『静寂の谷』伝説
ここは京都市内某所のバス停。一組のカップルがバスを待っていた。
「ねえねえ、『静寂の谷』伝説って知ってる?」
カップルの女性の方が男性に聞いた。
「何それ?知らないよ。」
男性が言った。
「なんでも、『静寂の谷』行きのバスがあるらしいのだけれど、そのバスに乗るとこの世ならざる場所に迷い込むらしいのよ。」
「ふーん。何かよくある都市伝説か何かじゃないの?」
男性は胡散臭そうに言った。
「そうでもないらしいのよ。私は実際にそのバスを見たこともないし、この世ならざる場所に行ったという人も知らないけど、ここのところその噂が出回っているのよ。」
「でも、見たこともないし、映像や写真もないんだろ?そんなのタダのガセネタだよ。」
「でも、行ってみたいと思わない?」
「俺は思わないね。なんか、この世ならざる場所ではなくて、現実世界の怖いところに監禁されそうな気がするよ。」
男性は少し笑いながら言った。
「ちぇ、つまんないの。もう少し夢を持ったらどうなの?」
女性が抗議するように言った。
「夢の前に現実の生活だよ。ほら、バスが来たよ。」
ちょうどそこに、バスが到着した。行き先表示は『静寂の谷』ではなく、いつものありきたりの停留所名だった。
「あーあ、やっぱり都市伝説なのかしら。」
女性は少しがっかりしながらバスに乗り、続いて男性もバスに乗り込んだ。
季節は10月の末、秋も深まりかけてきたころの話である。ここは京都市北区にある居宅介護支援事業所である。一人のヘルパー(訪問介護員)が事業所の扉を開けて入ってきた。
「こんにちは。四谷所長、お呼びでしょうか?」
年のころは20代後半のうら若い男性だった。服装はブルーのデニムパンツに白色系の長袖Tシャツを着用し、その上から青色系のブルゾンを羽織っていた。
「これは、紫王院君、わざわざごめんね。明日のサービスについて説明しとくわね。」
こちらは、おそらくは40歳代であろうと思われる美魔女的な雰囲気のある少し長めのウェーブがかかった美しい黒髪をした四谷と呼ばれた女性が言った。
「明日の利用者様は初めての方なのよ。ご自宅は少し山の方になるのだけれど、明日は車を停めることができないらしいの。バスで近くまで行けるから、申し訳ないけど明日は公共交通機関で行ってね。」
「分かりました。サービス時間は6時間ですね。ロングガイドになりそうですね。」
こちらは紫王院と呼ばれた青年が言った。そう、彼こそが本編の主人公である紫王院柊太その人である。柊太は今日のサービスの終わりに事業所に立ち寄って明日のサービスの説明を受けているところなのであった。
「ところで、紫王院君、『静寂の谷』伝説って知ってる?」
四谷所長が柊太に聞いた?
「噂では聞いたことはありますけど、ただの都市伝説でしょう?誰かがバスに乗り間違えたか、寝過ごしたかして、見慣れない風景のところに来たとかいうオチじゃないですか?」
柊太が胡散臭げに言った。
「そうと思うけど、明日、紫王院君が乗る路線がそうらしいのよ。」
「そうなのですか。それは楽しみですね。見かけたら写メ撮って送りますよ。」
柊太が笑いながら言った。
「柊太君、この後はヒロさんのところかな?」
奥のデスクから20代後半くらいのショートカットで明るい髪色をしたボーイッシュな女性が声をかけてきた。
「そうですね。楓主任もご一緒にいかがですか?」
「そうねえ、久々に私も顔を出そうかな。所長、今日は定時で上がらせてもらいますね。」
楓主任と呼ばれた女性が四谷所長に言った。
「いいわよ。二人とも明日もお仕事だからほどほどにね。」
四谷所長が笑いながら言った。
「じゃあ、片付けて着替えるから少し待ってね。」
楓主任はそう言ってテキパキと片づけを始め、奥の更衣室に向かった。ほどなくして、着替えも終わり、戻ってきた。
「柊太君、お待たせ。そしたら行こうか。所長、お先に失礼します。」
「失礼します。」
楓主任と柊太はそれぞれ所長に挨拶をして事業所の外に出た。




