブーを見たような気がした。しかし、よく考えてみれば、ファッションの花形は婦人服だ。そして圧倒的にデザイナーは男性が多い。つまり、男性が女性の服をデザインしている訳で、女性の気持ちがよく分からないといいものは作れないということになる。女装趣味があったり、男性に恋愛感情を持つ男性ぐらいじゃないとだめなのかもしれない。
週末の夕方、亮介は増田に呼び出された。飲みに付き合えということらしい。実は増田はうつ病になった。増田はアルコール中毒気味だったが、それがよくなかったのかもしれない。亮介たちは会社の近くの立ち飲み屋にいる。
「黒田はうつうつしてるけど、うつ病にはならないな」
増田は亮介にそう言って相変わらず生ビールを飲んだ。まったく気にしていないようだった。
「私はなりませんよ」と亮介は言って、焼酎のウーロン茶割りを口にした。
「俺は玉ねぎがダメなんだ」と言って、増田はおかずの玉ねぎを箸でよけた。
「いやあ、悲しいなあ」と増田は白い錠剤を口に入れた。おそらく抗鬱剤だろうと思った。
増田は会社でも一番といっていいくらい明るい人物だった。会社の先輩のものまねをしたり、ジョークを言ったりしてみんなを笑わせていたのである。そんな増田がうつ病になったとカメラマンから聞いた時は本当に驚いた。亮介が話さないのを見ると、増田は携帯電話をかけ始めた。相手は女性のようだ。電話から漏れてくる声で分かる。離婚した奥さんだろうか。いや、それは分からない。
「二人で飲んでて電話かけてていいのかって…。いいんだよ。黒田は話さない人だから」と増田は電話の相手に言った。しばらくすると、携帯電話を切り追加の生ビールを頼んだ。
「黒田、新聞記者はいいぞう。もてるぞう」
「そうですかね。そうだといんですが」
しかし、増田は実際離婚しているわけで、説得力がなかった。亮介はうつ病に関して詳しい知識はなかったが、こころの風邪と呼ばれていることは知っていた。実は増田は東京繊維ニュース社を辞めていた。二度目の退社である。今はフリーの記者をしているとのことだった。増田は何杯目かのジョッキを飲み終えると「じゃあ、帰ろっか」と言って日本橋の立ち飲み屋を出た。
増田と別れると、亮介は地下鉄の駅に向かって歩き出した。酔いが回って、少し足元がふらついている。業界紙が危機に瀕していようとも、先輩が病気になろうとも、本音を言えば文章を書けるだけで満足だった。
東京の桜は全部散って、枝からは新しい葉が出始めている。初夏になろうとしていた。もう少しすればバーゲン商戦の取材が始まる。忙しくなるなと亮介は小さく独り言を言って、地下鉄の階段を下りていった。 (了)
ああり知られていない業界紙の内側を書きました。