第六話 魔術演習
ザックの言葉に、今度こそ湖音は凍りついた。やはり先ほど見た署名は見間違いではなかったのだ。
アイザック・ニュートン——数学者・物理学者にして天文学者。ニュートン力学を確立した、古典力学や近代物理学の祖。運動の三法則に万有引力や微積分法の発見、光学の研究など多数の功績で知られる、自然科学史上空前の大天才。
また、彼女は知っていただろうか。彼が魔術・錬金術にも傾倒し、最後の魔術師と言われていたことを。
そんな控えめに見積もっても人類史上、五指には入るであろう歴史上の偉人が、今湖音の目の前にいた。
「どうしたんだ? 様子が変だぞ」
「……いひゃいいひゃい!」
ユスティーシュの問いかけにも答えることはなく呆然としていた湖音は、ザックに両頬を抓られ、ようやく我に帰った。
「で、どうしたんだ?」
「…………」
頬が痛かったのか、恨みがましい目でザックを睨みながらも、湖音はタイムパラドックスについて考えていた。
湖音自身が彼のことを知っているという事実を伝えるのは問題ないのだろうか。物語や映画では、些細なことからトラブルになることも多かった気がする。そう考えると未来の情報は伝えるべきではないのかもしれないが、既に湖音は様々な情報を喋ってしまっている。やはりこれまでの行動は少し迂闊だったというべきだろう。
いや、まだ本人と確定した訳では無いのだ。同姓同名の別人かもしれないし、そもそも本当にタイムスリップしたかどうかすら定かでは無いのだから。
「……な、なんでもないです。ちょっと未来で似たような名前を聞いたことがあったんで驚いちゃって」
とりあえずどう影響が出るかわからない以上、黙っておいた方が無難だろう。
「ふーん、まあいいけどな。とりあえず明日出発するまでは好きに過ごすといい。なんかやりたいことあるか?」
「じゃあ街に行きたいです! あと、時間あったら魔術教えてください」
「いいだろ。んじゃ荷物置いたら出かけるか。ヘボ魔術師、お前はどうすんだ?」
「ん? 僕も行こうかな。そこの貧乏人に案内できるのは賭博場と借金取りの家くらいだろうしね」
「んなとこ行く訳ねーだろが。障壁一つまともに仕掛けられない奴がよく言えるな」
「あれは他に原因があるに決まってるだろ。君の瞳、茶色いけど泥水でも詰まってるんじゃないの?」
「……くっ!」
どうやら口ではユスティーシュに一日の長があるらしい。忌々しそうな顔をしてザックが口籠った。
「もう、二人ともやめてくださいよ。喧嘩するとこじゃないですよ」
「だってあの野郎が……」
「だってって、子供じゃないんですから。それに最初に言ったのはザックさんですよ」
「……ぐっ」
湖音にもやり込められたザックには、もはや黙る以外の選択肢は残されていなかった。
「通りはスリも多いからな。気をつけろよ」
広場に向かうため脇道に入ったザックは、湖音を心配して声をかけた。
脇道は確かに表通りとは比較にならない位の人の密度だった。余りの人の多さに面食らっている湖音の目の前で色鮮やかなチュニックを着た職人達が行き交い、毛皮を着た裕福そうな男とすれ違って行く。四人がかりで大きな荷を運ぶ獣人達を迷惑そうに見ながらも脇をすり抜けるマントに白い頭巾の女性は主婦か召使いだろうか。
「さ、行くよ。ちゃんと歩いて」
「ほ、ほんとに凄いんですね」
唖然とする湖音を促し、ユスティーシュがザックの後を追った。
ようやく三人が広場まで来ると、市こそ終わっていつものの、活気は相変わらずだった。まだ屋台などは幾つか出ており、順番に冷やかしていく事にする。
毛織物や果物、香辛料などが並ぶ中に武器屋があったのが湖音の目を引いた。彼女の時代では土産物屋としての武器屋は観光客向けにあったが、ここに並んでいるのは紛れもない本物であり、その迫力も違っていた。
またその少し先にあったのは魔道具の店だった。粗末な木製のテーブルの上に並ぶ品は全て何らかの魔術が施されているのだろう、淡い魔力光を放っている品も多かった。
「ねえ、この光ってるのが魔法の品なんですか?」
「ん? そりゃどっちかってーと質の悪い品だな。魔力が漏れてんだよ。ちゃんとした魔法具は発動してない時に干渉光が見えることなんてないからな」
ザックがつまらなそうに言うと、店主が睨みつけてきたので三人は慌てて店の前を退散した。そうしてなんだかんだと店を冷やかしているうちに、小一時間ほどの時間が過ぎていた。
「ちょっと休憩でもしようか」
ユスティーシュの提案にのった湖音は一軒の屋台の前に連れてこられた。店の前にはテーブルと椅子が並べられ、寛げるようになっている。
「最近イタリアの方で流行っている飲み物でね、コーヒーって言うんだ。おじさん、三つもらえるかな」
注文を受けた店主は麻袋から出した豆をフライパンで炒り、十分に炒った豆を突き崩していく。薬缶で水が沸騰したところに、突き崩した豆をスプーン山盛り一杯溶かし入れ、さっと煮立たせた。煮たったところで火から離し、また火にかける。こうした動作を何度か繰り返した後、それぞれのカップに黒く染まった液体を注ぎ入れた。
「あいよ、お待たせ」
テーブルに運ばれてきた飲み物はまさにコーヒーだった。湖音が知るものとは少し違うが、マキナからの情報では、トルコ式コーヒーだというものらしい。フランスではまだカフェというものは出来ていないようだが、少しずつ流行り始めているという記録が視界に重なって表示されていた。
「中の粉が沈んでから、上澄みを飲むんだよ。苦いけど疲れもとれるし、身体にもいい。癖になる味だよ、試してごらん」
「うまいのか、これ? 相変わらずお前は流行りもの好きだな」
ザックも初めて飲むらしい。ユスティーシュが見守る中、恐るおそる口に運ぶ二人。
粉が口に入らないように、そっと飲むとコーヒーの風味とほろ苦さが口の中に広がっていく。反応は対照的だった。
「にがっ! まずっ! なんだこれっ」
「あ、美味し」
楽しそうに二人の反応を見守るユスティーシュも、美味しそうにカップを傾けた。
その後、もう一回りしてから宿に戻ってくると時刻はちょうど昼だった。簡単な食事を終えると湖音は勢いづいてザックに声をかけた。
「ザックさん、この後魔術を教えてもらってもいいですか?」
「ああ。荷物置いたら中庭に行くぞ。ユスティーシュも手伝ってくれ」
中庭に行く途中、宿の女将から壊れた革鎧を貰ってきたザックは、それを奥の壁の手前に据えると湖音の方に振り返った。
「よし。これが的だ。ユスティーシュ、魔法で攻撃してみてくれ。詠唱有りで頼む」
ユスティーシュは一つ頷くと、起動式を唱えた。
「Des.Mas.」
途端、ユスティーシュの雰囲気が一変する。見えない壁に隔てられたような、分厚い空気の衣を纏ったかのような気配に湖音は思わず息を飲んだ。
「湖音、もう少し下がって」
——燃え上がる炎よ。我が指し示す目の前の敵を焼き尽くせ。/強き炎——
杖が仄かに黄色く輝いたかと思うと、手のひらを上に向けた右手の先の空間が一瞬揺らぎ、そこに目に見えない強い力があるのが感じられた。おそらくそれが魔力、なのだろう。
固唾をのんで見守る湖音の前でユスティーシュは革鎧を指差すと、魔力は狙い違わず一直線に革鎧に飛んでいき、命中した瞬間激しく燃え上がった。この距離でも熱さを感じたのだから、相当な熱量なのは間違いない。
しばらくして炎の勢いが収まてから近寄って見てみると、革鎧には大きな穴が空き、大部分が炭化していた。もしこれを着ていたら命は無かっただろう。
「これが発火の魔術だ。火属性を利用した魔術で、火力の調節によって攻撃から料理にまで使える便利な魔法だな」
感心する湖音の前で、ザックは地面に何かを書き始めた。
「基本的に魔術というのは、己自身のイメージを詠唱を通じて体内の魔力に刻み込み、触媒を通じて体外の魔力に投影する事で発動するんだ。今の場合、指差した対象を燃やすというイメージを魔力に流しこんだ訳だな」
足下には人の形をした線の中に火という文字が書き込まれ、それが杖を通じて外に出る様子が乱暴に描かれていた。
「最初に言っていた呪文は何ですか? 雰囲気がその瞬間変わりましたよね」
「あれは起動式って言って、体内の魔力を励起させるための暗示だ。要はいまから魔術を使いますという宣言だな。これを唱えることで、始めて魔術が発動できる状態にする訳だ。そうでないと些細な事で魔力が発動しかねない。何かをイメージしたり喋ったりする度に魔術が発動したら困るだろ?」
ザックによると魔術は三つの詠唱式で成り立っているのだという。
起動式で魔術を発動できる状態に移行し、その後の呪文で諸条件を設定、発動式を唱えることで形を成すことができる。
「ちなみに諸条件を設定と簡単に言ったが、実際にはここは凄い長くなる。魔術のサイズ、強度、種別、時間、場所、対象や目的設定など、それこそ決めようと思ったらえらく長くなるんだ」
「え、魔術ってイメージすればいいって言ってたよね?」
「ああ、単に発動するだけならな。ただ発火の術だって、ちゃんとしたイメージが無ければ自分自身を燃やして終わりになるぞ。お前の時代には無いか? 時々突然燃え上がって死んじまう奴の話とか」
「オカルトじみた話ではあるけど、信じてはいないかな。本当かわからないし」
湖音の視界にマキナがご丁寧に人体自然発火の事例などをあげてくるが、正直あまり興味は無かった。
「まあ、魔術っていっても使い方を誤れば危険なんだよ。だから呪文という形で、正しい発動の仕方を指定し、イメージするのさ」
「んー、でもそうすると厳密にやればやるほど長くなるってことですか?」
「正解。だから魔術師は魔導書というものを持っているんだ」
ザックの言葉に合わせ、ユスティーシュが懐から一冊の書物を取り出した。あれが魔導書なのだろうか。
「魔導書ってのは、それ事態が魔道具ってわけじゃなく、呪文の補助を行うもんなんだ。この中には細かな呪文の設定などが大量に書き込んである。これを持っていれば、該当の箇所を呼び出すだけで詳細な設定を行えるんで呪文の短縮が可能になる」
ユスティーシュの指し示したページには“燃え上がる炎”という言葉について詳細な設定が書き込まれていた。それこそ炎のサイズ、燃焼時間などまでもが何行にも渡って書かれている。もちろん内容を理解しておく必要はあるが、この項目を呼び出すだけでいいというのは、呪文の大幅な短縮になるのは間違いない。
「だからさっきあいつが“燃え上がる炎”よと言っただけで、これだけの設定がされていた訳。こういった言葉を繋いで様々な設定を行うことで、イメージを明確にしているんだ」
この段階で魔力を十分に用意していれば魔術は待機状態になり、最後のキーを唱えた瞬間、魔術は発動する。
「このように呪文を唱えて、適切な魔力を用意してやれば魔術は誰にでも発動できる」
ザック曰く、難しいのは結果を正しくイメージすることと、その術に対して適正な魔力を用意することらしい。魔力が少なければ魔術は発動しないし、多いと暴発の危険もあるのだとか。
「まあ慣れてくれば呪文無しで魔術を発動させたり、逆に設定をより詳細に詰めていけば、イメージしなくても術を成立させることもできる。魔道具なんかはそうやって術を記録しているんだが、まあこれは余談だな」
大まかな流れを理解した湖音は、頭の中で具体的に術をイメージしてみようと考え始めた。
「まずは実際に試してみるといい。最初は起動式を決めなくていいから、しっかりと体内の魔力を高めてみろ。あ、ちなみに呪文は自分の使いやすい言語で設定すればいいからな」
魔導書の該当部分と自分の呪文が対応していると認識していれば問題は無いのだと言う。
早速指輪を嵌め、魔導書を借りた湖音は呪文を唱えてみた。ユスティーシュが唱えていたものを日本語で発声してみることにする。
——燃え上がる炎よ。我が指し示す目の前の敵を焼き尽くせ。/強き炎——
しかし当然のように何も起きなかった。
「魔力の流れが理解できてないようだな。よし、お前の魔力量だと、そうだな、これくらいか」
ザックが湖音の指先を握ったかと思うと、小さく呪文を唱えた始めた。
次の瞬間、湖音は突然身体の力を少し吸い取られたような間隔を覚えた。
「今お前の魔力を少し吸収した。この失った魔力と同じくらいの魔力を込めてみろ」
なんとなく魔力の流れを感じることができた湖音は、もう一度試してみる。今度は呪文とともに指輪が青く輝き始めた。しかし、呪文は発動しなかった。
「魔力量が多すぎるんだ。もっと加減を注意しろ」
「もう一回だ、まだ多い」
しかし結局、その後も発火の呪文が発動することは無かった。
どうもマッチに火が消えてしまう程のオイルをかけているような状態になっているらしい。
他にもいくつか攻撃呪文や、生活していく上で使うことができる初歩的な魔術を教えてもらったが、それも同様に発動することは無かった。
「まあいきなりは難しいからな。まずは魔力の流れと量を把握していけばいい」
ザックによると適正な魔力量を込められるようになるまでには、個人差が大きいらしい。
「前の料理の話を思い出してみろ。触媒に込められる魔力量がコップ一杯の人間は、コップ一杯の魔力量を消費する魔法ならすぐ使えるようになる。だが、これがタライや小指の先ほどの器を持っている人間だとコップ一杯分の魔力量を用意するのは途端に難しくなってくる」
魔力量がダムだと言われた湖音は、そこからコップ一杯分の水を掬いだす困難さを考えて、ため息をついた。
「まあ、移動中時間は沢山あるからな、ゆっくり覚えていくといい」
そういって今日の練習はお開きとなった。夕食後、部屋に戻った湖音はベッドに横になり魔力の流れを意識していた。
これまで生きていて感じたことのない間隔。思い返してみると、この世界に来た時に感じた熱っぽさが、魔力そのものだった。
「イメージはともかく適正量っていわれても、全然ピンとこないんだよね」
色々と指先に魔力を込めてみる。流れを感じ取ることもできるし、力がこもっていることも実感できるが、その具体量となると全く掴めなかった。やはり膨大すぎる魔力量が問題なのだろう。
それに対してイメージ自体は明確にできている、と思っている。かつて舞台でショーを披露していた時にも、成功するイメージは重要だった。かつて様々な業界の一流のプロ達と会話していた時にも、皆成功に対するイメージは明確に持っていた。むしろ仕上がりに対するイメージの深さが、如実に結果と結びついていたと言える。仮にも一分野で頂点を究めた父の片腕を務めたのだ。それに対しては自信があった。
『もしかしたら私がお手伝いできるかもしれません』
「マキナ、わかるの?」
突然マキナに話しかけられた湖音は思わず聞き返していた。
『はい。血流にそって流れるエネルギーを計測しています。私自身が持っている微弱電流でその流れをコントロールできることを確認しました』
「じゃあ魔力のコントロールをマキナに頼めば、魔術が使えるかもしれないのね!?」
湖音は思わずベッドから飛び起きた。
「……あ。魔導書が無いんだっけ」
『それでしたら、拝見した部分については全て記録してあるので問題無いと思います』
なるほど。ということは湖音自身に関しては魔導書は必要無いという事になる。
湖音は、窓を開け外に向かって照準を定めた。建物などを狙う訳にもいかないので、何もない宙空が目標だ。
深呼吸をして体内の魔力を感じる。完成系をイメージし、ゆっくりと呪文を唱え始める。視界にはマキナが補助した魔力のグラフや設定用のインターフェースが表示されている。サイズ、強度などを適当にスライダを動かして設定し、そこから適正量を消費するようマキナに指示を出す。設定ごとに視界は多数のグラフで埋まっていった。外から見た者には湖音の瞳に映る各種設定の光が虹色に明滅するのが見えているだろう。
——燃え上がる炎よ。我が指し示す目の前の敵を焼き尽くせ。/強き炎——
次の瞬間、窓から差し延べられた湖音の手の先に巨大な魔力塊が生まれ、天に向かって発射された。
明確な目標が定められていなかったそれは、大気を歪めながらはるかな高度まで飛んで行った。そのまましばしの時が流れる。
「……あれ、また失敗かな。今度こそ上手く——」
その瞬間、空が轟音と共に大火球に包まれた。
パリ市内全域から見えるであろう規模の大火球は湖音のいる宿屋だけでなく、街全体を震わせた。相当な高度であったためか、地上に大きな被害は起きていないようだったが、大音響に飛び起き、何事かと窓を開けて空を見上げる多くの人の姿を見て、思わず湖音は呟いた。
「ちょっと、大きすぎだよね……」
『まだ設定のサンプルが少なかったようですね、失礼しました』
マキナの返事にも心無しか、申し訳ない感じが滲んでいた。
これで今年の投稿はお終いです。
新年も出来る限り早いペースで投稿していきたいと思います。
皆様、良いお年をお迎えください。