第2章 第1話 嵐の前のフロとメシ。
--必ず、戻ってこい。いいか?必ずだぞ!何があっても……
「……ッ!?」
妙な夢にうなされていたソラは、思わず飛び起きると、ゆっくり呼吸を整える。
また、あの夢だ。あの声の主は一体誰なのだろう。夢から覚めても尚、耳に染み付く声音。しかし夢で覚えているのは声と言葉のみで、顔は思い出せない。というより、いつもボヤけて正確に視認することができないのだ。
目が覚めてしまった彼は、皆を起こさないようゆっくり部屋を後にすると、ひとり屋上へ向かう。さすがに夜だけあって、長い廊下は闇に包まれていた。どこまでも続く闇の中を這い上がり、屋上へたどり着くとゆっくりドアノブを回す。瞬間、隙間から溢れる風に吸い込まれるように外へ繰り出す。外の風は夜でも生暖かく、上空には満点の星空が広がっていた。これで焼け焦げた異臭さえなければ、最高なのだが。
今日一日の出来事が、一瞬に感じる。正確には、一日以上なのか、それ以下なのかすらわからない。それほど、時間というものは残酷に刻々と過ぎてゆく。凝縮した時間を過ごしても尚、未だに何も思い出せない。能力は勿論のこと、自分は一体何者で、何故ここに居るのかさえ。こればかりは焦っても仕方のないことなのだろう。すべてを思い出したその時には、皆にちゃんと打ち明けよう。本当のことを。心にそう誓うと、ひとつ大きな伸びをする。
戻ろうとして後ろを振り返ると、屋上の入り口にひとりの人影が見えた。暗闇の中で正確に把握はできないが、その姿は徐々に少女の姿へと形を成してゆく。
「お?誰かと思えばソラっちでしたか〜」
わざとらしい口調で駆け寄ってきたのはユイだった。そのままソラの隣に近寄ると、一緒に夜空を見上げる。
「どうした?ユイも眠れずに星を見にきたのか?」
「実はね、時々夜中に抜け出して星空を眺めてたんだ。最近見れなかったから来ちゃった」
「そうだったのか。どうだ?久しぶりの星空は」
上空からそっと視線を移すと、ユイは目を輝かせながら口を開く。
「うん。今日の夜空は一段と綺麗」
「俺も久しぶりに夜空なんて見たけど、こんなに綺麗だなんて知らなかった」
時折吹きつける生暖かい風が、静寂と共に二人を包み込む。彼女は、目の前に広がる現実から目を背けるように、じっと上空を眺めていた。普段の明るいユイとは違い、その表情はどこか懐かしむような、しかし切なさが入り交じるような、そんな表情を浮かべていた。視線に気付いたのか、彼女はこちらを向いて歪んだ笑みを見せる。
「なーにそらっち?もしかして私に見惚れてた?」
「えっ?い、いや、そーじゃなくて!ただ、なんというか、ユイもそんな顔するんだなぁって」
その言葉に意表を突かれたのか、ユイは頰を染めながら顔を手で押さえた。
「えっ、私どんな顔してたのっ?もーそらっちのエッチ!」
「え、エッチってことはないだろう!そ、それにそんな恥ずかしがるような顔してなかったから!」
あまり見せない表情を見られたことが余程恥ずかしかったのか、彼女は両手で顔を押さえ激しく動揺する。そんな彼女を眺め、この状況がなぜかおかしく思えてきたソラは不意に笑みをこぼす。彼女もまた、彼の笑いにつられてか、気付けば二人で笑い合っていた。この時間は、こんな絶望的な状況を忘れさせてくれる、そんな一時だった。
ようやく二人とも落ち着きを取り戻し、深い深呼吸をひとつすると、また風景を眺め始めた。
「なぁ、なんでこんなことになったんだろうな」
「んー、花坂先生は地震とか隕石とかそんなこと言ってたけど、世界規模の災害らしいからなんともだよねー」
正に天災そのものだ。しかも世界規模の天災。家族はもちろん、友達や知り合いは無事なのだろうか。この状況下では連絡手段はないし、インフラが絶望的ななこの状況では家に帰ることもできない。そもそも、屋上から眺めればここがどこなのか分かるかと考えていたのだが、ここまで被害が大き過ぎると自分の現在位置すらわからない。そんな状況でも、こうして笑い合える人がいるだけ、まだマシなのかもしれない。
「にしても、ハヅキの手料理、美味かったなぁ」
「まだ言ってるー。私がハヅキっちに料理教えたんだからね!」
「おっ。じゃあユイの料理も期待大だな」
「そうだよー!楽しみにしてて!」
ユイはドヤ顔で胸を張る。料理に関しては相当自信のあるようだ。しかも弟子であるハヅキのことを絶賛してしまったことで、彼女の料理魂に火が着ついてしまった。しかし期待したところで、ユイの当番がいつなのかソラにはわからない。とりあえず落ち着いたことだし、ユイに部屋へ戻るよう促す。
「さて、明日も早いし、そろそろ戻るか」
その言葉にユイは頷き、二人で屋上を後にする。暗闇の中、二人は教室まで辿り着くと、お互い定位置に戻り、再び眠りについた。
さて、こうして彼の短くも長い一日が終わりを告げたのだが、その前に少し時間を遡るとしよう。地震の後、ソラが倒れてから再び目を覚まし、窓の向こう側に広がる絶望に言葉を失っていた頃、そのすぐ後に花坂が難しい顔をして教室へ入ってきた。
「よーしみんなとりあえず座れ。お、ソラ君は目を覚ましたか。さて、こんな状況だが、良い知らせと悪い知らせがある」
こういう時の良い知らせは割とどうでもいい知らせだ。悪い知らせを緩和するための痛み止め程度。そんなことだろうとソラは考えつつ話の続きに耳を傾ける。
「まず良い知らせだが……」
「選択権ナシかよ!」
期待はしていなかったが、こういう場合選択権があるのが常識だと思っていた。だが、この男にはその常識は非常識だったらしい。
「あ?別に最終的にはどっちも聞く羽目になるんだからいいだろ?じゃ、話戻すぞー」
ソラは痛む頭を押さえつつ、機嫌を悪そうに立て肘をついて明後日の方向を向く。
「さて、良い知らせだが、見ての通り、この施設のインフラが予備電源によってなんとか確保された。この施設は太陽光発電設備もあるから、まず停電するようなことはないだろう。ただし、大元のインフラが完全に切れてる。この大災害だしな。復旧するまでどの程度かかるかは計り知れん。次に悪い知らせだが……」
ここで花坂の口が動きを止める。さすがのソラも花坂の方が気になり、チラリと視線を追う。見ての通りの大災害だ。それでもなおすぐに口にしないということは、よっぽど悪い知らせなのかもしれない。
「実はここの他に、こんな施設が幾つか存在しているんだが、現在そのどの施設とも連絡が取れない。当然、施設の中には君達のような能力者も存在している。この大災害で能力が暴走し、二次被害に繋がってしまっては地球が消滅する可能性だってある。一刻も早く安否確認をしなければならない。従って、明日から各拠点にそれぞれ赴き、能力者の安否確認及び救出が上から命令された。こんな状況ですまないが、皆の協力が必要だ。明日から宜しく頼む」
花坂はそこまで告げると、深々と頭を下げた。これが悪い知らせの正体。当然、外へ出ればそれなりのリスクも伴う。何が起きてもおかしくない、未知の領域。何故かソラにはこうなる展開が予想できていたかのように冷静で、そんな自分に違和感を感じていた。
「とりあえず、今日は色々あって疲れただろう。まずは風呂にでも入ってゆっくりしてこい。その後は飯だ」
花坂はそれだけ告げると、部屋を後にしてまたどこかへ去ってしまった。というより、この施設には風呂まで存在していたことにソラは驚愕していた。そんな彼を他所に、背後からソウマが声をかける。
「さて、ソラ。お前風呂の場所わかんないだろ?一緒に入ろうぜ」
「お、おう」
彼に促され、二人は部屋を後にする。女性陣は女性陣で何やら集まっていた。
風呂場は一階に降りて左奥を真っ直ぐに進んだ所にあり、そこには『男』と『女』と書かれた温泉旅館のような暖簾が掛けられていた。ふと足元を見れば、先程までの白い床から畳へ。壁も和の装いに包まれている。暖簾の奥から微かに漂う、温泉独特の硫黄の香り。ソラは思わずそれを口にせずにはいられなかった。
「老舗旅館かよ……」
「お前、俺と全く同じ反応な!ソレ!」
彼の反応、彼の呟きにソウマは嘲笑う。まるで初めてここへ案内された時の自分と重ね合わせるかのように。笑いながらも彼の表情は、懐かしさを感じさせるものがあった。
「いつまでも突っ立ってないで、さっさと入ろうぜ!」
「あ、あぁ。そうだな」
ソウマに背中を押され、二人は暖簾を潜る。その先は予想通り、正に温泉施設を再現した脱衣所が広がっていた。木造のロッカーに籐籠。奥には鏡や洗面台、ドライヤーも完備してある。辺りを観察するソラを横目に、ソウマは適当な籐籠に服を脱いでは入れてゆく。気付けば腰にはタオルを巻いて、目でソラを催促していた。便利なことに、籐籠の中にはそれぞれ洗い立てのバスタオルとフェイスタオルが綺麗に畳んで入れてある。こんなところにまでおもてなしがあるとは、日本に生まれて良かったとソラはしみじみ思いつつ、服を脱いでいた。彼に倣い腰にタオルを巻くと、いざ浴場へと足を踏み入れる。
「お、今日は貸切だぜ!」
ソウマは嬉しそうに告げると、手際よく身体を洗い始める。脱衣所もそうだが、浴場も予想通りの再現性だった。しかも割と大浴場。この施設のどこにこんなスペースがあるのか疑いさえ感じさせられる。ソラはソウマの隣に座ると、髪や身体を洗い流す。記憶が飛んでいるせいか、風呂に入るという行為がより久しく感じてしまう。一通り身体を洗い終えると、二人はいよいよ湯船に足を浸からせる。少し熱めの湯加減だが、これも温泉ならではだ。二人は肩までゆっくり浸かると、安息の溜息を吐く。実に気持ちがいい。今日一日分の疲れが湯へ溶けて流れてゆく。ここでひとつソウマへ疑問をぶつける。
「なぁソウマ。さっき貸切とか言ってたけど、結構ここには人が入るのか?男で思い当たるのって、あとはマグマ野郎と花坂くらいだと思ってたんだけど」
「あぁー。ソラはまだ会ってないもんな。一応この施設には全部で五つのクラスが存在して、その内男は俺らを除いて5人居るんだ。それに、クラス毎に管理者も居るし、他にもここで働いてる人がいるからな」
「なるほど。それじゃあタイミング次第じゃ結構な人数になるって訳か」
「あぁ……すっかり賑やかになっちまったなぁ」
独り言のようにソウマは呟き、天井を見上げる。その顔は昔を懐かしむようで、どこか切なさを感じさせていた。
彼の真意について考えるのはそれとして、確かに、会っていないだけで、施設全体を知らないだけで、ここには多くの人間が存在しているのだ。毎日風呂に入っていれば、色んな人と出くわすだろう。その時に改めてソウマから紹介してもらっても遅くはない。そんなことをソラは軽く考えていた。これからどんな展開が待ち受けているかも知らずに。
「なぁソラ。これから俺達、どうなるんだろうな」
「……さぁ。さっきまで気絶してた俺からしたら、これも夢なんじゃないかって思うくらいだし」
彼の突然の弱音にさえ聞こえる発言に、ソラは適当に返事を誤魔化す。正直、明日目を覚ましたら綺麗な街並みに戻ってましたドッキリ大成功!みたいな希望さえ抱いてしまう状況だ。ソラの返答にソウマは苦笑いすると、黙り込んで遠くを見つめていた。その表情には、微かに覚悟のようなものが表れていた。こうしてみんなとはそれなりに話せる仲にはなっていたが、実際のところ彼らの過去や個人情報に当たるものは何一つ知らない。今ソウマが何を考え、何に対して覚悟したのかさえ、ソラには到底予想することもできないのだ。ならば彼に告げられる言葉はひとつ。ソラなりの励ましの言葉だ。
「まぁ今から難しいこと考えてても、この先何があるかわかんないしさ。気軽に行こうぜ!まっ、俺は能力すら使えないお荷物だから、できることはほとんど皆無だけどな」
ソラは立ち上がり、ソウマに向かってそう告げると、「そろそろあがろうぜ」と言って彼に手を伸ばす。ソウマは何かを悟ったように微笑み、ソラの手を取って風呂場を後にするのであった。バスタオルで身体の水気を取ると、今まで着ていた下着諸々が違うものに交換されていた。ソウマ曰く、ここの担当者がその人その人に合った着替えを用意してくれるらしい。どうやらこの施設には、影武者的な執事がいるようだ。うっかり女湯を覗いたものならば、その影武者執事に始末されかねないだろう。ソラは一瞬でそれを察し、影武者執事の心遣いに感謝しつつ、邪なことは決してしないと心に誓った。二人は部屋へ戻ると、そこには先に風呂を済ませた女性陣と、ささやかな料理が準備されていた。
「二人ともお帰りー!お風呂長かったねー。……裸の付き合い?ってやつ?」
「んーなんか違うが、まぁそんなところだ」
ユイの言葉に若干の違和感を覚えつつ、ソラは適当に言葉を返した。女性陣は並べられた食事の位置に既に座っていて、二人分の空席だけが残っていた。まるで少し豪華な小学生時代の給食のようだ。テーブルと椅子は勿論この部屋にあった机と椅子で並べられており、机ひとつひとつに夕飯が用意されている。二人も椅子に座ると、ユイの合図で会食となった。見た目は一般的な日本食のようにも見えるが、恐らく非常食を工夫して作られたものだろう。ご飯に即席の味噌汁、メインは鯖の味噌煮缶に野菜を加えて炒めたものだった。
ソラは野菜炒めに箸を伸ばし、口に運ぶ。鯖の風味が絶妙にマッチしていて、気付けばご飯をかき込んでいた。久しぶりの食事ということも相まってか、箸を持つ手が止まることを知らない。
「美味いな……コレ」
漸く口を開いた頃には、ご飯の器は空になっていた。
「あら、バカみたいによく食べるのね」
「ソラっち食べるの早ーい!あ、因みに今日のこの野菜炒めはハヅキっち担当でしたー」
ユイの言葉に反応したソラは、目を輝かせながらハヅキに向かって親指を突き立てる。ハヅキは少し照れながらも、ソラヘ向かって親指を上に突き立て返す。二人の間に謎の何かが芽生えた瞬間だった。二人の行動を他所に、他のメンバーは飯を食らう。結局ソラはご飯をおかわりし、食べ終わった後もずっと幸せそうな表情を浮かべていた。
食事を終え、食器をひと通り片付けると、机をすべて後ろへ移動し、空いたスペースに布団を敷き始める。いよいよ校内合宿らしくなってきた。通常ならここで、不意に始まる枕投げ大会でキャッキャウフフと盛り上がるところなのだが、ソラを除く他のメンバーにその意思は感じられなかった。それもそうだ。彼らはこの生活を毎日繰り返している。仮にやっていたとしても、最初の一日か二日がいいところだろう。ソラのテンションだけが一方的に下がる中、皆は早々に寝る支度を始める。
「じゃあ、電気消すわよ」
カグラの合図で部屋の照明が消され、一気に闇へと包まれる。完全にお通夜ムードだが、ソラだけはまだ諦めていなかった。そう、ここでお決まりの恋バナが始まる筈だ。お互いに好きな人の名前を言い合い、顔を赤くしながら語り合う青春イベント。と、ふとソラは気付く。たったこの人数で、しかも今日知り合ったばかりのこのメンツで、恋バナのネタなど思いつく筈もない。そもそも初対面の女子に好意を抱いているわけでもなければ、仮にいたとしてもここで話せば完全に公開処刑だ。ソラは短く息を吐くと、仏のように悟って瞼をそっと閉じた。こうして、彼らの長い一日が幕を閉じたのである。