私の忌々しい婚約者
私には、幼い頃から忌々しい婚約者がいる。
公爵家嫡男にして国1番の美男子と名高い我が婚約者の名前は、マルシアル・サルディネロ。王家と姻戚関係にあるサルディネロ公爵家は、現国王の妹君が嫁いだ家系でもあり、この国で最も力を持っている。その家系の嫡男というだけで注目を浴びるのに、あろうことかマルシアルは、財力・容姿だけでなく抜群の知能まで備え付けてしまった。難しい数式も科学もなんのその。手先の器用さもあり、開発まで行ってしまうのだ。天は二物を与えないんじゃなかったのか、と神に問いたい。
そんな彼の婚約者に何故か収まっている私は、端から見れば羨ましいのだろうけれども、本音を言わせてもらえば不満なことばかりだった。
不満の1つめ。婚約者が彼であるという理由で、私には友達がいないこと。
しがない子爵家の、大して美人でも可愛くもない私がマルシアルの婚約者ということが、世間のお嬢様方や奥様方は、それはそれは面白くないらしい。マルシアルの母と私の母が親友同士であったため、必然的に幼なじみとなったマルシアルがそのまま婚約者にスライドしてしまっただけで、私の意志とは無関係な出来事なのだけれど、そんなことは彼女たちには関係ないようだ。文句なら婚約を押し切ったマルシアルのお母様に言ってほしいものだ。
そもそも、国1番の公爵家の奥方と子爵家の奥方が親友同士など常識的にはあり得ないことなのだが、これには私の母の特殊な事情が関係してくる。というのも、私の母は侯爵家の出であるにも関わらず子爵家嫡男の父に惚れ込んで、駆け落ち同然で無理やり嫁いで来てしまったのだ。
そのせいで、公爵家と子爵家は交流を続けることとなり、両家の婚約という普通では起こらない出来事が起きてしまった。私を妬ましく思う女性たちにしてみたら、それすらも私が無理やりに仕組んだことだと思うらしい。生まれる前の出来事にどう関与しろというのだ、と声を大にして言いたい。
とにかく、そのせいで幼い頃から女という女に妬まれ、除け者にされ、虐められ、貶されてきた。精神的にはとても強くなったけれど、友達なんてできるわけがない。そんなこんなで、はや18年である。
今日も今日とて、どこの団体にも属することができない私は、夜会の片隅で1人果実酒を煽っていた。視界の先では、私の忌々しい婚約者が女性とたわむれている。
肩にかかるくらいの燃えるような赤髪をざっくりとまとめ、品の良いグレーのタキシードを着こなす彼は、バランスのとれた長身と服の上からでも分かる引き締まった体躯も相まって、悔しいけれどこの会場で1番輝いて見えた。
「マルシアル様、また新しい品種の薔薇を開発なされたとお伺いしましたけれど、本当ですの?」
「ええ、そうです」
「月光のように輝く薔薇だとお聞きしましたわ。今までのどんな薔薇よりも美しいのだと」
「おや、そんなことはございませんよ。今私の前にいる女性より、美しいものなど存在しませんから」
「まぁ……!」
にこり、マルシアルに微笑みかけられたご令嬢は頬を真っ赤に染め、周りのご令嬢方はうっとりと彼を見上げている。
何が美しい女性だ、何が! 歯の浮くような台詞を吐きやがって!
ふん、と鼻息も荒く、次々と果実酒を飲み干す。そこらの男性より酒には強いので、これくらいではなんともない。今夜のお相手を探す男性達はご令嬢を見回しており、私に視線を止める人もいるけれど、1人荒々しく酒を飲んでいるのがサルディネロ公爵令息の婚約者と分かると、そそくさと離れていった。そんなこんなで、私には女性も男性も一緒に過ごす相手がいないのである。
唯一、傍にいてくれる筈の相手はあんなだしな!
この世の恨みの全てを込めて鋭く睨みつけると、そんな私の視線に気づいたのか、マルシアルと目があった。明らかに私が不機嫌だということは分かったはずなのに、あろうことかあの男は楽しげに口の端をあげた。なにがおかしい!
「素敵な淑女の方々、私はそろそろお暇しなければ」
「そんな、もう行かれてしまうのですか?」
「まだご一緒したいのは山々ですが、私の薔薇が寂しそうにしているもので」
「マルシアル様の薔薇?」
「麗しの婚約者殿ですよ」
「まぁ、リナリアさまが……」
余計なことを口走ってくれたおかげで、ご令嬢達が一斉にこちらを向き、呪いでもかけるかのような視線が私に集中した。
寂しそうになんてしてない。これは怒りだ。
マルシアルはご令嬢たちをかき分け、私のもとへ歩み寄ってくると、そのまますっと腕を差し出した。私は渋々ながらもその腕に自分の腕を絡める。いくら、今すぐこの腕を捻り上げて頬を引っ掻いてやりたいと思っていても、衆目の前で婚約者に腕を差し出されたらこうするしかない。エスコートされ、背中にひしひしと視線を感じたまま、2人揃って広間を後にした。
今日の夜会はサルディネロ公爵邸で行われているので、私達は帰宅する必要もない。公爵邸には幼い頃から訪れているため、私専用の部屋だって存在する。マルシアルは私の腕をとったまま、彼の自室へと一直線に向かった。すれ違う人ににこやかに挨拶をするマルシアルの傍ら、私も笑顔で会釈だけはしたが、それ以外はむくれたまま、特に会話もなく歩みを進めた。
やっとで自室に辿り着き、部屋に入ってドアを閉めた途端。マルシアルが大きく息を吐き、言った。
「はぁ。まったく、疲れたわねぇ」
勘違いしないでもらいたい。マルシアルが、言ったのだ。
「マルシアル、その言葉遣いはやめてっていつも言ってるでしょ」
「いいじゃない。2人しかいないんだから」
疲れた疲れた、といいながらタイを緩め、ソファーに腰掛けた姿はどこからどうみても男性だが、言葉遣いはまるで女性だ。
これが、私の不満の2つめにして、彼の数少ない欠点でもある。衆目の前ではきちんと男性言葉なのに、私や家族の前ではオネエ言葉なのだ。いくら言っても治さないので、最近では諦めかけているけれど。
幼い頃の記憶を思い返してみると、出会った当初はこんな喋り方ではなかった。それが、ある日を境にこうなってしまったのである。幼い頃の私は、女友達ができたようでむしろ嬉しく、さして気にもせずに彼の変化を受け入れてしまった。もしも過去に戻れるのならば、あの頃のマルシアルを全力で改心させてやるのに。
ご令嬢方の前では歯の浮く台詞を並べ立てるのに、私の前では、やれ髪が乱れてるだの、服が時代遅れだの、言いたい邦題言ってくれる。
「疲れたなんて嘘ばっかり。綺麗で可愛いご令嬢に囲まれて鼻の下を伸ばしてたくせに」
「何言ってるの。あんなセンスの悪い香水の山に囲まれて、鼻の下なんて伸びるわけないわ。もう気持ち悪いのなんの、倒れそうだったわよ」
ソファーにぐったりと体を預けたまま、本当に疲れた様子でマルシアルが手招きする。近くに寄ると、腕を捕まれ、そのまま彼の腕の中に抱き込まれた。
「ぎゃあ! 何するのよ!」
「はぁ……やっぱりこの香りが落ち着くわ」
マルシアルは背後から私を抱き込み、肩口に顔を埋めて深呼吸している。
私がつけているのは彼が選んだ香水なのだから、好みなのは当たり前だ。
「ちょ、やめ、息が、息がくすぐったいってば!」
ジタバタ暴れるものの、マルシアルは一向に私を放す気配がない。それどころか、とんでもないところに手が伸びてきた。
「ひいっ」
「やっぱり。リナリア、胸が大きくなってるわよ。そのドレス、今夜を限りに新調しなくちゃね」
「なっ、なっ、なっ……!!!」
かあっと頬に熱が集まった。上手く言葉にすらならない。恥ずかしさのあまり全力で腕を振り上げると、マルシアルがぱっと拘束をとく。慌てて離れ、胸を両腕で守った。
「どこ触ってんのよ!」
「リナリアの胸」
「そんなこと知ってるわよ!」
真っ赤な顔で怒鳴る私を、マルシアルはニヤニヤと見上げた。この男、確信犯だ……! 許すまじ!
マルシアルは立ち上がると、距離を取ろうとする私にすたすたと歩み寄ってくる。私は逃げようにも、壁際まで来てしまうともう逃げようがなかった。
「リナリア、ちょっと脱いでみなさい。新しいドレスのためにしっかり採寸しないと」
「なんであんたに採寸されなきゃいけないのよっ」
「明後日、ガーデンパーティに呼ばれているでしょ? 新しいドレスを新調しても間に合わないから、そのドレスを昼用に手直ししようかと思って。もちろん、すぐに夜会のドレスも新調するけどね」
「そんなの、家に帰って誰かに頼むからいいわよっ」
「だめよ。人に頼むなんて。いつも誰があなたのドレスを作ってると思ってるの」
「うっ…………」
そう言われると、何も言えない。社交界にデビューしてからずっと、何かに出席する際に私が着るドレスはすべてマルシアルが作っているのだ。なんとも恐ろしいことに。
曰く、放っておくと私はどこの田舎娘というくらい地味で、ぱっとしない、みすぼらしい姿になるのだという。余計なお世話だ。
「だからほら、潔く脱ぎなさい」
「やっ、やだ! いや! やめて!」
いくらなんでも脱ぐわけには行かない。
ええいこの手を放さんか! と力の限り暴れる私をどうにか抑えようと、マルシアルも奮闘する。2人でごちゃごちゃと縺れていると、不意に廊下につながるドアが開かれた。
「マルシアルお兄様、いらっしゃる? ……って、あら、お邪魔だったかしら」
そこからひょっこり顔を出したのは、天使もかくやという美少女であった。
彼女は私達を見て何を誤解したのか、ほんのり頬を染めてドアを閉めようとした。
「待って閉めないでっ」
「え、でも……」
「お願いっ」
私の必死の懇願が届いたのか、美少女がまたそろりと顔を出した。それで観念したのか、マルシアルもそっと息を吐いて私から離れた。どうやら九死に一生を得たようだ。
「何の用? アデルミラ。良いところを邪魔してくれたわね」
「ごめんなさい、お兄様。その方、婚約者様?」
そう言い、美少女は興味津々に私を見た。彼女は私を知っているようだが、マルシアルをお兄様と呼ぶ美少女なんて、私は知らない。社交界でも見たことがない。
説明をしろと言う意を込めて、マルシアルを睨みつけた。
「彼女は私の従妹の、アデルミラ・ニコラス侯爵令嬢。アデルミラは生まれてすぐ、デラヴィア皇国に療養兼留学に行っていたのよ。帰国したばかりで、今夜の夜会にも参加していないし。リナリアが知らなくても仕方がないわ」
「はじめまして。アデルミラ・ニコラスと申します。ご挨拶が送れてしまって申し訳ございません」
紹介を受け、アデルミラ様が優雅に一礼する。私も慌てて腰を折った。
「リナリア・バルデートと申します。こちらこそ、失礼いたしました」
「まぁ、やっぱりリナリア様でしたのね! お話しはかねがね伺っておりますわ。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
いくらなんでも会ったことがない上に聞いてもいないなんてことある? とか、今までお会いしたことが無いのに私のことを知っている? とか疑問に思ったものの、どうせマルシアルの仕業だろうと納得させた。何より私にはそんな情報を教えてくれる友達もいない。泣ける。
それよりも、私がマルシアルの婚約者と知っても尚、満面の笑みを向けてくれる女性の方が、とてもとても大事だった。
「明後日のガーデンパーティには出席していただけるのでしょう? そのパーティが、わたくしの帰国を発表する場でもあるのです。こじんまりとした場で恐縮ですけれど、一緒に過ごすのを楽しみにしておりますわね」
「は、はい。私もですわ」
妙齢の女性が、私と過ごすのを、楽しみにしてくれている。その言葉と向けられた笑顔に、心臓が早鐘を打った。今まで頂戴した「お会いできるのを楽しみにしておりますわ」という言葉には「けちょんけちょんにして差し上げますので」という言葉がもれなくついていたのである。
聞いたかマルシアル! 今の言葉!
この想いをどうしたものかと、感動のあまり紅潮した頬で隣に立つマルシアルを見上げると、なんと奴は不機嫌を隠そうともしていない顔をしていた。そしてその顔のまま、私とアデルミラ様の間に体を割り入れてきた。
「それで、アデルミラ、用件は何よ」
「まぁ、途中で入ってくるなんて、せっかちですのね。そんなではリナリア様に愛想をつかされますわよ」
「余計なお世話よ。あなたは話し出すと長いんだから、早く本題を切り出してあげたにすぎないわ」
「わたくし、まだリナリア様とお話しがしたいのに」
「明後日たくさんすればいいじゃないの」
「あらお兄様、まだ根に持ってらっしゃるの? わたくしがリナリア様をお誘いしたこと」
マルシアルの背中越しに、ぽんぽんとテンポよく交わされる会話を黙って聞く。
マルシアルが私以外の女性に対して冷たくあしらっているのも、私以外の令嬢に女言葉で喋っているのも、初めてだ。
まるで胸に鉛が落ちてきたみたいな嫌な重みと、鈍い痛み。
―――ん? 痛み?
「リナリア?」
振り返ったマルシアルに名を呼ばれ、我に返る。どうやら話が終わったようだ。
感じた痛みと疑問は、とりあえず脇に置いておこう。
「では、私はそろそろお暇いたしますわね。リナリア様、また明後日お会いいたしましょう」
「はい、宜しくお願いいたします」
にこりと笑い、アデルミラ様が一礼して踵を返す。ドアを開けて一度外に出たが、すぐにまたひょっこり顔を出した。
「あっ、どうぞ続きをなさってくださいませね」
淡く頬を染めてそれだけ言い置き、ぱたりとドアが閉まった。
訪れた、この嫌な沈黙。冷や汗が一筋背中を流れた。
「……そうねぇ。リナリア」
「……なによ」
「とりあえず、この部屋に泊まっていく?」
「泊まるわけないでしょ!!」
*****
夜会から2日後。ガーデンパーティに出席するため、私は侍女たちによって磨き上げられていた。今は入浴を終え、コルセットを着つけられている途中だ。
「お嬢様、もっとお腹を引っ込めてくださいまし!」
「も、無理…よ……! 死ぬっ!」
「死には致しませんわ! 以前はここまで締め付けていたのです。お嬢様、お胸が豊かになられたどころか、一回りふっくらされたようでございますよ」
嘆かわしい、といいつつ、侍女はコルセットを締め付ける手を緩めない。本当に息が止まりそうだ。
もっと締め付けたい侍女と、これ以上は引っ込められない私のお腹とでやっとで折り合いが着いた頃には、私の息も絶え絶えだった。
「お、終わった……」
「終わってはおりませんわ、お嬢様」
お次はドレスだ。恐ろしいことに、先日のイブニングドレスがきちんと手直しされ、今朝届けられた。まるで違うドレスに生まれ変わっていたのを、侍女達は感嘆の息を吐いて見つめ、私は拳を握りしめて歯ぎしりした。
私の好みをしっかりと押さえつつ、流行も取り入れているそのドレスは、悔しいけれどとても素敵である。
実際に着てみると、これまた悔しいことに、私にぴったりだった。胸だけじゃなく、全身の変化も把握されている。
「うん、私の見立てはぴったりだったね」
そこで、聞こえるはずのない声が聞こえ、私は目を見張った。慌てて背後を振り返ると、いつの間に入ってきたのか、マルシアルが扉の傍に立っている。
「マルシアル! なんでここに!」
マルシアルは私の非難の声などお構いなしに、室内へと入ってきた。
「優秀な侍女の方々、パーティまでにはまだ時間の余裕もありそうだし、少しだけ2人にしてもらってもいいかな」
「はい、マルシアル様」
微笑みかけられ、侍女達はそそくさと部屋を出て行く。時折こうして急に訪れるマルシアルは、無条件で侍女たちに部屋に通される上、言うことまで聞いてもらえるのだ。私以上に、というのが納得行かないけれど。
「着替えの最中に入ってくるなんて、非常識過ぎるわよ」
「そうね、それに関しては謝るわ。ドレスの出来も見たかったし、この時間しか来れなかったのよ」
その言葉に、私は首を傾げた。
「そんなに忙しいなら、来なくてもよかったのに」
「あら、つれないことを言ってくれるわね」
マルシアルは口の端をあげ、私の腰に腕を回したかと思うと、正面から抱きついてきた。
「ぎゃっ」
「思った通り、少しふくよかになったみたいね。あと、石鹸を変えた? 私が贈ったものと匂いが違うわ」
確かに、以前はマルシアルから贈られた石鹸を使っていたが、使いきったので新しいものに変えた。以前のものも今のものも匂いはそれほど強くないはずなのに、ほんの僅かな変化すら嗅ぎとったというのか。相変わらず恐ろしい。
「またすぐにでも贈るわね。他のものは残っている?」
その問いに黙って頷く。私が使っている石鹸も、香水も、化粧水も、それこそ何から何まで、マルシアルが選んだものなのだ。これは幼い頃からずっとなので、今では特に抵抗もなくなっている。それこそ全身、マルシアル・プロデュースだ。
マルシアルは私を抱きしめたまま黙って息をしていたが、ふと腕の力を緩め、怪訝そうに見下ろしてきた。
「どうしたの。今日は怒らないのね?」
いつもなら、「離れて! 鬱陶しい! さっさと出て行って!」と怒りを顕にする私が、今日は大人しくされるがままなのを訝しく思ったらしい。具合でも悪いのかと額に手を当てられるが、別に熱があるわけではない。
ただ単に、今日は私の機嫌が良いのだ。
「別に、ちょっと機嫌がいいだけよ」
「何か良い事でもあった?」
「ふふふ。今からアデルミラ様にお会いできるからよ」
先日は少ししか話せなかったが、ようやく私と仲良くしてくれそうな女性に出会えたのだ。これほど嬉しいことはない。
友達にもなれるかもしれないし、一緒に遊べるかもしれないし、憧れの『友人とのお買い物』もできるかもしれないのだ。
様々な想像をふくらませ、自然と頬が緩む私を、マルシアルは意地の悪い笑みで見下ろした。
「そうそう上手く行かないわよ」
「なによ。そんなの分からないじゃない」
「いーえ。賭けてもいいわ。今リナリアが想像してることは殆ど叶わないってね」
否定的な言葉に、思わずむっとする。
「ねえ、なんでもっと早く教えてくれなかったの。あんな素敵な従妹がいるってこと」
「別に教えなくてもいいじゃない。リナリアには私がいるんだから」
「良くないわよ! マルシアルがいるところで何だっていうの」
「へえ。じゃあ私は、いてもいなくても変わらないかしら?」
そう言われ、ぐっと押し黙る。私が答えられないのを承知でそう問いかけてきたのだろう。マルシアルは相変わらず意地の悪い笑みを浮かべたまま、ん? と答えを促してくる。
「……し、知らないわよ、そんなこと」
「答えになってないわね、リナリア」
俯いてぼそぼそと話す私の顎にマルシアルの指がかかり、ぐいっと上を向かされた。至近距離で見つめられる。深い深い海色の瞳でまっすぐ見つめられては、逸らすことができなかった。
「正直に言ったらいい。俺にいてほしい、ってな」
そこで、この一言である。私の頬が一気に染まった。
これが不満の3つめ。この男、厄介なことに2つどころか3つの顔を持つのである。ご令嬢方に向けられる柔和な顔、私や家族に向けられるオネエな顔、そのどちらでもない、私にだけ向けられる男の顔。
この顔に、私はめっきり弱かった。
「なぁ、リナリア。俺のことが好きだろう?」
頭皮まで真っ赤になっているのではないか、というくらい、顔が熱い。すぐには何も言葉にならなくて、口を閉じたり開いたりを繰り返した。さぞや間抜けに見えていることだろう。そんな私を、この世の全ては自分のものだと思っているのではないなというくらい不遜な笑みを浮かべて、マルシアルが楽しげに見下ろしている。
「し、しらない! 知らないわよ! 馬鹿! 出て行って!」
そんな顔をこれ以上見られたくなくて、身をよじってマルシアルから離れた。マルシアルの体を強く押す。肩をすくめ、マルシアルは大人しく扉へと向かった。
扉の向こうに押しやり、ドアを閉めた途端、体の力が抜けてへなへなと座り込む。顔はまだまだ熱いし、心臓が早鐘を打っている。こんな姿のまま、侍女を呼ぶわけにも行かなかった。
「……はぁ、最低」
いつもオネエで、時々男な私の婚約者。どうしてこんな奴にこんなにも振り回されているんだろう。
---その後出席したガーデンパーティで、アデルミラ様は婚約のために帰国しただけであって、すぐに隣国に嫁いでしまうことを知り、私は文字通り地に沈んだ。
マルシアルはこのことを知っていて、あんな事を言ったのだろう。
本当に、本当に、忌々しい婚約者!
ご覧いただきありがとうございます。次話はマルシアル視点です。