悪役令嬢の父親は、権力と財力だけでは妻の心は得られないことを思い知る
大変お待たせしました、悪役令嬢の父親シリーズ第三弾です。
前作を読んでいなくてもお楽しみいただけますが、シリーズとしてまとめてありますので、そちらもあわせてお楽しみいただけたら嬉しいです( *´艸`)
すっかり長くなった日もとうに暮れ、食事を取るにはやや遅いぐらいの時刻のこと。
私は王宮での勤めを終えて、フロマージュ公爵邸のタウンハウスに帰宅したのだが――。
「うわっ!?」
自室に向かう途中の廊下で何かが足元にぶつかってきて、私は思い切りよろけてしまった。その拍子に廊下の飾り棚にぶつかってしまい、パリンと何かが割れる音が高く響く。
私にぶつかってきた犯人は、白くもふもふとした毛に覆われた小さな子犬。どうやら私の足元に、犬用のおもちゃが落ちていたらしい。
「こらっ、メレンゲ! 急に飛び出してきたら危ないではないか!」
「わふっ、わふっ」
娘がメレンゲと名付けた白い子犬の後ろからは、首元にリボンを巻いた黒猫が優雅な足取りで歩いてきた。
「にゃーお」
『おかえり、公爵』
猫の鳴き声と同時に、幼女の声が私の頭に直接響く。精神感応の術である。
一見すると人畜無害なただの黒猫に見えるが、実はそれは世を忍ぶ仮の姿。変化の術で黒猫に化けているのだ。
私はそちらへ向き直り、妻が名付けた黒猫(偽)の名を呼ぶ。
「ああ、ただいま、ココア。メレンゲと遊んでいたのか?」
『うん、浮遊魔術のコントロールに失敗して、廊下に飛び出しちゃった。ごめんね』
テレパシーでの謝罪と同時に、首元の鈴が揺れる。
鈴のついたワインレッド・カラーのリボンは、妻と娘が選んだものらしい。ちなみにメレンゲにも同じ色の首輪が付いているが、豊かな白い毛に覆われてあまり見えない。
なお、私も自分の瞳の色である緑をベースに、髪色と同じ金糸の縁取りをしたリボンを贈ってやろうとしたのだが、この黒猫(偽)は一切見向きもしなかった。
それどころか、リボンの部分をぐるぐると巻いて縛りしっかりと縫合し、なんとメレンゲ用の玩具に生まれ変わってしまった。なんとも見事なジョブチェンジ。涙を禁じ得ない。
『ところで、さっきなんか割れたみたいだけど、へーき?』
「確かに何かが割れたような音がしたが、特別貴重なものは廊下ではなくギャラリーに飾ってあるから……ん? これは……?」
黒猫ココアの言葉に足元を確認して、すうっと血の気が引いていくのを感じた。
そこには、二十年ほど前に流行した柄の、薄く小ぶりな絵皿の破片が散らばっている。
「ま、まずい……! まずいぞ、これはカシスの大切な――」
「あらあらあら。お遅いお帰りの上、妻であるわたくしに挨拶もないのねと思っていたら、あなた、こんな所でメレンゲたちと遊んでおいででしたの?」
のびやかな美しい声に、私はゆっくりと振り返る。そこには予想通り、我が妻カシスの姿があった。
豊かなプラチナブロンドをゆったりとしたシニョンに結い上げ、ワインレッドの瞳をすうと細めて広げた扇で口元を隠している。
何度見ても、月の女神かと思うような絶世の美女だが、その瞳の奥は一切笑っていない。
「カ、カシス!」
「ねーえ、あなた? 足元に落ちている破片は一体何かしら?」
「も、も、申し訳ございませんでしたーっ!」
いかにこの私、シャルドネ・ブラン・フロマージュが絶大な権力と財力を誇るとはいえ、氷点下の笑顔を浮かべた麗しの妻にだけは、頭が上がらないのである。
*
そういうわけで。
私は妻へのお詫びとご機嫌伺いのために、王都の商業街の端の方、ぎりぎり郊外とは呼ばないぐらいの場所にある菓子店に馬車を回していた。
『そういえばあなた、最近話題の『ショソン菓子店』をご存じ? タルト・タタンが絶品という評判なのだけれど、店主の方がお一人で切り盛りされているお店だそうで、昼過ぎには売り切れてしまうそうなの。一度いただいてみたいわ』
絵皿を割ってしまった後、妻のカシスにそのように切り出されたのだ。
私は首をぶんぶんと縦に振りながら、『では早速明日にでも、誰かに――』と返答をしようとしたのだが。
『――誰かに? わたくしの夫は、わたくしが大切にしていたものを壊しておいて、わたくしへの贈り物を他の誰かに買いに行かせようというのかしら?』
『いえ! もちろん自分で買いに行く所存であります!』
確かにこの絵皿は価値が高いものではないけれど、毎日通る度に眺めていたいぐらいには大切でしたのに……とうつむく妻を見て、私は速攻で折れた。
普段は威厳に満ちあふれた公爵であるが、妻に対してだけは、前の人生で学生時代に使っていたシャープペンの芯よりも折れやすい男なのである。
――と、昨晩のことを思い返しながら、私はカーテンをつまんで窓の外を眺めた。
先ほどから少し動いてはしばらく止まって、を繰り返しているのが気になっていたが、やはり窓の外の景色はほとんど変化していない。
「……まだ着かんのか」
私は苛々としつつ懐中時計を取り出して時間を確認する。
昼過ぎには売り切れてしまうと聞いていたから、仕事もそこそこに、正午の鐘が鳴る前に王宮を出てきたのだが、この調子では間に合わないかもしれない。
「申し訳ございません。この先で事故があり、渋滞しているようでございます」
私の声を拾ったのか、御者台へとつながる小窓から、従者が謝罪する言葉が聞こえてきた。
今日に限って渋滞に巻き込まれるとは、何とも運が悪い。
「事故渋滞は予測できなかったものだ。気に病むことはない。こうなれば、運良く商品が残っていることを祈るしかないな」
私は従者にそう返答し、諦めて座席に背をもたせかけたのだった。
*
そうして、予定していた時間を大幅に過ぎ、私は目的地に到着した。
目的の店舗、『ショソン菓子店』は、王都の商業街に出店しているにしては小さく素朴な建物だった。
レンガや石造りの建物が多い王都商業地区において、少々珍しい木造平屋建て。
扉も看板も木目を活かした優しい風合いで、どこか懐かしいような、のどかな農村地帯の風景を想起させる。
近くには馬車を停めておけそうなスペースもなかったため、私だけ店の前で下ろしてもらい、一人で――もちろん護衛はちゃんと近くにいるが――店頭へと向かった。
「……行列ができていないところを見ると、看板商品の購入は絶望的だろうな」
それでも私は、一縷の望みをかけて『営業中』の札がかかっている扉を押し開けた。
ドアベルの音が、カラコロと響く。
その音を聞きつけてか、カウンターの奥からコックコートを着た赤髪の男が出てきた。
どこか貴族然とした愛想の良い笑顔を、整った顔に貼り付けている。
「いらっしゃいませ」
「失礼。タルト・タタンは……ん?」
「申し訳ございません。本日分のタルト・タタンは完売いたしました」
「そこにひとつ残っているようだが?」
「こちらはサンプルでございます」
「ああ、そうだったか……では仕方がないな。明日また改めよう。予約しておくことはできるか?」
「申し訳ございません。ご予約は承っておりません」
「……この私が貴族であっても?」
「はい。貴族の方も、王族の方も、皆様平等に並んでお買い求めいただいております」
「そうか。あいわかった」
「――? ご納得いただき、ありがとうございます」
私がすんなり納得していることに納得がいかないような顔をして、店主は頭を下げた。
「いいや。賢明な判断だと思うぞ」
いかに私が公爵家の当主であろうとも、王族の名まで出されては、どうしようもない。
それに、予約がトラブルの元になるため受けたくないという気持ちは、今の私にはよく理解できる。
――前世の記憶を取り戻す前の私であったら、おそらく激昂していたのであろうが。
「権力も財力も、人気店と妻の機嫌の前には泡沫にすぎない……か」
私はそう自嘲し、タルト・タタンの代わりに焼菓子を一箱購入して帰宅した。
玄関までわざわざ出迎えてくれた妻は、少し残念そうに微笑んで、焼菓子を受け取ってくれたのだった。
*
その翌日。
私は今日こそはと意気込んで、午前中に王宮を出ようと思っていたのだが、邪魔が……、ごほん。緊急の仕事が入ってしまった。
私には公爵家当主としての務めのほかに、王宮での仕事もある。
一昨日大きな案件が片付いたところで、しばらくの間はそこまで忙しいという訳ではないのだが、急を要する報告やら確認事項やらが生じることも当然あるのだ。
そうして緊急の案件を片付けて王宮を出る頃には、昼時もすっかり過ぎてしまっていた。
期待はしていなかったが、今日もショソン菓子店の行列を拝むことはできず。
ため息をついて店の扉をくぐると、私の顔を覚えていたらしい店主に、申し訳なさそうな顔をされた。
「……明日こそは、絶対に間に合うように来る」
ショーケースの中、サンプルのタルト・タタンを睨むように見据えて、私は気合を入れ直した。
「……ん?」
じっと見ていて気がついたのだが、サンプルのタルト・タタンに載っている林檎の焦げ目のつき方が、昨日とは違う。
客に売らない品物なのに、わざわざ毎日焼いて交換しているのだろうか。
……などと考えを巡らせていると、従者のライムが店内に入ってきた。
彼の手の甲には、王宮魔術師の魔術紋が刻まれた伝書鳥がとまっている。
「——閣下。先ほどの件で改めて確認したいことがあるのでお戻り下さいと、王宮から」
「……そうか。すぐに向かうと返信してくれ」
「かしこまりました」
ライムは一礼して、手にしていた紙に返事を書きつける。
彼は、書き終えた手紙を伝書鳥の嘴に咥えさせ、空へと放った。
伝書鳥は虹色の尾を引きながら空高く舞い上がり、雲の間に消えていく。
「妻にも連絡をしなければな。ライム、私を王宮に送り終えたら、お前は先に屋敷に戻れ。今日は恐らく遅くなる。そうだな……店主よ、これとこれを包んでくれるか?」
「林檎のジャムとスコーンでございますね。かしこまりました」
店主は、私が指し示した商品を、丁寧に包装していく。
その間に、私は妻宛てのメッセージカードを用意した。最後にリボンの隙間に差し込んでもらえば良いだろう。
「……閣下。やはり、私が午前中にこちらへ伺って、代理で看板商品を購入いたしましょうか?」
「いいや、これは妻と私の約束だからな。人任せにしては義理が立たぬ」
私がライムの提案を断ったのを見て、店主の眉がぴくりと動く。
手を止めた店主を訝しんで視線を送ると、彼は商品の包装を再開しながら、淡く微笑んだ。
「失礼いたしました。素敵なお約束でございますね。お客様は、奥様を大切になさっているのですね」
「当然だ。妻とは政略結婚だったが、だからこそ、私と結婚したことを後悔させないように、大切にしてきた。そうでなくては、妻を私に預けてくれた義両親にも、何より妻自身にも、申し訳が立たぬだろう?」
「……ええ。左様でございますね」
店主の顔に、一瞬だけ暗い影がよぎる。
しかし彼はすぐ表情を取り繕って、カウンターの上に綺麗に包装した商品を載せた。
「お待たせいたしました。スコーンと林檎ジャムで、お会計は——」
*
結局、その日は夜遅くまで仕事になってしまい、フロマージュ公爵邸に戻れたのは日付が変わる頃のことだった。
妻に挨拶もできず、翌朝も夜明けと共に出仕。
なんとか仕事を片付け終えたのが、ちょうど正午の鐘が鳴る頃だった。
「今日こそ間に合うのではないか……!?」
期待を胸に、目をこすりつつもショソン菓子店へと向かう。
馬車の窓から行列が見えた時には、思わず快哉の声を上げてしまった。
私は嬉々として馬車を降り行列に並んだ、のだが——。
「……何事だ?」
列に並んでしばし。
突如、店に並んでいた人たちが、蜘蛛の子を散らすように急いでその場を離れ始めたのだ。
大声で何事かを叫んでいる者もいるし、慌てて走り去っていく者もいる。
私の近くで控えていた護衛のうちの一人が、確認のため店の方へ向かったところで。
「——っ! 伏せてください!」
私のそばに残った護衛が一声上げた直後、店の方からバリバリと耳をつんざく大音量が響く。
それに伴い、軽い衝撃波がこちらへ吹き付けてきた。
「な、なんだ? 攻撃魔術か!?」
「何者かの攻撃魔術が、防衛魔術に弾かれた音のようですね。閣下、危険ですのでひとまず馬車へお戻りください」
護衛に促されて馬車止めまで戻るが、店のことが気になった私は、車内でしばらく待機することにした。
しばらくして、店へ向かっていた護衛から、騒ぎが落ち着いたとの報告が入った。
店の外には騎士が三名立っており、店主、そして私の護衛が聴取を受けていた。騒ぎの際に、店へ状況を確認しに行った護衛だ。
開け放された扉から覗く店内は、何かの破片や潰れた菓子が飛び散り、酷い有り様である。
犯人は既に連行されたようだが、これではしばらく営業は難しいだろう。
「二人とも、怪我はないか? 一体何があったのだ?」
護衛の主だと告げて聴取の輪に割って入ると、私の護衛が背筋を伸ばして礼を返した。
店主は私の顔を見て驚いたような表情をしつつ、軽く頭を下げた。
聴取をしていた騎士の一人が私を止めようとしたが、他の二人は私の顔を知っていたようで、彼を抑えて最敬礼をする。
「フロマージュ公爵閣下。この度は犯人確保にご協力、ありがとうございました」
騎士の一人がそう言って再び礼をすると、私を止めようとしていた騎士と、ついでに店主が慌てて深く頭を下げた。
どうやら、犯人を取り押さえたのが、私の護衛だったらしい。
私は鷹揚に頷き、護衛の男に「よくやった」と言葉をかけた。
「それで、何があった? 見たところ大きな怪我はなさそうだが、店の方は手酷くやられたようだな。とはいえ建物自体は無事のようだし、一週間もあれば営業再開できそうか?」
「この店は……もう、畳もうと思います」
「なに!? 設備の破損が酷いのか? 修繕費が必要なら、ひとまず私が立て替えて——」
「いえ、そうではないのです。……続ける意味を、見失ってしまいましたので」
店主は、そう言ってちいさく微笑み、半壊した店の方を眺める。
その視線は、ぞっとするほど静かで、何の感情も乗っていないように見えた。
「……店主よ。正直に言って良いか?」
私は、深く長いため息をついて、店主をキッと見据える。
鋭い眼光に射抜かれて気を引き締めたのか、店主は浅い笑みを消した。
「——貴殿の事情など知らん。心底どうでも良い。だが、貴殿が店を続ける意味ならば、この私が持っている」
私が冷たい表情で睨むと、黄緑色の店主の瞳が、はじめて揺れた。
「貴殿の個人的な事情も、貴殿が思う『続ける意味』も、私にはどうでも良い。だが、貴殿が店を続けて、タルト・タタンを作り続けてくれねば困る人間が、ここにいる」
私がそう伝えると、店主は眉をぎゅっと寄せた。彼が私の言葉をどう感じ何を思うかは自由だが、ここで引き下がる訳にはいかない。
私にとって、彼の個人的事情はどうでも良いが、私の個人的事情はこの世の何よりも大切なのである。
それに——。
「困るのは、私だけではない」
『ショソン菓子店』は人気店だ。
彼が店をやめてしまうと、悲しむ者は大勢いる。
実際、臨時休業になった瞬間と、その時の客の様子を私自身が目の当たりにしたのだから、間違いない。
「ショソンの菓子が買えないと知って、残念そうに肩を落とす令嬢たちがいた。絶望した表情で帰っていくどこかの家の従僕がいた。泣きじゃくる子供をなんとか宥めすかして帰路についた親子がいた」
店主は唇を噛んでうつむく。
私はダメ押しとばかりに続ける。
「思い返してみよ。列の先でようやく出会えたタルト・タタン。それを前にした時の輝く笑顔も、運悪く買えず涙を呑むところも、貴殿は数多く見てきたのだろう?」
それでも店を続ける意味を見出せないというのであれば、料理人として、あるいは商売人として、彼は大きなものを欠いている。
店主は、目を閉じ眉をぎゅっと寄せた。彼にも事情があるようだし、何やら葛藤しているのかもしれない。
この私が、ここまで言ったのだ。
菓子作りを再開してくれると信じたいが……彼の選択如何によっては、妻には申し訳ないが、何か別のものを贈るしかなくなるかもしれない。
どうしたら妻の機嫌をとれるだろうか……と私が悩み始めたところで、ようやく店主は顔を上げた。
「そうか……そうだったんだ。だから僕は……」
顔を上げた店主の瞳には、再び光が宿っている。
どうやら、自己保身のため……、ごほん。ではなく、タルト・タタンを買い求める他の客たちのために、珍しく私自ら言葉を尽くした甲斐があったようだ。
「お客様……いえ、フロマージュ公爵様。先ほどは、大変お見苦しいところをお見せいたしました。やはり僕は、叶うならこれまで通り、お店を続けていきたいです」
「そうか」
「はい。公爵様のおかげで、胸のうちに宿っていた新たな宝物を、見出すことができました」
店主は、吹っ切れたように爽やかな笑みを浮かべる。
悪どい笑顔と言われる私とは大違いだ。きっと私と違って、心根が素直で美しいのだろう。
「過去に囚われ、失われた過去へ届けようとタルト・タタンを焼き続けてきましたが……もう、僕には、大切な『いま』がある。店を続けていくうちに、いつの間にか、『いま』のお客様にお菓子を届けることが、過去への未練を上回っていたみたいです」
「うむ」
私は彼の回答に満足し、首肯した。
店主にどんな複雑な過去があったのかは知らないが、ひとまず私の首の皮は繋がったらしい。
個人の技能に頼る品物は、こういうことがあるから怖い。まあ、だからこそ価値も上がるのだが。
「ところで、話を戻すが。店の修繕はどうするのだ? 人手は? 費用は?」
「それでしたら、ご心配には及びません。今回店内で癇癪を起こした犯人に責任を取っていただきますから」
「犯人に? できるのか?」
「ええ。本人がああでも、あれの父親は貴族ですから。同じ貴族でも、フロマージュ公爵様より爵位はずっと下ですし、公爵様と違って性根は腐っていますけどね」
歯に衣着せぬ言葉からして、彼は以前から犯人がらみのことで辛酸を舐めてきたのだろう。
とはいえ、他人にしてもあまりにも遠慮がないので、もしかしたら身内や縁深い者だったりするのかもしれない。
「む? 性根と言ったか? 私ほど悪どい人間もおらぬぞ?」
私は、気づかなかったふりをしてわざと茶化した。
店主は、楽しそうに目を細める。
「ふふ、本当に悪い人はそんなこと言いませんし、こうして他人の店を心配したりしませんよ」
「だが、それは妻との——」
「もちろん、奥様とのお約束をズルせずきちんと守ろうとしたりもしません」
作りものではない晴れやかな笑顔でそんな風に言われて、私は「ぐう」と声を詰まらせた。
楽しげに笑う青年は、以前どこかで会った誰かと少し似ているような気がしなくもない。
私は顎に手を当てて金色の髭を撫でつけつつ頭をひねるが、それが誰だったか、どうしても思い出すことはできなかった。
*
その翌日。
フロマージュ公爵邸の厨房は、いつにも増して活気付いていた。
今日は公爵邸の厨房に市井で人気を博している菓子職人が呼ばれ、看板商品のタルト・タタンを焼いているのだ。
もちろん、その中央にいるのはショソン菓子店の店主である。
「林檎は一種類ではなく複数の品種を組み合わせていますが、全てポム領産のものを使っています。まず、こちらは、小ぶりですが香り高い品種で——」
彼は知識と技術を惜しげもなく披露し、公爵家の料理人たちは真剣にその話を聞いていた。
私はその様子を見て、悪どい笑みを浮かべて頷くと、邪魔をしないよう静かにその場を離れる。
「ライム。今日の予定は」
「会議、来客等の予定はございません。あとは、処理の必要な書類が少々」
「そうか。では、王宮へ上がる必要はなさそうだな。いつでも茶ができるよう、庭に支度をしておいてくれ」
「かしこまりました」
従者のライムは、丁寧に一礼して下がっていく。
「さて。タルト・タタンが焼き上がるまでに、書類を終わらせてしまおうか」
私は足取り軽く、執務室へと向かった。
*
さっさと執務を済ませた私は、妻を迎えに行き、庭へと向かう。
公爵邸の庭師が常に美しく整えている庭園には、パラソルのついたガーデンテーブルが設えられている。
「どうぞ、マイレディ」
「ありがとう、あなた」
私がエスコートをすると、妻のカシスは麗しい笑顔を浮かべ、席に着いた。
彼女の微笑みには、美の女神も恥じ入るほどの破壊力がある。
私もカシスの正面の席に着いたが、何となく落ち着かず、視線を彷徨わせた。
こうして面と向かってお茶をするのは随分久しぶりで、少しばかり気恥ずかしいのだ。
「久しぶりだ……庭に出たのは」
私は最後に余計なことを付け足して誤魔化す。
カシスが小さく笑ったのが耳に届いた。
「あらあら、せっかく庭師の方が綺麗にしてくださっているのに、勿体ないですわね」
「そうだな」
色とりどりの花に囲まれ、時折目の端で噴水の飛沫がきらきらと舞う。
水音と優しい風が、仕事の疲れで凝り固まっていた心をやわらかくほどいていく。
「一度、変な庭師が出たみたいでしたけれどね。ラズベリーいわく、自分と婚約者の会話に聞き耳を立てる、小綺麗で挙動不審な庭師だったと」
「そ、そ、それはもう忘れてくれ」
「ふふ。良いのですわ。ラズベリーのことが余程心配だったのでしょうからね、その庭師は。まあ、娘にはしばらく口をきいてもらえなかったみたいですけれど」
カシスが持ち出した過去の話に、私は動揺してしまった。
娘のラズベリーが前世で読んだ小説の悪役令嬢だと知って、破滅を回避するために動いていた時のことを思い返す。
まあ色々とあったが、結局ラズベリーは陥れられることもなく、婚約者との仲も良好。結婚式の準備も順調に進んでいる。
話に動揺したはずみで、向かいから私の顔をじっと見ていたカシスと、目が合ってしまう。
結婚してから二十年ほど経っているのに、ワインレッドの瞳に優しく見つめられると、いまだに心臓が忙しなくなる。
「と、ところで。遅くなったが、約束の菓子を用意したよ。君の大切な皿を割ってしまって、すまなかった」
「いいえ。わざとではないことは承知しておりましたもの。買うのが難しいお菓子を手に入れて下さって、ありがとうございます」
「君が喜んでくれるなら、何でもするよ」
「——まあ」
暴れ続けている心臓を無視して、目を逸らさず真剣にそう伝えると、カシスは頬を染め口元を綻ばせた。
この顔が見られただけで、日頃の疲れも気苦労も全て吹き飛んでしまう。苦労をした甲斐があったというものだ。
私は頬を緩ませ、テーブルに用意されていたタルト・タタンを、手ずから妻にサーブする。
キャラメル色に照り輝く大粒の林檎が、ぎゅっと身を寄せ合っていて、見ているだけでもあたたかい気持ちになるような菓子だ。
「とても美味しそうね。どうぞ、あなたも召し上がって下さいまし」
「ああ。いただくよ」
嬉しそうに目を輝かせるカシスと同時に、私もタルト・タタンにフォークを入れた。
林檎の甘味と酸味、バターの芳醇なコク、そしてカラメルのほろ苦さが、絶妙なバランスでもって舌を楽しませてくれる。
カシスも満足そうに微笑んでいる。どうやら気に入ってくれたようだ。
「気に入ってくれたようだな」
「ええ、とても。話題になっているのも頷けますわね」
「ああ。今日はショソンに直々に来てもらっているからな。これからは、うちの料理人に頼めばいつでも同じものを用意できるぞ」
「まあ、よく来ていただけましたわね」
「店が臨時休業中でな。暇なら少しの間公爵邸で雇われてみる気はないかと伝えたら、喜んで来てくれたよ」
「そうでしたの」
カシスは優雅な仕草でティーカップを口元に運ぶ。
紅茶で喉を潤すと、ほうと小さくため息をついた。
「……でも、少し残念だわ」
「ん? 何がだ?」
「いいえ、何でもございませんわ。それよりあなた、お仕事は落ち着いたのですか?」
「ああ、今のところはな」
「まあ、良かったですわ! では、お仕事が忙しくなる前に、また一緒にお茶をしましょうね。あなたにお話ししたいこともたくさんございますし、何よりわたくし、シャルドネ様とこうしてのんびり過ごす時間が、一番落ち着くのです」
「カシス……」
タルト・タタンを前にしたときよりもずっと嬉しそうな顔でそんなことを言う妻に、私は図らずも泣きそうになってしまった。
思い返してみれば、ここのところずっと忙しくて、カシスと碌に顔を合わせていなかった気がする。
カシスも、ラズベリーの結婚式のことやら何やらで相談したいことがありそうな雰囲気だったのに、忙しそうな私を見て遠慮している様子だったのだ。
そして、私はカシスのその優しさに甘えてしまっていた。
ここ数日は、早めに売り切れてしまうタルト・タタンを買うために、断れる仕事は全部断って何とか帰れるように努力していたが……皿破損事件がなくても、もっと家のこと、家族のことに目を向けるべきだったと反省する。
「カシス。本当にすまなかった」
「あらあら、何のことかしら? 先日割れてしまった、婚約前にシャルドネ様が贈って下さったお皿のことでしたら、もう怒っておりませんわよ?」
「ん? あっ……そ、そうか?」
カシスに言われて初めて、あの絵皿が自分の贈り物だったことを思い出す。
贈った本人はすっかり忘れていたのに、妻はずっと大切に飾ってくれていたということに今更気がついて、私は恥ずかしくなった。
「過去は過去。いまはいま、ですもの」
カシスのその言葉に、昨日のショソンの晴れやかな表情がよぎる。
結局彼の事情は聞いていないし、掘り下げるつもりもないが、前を向くことができたのならそれで良い。
「二十年前とは愛情の形が変わりましたけれど、シャルドネ様は、いまも私のことを大切に愛して下さっていますもの。だから、良いのですわ」
「か、か、カシスぅ〜」
「あらあらあら、これ以上いじめたら泣いてしまいそうですわね。ふふ、いつまで経っても可愛い人」
潤み始める視界に、ハンカチを持ったカシスの嫋やかな指先が近づいてきて、私はそっと目を閉じた。
愛しい妻の前では、大人の男としての余裕や威厳までも、何もかも剥ぎ取られてしまうらしい。
この日。
私は、権力と財力だけでは、妻の心を得られないことを、深く深く実感したのだった。
ショソン氏の本名は、ショソン・オ・ポム。
彼には重めのバックグラウンドを設定しているのですが、彼の話は本編には記しませんので、ご想像にお任せします(*´ω`*)
お読みくださり、ありがとうございました♪




