精神ダメージ
鬱屈を描く物語。
最後に主人公は何を悟るのか。
俺はイヤホンの奥から流れてくる激しい音に身を浮かべるイメージを抱きながら、ゼミの合宿帰りの途中、電車の規則正しい振動のリズムに揺られていた。面白くもない受験勉強の果て、気が付いたらたどり着いていた大学で、よく意味の分からない講義を聞き、要点を狡く暗記して単位だけを得る、時間の無駄遣いを始めてからもう三年目になる。鬱屈を吐き出すのような溜息とともに、音楽プレーヤーの電源を切って鞄にしまった。
「椎名先輩って、達観してるようで、なんだかとても遠い存在に見えちゃいますよね。私もそんな風に物事を動じずに見られるようになりたいなあ」
俺の様子を見ていた後輩の妹尾さんが純粋そのものの、邪気のない声でこちらに話しかけてきた。それに対し、「俺は冷めているだけだ」と言いかけてやめた。楽しげに瞳を輝かせながら、こちらに話しかける後輩に、何も言ってはいけないような気がした。この煌きに、どのような影も挟むのは気が引けたのだ。ただでさえ世の中の温度を下げてしまいそうな有害が、無垢な精神に返事をするのはためらわれた。
「ちょっとー。先輩。聞いてました~?」
「ああ、聞いている。年を取ればお前だって落ち着きを持つだろうさ。今は視点の定まらない不安を大事にしておくんだ」
「……先輩の話はいつもつかみどころがなくて、だけどそれでいてとても大事なことを話している気がします。私、もっと頭よかったらそういうことも理解できるんでしょうけど」
適当な相槌に、えらい好評化が返ってきたが、それをうれしいと思ったのか、つまらんと思ったのか、自分ではわからなかった。地面に突き刺さった大きな杭が如く、心は動かなかった。
周りに耳をすますと、がやがやと楽しげな声が聞こえる。ゼミ生たちがトランプに夢中になっているようだ。どうやらポーカーで賭けをしているらしい。手札に一喜一憂してめまぐるしく表情を変える彼らが何か自分とは別の存在であるかのように思える。
「君も参加してくるといい」
早く一人に戻りたくて、普段する機会なんて一週間に一回するかしないかの笑顔を無理やり作り、彼女を促した。これで今週分の笑顔は球切れだ。
「はーい」
何の疑いもなさそうに、妹尾さんはトランプの円に加わる。再び一人になって手持無沙汰になったので、トイレに行くことにした。用を足して手を洗おうとすると、のびすぎた黒髪の中にけだるげな眼をした男が鏡に映ってうんざりする。つまらなさそうな顔だ、と思う。何年間も見てきた顔なのだが、この五年くらい笑った顔を見たことがないような気がする。写真のなか、鏡のなかでいつも無気力な表情をしている男。この顔を見るたびに、さらにエネルギーが奪われている気がする。
「物事を動じずに見る……ねえ」
動じないわけじゃない。動かないのだ。心だとか、感情と呼ぶべきものが。いいところとして数えるには、失っているものが大きすぎるだろう。二つ目の溜息が漏れた後、席に戻ろうとする。
「?」
ふと足元を見ると、一枚の写真みたいなものが落ちていた。
「正月に……自宅にて……?」
見てみると油性マジックの汚い字が多少のにじみとともにつづられている。表にひっくり返すと、そこには乳飲み子を抱いた母親とその父親らしき人物が満面の笑みを浮かべている。
「…………」
幸せそうな彼らを見ていると、自分の人生の無味乾燥具合が批判されているような気がして、気分が悪くなる。人の幸せを素直に喜ぶことができない自分になさけなくなる。ふともう一度鏡を見ると、つまらん顔が引きつって悲壮な顔をしていた。自分の顔を見てダメージを受けるというのは、かなりの人生における損失なのではないかと、にわかに思い始めた。