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被災地の現実をヒッチハイクで見つめた

被災地の話だけに興味のある方は第三章から読んでくださっても構いません。


第一章


1)「相手の立場(視点)で考えること」


 ヒッチハイクとは、見ず知らずの人を車に乗せること。もしくは見ず知らずの人に乗せてもらうこと。左腕を横へ突きだし、親指を立てる。そのとき右手にはボードを掲げ、行き先を知らせる。ただそれだけのヒッピー文化だと考えていた。そう、この旅をするまでは。


 計画なんてものはほとんどなくて、「偶然」に期待した。

出発前に日本地図の上、京都と宮城を直線でなぞったのが僕たちの計画。

北大路駅まではバスで向かい、そこから京都IC付近の竹田駅まで電車に乗った。

そして京都の高速道路ICへ到着し、ついに名神の名古屋方面IC入り口へと到着する。

時計の針は「4」を指して、あたりはうっすらと暗みを帯びていた。


 僕たちはヒッチハイクの方法なんてものを知らなかった。

けれど、ヒッチハイクを始めなければ乗せてもらえないのは当然だったので、とにもかくにもヒッチハイクっぽく演じてみることにした。そしてヒッチハイクを始めてから1時間、車はたくさん走っているのに、全く停まってくれない。何か問題があるのではないかと僕たちは考え、そしていくつかの問題点に気づいた。


①恥ずかしがってボードをゆらゆらさせている

 思い切りのよさがなく、恥ずかし気にしているその様子は、なんだか情けない様子だった。

②ボードを高く上げすぎている

 相手は車に乗っているので、おおよそ腹部にボードがある方が、車両側は読み取りやすい。

③動作の少なさ

 ボードを動かすのはダメだが、身体のアクションが少ないと(棒立ち)気味が悪い。


相手がどうすれば停まってくれるのかを試行錯誤し、ついに開始1時間30分で一台目が停まってくれた。


・ワゴンカーの作業員男性2人

 親切に停まってくれたものの、一人分しか乗ることができなかった。トラックなどは、よくヒッチハイクに乗せてくれやすいそうだが、2人だとなかなか停まってくれないのが現状だ。僕たちは二台目を探すことにした。



少しヒッチハイクに慣れてきたのか、30分ほどで、二台目が停まってくれた。


【1台目「かっこいい車に乗ったお兄さん」(京都→大阪→岐阜)】


 停まってくれた場所まで全力で走って行くと、「大阪まで友達と会いに行くんだけど、それからやったら途中まで乗せるよ」と言ってくれた。

僕たちは車に乗せてもらい座席に座ると、いよいよヒッチハイクをしている実感が湧いてきたのか、やけに興奮したことを覚えている。この方には、大阪まで連れて行ってもらい、なんと焼肉までご馳走してくれたのだ。僕たちは緊張して、あまりしゃべれなかったんだけど、この方はとてもお話が上手で面白く、聴いていて笑いが絶えなかった。

車に乗せていただいたお兄さんの言葉。


2)「ノリを大切にする」

 

 僕は常にノリを大事にしているようで、損得勘定が働くことが多い。この方の人柄はとても温かった。

そう考えると今回のヒッチハイクはノープランという初の試みだったのだろう。


 乗せていただいた方のご友人3名はどうやら車のサークルの人々で、「会長」と名乗る男性の車はとても改造されていた。エンジンはスポーツカー並みのを搭載しているらしく、最高速は300キロを超えることができるらしい。しばらく車を見学させてもらったあと、僕たちは名神高速で岐阜へ向かった。ヒッチハイクは不思議なもので、もしかすると一生関わることのない4名と数時間の間に出会い、会話をした。


3)「人は人を拒絶し、かつ二律背反に人を求める」


 普段僕たちは、街を歩けば当然そこで人とすれ違うけれど、コミュニケーションなんて一切とらずに人ごみの中をまるで物を避けるように歩いていく。

もちろんすれ違う人々に逐一声をかけてなんていたら、それこそ不審者だけれど、ヒッチハイクはそこにひとつの考える機会を与えてくれた。車に乗せてくれたお兄さんと恋バナやアニメの話など様々な会話をし、いっそうこのことを強く感じた。


第二章(前編)


 2日目。僕たちはサービスエリアで夜を過ごした。養老サービスエリアは案外に快適だったが、やはりベッドで寝るのとはワケが違うので、少し疲れが残った。重いからだを多少強引に動かして、午前6時ごろからヒッチハイクを開始することにした。ヒッチハイクをすることに対して、昨日のような恥ずかしさはなく、次はどんな人が乗せてくれるのだろうという期待で心が弾んだ。そして開始10分ほど、ボードを掲げ始めてから5台目が停車してくれた。


【2台目「早朝4時、兵庫から来た男性」】(岐阜→愛知)


 自分もヒッチハイクがしたかったと語るこの男性は、前日仕事の都合で遠出をして、その日のうちに帰ろうとしたが、疲れたので実家の兵庫で寝て、そして偶然僕たちと出会った。そして仕事で疲れているにも関わらず、乗車させてくれたのだ。「話し相手がいたら眠気が覚めるでしょ」と言って乗せてくれたこの男性は、話の中でとても大事な言葉を僕たちに与えてくれた。


4)、「(球場で売り子をしてるときに)『ありがとう』と言うと、相手に『ありがとう』と言ってもらえた。そのときなぜ『ありがとう』と言ってもらえたのか考えた。そして人と関わる仕事をしようと決心した」



 普段の「ありがとう」という言葉に「ありがとう」で応える強さ。その一瞬の出来事が人を一生の仕事へと決意させた。言葉というものも不思議だ。「がんばれ」という言葉も人にとっては不快に感じることがある(がんばっている人に「がんばれ」は失礼というような意味)。僕たちが普段何気なくしている会話、それはきっと完全には相手には伝わらないのだろう。それでも僕たちは言葉からは逃げられない。もしかすると僕は口数が多いので、それだけ知らない間に人を傷つけているのかもしれない。そんなことを考えているあいだに、早くも愛知へ到着した。


【3台目「アメリカを横断したヒッチハイク経験者の男性」】(愛知)


 2台目の方には都合上PAで降ろしていただいたのだが、ここで問題が発生した。それは、車がほとんどいないことだった。ここでボードを掲げているだけでは日が暮れてしまう。そこで僕たちは直接交渉をしに行くことにした。最初に向かったのは高級そうな車を丁寧に拭いているおじいさんのところ。近づくやいなや「なんや」みたいな顔をされたが、一応に訊いてみる。「僕たち、今ヒッチハイクしているんですけれど、よかったら途中まで乗せてもらえませんか」と。そして「無理」の即答。確かに見ず知らずの男2人を車に乗せることは「無理」を言っていることだなと、妙に納得しつつ交渉を再開。3、4人目ほどで3台目の方に乗せてもらえることになった。


5)「ヒッチハイクみたいな経験は早いうちに経験したら良い」


 ヒッチハイク経験者のこの方は大学三年生ごろに、そういったことをしたと言い、「俺ももっと早くヒッチハイクとかアメリカ横断とか経験しとけばよかったよ」と僕たちに言った。僕たちが大学三年になったときに「あのときヒッチハイクしといて本当によかった」と、きっと思うのだろう。この方とはあまり長く会話することができなかったのだけれど、ヒッチハイクをしたことがプラスになって、その経験が日々に活きている人に出会えたのは、嬉しかった。


【4台目「静岡へ行く女性2人」】


この女性2人は停車していただいたものの、次のICで降りるということで乗ることができなかった。

しかし停まっていただけたときは嬉しく、親切にも男2人を乗せてくれようとしたことに感謝。



次に5台目の男性と出会い、そこで僕たちは、偶然にもまた素晴らしい人と出会う。

奇跡の連続は偶然か、必然か。


第二章(中篇)


【5台目「パナソニックのおじさん」(愛知→静岡)】


 朝9時ごろになると車の数が多くなり、また大きめのSAだったので、僕たちはボードを掲げて笑顔でヒッチハイクをした。しばらく30分ほどしていると、クラシックな車が一台停車してくれた。「乗ってもいいですか」と尋ねると、無言で指を後ろに指し「乗りな」と。車に乗せてもらうと70~80年代であろうBGMが流れていた。はじめはクールな方だと思っていたが、とてもノリがよく、会話も弾んだ。この方はパナソニック系列で働いているらしく、つい最近までプラスチックの研究をしていたのが、金属の研究に変わったとのことだ。そのときの言葉。


6)「新しいことをするのは楽しい。勉強ができるのだから」


この方はとても軽い調子でとても大事なことをたくさんおっしゃるので、僕たちは一段と耳をすました。


7)「何でも真面目にしたらいい、真面目にしたら楽しい、楽しくなれば好きになり、好きになれば苦でなくなる」


8)「1年、1年が勝負のときだ」


40代後半らしく、次のようにも言った。


9)「40なんてまだまだこれからだよ。まだまだこれからだ」


静岡県に入るとお茶畑の景色が車窓から見えて、遠くまで来たことをいっそう実感する。

この方は人との出会いをとても大切にしている。人と人との間には何があるのかを真剣に考えている人のようだった。なので次のようなことを言っていた。


10)「部下に任せると矛盾が生じる。だからしっかりフォローしてやる」


正直に言うと、僕にとっては大学の講義なんかよりも何倍も勉強になった気がする。大学の講義は法を学び、とても有意義なものであるが、科学という領域の中で乾燥を感じる。しかしこのような方との「勉強」の中で大学の「勉強」が活きているのも事実だった。


そして愛知から静岡の富士川SAへと到着する。


【6台目「ROCKの男性(BGMがツボ)」(静岡→神奈川)】


 静岡に到着したとき、昼の12時だったので、しばらく休憩をした。普段なら富士山が見えるこのSAも、今日は天気が曇り空だったので見えなかった。けれど、気分は快晴で、意気揚々とヒッチハイクを開始した。ヒッチハイクをしてしばらくすると、東京で高速を降りる男性が停車してくれた。友人の引越しの手伝いの帰りとのことだった。車内でかかっているBGMが僕と趣味が見事にあい、アジカンの曲がまさか静岡で聴けるとは思っていなかったので、テンションが上がった。そして音楽の話で盛り上がり、いろいろと曲を紹介してくださった。とくにアジカンのN.G.Sが「ナンバー・ガール・シンドローム」の略というのは驚いた。というような少々マニアックな会話をしていたので、共にヒッチハイクをしていた相方がうとうとしていたことは言うまでもない。乗せてくださったこの方はバンドでドラムもしていたらしく、音楽スキーな僕にとっては話題の尽きない方だった。そして東京手前のサービスエリアへ到着する。



東京手前、つまり海老名SA。

ここで僕たちは、このヒッチハイクが始まって以来の困難に直面することになる。



第二章(後編)

【7台目「トラックの運転手とタメ」(神奈川)】


 ついに東京まで一歩手前のところまでやってきた。と喜んでいたのだけれど、この事実が非常に困難を呼び起こした。なぜかというと、①東京手前なので、ほとんどの人々が高速を降りる②関東ではヒッチハイカーに冷たいからだ。とりわけ静岡を超えてからヒッチハイクをしていて、車の人々の対応があからさまに違う。とりわけ高齢の方は非常に君の悪いものでも見るかのような顔で僕たちを見たりする。この海老名SAでのヒッチハイクは非常に苦戦した。どれくらい苦戦したかというと、2時間ずっと寒さを耐えてヒッチハイクし続けたのだ。そしてようやく停まっていただけた車も東京1つ手前のパーキングエリアまでだった。しかし少しでも前進できることは嬉しかった。そうしてひとつ東京から1つ手前のPAに到着する。



このPAで、僕たちは再び奇跡に出会う。


【8台目「高校教師のご夫妻」(神奈川→福島)】


 宮城へ行くためには東京の首都高を超えなければならない。つまり、PAであり、しかも東京手前、かつこのような状況のなか宮城へ向かう人は少数派という、非常に困難な状況でのヒッチハイクとなった。なので当然ボードを掲げる方法ではなく、東北のナンバープレートを探し、交渉することに。しかし、見つかったのは「宮城」ナンバーの1台のみ。僕たちはこの1台にかけることにし、無理ならば茨城への進路変更も検討しなければならないと考えていた。そして、車主がやって来た。「僕たちを宮城へ連れて行ってください!」僕たちは必死にお願いをした。そして、しばらくご夫妻が話し合いをすると、福島に住んでいるので、そこまでなら送ってあげると言ってくださった。僕たちは奇跡に出会った。首都高を通過できたのだ。このご夫妻は実際に被爆した方々で、原発付近に住んでおられた方だった。原発付近の工業高校で教師をされていたこちらのご夫妻は、僕たちに貴重な話をしてくださった。


ご夫妻に話を聴かせていただけなければ、僕たちは被災地を違う姿勢で見ていたに違いない。

どうかこれを読む人々にも、今から書いていくことを読んでほしい。



第三章-被災地の真実-



【8台目「高校教師のご夫妻」(神奈川→福島)】


 僕が被災地へ行こうと決意した理由。マスメディアによって様々な情報が交錯し、事実が霞む。所以、僕たちの眼で、乱雑な情報から現実を取り出そうとした。なので、突き詰めて言うと「事実」じゃなくて、僕が見てきた「現実」だ。それでも人々に知ってもらいたい。特にマスメディアを妄信する人々へ。第二章でも記したが、このご夫妻は実際に被爆し、住んでいた家も津波で流されてしまった。現地の方の話を聞くことで見えてきた問題をここで述べていく。


 テレビでは、もうほとんど震災のことを報道しない。震災も今では過去のこととなってしまったようだ。そこには被災者がテレビを観たときに心理的負担になるから報道しないとか、様々なリーズニングがある。何が真実かと考えたときに、ひとつ真実は一つであり、かつ一元的ではないことがわかる。さっきまで「頑張ろう!」ってはしゃいでいたのはどこの人々。そう、「被災しなかった」我々だ。


 話をまとめると、現地では主に地域で3種類、現地民で2種類に区別することができる。


[地域]

1.海岸沿いの人々

 家、家族を失い、精神的にも疲弊してしまった人々。報道ではここが対象とされた。

2.海岸から離れた人々 

 地震の影響はあったが、津波被害はほとんどなかった人々。

3.中間の人々

 

 この3種類の人々でものすごく温度差があるらしい。それこそ、海岸から離れた人々の中にはスキーをして楽しんでいる人々もいる(遊んでいないとやっていられないという意味合いもあるのかもしれない)。被災地へ来た人々は2や3だけを見て、「こんなものか」と言って帰っていく。


[住民]

1.疲弊しきった人

2.やっきになっている人


11)「私たちは、ようやく前進していこうかなとなったところです。復興なんてまだまだです」 


 住民の精神的状況にも温度差がある。震災の対策、復興にやっきになっている人もいれば、その反面、疲弊しきってしまった人々もいる。その中で我々のような、被災していない人が「頑張れ」というのは、いわば両足の折れたランナーに「走れ」と言うようなものではないか。


12)「『復興』は建物や、土地ではない。人だ」


 僕自身が被災地を歩いて感じたのが、やはり関西とは雰囲気が違うということ。この雰囲気は気づく人にしか気づけないものだと感じた。もちろん現地の人々は笑う。しかし、それでもどこかに震災の事実というものが感じられた。本当の復興は建物が元通りになったりすることではない。


13)「原発を廃止したら周りの人々の仕事はどうなるのか」


 世間の大半は「原発を廃止しろ」と声高に叫ぶ。理由は危ないからなどというものだ。しかし、原発を廃止したらどうなるか、たとえば雇用の問題。車に乗せていただいたご夫妻は原発付近の工業高校に勤めていた。そこでは生徒たちの大半は東電へと就職し、またその生徒たちの親もほとんどが東電の会社員だ。もし原発が廃止されたらこの人たちはどうすればいいのだろうか。そういった点で一概に原発を反対することはできないとおっしゃっていた。


14)「放射能とか放射線と言われてもどうしようもない」


 現地の人々からすると、そんなことを言われてもどうしようもない。ただ子供のいる家庭などでは沖縄などへ移住する場合が多いそうだ。また沖縄へ移住するのも、単に被災地から離れているからという理由ではなく、沖縄がいち早く被災者の受け入れを表明したからだ。



15)「ボランティアで来た人たちが、私たちの倒壊した家の前でピースをして写真を撮った」


 ボランティアをする人々に、僕は告ぐ。ボランティアとは何か。それをすること自体に満足はしていないか。何を思い何を考え行動しているのか。被災地でピースをした者へ告ぐ。僕はそいつらを拳で殴ってやりたい。しかし、その話をしてくれた、教師ご夫妻は怒ってはいなかった。というよりも怒る元気も出ないのだろう。ボランティアでは泥に塗れた家財を家から外に出し、そこで終わり。一週間もかけたのに全く片付かないなど、そういったボランティアが実際にあることがわかった。現に大学生のなかでボランティアは一種のスペックのようなものとなりつつある。ふざけるな。僕は断じてその事実を許容しない。



僕たちは、このご夫妻と話すことができなければ、被災地の片鱗を見て、勝手にどの程度のものなのかを主観で決め付けていただろう。



医者が医術で患者を治すように、僕は法で社会を、人々を直していきたい。


最終章-ここから-


 8台目の教師ご夫妻は、僕たちを宮城の手前まで送ってくれた。福島の安達太良SAから福島第一原子力発電所までおよそ60kmの距離がある。避難距離の数字、こんな数字バカらしいと思うのは自分だけだろうか。正直に言うと、僕は放射能や放射線に対して全く危険視していないというわけではない。それらに対する恐怖もある。でも、それでも事実を知らないまま過ごすのは、僕の性格上気にくわない。被災者だって、僕たちと同じ人間だ。僕は無視できない。放射能や放射線を恐がっている人々を非難するわけではないが、これは小学生の「呪いゲーム」に性質が似ている。いわゆるいじめられっ子に触れて、それを呪い(=ここでは汚いもの)とし、相手にタッチすることで、その呪いが移っていくというものだ。京都で見る朝焼けはもちろん美しい。そして、福島で僕が見た朝焼けだってもちろん美しかった。



・「福島行きの男性」(福島)

 僕たちの行き先は宮城の仙台だったので、停まっていただいたが断らなければならなかった。


【9台目「災害当時から建築関係に従事している男性」(福島)】

 仙台手前のPAまで乗せていただくことになった。この男性の方は震災当時、東京に居たらしく、実家が福島という人だった。東京もだいぶ揺れたらしく、ラジオから流れた緊急ニュースを聞いたとき次のように思ったらしい。


16)「福島はもう終わってしまったかな…」


 また、当時ラジオでは次のようなニュースも流れた。


17)「ラジオで子供のころによく遊んだ川で、200人の死体が流れ着いていると聞いたときは、なんともいえない気持ちになった」


 この男性の方は震災当時、建築関係の仕事に従事していた方で、一般人が通行止めだったときも道路を走れたらしく、いち早く被災地の現状を見た。


18)「あのときの光景を今でもしっかり覚えているからなぁ」


 僕たちはあれから一年が経った被災地を見に行こうとしている。このとき、僕たちは被災地を実際に見てはいなかったが、そのとき走っていた高速道路は、ところどころに補修の跡があり、地震の影響で道路は平面ではなかった(簡易な補修後も資材運搬のトラックなどが頻繁に通り、地面が削れるのもあるそうだ)。さらにこの男性の方は僕たちを心配してくれた。


19)「ストイックになるのもいいが、あまりストイックになりすぎて根本から崩れちゃ意味がない」


乗せていただいた時間は短く、30分ほどだったが、宮城までとあと一歩となった。



【10台目「仙台まで送ってくださった男性」(福島→宮城)】


 最後に乗せていただいた方は会社員の男性だった。僕たちはついにヒッチハイクで京都から宮城までやってきた。しかし、喜ぶことはできなかった。なぜなら、ここが僕たちの目的地であり、まさしく被災地だったからだ。会社員の男性は仙台で高速道路を降りると、僕たちに詳しく状況を教えてくれた。


 仙台のICを降りると、震災などなかったように車は走り、建物は建ち並ぶ。


20)「高速道路のこの通路が上手いこと防波堤になってな、こっちから左は津波から守られたんだ。でも地震で内部はガタガタになった。外見はそれほどでもないけどな」


21)「この川がラジオで200人の死体が流れ着いた場所だ」


10台目に乗せていただいた男性の言っていた川だった。それでも川は朝日に照らされ綺麗に輝いていた。僕はなんだかその輝きに近づいてはいけないというような、神聖な感情を抱いた。


22)「昔から見慣れた景色だからこそわかるんだ。あれがない、これがないってな」


 会社員の男性は、交通の便が良いところで僕たちを降ろしてくださった。

10台を乗り継いで、ついに僕たちは目的地へ辿り着いたのだ。



朝、僕たちは沿岸沿いに向かって仙台を歩き始めた。



(完)


私は被災地、つまりは宮城へ到着してからのことを記載しない。それはなぜかというと、僕がこのネット上にこうやって記載した時点から、この情報はひとつのマスメディアへとなっているからだ。もし、これから被災地へ行く人がいるなら、その人たちには現地を見るだけではなく、現地の人々に直接コンタクトを取ることを試みてほしい。それは被災地を見るだけではわからないことがあまりにも多いからだ。僕たちは被災地の地元民ではない。過去を知らないから今との変化を知りにくいのだ。地元民から聴くことのできる「生」の情報は、一般的なマスメディアよりも純度が高いことは言うまでもない。

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― 新着の感想 ―
[一言] ヒッチハイクということでの人との触れ合いを通じたお話をありがとうございます。 あの地震では長野県でも相当の揺れを感じ恐ろしい思いも致しました。その翌日に長野県北部での震度6の直下型地震があり…
[一言] 確かにここですべてを書けば、記事となることでしょう。よく我慢されたと思いました。できるだけ多くの人に読んでほしいと思い読了報告をさせていただきました。行動するしないは読んだ人が考えるでしょう…
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