第五話 魔術師ギルド
三人が話しているうちに、パリの町並みが見えてきた。大通りを走っていた辻馬車は税関門で手続きを済ませると、そのまま市街に入った。ザック達は顔見知りなのかコネでもあるのか、挨拶を交わし一言二言、声をかけるとそのまま街の中に入ることができた。
街の中ではだいぶ速度を落としている。外を眺める湖音は窓から見える光景にいちいち歓声をあげてはザックに呆れられていた。
街の中には漆喰を塗られた三階前後の高さの建物が無数に並び、敷き詰められた石畳はまるで渓流の流れのようにその間を縫っているような印象を与えていた。
通りを歩く人々は活力に満ち、物売りの声が辺りに響き渡っている。まだ朝早いために市も開かれており、広場には多くの店が並んでいるのが見てとれる。無数の露店とそこに群がる人々の大半は人間だった。
湖音は話に聞いていた獣人や妖精の姿を探してみたが、ここでは数えるほどしか見つける事ができなかった。
「すごい、ほんとに中世なんですね! 全部石造り!」
「なんだそりゃ」
『湖音様、時代区分的には近世になります』
パリの街並みを見た湖音の歓声は冷ややかに迎えられた。
「……思ったより綺麗な街なんですね」
(おそらく魔法の影響かと思われます。記録上ではもっと汚れているはずです)
マキナの解説によると、この時代は都市のインフラが限界に達し、特に排泄物の処理は窓から通りに棄てるのが当たり前という酷い状態だったらしい。しかし湖音の前に広がる実際の街並みはそんなことはなく、都市は清潔さを保っていた。
「ああ、それは獣人種や妖精種のおかげだな。都市の生活基盤は彼らの労働力と彼らが使う生活魔法に依存しているからな」
湖音が質問するとザックはそんな風に答えた。排泄物の処理やゴミ処理などの浄化施設、市壁や施設の建築、移動補助などに妖精種の生活魔法や獣人種の力が利用されているという事だった。
「まあ、汚れ仕事をやってくれている彼らを差別する奴らも多いんだけどね」
憮然としてユスティーシュは腕を組んだ。
なるほど、魔法がある時点で気づくべきだったのかもしれないが、やはりこれはただの(と言うのもおかしいが)タイムスリップでは無いのかもしれない。この世界の未来が自分の時代に繋がっているとは、湖音にはどうしても思えなかった。
(マキナ、私達のいた時代で人以外の種族なんて発見されてた?)
実は自分が知らないだけで、絶滅していた痕跡が見つかっていたりするのだろうか。湖音はそこまで歴史に詳しい訳でもないので、自分の認識に自信が持てなかった。
(いえ。少なくとも確定された資料では一切見つかっていません。一次資料が不明のデータや信頼性に難があるデータ、追加調査が行われず資料の体を成さないもの等は省いた上ですが)
(そういう怪しい情報だったらあるんだ?)
(勿論です。一般情報の約8割はそういったジャンクで構成されています。嘘・誤認・思い込み・創作が入り混じったそれらは分析不可能です)
まあ確かにネットワーク上を流れる情報の裏付けなんてほとんど出来る訳が無い。未来のデータで他種族について調べるのは諦めるしか無いだろう。湖音はマキナに礼を言うと、改めて周りを見回した。
通りを行き交う人々は一見すると人間だけのようにも見えるのだが、側道から見える裏通りには、明らかに人ならざる者の姿があった。表通りに出てきていないという現実が、言葉にできない差別の存在を物語っていた。
ザックによると彼らの権利は百年程前のトリエント公会議で認められたという事だったが、未だ偏見の目を完全に解消しきれていないという事実が実感できた。
「別に表通りを歩いちゃ行けない訳じゃないんですよね?」
「ああ。だが、彼ら自身も好き好んで揉めたい訳じゃないから、彼ら自身のコミュニティを作って、そっちに集まることが多いな」
確かに同族が集まって街を作るというのは湖音の時代でも普通にあったため、ザックが言ったことは分かりやすかった。確かにどこの街でも観光客を除き、明らかな異邦人というのは少なかったように思う。
「ちなみに今はどこに向かっているんですか?」
「魔術師ギルド。そこで準備をして、明日カレーに向かおう」
ザックが指差した先には、一際高い塔が見えた。どうやら馬車はそちらの方面へ向かっているようだった。
「やっぱりギルドってあるんですね! 冒険者ギルドとか憧れてたんです!」
物語の世界そのままの景色に加え、物語の世界にしか存在しない場所の話を聞いた湖音のテンションはどんどん上がっていた。
「……えーと、盛り上がっているところ悪いが、冒険者ギルドなんて無いぞ。つーか冒険者ってなんだそりゃ」
「うそ! 財宝探したり魔物退治したりする人達ですよ? 彼らの集まりが冒険者ギルドですよね?」
「よくわからんが、お前の時代は相当おかしいな。そんなにほいほい財宝が見つかったり、魔物が跳梁跋扈してるのか」
ザックの湖音を見る目が、どんどん可哀想なものを見るものに変わっていった。
「いや、私の時代の物語では定番の設定なんですけど」
慌てて言い返すと、ザックは大きくため息を一つついた。
「あのな、よく考えてみろ。そんな化け物が日常的に出てきてたら、そもそも生活が成り立たないだろ」
確かにザックの言う通り、組合を結成するほどの人数の冒険者が、それを専業とできるレベルで、化け物が出て来る中で生活するというのは難しいかもしれない。仮に成立した場合、魔物は絶滅に追いやられ、その後冒険者は職を失うことになるというのがザックの話だった。
「だいたい、そんな規模の戦力を国や教会が黙って見ているってのは考えにくいけどな。これから行く魔術師ギルドだって国の管理の元での運営だぞ」
「そこまで否定しなくてもいいじゃなですか……。面白いものは面白いんです……」
これまでの話を総合すると、この世界は魔物が跋扈する訳でも財宝が溢れている訳でもないらしい。もちろん冒険者なんて存在もなく、魔術師もなかなか見ることができないという事になる。徹底的に話を否定された湖音のテンションは一気に急降下していった。そんな落ち込む湖音を見かねたのか、ユスティーシュが口を挟んだ。
「まあ魔術師ギルドはあるんだし、それだって楽しめるんじゃない?」
湖音の中でユスティーシュ株が急上昇した瞬間だった。
「そ、そうですよね! でも、魔術師って危ないんですよね? ギルドとか大丈夫なんですか?」
「前に言った通りだよ。魔術は欠かせないからね。人以外が扱う分には問題ないの」
多くの人混みで思ったより時間がかかったものの、やがて馬車は三階建ての石造りの建物の前で止まり、三人を降ろした。
建物の中心からはさらに高い塔が伸びており、相当巨大な施設である事が伺えた。
「さ、行くぞ。ここが魔術師ギルドだ」
ザックを先頭に馬車を降りた三人は建物の扉に向かった。
扉の上にはゴシック体で魔術師ギルドの文字が書かれた金縁の看板が掲げられている。よく見ると建物自体がうっすらと魔力光で包まれているのが感じられる。なんらかの魔術が施されているという事か。建物の屋根に付いているガーゴイルの像も、時折周囲を見回している。あれも魔術によるなんらかの仕掛けなのだろう。疎らに建物に入って行く人達もローブを纏い、見るからに魔術師という感じの者が見かけられた。確かに彼らはユスティーシュの言う通り、人では無く長い耳を持つエルフのようだった。
「……ギルドって私とか入っても大丈夫ですか?」
恐る恐る尋ねる湖音。
「そりゃそうだ、魔術を依頼に来るのは普通の人間に決まってるだろうが」
「そっか、魔術師しか居ない訳じゃないんですよね」
「そういうこと。さ、行くぞ」
そう言って扉を開けるザック達の後を、湖音は慌ててついて行った。
魔術師ギルドの中は一見、役所や銀行のような事務的な堅苦しさを感じさせた。ロビーに並べられているベンチには幾人かの姿が見える。彼らが魔術の依頼にきた者達なのだろう。入る時に見かけたローブ姿の魔術師然とした人々の姿はどこにも見かけなかった。
室内の真ん中には木製のカウンターが並び、その向こうでは多くの人が働いているのが見えた。こちらは表通りとは違い、異人種の姿が多い。人間の魔術師は公にはいないからなのだろう。
「ここでちょっと待っててくれ」
入り口横のベンチでそう告げると、ザックはカウンターの奥に入っていった。何人かの職員が慌てて出迎え、頭を下げながらザックに付いて行くのが見えた。
湖音はユスティーシュとベンチに並んで座り、興味深そうに周りを見渡した。
「あんまり魔術っぽい雰囲気とか無いんですね。水晶玉とか魔女の大鍋みたいなものとか。それにみんな普通の人みたい」
「魔術師の工房ならそういう物もあるんだけどね。ここは見ての通り事務的なことが大半だからね。ギルド職員だって普段から魔術師の格好をしている訳じゃないのさ」
このギルドは数少ない魔術師たちのために国の支援の元、金銭的な援助を行ったり魔術の研究を行っているらしい。またここの職員もレベルの差はあるものの、全員が魔術の使い手なのだとか。ちなみにこの建物も地下には研究施設が用意されており、少なくない人数の魔術師が研究を行っているのだという。先ほど表で見かけた人々はそちらにいるという事だろう。
「ね、そういえばザックさんは中に入って行きましたけど、ギルドに所属しているって事ですか? 人間は魔術を使っちゃ駄目なんですよね?」
「いや、彼は例外。さすがに研究する人間をゼロにはできないんだよね」
ここのギルド員は魔術師という性質上そのほとんどが異種族の者だが、実は教会に認められた数少ない人間も存在し、ザックもその一人なのだという。これは異種族の者達の研究を監視するという意味もあるのだとか。
「じゃあユスティーシュさんもそうなんですか?」
「いや、僕は内緒。ここの職員の一部は知ってるけどね。他の人に言っちゃ駄目だからね」
「もちろんです。でも、そんなに人が少なかったり監視しているって事は、魔術ってあんまり発達してないって事ですよね?」
「そんなことは無いよ。ただ魔術師はそれぞれの技を秘儀だと考えているからね。そんな彼らは当然のようにその技術を公開したがらないのさ。十門という名前を聞いたことはある?」
首を横に振る湖音に、ユスティーシュは十門について語り始めた。
十門というのはいつからあるかもわからない魔術師の集団である。十の門派がそれぞれ魔術の深奥を求めて、日夜研鑽を続けているという。
古代魔法帝国が分裂し、当時の権力機構の殆どが混乱の中で魔術の秘奥を失伝したものの、彼等だけが現在まで当時の技を伝世し、現在も魔術の世界の頂点に君臨しているのだとか。
その実体についてはほとんど分かっておらず、一部ではその実在すら疑われているらしい。以前プラハやアレクサンドリアにその拠点があるという噂が流れたが、その実態は結局掴めなかったのだという。現在、黒い森のエルフ達が十門の一派であろうというのが、一番信憑性のある噂なのだとか。
秘密結社の薔薇十字団が十門の一つなのでは、という噂が出たこともあったらしい。
「とまあ、かくも実体は分からないものだったんだけど、英国ではそれに対抗するために数年前に王立協会が作られたのさ。おそらく、国を動かすような事実が見つかったのだろう」
この国の魔術師ギルドも、王立協会に対抗するために最近作られたものなのだそうだ。ちなみにザックはその設立に協力しており、ギルド内でのある程度の地位を確立したのだとか。なんとなく雰囲気に納得がいった湖音だった。
ちょうどそこに一人の女性職員がやってきた。金髪に長い耳を持つところを見るとエルフだろうか。
「ユスティーシュ様、ご無沙汰しております。よかったら奥へどうぞ」
「いや、ここで大丈夫。ザックの付き添いだからね。あ、彼女にお茶出してもらえるかな」
「かしこまりました、少々お待ちください。またお時間がある時にでも術式の検証にお力を貸していただけると助かりますわ」
「はは、僕でよければね」
ユスティーシュの返答に職員は微笑みながら一礼し、奥へ戻って行った。
「……ほんとに二人とも凄いんですね」
「凄くは無いかな。人の高位魔術師は少ないからね。只の協力者ってだけだよ」
「うーん。でもそんな人と知り合えて、よかったかも。それに魔術教えて頂けるんですよね?」
「ああ、僕には十門のような主義は無いからね。いくらでも教えてあげるよ」
「ありがとうございます! 色々あったけど、こんな事普通は体験できないですよね。私、ラッキーだったのかもしれません!」
「……そう思ってくれたのなら、僕も嬉しいよ」
上がったり下がったりが激しい湖音のテンションに、今一つ着いて行けないユスティーシュだった。
「そうですよ、大体二人がいなかったら落ちて来たお城の下敷きになってペチャンコになるとか、森の中でオオカミとかに襲われちゃうって可能性もあったんですから!」
一人盛り上がる湖音を見ながら、ユスティーシュは思った。
出会った時のしおらしい感じはどこに行ったのか、と。
そこに先程のエルフの女性がお茶を持ってやってきた。
テーブルの上にカップを並べると、ユスティーシュに向き直り話しかけた。
「マスターがご挨拶したいと仰っていたのでじきにいらっしゃると思います」
「うん、ありがとう。随分久しぶりだね」
「ええ、彼女も楽しみにしていましたから、大急ぎで来ると思いますよ」
そう言うと、一礼し下がって行った。それを見届けた湖音はユスティーシュの耳もとに顔を近づけ、ヒソヒソと話しかけた。
「ここの一番偉い方、女性なんですか?」
「そそ。しかもすっごい綺麗ですっごい怖い人だからね」
「えええっ」
ちょうどそんな遣り取りをした瞬間。
「いきなり人を怖いたぁ、聞こえが悪いねぇ。仮面の坊やも人の悪さは相変わらずかい」
凛とした声が響き渡った。
先程のエルフの職員が迎えに行くまでもなく、もう来ていたらしい。
「あはは、聞こえちゃいましたか。でもそういう所が怖いんですよ」
苦笑いをしながらユスティーシュが返す。
その女性を一目見た瞬間、湖音はその女性に釘付けになった。
濡れたような黒髪に切れ長の瞳。鮮やかな紅を注したその美貌は、確かに恐ろしいほどの美しさだった。
だが、それ以上に彼女の目を引いたのは。
「チャイナ、ドレス……?」
そう、彼女がその身に纏っていたのは真紅のチャイナドレスだった。
それに煙管を持ちハイヒールを履いたその姿は、湖音が想像する典型的な中国美人そのものと言える。
「おや。知ってるのかい。美人さん、あんた清の出身かい?」
嫣然とした微笑。
泰然とした態度。
彼女は生まれながらの支配者だとでも言うのだろうか。
その全身から発される高貴な威光に、湖音は思わず頭を垂れていた。
「い、いえ。日本人です。泉湖音と申します」
「そうかい、珍しいね。私は飛。ここでギルド長をやらせてもらってるよ。何かあったら何時でもお言い」
目を細めながら微笑む飛。
その声は雰囲気からは想像できないほど優しかった。
しかしその優しさは湖音限定らしい。
ユスティーシュに向き直ったフェイは、元の近寄りがたい雰囲気に戻っていた。
「で、あんたは何の用なんだい? 面白そうな娘を連れて来たって事はまた厄介事かい?」
「いや、今回はザックの付き添い。特に用事は無いよ。でもフェイ、彼女やっぱり普通じゃないのかい?」
その瞬間、唯でさえ威圧的なフェイの雰囲気が、剣呑な気配を帯び、その場にいた全員が身を強張らせた。
否、ユスティーシュだけはその態度どころか表示一つ変える事はなかった。
「……まったく。食えない子だね。エレノア、教えてやんな」
呆れたようにため息を吐くと、その雰囲気は元に戻った。そして後ろに控えていたエルフの女性が一歩前に出てきた。
「そちらのお嬢さんは初めましてですわね。私はここの職員をしているエレノアと申します。ユスティーシュ様とザック様にはいつもお世話になっております」
湖音が驚いていると、エレノアは深々と一礼した。
「あ、始めまして、泉湖音です。よろしくお願いします」
慌てて返事をする湖音にエレノアは優雅に微笑みかけた。
「……さすがユスティーシュ様がお連れになるだけはありますね。ここまで底無しの魔力、初めて見ましたわ」
「あ、やっぱり? そんなに凄いんだ」
「え、何? どう言うことですか?」
ポカンとする湖音に、ユスティーシュが説明をした。
「彼女はね、魔力視を持っていて、魔力の流れが見えるんだ」
ユスティーシュの説明によると、彼女の力は魔眼の一種で、通常見えない魔力の濃度や流れを視認する事が出来るのだという。
その手の特殊な力は祝福あるいは呪詛と呼ばれ、およそ数千人に一人の割合で持って生まれるらしい。
「へえ、それって便利そうですね、色々使えそう」
「そんなにいいものでも無いんですけどね」
苦笑しながら答えるエレノア。
「こういう能力は、体内魔力の属性バランスが著しく崩れて生まれた者に発現する事が多いんだよ。だからこの子は普通の魔術を行使するだけでも大変なのさ」
煙管を吹かしながらフェイが言葉を続ける。その瞳には、僅かに翳りの色を浮かべているように湖音には見えた。
フェイによるとエレノアの場合、体内の魔力が魔眼に集中しているため、実戦はおろか生活魔術レベルの発動すら様々な術式や魔法具のフォローが無いと難しいのだという。人とは異なり、魔術を使えるのが当たり前のエルフの中では、それは大きなハンデであった。
「まあそれでも、多少なりとも魔術が使える時点で羨ましがる人も多いんですけどね」
そう語る彼女の顔には、諦めや悔しさ、嫉妬など様々な感情を乗り越えてきた者だけが持つ吹っ切れた笑顔が浮かんでいた。
それはかつて湖音が奇術の世界で、何度も見てきた表情だった。
「……すいません、私エレノアさんの気持ちも考えず、軽く言っちゃいました、本当にごめんなさい!」
深々と頭を下げる湖音に、エレノアは変わらない笑顔で応えた。
「あらあら、そんな気にしないでいいのよ。大丈夫、ちゃんといいことだってあるんですから」
そう言ってころころと笑い出す。その様子に、ようやく湖音の顔にも笑顔が戻った。
そんな二人を見守るフェイも優しげな笑みを浮かべていた。
「……ところでさ、彼女の魔力量って君の見立てではどれくらい?」
そしてそんな空気を読まないユスティーシュだけが、平然と言葉を続けるのだった。
「……うーん、答えにくいですわね」
話を唐突に戻した空気の読めない男の質問に、エレノアは少し困った表情で言い淀んだ。
「庭に生えている樹木の数なら数えられても、 この国に生えている樹木の数を答えられる者はおりませんわ」
ようやく絞り出したエレノアの答えに、今度はユスティーシュ達が言葉を無くす事になるのだった。
そうこうしているうちに、カウンターの奥からザックが現れた。肩には布袋を下げていた。恐らくあれが準備した荷物なのだろう。
「なにやってんだお前ら。お、フェイにエレノアもいたのか」
「ふん。立ち寄ったなら、真っ先に挨拶に来るのが筋だろうが」
「はい、ご無沙汰しております。遺跡の調査依頼お引き受けくださったんですね、ありがとうございます」
呆れたような表情を浮かべるフェイをとりなすように、エレノアがザックに礼を述べた。
「ああ、こちらもちょうど手が空いていたから助かった。おかげででっかい厄介事を抱え込んだけどな、ははは」
ザックはエレノアの気遣いにも気がつかないまま、湖音の頭をクシャクシャと撫でた。
こちらを見ながらそんな事を言うザックに、湖音は何も言い返せなかった。
「で、準備は完了したの?」
「大体はな。後は街で買い物すれば大丈夫だろ。さ、行くぞ」
ザックの言葉に湖音が異議を唱えた。
「あの、せっかくだから街の中見ちゃ駄目だめですか?」
「うん? そうか、初めて見るんだっけか」
「そうだね、どうせ買い物もあるんだし、今日はゆっくりして明日の朝出発でもいいんじゃない?」
ユスティーシュの言葉に途端に湖音の顔が明るくなった。
「ま、仕方ない。急ぐ訳でなし、それでもいいか。じゃあフェイ、エレノア、またな」
一喜一憂する湖音を尻目に、ザックはさっさと出口へ向かっていった。
「フェイさん、エレノアさんありがとうございました……って、ちょっと待ってください、もう!」
お礼を言い、慌てて追いかける湖音の声はザックの耳には届いていないようだった。
「やれやれ。騒がしい奴らだね。……エレノア、大丈夫かい?」
三人がいなくなった途端、よろめくエレノアをフェイが支えた。
「……はい、すいません。少し、当てられました」
「あんたがそこまで追い込まれるって事は、ランクS、いやSS程度はありそうだねぇ」
「ええ、はっきりとは分かりませんが。少なくともギルドのトップランカーでは手に負えないですわね。戦うとしたらそれこそ『三銃士』や『脅威』クラスでないと、対処は無理かと」
エレノアの額にはビッシリと汗が浮かび、その表情は青ざめていた。
「まったく。何処まで自覚あるか知らないが厄介だねぇ。準備だけはしておく必要がある、か」
そう呟くフェイの表情はエレノアからは見えなかった。
二人の先を進むザックは大通りを五分程歩くと、今度は十字架に輪が絡み付いた看板が出ている建物に入っていった。ここが宿屋らしい。マキナのデータの中に似たマークを発見した湖音は、これがこの時代の宿屋を示す一般的なマークという事を知った。
傍の小径の露店や物売りも多い人混みにも興味あったが、置いてかれる訳にはいかないと、慌てて後をついて行く。
「それじゃ二部屋でいいかい?」
「ああ、頼む」
ドアを開けると、カウンターからザックが一泊したい旨を告げているのが聞こえてきた。恰幅のよい女将が宿帳に何やら書きながら確認をとっている。慌ててザックの傍に並んだ彼女は、物珍しさも手伝い手続きをまじまじと見ていた。チェックインの手順自体は未来とあまり変わらないらしい。
「それじゃこちらにサインしておくれ」
しかしザックが署名をする姿を見て、湖音は固まってしまった。
「何やってんだ。ほら行くぞ」
訝しげに湖音を見たザックはユスティーシュを促し、さっさと階段を登っていった。
「……ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて後を追い、部屋に入った湖音はザックの袖を掴み、問いかけた。
「あの、一つ聞くの忘れてたんですけど、ザックさんってフルネームなんて言うんですか?」
「なんだそりゃ」
「教えてください!」
ザックは初めて見る湖音の強い態度に、ちょっと驚いてしまった。
「……別にいいじゃねえか、そんなの」
「知りたいんです、お願いします」
「うるせえなあ。アイザックだよ。アイザック・ニュートン」
それは湖音もよく知る名前だった。