第2章 第3話 夏の雪と新たなセカイ。
深淵の中を、ただひたすらに歩き続ける。四方八方何処を見ても、今正に踏み締めている足元さえも闇の中だ。しかし自分の身体は勿論、前方を歩く仲間の姿だけははっきりと視認できる。死ねば極楽浄土か、或いは無に帰ると言うが、無とは正にこのことなのだろうか。妙な緊張感の中、ソラは思い耽る。
そういえば、これから何処へ向かうのかをソラは未だ知らされていなかった。その答えを求め口を開こうとした瞬間、目の前に微かな光が漏れる。徐々に明るさを増す光の中へ、一行は吸い込まれるように進んで行く。眩しさのあまりソラは目を瞑るも、見えずともわかる明らかな変化に、闇の中ではないことを悟る。その変化とは、闇の中に居た時とは別の、コンクリートや土とは違う地面を踏み締めたときの感触だった。サクッ、サクッ……と音を立てるそれは、妙に懐かしく、しかしその正体を予想すればするほど脳が拒絶反応を示す。有り得ない。有り得るはずがないのだ。それでもなお、答え合わせをすべく恐る恐る目を開ける。目が光に慣れるまで時間がかかったが、その時間を差し引いても目の前に広がる景色を脳が現実と認識するまで、かなりの時間を要した。
驚きの白さとは、まさにこのことを言うのだろう。そう思わずにはいられないほど、あたり一面が白銀で覆われていた。白い息と一緒に、ソラは言葉を漏らす。
「これは……雪だよね?」
「雪だね」
「季節は確か夏だよね?」
「夏だね」
「雪が降るのは冬だよね?」
「冬だね」
「ということは……?」
「異常気象だね」
「あーはいはいなるほどまったくわからん」
ソラの質問にユイは冷静に答えるも、状況が整理できず膝をつき頭を抱え込む。
「っていうか、めちゃくちゃ寒いんだけど。息白いんだけど。なにこれ。カグラの能力ってワープできるけどその分時間も進むとかそういうデメリットあるの?浦島的な何かなの?」
「さっきユイが夏って言ったじゃない。それに私の能力にそんなデメリットはないわ。これは正真正銘、崩壊による影響よ」
現実逃避を試みるも、カグラに容易く打ち砕かれ、頭を抱え込みながら雪の中に頭を突っ込む。とても思考回路が追いつかない。考えれば考えるほど頭が痛くなる。そもそもワープでどこへ……?
「なぁ。ここはどこなんだ?そろそろ教えてくれたっていいだろ?」
雪にめり込んでいた頭を勢いよく振り上げ、雪を舞い散らせながらソラは重ねて質問をする。
その問いに答えたのは、意外にも今朝から妙に静かなソウマだった。
「ここは北海道稚内市……僕の故郷だ。だけどおかしい。カグラの事前調査で雪が降っていることは知ってたけど、この地域は積もっても1メートルもいかない。なのに、今の積雪量はざっと3〜4メートルだ。一体……どうして……」
深妙な顔つきで答える彼に、何かを思い出したかのようにカグラが声を漏らす。
「そういえば私が事前に此処へ訪れたときは、かなり吹雪いていたから雪が降っているという事実に気を取られてどの位積もっていたかまでは気が付かなかったわ」
この中では特段冷静そうな二人が揃いも揃って動揺をあらわにしている姿に、此方まで動揺が伝染しそうだ。カグラの話から察するに吹雪の中の捜索という最悪な事態は避けられたものの、この積雪量では現在位置はおろか目立つ目印もないため、逸れたら最後、この極寒の中凍え死ぬのが容易に想像できる。さらにここはソウマ以外初めて訪れる場所だろう。仮に雪が積もっていなくとも、土地勘のない人間の単独行動は自殺行為だ。遭難のリスクを考えるならば、綿密に計画を立て行動しなければならない。と、ソラの考えを読んでいたかのように花坂は口を開く。
「土地勘のない上にこの積雪量では捜索は難しい。まずは現在地を特定して……ソウマ?」
ソウマは花坂の話を遮るように、ブツブツと何かを呟きながら明後日の方向へ歩いて行く。その目は虚ろで気迫は一切感じられず、誰が見ても危険な状態であることはすぐに理解できた。
「お、おいソウマ!ちょっと待てって!ひとりじゃきけっ……!?」
ソウマの後を追おうと駆け出したソラの姿が、一瞬にして音もなく消える。刹那の静寂の後、恐る恐る彼が消えた地点へ向かうと、雪の中に埋れて身動きの取れないソラの姿があった。通常、新雪の上を勢いよく移動すれば埋没するのは当たり前だ。少し考えれば誰でも予想はできる。が、それはあくまで予測の話であり、実際に深雪の上を歩く機会などなく、更に言えばここはソウマ以外訪れたこともない場所だ。経験の上に現在の自分が成り立つ以上、無経験の上では知識も能力も発揮することはできない。
「なぁ……。そろそろ引き揚げてくれても構わないんだけど」
下半身が完全に埋もれ、身動きが取れないのをいいことにソラは見世物にされていた。笑われるのは構わないが、徐々に身体の芯から凍えてゆく寒さに耐えることができない。ソラは引き揚げてもらえるように大きく手を伸ばすも、みんなは何故か躊躇した様子を見せる。そう、ここは彼が沈んだ雪上だ。引き揚げるにしても、脚に力を込め過ぎては自滅する可能性がある。となると、上手く力を分散させる方法を考えなければ、彼を引き揚げることは非常に難しいことになる。皆が思考を巡らせている中、カグラは呆れた顔でソラへ告げる。
「はぁ……仕方ないわね。埋もれている部分の位置感が分からないから、上からいくわよ」
カグラがソラの方向に手を伸ばすと、彼の頭上に見覚えのある黒く渦巻くモノが現れる。
「え?ちょっ、カグラさん?上のブラックホールはなんすか?か、カグラさーー」
心の準備をする暇など微塵も与えず、ソラはそのブラックホールに雪ごと吸い込まれていった。ブラックホールが通った跡に残るのは円柱状の巨大な穴。ざっと二メートルは下らない深さだった。その背後では、地面に叩き付けられ、悲痛な叫びをあげる少年の姿があった。
「ぐへっ」
地面に叩きつけられるのはこれで二度目だ。一瞬にして闇に吸い込まれ、重力に抗うこともできず地面に叩きつけられるこの恐怖は、例えるなら目隠しのまま背中から突き落とされるようなものに近しい。
「なぁカグラ。もう少し優しく降ろすことってできないのか?」
「あら、折角助けてあげたのに、嫌ならいいのよ?」
「そ、そういうわけじゃなくて。あれ結構痛いんだぜ?」
「まぁまぁ。二人が仲が良いことはよーくわかったから」
二人の口喧嘩に、花坂が割って入る。
「どこがだよ!!」
「どこがよ!!」
花坂の言葉に反論する二人だが、見事にシンクロしてしまった。喧嘩するほどなんとやらとは、正にこのことかもしれない。花坂の後ろで、ハヅキがクスクスと笑っているのが見えた。ソラは小さく溜息を吐くと、話題をソウマに戻す。
「俺はこのままソウマの後を追おうと思うんだが、いいかな?」
「わかった。では、ソラはソウマを追うとして、残りは引き続き、捜索を続けよう。何かあれば、この無線機で連絡すること」
「精々埋もれないように気を付けることね」
「言われなくても!」
カグラに向かって捨て台詞を吐くと、ソウマが付けたであろう足跡を追いかける。新雪且つ無風だったことが幸いか、ソウマの足跡は消されることなくはっきり残っていた。さらに言えば、その足跡の上を歩けば先程のように埋もれる心配もない。なんせソウマは雪に詳しく、この辺りの地形も把握している。ならば、何処を歩けば安全かくらいは容易に予測できるだろう。
ソウマの足跡を辿ること数キロ、気付けば周りは住宅街に変わっていた。恐らくソウマは家族の身を案じて、自宅へと向かっている。ソウマ自身の焦りが、足跡からも十分過ぎるほど伝わってきた。それにしても、こんなにも情報の少ない中、よく迷わず自宅まで向かえるものだ。辺りを見渡しても、雪に覆われた建物の二階部分が頭を出しているだけなのに。ソウマでさえこの状況に悪戦苦闘しているのに、別行動しているカグラ達は果たして無事施設へ向かうことができるのだろうか。さっきまで口喧嘩をしていた相手の身を案じるソラであった。
施設といえば昨晩、花坂は全国に点在する施設のことについて話していた。施設はソラ達が暮らしていた場所を除いて十か所。できることなら同時に捜索したいところだが、圧倒的人手不足とこの不透明な状況を鑑みると、ある程度の人数に分かれて捜索した方が確実に救出できると上は判断したらしい。当の本人は、北海道がこんな有様になっていることなど想像だにしていないだろうが、どうやらその判断は間違ってはいなかったようだ。
目の前には、雪の中を何かが蠢いていた。それはまるで土の中を高速で移動する土竜のように、現実離れした何かが移動を繰り返していた。本能的にソラは足を止め、息を潜める。生物に詳しいわけではないが、こういう類の生物は臭いや振動といった、視覚に頼らない感覚に敏感なはずだ。幸い相手はソラに気付いていないらしく、不規則に雪の中を移動しながら何処かへ去っていった。これだけの異常気象を目の当たりにすると、怪物のひとつやふたついてもおかしくない状況ではあるが、いるならいると先に言って欲しいものだ。難なく危機を免れ安堵の溜息を吐くと、ふと前方に見覚えのある人影を捉えた。その人物は埋もれた家の二階部分の雪を降ろし、しきりに窓の中を覗き込んでいた。側から見れば空き巣としか考えられない行動だが、あの人物がソウマなら話は別だ。
「これがお前の家か?結構立派じゃん」
あまり刺激させまいと、気を遣って声をかけるも、ソウマは窓から目を離さず口を開いた。
「あぁ……。なぁソラ、なんかおかしくないか?」
口を開いたかと思えば、極々当たり前の質問をしてきた。その真意を知る由もなく、ソラは見当違いの答えを返す。
「この状況なら誰が見てもおかしいと思……」
「いや、そうじゃなくて」
彼の答えをまるで予測していたかのように声を遮り、否定した。そして呆れた口調で再度質問を投げかける。
「この部屋の状態だよ。まるでさっきまで誰かがこの部屋にいたような生活感だ。夏にこんな大雪が降ってるってのに冷静でいられると思うか?」
ソウマに倣って中の様子を覗き込むと、綺麗に整頓された室内が確認できた。特にこれといっておかしな点は見当たらない。敢えてあげるとするなら、中央のテーブルに置いてある開けっ放しの袋菓子とコップに注がれた飲み物だけだ。その横にはテレビのリモコンが置いてある。きっとテレビを観ながら、のんびり休日の午後を満喫していたのだろう。まるでさっきまで誰かがこの部屋にいたような生活感というのは、恐らくこのことだ。しかし、これのどこがおかしいのか、ソラには見当がつかなかった。
「確かに……。でも、ただ急いでいて片付けてないだけじゃないのか?」
「なら、なぜ部屋の鍵が内側から閉められたままなんだ?この部屋には外側に鍵穴はない。だから内側からしか鍵をかけることはできないんだ。」
部屋の扉に注目すると、確かに鍵はかけられていることがわかる。急にミステリーさが増してきた。この部屋に死体こそないものの、これは完全に密室。勿論今覗いている窓にも鍵がかかっているし、窓と扉以外にこの部屋へ侵入する術は見当たらない。余程忍者屋敷のような特殊な仕掛けがこの家に施されていない限り、秘密の出口という線はないだろう。それは、この家に住んでいるソウマ自身が一番知っているはずだ。ならば、この部屋の住人はいったいどんな方法でこの部屋から抜け出したのか。いや、そもそも鍵をかけてまで抜け出す必要があったのだろうか。
この不可解な状況から、さらに拍車をかけるように押し潰されそうな地鳴りが二人を襲う。
「お、おい。なんだよこの揺れ」
地鳴りに次いで、地球ごと揺さぶるような激しい揺れ。先程の地鳴りはその予兆だったのだ。高く降り積もった雪のせいで初期微動に気付かなかったのだろう。
「と、とにかくひらけた場所に……」
このまま建物の近くにいれば、いずれ崩壊した建物の下敷きになるのがオチだ。屋根に高く降り積もった雪の下敷きになる可能性だってある。一刻も早く逃げ出したいところだが、揺れが大きすぎて立っていることすらままならない。二人は半ば這いつくばりながら、ひらけた場所まで逃げる。しかしそこには、二度と遭遇したくないあの生物が群れを成して蠢いていた。
「あ、あれはさっきの……」
絶望に暮れる二人を他所に、謎の生物は互いに絡み合い、やがて違う何かに変化してゆく。これが二人を誘き出すための罠だとも知らずに。揺れは激しさを増し、表面の粉雪が一帯を覆い隠す。まるで霧がかかったかのように、周囲の建物も、謎の物さえも目視できなくなってしまった。互いに呼び合う声も、地鳴りに掻き消されうまく聞き取ることができない。誰もが予想だにしない事態に死すら覚悟したが、この地獄はそんな生温いものではなかった。
暫く続いていた地鳴りと揺れは徐々に収まり、粉雪で覆われていた視界も少しずつ晴れてゆく。
戦う?この状況を打破するだけの能力を持ち合わせていない。
報告する?そんなことをしている間に殺されるのは明白だ。
ならばどうするべきか。
未だこの状況を整理できてはいないが、本能だけは何をすべきか理解していた。
「ソウマ!逃げっ……!?」
彼へ向けて放った言葉は、鈍い音とともに途切れる。
ぶつかった。
硬い何かに。
建物か?いや、そんな近くに建物はなかったはずだ。しかし、建物以外に思い当たるものがない。ぶつかった衝撃で体勢を崩したソラは、その正体を目の当たりにして思わず絶句する。
「……おい。どうなってんだよ」
ソウマもまた、この状況を理解することができずそれ以上何も言葉を発することはなかった。二人の視線の先にあるものは、手を伸ばしても決して届くことのない白い壁。正確には、隆起した雪の壁だ。その壁が、謎の生物を中心に奇麗な円を描いて聳え立っていた。次第に脳が思考を再開する。地鳴り、地震、そして舞い踊る粉雪。この壁が出現する過程と照らし合わせるとするならば、すべて合点がいく。
「どうやら、俺たちはアイツの罠にまんまとはまったようだな」
「あぁ。そうみたいだな」
「そして残念なことに、俺はアイツを倒すだけの能力を持ち合わせていない」
「あぁ。そうみたいだな。ま、最悪ドでかい雷お見舞いさせてこの分厚い壁ごとぶっ壊すだけだが、これだけ積もった雪の上で放ったら、僕たちも生き埋めになりかねない。まずコイツに電気が効くかどうかだ」
ソウマは右手をピストルの形にして敵に向かって構え、左手で右腕をしっかりと押さえる。
「貫け!」
そう言い放つと、彼の指から放たれた電撃が一瞬にして敵のど真ん中を貫いた。しかしその穴は何事もなかったかのように塞がってゆく。まったく効果がないわけではないが、急所を突かない限りソウマの能力も無駄に消耗するだけだ。彼の一撃に刺激されたか、謎の生物はゆっくりとその形を変えてゆく。その姿はまるで人間を模倣しているかのように手足が生成され、やがて立ち上がった。高さは三メートルを超え、二人はその様を唯々見つめる他なかった。
面のない巨人は二人を見据える。まるで二人の行動を観察するかのように。そして巨人はニヤリと口を生成し、同時に渾身の右ストレートを放つ。それは早過ぎて、とても反応できる速度ではなかった。
今度こそ終わった。
条件反射のように、二人は目を瞑り腕で顔を覆う。せめて最期は絶望から目を背けるように。
しかし二人に訪れたのは、死でも絶望でもなく、背中に二本の刀を携えた一人の大男だった。
「そこの御仁、ここは拙者に任せて逃げなされ」