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悪役令嬢は私の古参ファンでした

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/10/17

 公爵令嬢に秘密を知られた時、人はどんな顔をすればいいのだろう。少なくとも私は舞台用の笑顔を貼り付けたまま、手に持った黒いかつらを背中へ隠した。今さら隠しても赤茶色の地毛は丸見えだった。


 楽屋の扉を開けたところにヴィオレッタ・オルディス様が立っている。深い紫の服に灰色の外套を重ね、片手には花束を抱えていた。学院でいつも見る銀色の髪も、相手から返事を引き出すまで目をそらさない灰色の目も同じだ。


「ベルネ男爵家のリネットさん、ですわよね」


「人違いでは……ございません」


 途中まで言いかけたうそを引っ込めると、彼女の視線が私の黄色いリボンへ落ちた。白い衣装には踊った時のしわが残り、かつらと一緒に外した半面が楽屋の机に載っている。先ほどまで客席へ笑顔を振りまいていたアイドルのリリィは、これ以上ないほど分かりやすく私の体に残っていた。


 王都リゼルには歌手も踊り手も大勢いる。その中でも客と話をしながら歌って踊り、掛け声まで一緒に楽しむ公演を夕星座ではアイドル公演と呼んでいた。八十人でいっぱいになる小劇場で週に一度歌うのが、男爵令嬢として学院へ通う私の秘密だった。


「グレタ様から花をお渡しする許可をいただきましたの。まさかあなたが……」


 ヴィオレッタ様が言葉を止める。私はかつらを握ったまま頭を下げかけた。父へ知らせるとか学院で誰かに話すとか言われたら、何を差し出して許してもらえばいいのか。


 彼女は後ろに控えていた侍女へ花束を押し付けた。


「ミナ、こちらを。カードはどこかしら」


「お嬢様が外套の内側へお入れになりました」


「そうでしたわ」


 出てきたのは一枚の紙と細いペンだった。折り目の付いていない紙を両手で持つ様子が、書類を突き付ける仕草に見える。私は先に説明をしようと息を吸った。


「申し訳ありません。私は家にも話しておらず、学院でもこのことは」


「署名をいただけますか」


 頭を下げる前に顔が上がった。ペンと彼女の目を見比べても、次に脅しが来る様子はない。紙の上には見覚えのある花の絵と、私が半年前に書いた二曲分の歌詞が印刷されている。


「リリィさんとしてお願いしたいのですけれど」


「署名、ですか」


「はい。できましたら今日の日付も。この端に余白がありますので」


 私は手がふさがっていることをようやく思い出し、かつらを机へ置いた。ヴィオレッタ様を楽屋へ通して椅子を勧めると、彼女は座るより先に紙を机の上へ広げる。いつ破かれるかと待ち構えるより、よほど扱いに困る状況だった。


「これ、初めての公演で配ったものですよね」


「ええ。二曲目で右へ動くところを左へお進みになった日の」


「あれを覚えていらっしゃるんですか」


「客席に向かって『こちらから見れば右です』とおっしゃったでしょう。舞台からも左でしたけれど、あの切り抜け方は見事でしたわ」


 覚えていてほしくないところまで正確だった。初公演は空席の方が多く、踊りの向きを間違えた時にはもう次の公演はないと思ったものだ。それでも客は笑って手拍子を続けてくれた。その六人の中に公爵令嬢がいたとは知らなかった。


「お客様が六人しかいなかったので、何か話さないといたたまれなくて」


「付き添いを除けば五人ですわね」


「私も入場料を払っておりますが」


 ミナさんが背後から言うと、ヴィオレッタ様は振り向かずに「ファンの数です」と訂正した。その厳密さは今いらないのではないかと思ったが、ペンを持つ手が震えて余計なことを言えなかった。


 署名はいつものリリィというつづりで書いた。学院の書類に書く名前より大きく、最後を花の形にする。書き終わった紙を渡すと彼女は角を持って顔の高さまで上げた。


「日付もありますわね」


「ご希望でしたので」


「ミナ、乾くまで持ってください。花束は机へ。いえ、紙から離れた方へ」


 指示が細かい。しかも署名を頼んだ本人がペンを握ったまま、紙を受け取った侍女の腕を目で追っている。学院で人を立ち尽くさせる彼女が、今は自分の署名一つで動きを止めていた。


 扉から短く切った髪のグレタさんが顔を出した。夕星座の劇場主は机の上を見てから私を見た。彼女には出演の契約を結ぶ時に本名も身分も話してある。


「ばれたんだね」


「はい」


「あたしが先に入ってから呼べばよかったね。花を渡すだけだからと思ったんだけど」


「お気になさらないでください。私が先に扉を開けましたので」


 それから恐る恐るヴィオレッタ様へ向き直った。学院では下級生が呼び止められただけで姿勢を正す相手だ。人前で服や礼儀を指摘されることもあり、誰かが陰で悪役令嬢と呼んでいるのを聞いたことがある。


「このことは他の方には話さないでいただけますか」


「もちろんです。リリィさんが秘密になさっていることを、わたくしが勝手に話す理由はありませんわ」


 返事が早すぎて次の言葉を疑ってしまった。私が待っていると彼女は花束を指し、もう一度こちらを見た。


「これは今日の三曲目のお礼です。二番の歌詞を直されましたわね。最後の行を残してくださってうれしかったものですから」


 あの変更に気づいた人がいた。直前まで紙を見て直すか迷っていた一行だ。私は彼女の顔を見たまま「分かりましたか」と聞き返していた。


「そこだけ歌う時に顔が上がりますの。残してほしいと思っておりました」


 何も言えずにいる私の横で、グレタさんが花を入れる容器を探し始める。ヴィオレッタ様はようやく椅子へ腰を下ろし、いつもの涼しい顔に戻った。


「これからは学院でもお話しできますわね」


 できればできないままがいい。正体を守る約束をしてもらった直後にそう頼む勇気はなく、私は花束を抱えてお礼だけ言った。


     *


 翌朝はヴィオレッタ様が廊下の向こうに現れたところで嫌な予感がした。銀色の髪を見つけた学生たちが左右へ寄り、私もその一人として壁側へ下がる。しかし彼女は私の前で止まった。


「リネットさん、昨日の二曲目について」


 朝の付き添いで学院の玄関まで来ていたミナさんが、彼女の後ろでせきをした。ヴィオレッタ様は一度まばたきをして言い直す。


「昨日お話しした件について。昼休みにお時間はありますか」


「はい。ございます」


 断る理由を考えるより早く返事をしていた。周りの学生が私を見る目まで変わった気がして、教室へ向かう間は誰とも目を合わせられなかった。秘密が漏れる前に妙なうわさができそうだ。


 昼休みには学院の茶室へ呼ばれた。壁際の席に二人分の茶があり、ヴィオレッタ様は私の入室を待って本を閉じる。椅子に座るといつもより足が床から遠く感じた。


「緊張なさらなくても。叱るためにお呼びしたわけではありません」


「はい」


「三曲目の終わりで息を取る位置を変えられましたね。前の取り方ですと、その前の言葉が切れてしまっていましたもの」


 学院の茶室で聞く話ではない。私は扉を確かめてから声を落とし、舞台の話は二人だけの時にしてほしいと頼んだ。彼女は自分もそのつもりだったと言う。今朝の廊下は二人だけではなかったのだが、まずは話を進めた。


「前は歌いながら次の動きのことを考えてしまって。あそこで息が足りなくなったんです」


「踊りを簡単にしたのはそのためでしたのね」


「あまりうまくないので。歌まで変になったら何をしに出ているのか分からなくなりますし」


「歌い終わってから客席を見るところは残していただきたいですわ。後ろの席まで見てくださるでしょう」


 私はカップを持ち上げかけて止めた。灰色の外套を着た女性が後方の右側に座っているのを何度も見たことがある。手拍子はするのに大きな声は出さず、終演すると付き添いと帰る常連客だった。


「いつも後ろにいらしたんですね。見えてはいましたけれど、客席は暗いのでお顔までは」


「目立つ必要はありませんもの。それに後方からですと舞台全体が見えます。最前列も嫌いではありませんが」


 そこで彼女はお茶を一口飲んだ。どちらも何度か座ったということらしい。私は半年分の客席を頭の中で探しかけて、やめた。これまで私が投げた冗談を公爵令嬢が聞いていたかと思うと、余計な記憶まで出てきそうだった。


 茶菓子へ手を伸ばすと彼女の視線が私の指に付いてきた。舞台と同じように爪を短くしていることまで見られている気がして、つまみかけた焼き菓子を一度戻してしまう。


「召し上がりませんの」


「いただきます。舞台の時と違うところが多くて、がっかりされていないかと思いまして」


「髪のお色はこちらなのですね。かつらの黒もお似合いでしたけれど」


 返事は髪の話だった。私はもう一度焼き菓子を取って食べる。彼女は一瞬こちらを見た後、自分の皿へ視線を戻した。


 茶室を出ると下級生のナディアさんが廊下にいた。私には軽く頭を下げかけたのに、隣のヴィオレッタ様を見て扉の方へ寄る。手で押さえた袖口を見て、以前の茶会で何があったか思い出した。


 流行より古い形の服だった。ヴィオレッタ様がその袖を指し、今では衣装箱の底でしか見ない形だと言った。周りにも同意を求めて笑いを広げ、ナディアさんはそれから袖へ触れてばかりいた。私もその場にいて、話題が変わるのを待つことしかできなかった。


「あの方はいつも急いでいらっしゃいますわね」


 ヴィオレッタ様はナディアさんが去った方を見て言った。私は返事をせず、抱えていた教科書を持ち直す。公演の歌詞を覚えてくれた人と、あの茶会で笑っていた人は同じ人だった。


 その日の授業が終わるとミナさんが学院の玄関にいた。私には主人からのお茶のお礼を伝え、舞台の話が廊下へ出なかったかを確かめる。


「今朝は途中まで出ました」


「申し訳ありません。次からは話し始める前に確認いたします」


 ミナさんは困った顔もせずに答えた。そこまで日常的に止める用件なのだろうか。私が聞くより先にヴィオレッタ様が玄関へ出てきて、侍女から外套を受け取った。


「次の公演には何かお困りのことはありませんか」


「今週の準備はできています。ただ月末の公演はまだ空席が多いそうで。グレタさんと宣伝をどうするか話しています」


「月末ですわね」


 彼女は聞いた内容を確かめるように繰り返した。その時はただ予定を覚えてもらえたのだと思った。誰を誘うかくらいの相談になるだろうと、私はお礼を言って自分の馬車へ向かった。


     *


 四日後に夕星座へ練習に行くと、グレタさんが帳簿を机へ広げていた。私を見るなり手招きし、売れた席の数が書かれた欄を指す。


「月末は売り切れだよ」


「もうですか。宣伝のビラは昨日増やしたばかりなのに」


「残っていた分をオルディス様が買った。人を招くそうだから、使うのかどうかも聞いて渡してある」


 良かった、と言いかけて飲み込んだ。公演一回分の残席をまとめて買ったとなると、お茶のお礼で済ませていいのか分からない。グレタさんは帳簿の横から別の紙を引き出した。


「それと、こんな話が来てる。あたしはまだ返事をしてないよ」


 月末公演の会場として広い音楽堂の名前が書かれていた。貴族の音楽会で何度か行ったことのある場所だ。夕星座の舞台も客席も丸ごと収まりそうな大きさがある。


「会場を変えるんですか」


「あんたは聞いてないんだね。だったら変えない。話をするなら本人もいる時にしてくれと伝えてあるから、もうすぐ来るよ」


 私は紙を読んだまま椅子に座った。広い舞台へ出られるのはうれしい。手描きのビラを配るだけでは来てくれない人にも歌を聞いてもらえる。しかしそこに何を持っていけばいいのか、私にはまだ分からなかった。


 ヴィオレッタ様がやって来るとミナさんは布を包んだ箱を机へ置いた。開いた中には光沢のある白い布と幅広いリボンが並んでいる。私の衣装と同じ色なのに、縫い上がった姿はずいぶん違った。


「舞台で映えると思いますの。裾も広く取れますから、お回りになる時に」


「回ると足が引っ掛かりそうです」


「踊りは減らしてはいかがですか。あれほど歌えるのですから」


 それもそうかもしれないと思った。せっかく考えてくれた人へすぐ否定から入るのは失礼だ。布の手触りを確かめながら、でも今の動きができなくなるのは困ると言おうとしたところで次の紙が広げられた。


「音楽堂なら伴奏も厚くできます。曲の間には休憩を挟み、前半と後半で雰囲気を変えるのはいかがでしょう」


 曲順の案には私の歌が並んでいた。知らない曲を要求されているわけではない。好きだと言ってくれた曲も入っている。ただ途中の客との話が一つもなく、手拍子を合わせる歌は最後へ回されていた。


「この歌は最初の方がいいと思います。初めていらしたお客様も一緒に手をたたけるので」


「ご招待する方々には座って聞いていただく方が良いかと。途中でお声を上げる方がいると驚かれるでしょう」


「いつもそういう公演ですから」


「ええ。もちろん存じております。けれど新しいお客様には、まず歌をじっくり聞いていただきたいのです」


 机の上の紙には費用も書かれている。私は自分の出演料を知っていたから、目に入った数字を見て衣装への意見まで引っ込めた。何回歌えばこの布の値段になるのだろう。部屋の端にある自分の衣装箱が急に粗末に見えた。


「一度持ち帰って考えてもいいですか」


「もちろん。必要なものは遠慮なくおっしゃってください」


 ミナさんが書き留めていた手を止めた。


「公演内容のご了承はまだいただいておりませんね。音楽堂へ正式な決定は伝えておりませんが、招待状の方は」


「ご招待する方の予定を先に押さえる必要がありましたもの」


 ヴィオレッタ様が封筒から見本を出した。そこには月末の日付と音楽堂の名前があり、覆面の歌手リリィによる特別公演と書かれている。私の本名はなかった。秘密を守る約束は守られていた。


 それでも自分がいつどこで何をするかを、知らない人の方が先に知っている。


「オルディス様、この劇場の公演を移す契約はしてませんよ」


「ですからご相談に参りましたの」


「その招待状では相談中に見えません。リリィが出るとはまだ約束できない」


 グレタさんは紙を置いたまま私を見た。何か言わないといけない。学院で先生に答えを求められた時より、楽屋前で秘密を知られた時より答えにくかった。


「私は、そんなにたくさん準備をしていただかなくても。ヴィオレッタ様が最前列にいてくださるだけで十分です」


 言った途端に彼女の顔が上がった。


「最前列がお好きでしたの。それでは前の一列を確保して」


「一席です。ヴィオレッタ様の一席です」


 どうにかそこだけは訂正できた。ミナさんのペンが再び紙を走り、グレタさんは額へ手を当てる。ヴィオレッタ様だけが満足そうにうなずいた。


「それはもちろん。ミナの席は次の列にいたします」


 私が言いたかったのは席の配置ではなかった。それなのに一席という言葉を聞いてくれたことに安心し、もっと大事なところを話さずに終えてしまった。


     *


 次の練習日は劇場の入口で立ち止まった。窓口の前にいつも公演へ来てくれる客がいて、売り切れを告げる札を見ていたからだ。舞台衣装ではない私に気づく様子はなく、窓口の係へもう一度同じことを聞いている。


「立ち見でも駄目かい。仕事の予定が出てからと思ったら遅くなったんだけど」


「通路へ立っていただくことはできませんので」


「そうか。音楽堂でやるって話を聞いたんだけど、そっちはここで買えるのかな」


 窓口の係が奥を見た。グレタさんが帳簿を持って出てきて、音楽堂の話はまだ決定していないと説明する。劇場で販売できる券は今のところないと答えるしかなかった。


「向こうは招待された人しか入れないんだろう。リリィも忙しくなったんだな」


 客はそう言って札から目を離した。何か責めるような言い方ではなかったのに、私は通用口へ回ろうとしていた足を止める。あの人は私が歌詞を忘れた時にも手拍子を止めなかった。次も来てくださいと何度も言った相手だった。


 大きな会場で歌う機会ができれば来られなくなる客もいる。それは仕方がないのかもしれない。けれど私はまだ行くとも言っていないし、ここを出たいとも言っていなかった。


 客が去るまでその場を動けず、グレタさんに見つかってから奥へ入った。練習のために持ってきた歌詞の紙を出しても、音楽堂の曲順が頭に残っている。端の一行を直そうとしてペンを持ったまま、何も書けなかった。


「さっきの話、聞こえましたか」


「聞こえたよ。招待状を受け取った人から話が回ってきたんだろうね。うちからは会場を変える案内を出してない」


「私から何か説明した方がいいでしょうか」


「その前にあんたがどうしたいか決めな。こっちの客にもあちらにも曖昧な返事をしていたら、どっちにも出ることになるよ」


 同じ夕方に王都の二か所で歌う自分を想像した。さすがにそれはできない。できないことなら断る言葉が出るのに、できそうなことになると人の期待の方を先に数えてしまう。


「ここで歌いたいです。月末はいつもより曲を増やすつもりでしたし」


「だったらその話を本人にしな。契約の話はあたしもいるところで。曲の話はあんたが言うんだよ」


 私はミナさんへ手紙を出した。次の打ち合わせで公演について話したいと書き、返事を待つ。返ってきた日時は翌日の授業後だった。


 当日は学院でヴィオレッタ様の姿を見るたびに話を始めそうになった。廊下では話せない。教室の前でも話せない。その二つを口実にして一日を使い、劇場へ向かう馬車の中でようやく断りの言葉を声に出した。


 楽屋の机には衣装の絵が広がっていた。前より裾を狭くし、足元が見える長さへ直してある。ヴィオレッタ様は私が入るとその変更を示した。


「足が引っ掛かるとおっしゃいましたから、こちらなら動きやすいと思いますの。歌と歌の間のお話も一度入れられるようにしました」


 私の言ったことを全く聞いていないわけではない。その事実が用意してきた言葉を鈍らせた。ミナさんが席を勧めてくれたが、私は椅子の背へ手を置いたまま立っていた。


「考えてくださったのに申し訳ありません。でも月末は夕星座で歌いたいです。音楽堂の公演はお受けできません」


 ヴィオレッタ様は絵の上に置いていた指を引いた。私は続けようとして一度息を吸う。彼女に見つめられると、何か根拠のある理由を並べないと断れない気がした。


「こちらで歌う準備をしていました。それにいつものお客様へ次も来てくださいと言いました。残っていた席を全部買っていただいたことで、これから買うつもりだった方が買えなくなっています」


「より多くの方に聞いていただけるようにと思っておりますの。こちらの八十席では限りがありますでしょう」


「でも音楽堂は招待された方しか入れないと聞きました。ここで券を買おうとした方にも、私から入れるとは言えません」


「ご招待する方はわたくしが選んでおります。今後の活動にもつながる方々ですわ」


 グレタさんが帳簿を閉じる音がした。私はその音を聞きながら、最初に相談したかったことを思い出す。誰が来るのか。何を歌うのか。今の客はどうなるのか。どれも紙が届いてから知ることになっていた。


「大きな舞台で歌えるなら、いつかは歌いたいです。でも今回は移りたくありません。今の公演をやめたいと言ったわけではないんです」


「やめるとは申し上げておりません。今回だけでもあなたの価値にふさわしい場をと思って」


「ここはふさわしくないですか」


 彼女の目がグレタさんの方へ動いた。私はその前へ出ることもできず、椅子の背を握ったまま続ける。


「お客様と話すのも、手をたたいてもらうのも好きです。歌だけで立っていられるほど上手ではありませんけれど、それだけが理由ではありません」


「わたくしもその公演が好きです。ただ今回は新しい方にも」


「新しい方にも今の公演を見ていただきたいんです。見せる前から全部変えてしまったら、何が好きだったのか分からなくなります」


 言葉が出てくるほど頬が熱くなった。いつもは誰かの説明を最後まで聞いてから返事をするのに、今日は彼女が言い終わる前に続けてしまっている。舞台なら客を笑わせるための言葉を挟めた。楽屋の私はその言葉を一つも思い付かなかった。


「招待状はもう出しておりますのよ」


「私には相談しているとおっしゃいました」


 ヴィオレッタ様が口を閉じた。私は机の上の曲順を見て、残されていた好きな曲の題名を指先で押さえる。


「リリィの歌詞は全部覚えているのに私がさっき言ったことは聞いてくださらないんですね」


 指を離した時に紙がずれた。ミナさんが直そうと手を伸ばしかけて止める。私の言ったことが机の上に残ってしまったようで、紙を引き寄せることもできなかった。


「……あなたが喜んでくださると思いましたの」


「うれしかったです。歌詞を直したことに気づいてくださった時も、署名を大事にしてくださった時も。でもこの公演は困ります」


 彼女は衣装の絵を重ねて端をそろえた。その丁寧な手つきに、楽屋で歌詞カードを持っていた姿が重なる。今すぐ言い方を変えれば元に戻れるだろうかと考えたが、元に戻ったらまた音楽堂へ行く話になる。


「本日のところは持ち帰ります。ミナ、片付けを」


「かしこまりました」


 グレタさんが移転の了承は出ていないことと夕星座の公演日はそのまま残すことを確認した。ヴィオレッタ様は短く返事をし、私へ別れの挨拶をして出ていく。扉が閉まるまで私は椅子から手を離せなかった。


 閉じた扉に向かって謝りそうになった。代わりに椅子を引いて座ると、膝に置いた手が震えている。グレタさんは机の上を片付けながら、今日は歌うかと聞いた。


「最初の曲からお願いします」


 伴奏の準備をしてもらう間に半面を着けた。鏡の中ではいつものリリィに見える。歌い始める時だけは誰の返事も待たなくてよくて、その日の練習は終わりまで通せた。


     *


 翌日の学院でヴィオレッタ様に呼び止められた時は、さすがに頭を下げるだけでは済まないと思った。廊下にいた学生が足を緩め、私と彼女を見比べる。リリィの署名に喜んでいた姿を知っていても、灰色の目がこちらへ向くと足が止まった。


「昼休みのお時間をいただけますか。昨日の続きについてお話ししたいのですけれど」


「はい。私もお話ししたいです」


 今回は返事をしてから、自分で茶室の名前を言えた。ヴィオレッタ様はうなずき、周囲を見る。その視線で学生たちが歩き出す様子を見て、彼女の機嫌を読むことに慣れている人は私だけではないと思った。


 昼休みの机にはお茶しかなかった。花も歌詞カードも衣装の絵もない。私が座るとヴィオレッタ様はカップを持たず、両手を膝へ置いた。


「昨日は失礼をいたしました。あなたへ伺う前に話を進め、相談と言いながら決めたものをお見せしました」


 私は用意してきた説明を忘れた。彼女が先に謝るとは思っていなかったのだ。黙っているとそのまま話が続く。


「最初に衣装のことをおっしゃった時も、あなたが今の公演を続けたいのだとは考えませんでした。足元を直せばよいと思って。その後も同じでしたわ」


「私もはっきり言えませんでした。費用を見てしまって、お断りしたらどれだけ無駄になるのかと思って」


「費用はわたくしが決めて使ったものです。あなたが支払う必要はありません」


「そういう意味だけではなくて。好きだと言っていただいたのに嫌だと言いにくかったんです。学院ではヴィオレッタ様に断ること自体が怖いですし」


 言ってから口元へ手を当てた。そこまで言うつもりはなかった。しかし彼女はすぐには返さず、机の上の自分の指を見ていた。


「そうですわね。昨日もわたくしは招待状を出したと申しましたもの。あれではあなたが断ったことを責めているように聞こえます」


「聞こえました」


 ヴィオレッタ様の眉が上がった。私も驚いていた。いつもの私なら、そんなつもりではなかったと相手から言われるのを待っていたと思う。


「ごめんなさい」


 彼女が言うと私は今度こそうなずいた。カップの中身はまだ温かそうだったが、先に一つ聞きたいことがあった。


「私が音楽堂へ行かないと言っても、秘密のことは」


「誰にも話しません。お引き受けいただく条件として約束したのではありませんわ」


 そこでようやく椅子へ座り直せた。お茶を飲むと口が乾いていたことが分かる。ヴィオレッタ様もカップを持ち上げ、飲む前にこちらを見た。


「あなたは月末の公演をどうしたいですか。今度は最後まで伺います」


 私は夕星座で歌いたいと答えた。今まで来てくれた客も初めての客も券を買えるようにしたい。曲順と衣装は自分で決めたい。ただ新しい人を誘ってくれたことはありがたかったから、いつもの公演だと伝えたうえで招いてほしい。


 彼女は途中で口を開きかけ、カップを置いて待った。私は自分で話し終わったことを確かめてから、お願いしますと付け加える。


「買っていただいた席を戻せるか、グレタさんと相談していただけますか。それから招待状の訂正を。音楽堂へ行くつもりでいらしたら困りますから」


「分かりました。会場を押さえた方の話もわたくしがいたします。次の打ち合わせで確認できるように」


 返事が済んでも彼女は動かなかった。私が次に何か言うのを待っているのかと思い、もうありませんと伝えかける。すると彼女の方から昼食は取ったかと聞かれた。


「まだです。話す前に食べたらお腹が痛くなりそうで」


「では先に召し上がってください。わたくしもまだですので」


 頼んだ軽食が届くまで、何を話せばよいのか迷った。舞台の話はした。お礼も謝罪もした。教室で隣の席に座る相手なら、次の授業の課題がまだ終わっていないと言えるのに。


「次の法制の授業がお嫌いなのですか」


 かばんからはみ出していた教科書を見られた。私は薄い紙を挟んだページを指し、似た用語を覚え違えると答える。ヴィオレッタ様は私の手が離れるまで待ってから教科書を開いた。


「契約の違いでしたら例を書いた方が覚えやすいですわ。言葉だけで覚えようとすると全部同じに見えますもの」


「ヴィオレッタ様にもそう見えるんですか」


「意味を覚える前は。覚えてからは似ている部分も違う部分も分かります」


 食事が届くと教科書は端へ寄せられた。彼女が添えられた野菜へ手を付けないので、私も残した方がいいのかと迷っていると「わたくしはこの苦い葉が得意ではありませんの」と言われる。私は自分の皿の分を食べた。


「私は好きです」


「でしたら召し上がって。お好きなものをわたくしに合わせて残すことはありませんわ」


 私はうなずいてもう一口食べた。歌詞の話はその後も出ず、昼休みが終わる頃にはどちらが食べるのが遅いかまで分かっていた。


     *


 夕星座での打ち合わせは前より机の上が寂しかった。衣装の布も音楽堂の絵もなく、グレタさんの帳簿とミナさんの書類だけがある。ヴィオレッタ様は残席分の券をまとめて差し出した。


「こちらを戻したいのですけれど。払い戻しについては規則に従います」


「買った人からの申し出だから、使っていない券は戻せるよ。手数料を差し引くことになるけどね。誰かに渡した分はあるかい」


「まだございません。招待状には人数と日付だけを記載しておりましたので」


 ミナさんが訂正の文面を広げた。私の芸名と夕星座の場所が書かれ、手拍子や掛け声もある公演であることを添えている。音楽堂へ変えると先に案内したのは主催者の早計だったと、ヴィオレッタ様の名で説明してあった。


「出演者の都合で変更、と書かなくていいのですか」


「それでは最初に決めたのがあなたになってしまいますわ。わたくしが確認を怠ったためですので」


 訂正が届くのを待ってから、来たい人には通常の券を買ってもらうことになった。窓口へ一度に大勢が来ても困るから、グレタさんとミナさんが人数を確認する。席を増やす話が出かけたところでグレタさんが八十人までだと告げ、ヴィオレッタ様はその数字を紙へ書いた。


「お嬢様の分もこちらへ含めますね」


「ええ。一枚を。あなたも観劇するのでしたらもう一枚」


「私の分もお願いいたします。後ろの席で結構ですので」


 ミナさんの申し出で彼女がちゃんと券を買う客だったことを思い出した。最初の六人から一人を引く数え方は訂正しておいた方がよさそうだ。そんな話をできるくらいには私も椅子の上で落ち着いていた。


 音楽堂の取消料は思っていたより高かった。私が数字を見直すとヴィオレッタ様は自分の書類の方へ紙を寄せた。


「これはわたくしが払います。今月の買い物を控えることになりますが、用意できない額ではありません」


「衣装はもう作り始めていたんでしょうか」


「まだ布を取り寄せた段階です。使い道はこちらで考えます。月末の衣装について頼みたいことがあれば伺いますが」


 私は自分の黄色いリボンの端がほつれ始めていると話した。次の出演料で買い直すつもりだったが、どの幅なら背中で結んでも踊りやすいかを相談したかった。彼女は布を一巻き贈るとは言わず、今使っているものを見せてほしいと答える。


「見ていただくのは助かります。買うのは自分でしますので」


「分かりました。では今日の練習の後に」


 帳簿を閉じたグレタさんが私へ向き直った。公演の日も窓口も元通りにできる。次はあんたの家の話だねと言われ、私は手元の歌詞から目を上げた。


 ヴィオレッタ様には秘密を守ってもらえる。けれど父には友人宅へ行くと言い続けることになる。これからどこか別の舞台へ行く話が出た時も、また帰る時間の説明を作らなければならない。


「父に話します。契約書と、これまでの支払いの記録を写していただけますか」


「契約書はあんたの分があるだろう。支払いはここから写そう。家で使う帳簿なら自分で付けな」


「付けています。衣装の代金と馬車代も」


 出演料の残りは私の引き出しにある。家へ渡す必要があるほど困っているわけではないのに、そのお金の出どころだけ言えなかった。自分で欲しかった舞台の話を、今まで父に一度もしていない。


「わたくしがご一緒した方がよろしいですか」


 ヴィオレッタ様の申し出に私は首を振った。そばにいてもらえば父も話を聞いてくれるだろう。でも公爵令嬢に勧められたから始めた活動ではない。


「今日は私が話します。話を聞きたいと言われた時はグレタさんをご紹介してもいいですか」


「あたしは構わないよ。公演のことも契約のことも説明する」


 ミナさんが書類をまとめて私へ渡した。ヴィオレッタ様はその束を見てから私の顔を見て、もう一度うなずいた。


 家へ帰ると父は書斎にいた。机へ契約書を置いたところで音楽の練習代かと聞かれたので、私は練習だけではないと答える。夕星座でリリィという名前を使い、週に一度公演をしていると話した。


 父は紙より先に私を見た。


「友人の家へ行っていると言っていたな」


「うそでした。申し訳ありません」


「行き先が違えば何かあった時に探す場所も違う。そこは分かるだろう」


 はいと答えると父は椅子を指した。座ってから顔を上げるまでが長かった。学院で誰かに呼び止められるより、何を怒られるか知っている今の方が落ち着かない。


「いつからだ」


「半年前からです。契約書には本名を書いてあります。劇場主のグレタ・ノールさんは男爵家の娘だと知っています。お客様へは芸名だけで、顔も隠して出ています」


「それで家の評判は守れると考えたのか」


「知られないうちは。今は知られた方もいます」


 私はヴィオレッタ様とミナさんに正体が分かった経緯を話した。父は公爵家の名を聞いて眉を寄せたが、それなら安心だとは言わなかった。どうして最初に相談しなかったのかと聞かれ、私は膝の上の手を握り直す。


「認めてもらえないと思いました。音楽会で歌うのはいいけれど、お金をいただく舞台は違うと。やめなさいと言われたくなかったんです」


「言われる前から決めていたのか」


「はい」


 父は契約書の一枚目を裏返した。字を追う間は何も聞かれず、私は横の収支の帳簿を開いて待つ。馬車代を一度書き直した線まで見えていた。


「金に困っていたわけではないな」


「困っていません。歌いたかったんです。決められた曲を歌うだけではなくて、自分で書いた歌詞も聞いてほしくて。お客様から声が返ってくるのも好きです」


 父が顔を上げたので私は言葉を止めた。音楽会では間違えた箇所を数えていた。夕星座では今日はどんな話をしたら楽しんでもらえるかを考える。その違いまで言ったら家で歌うことが嫌いだったように聞こえそうで、言い直そうとした。


「家で歌う時も好きです。でも夕星座でも歌いたいです」


 父は帳簿を自分の方へ引いた。衣装代の欄を見て、今の服は自分で払ったのかと聞く。私は最初に家の小遣いから出し、その後は出演料で直していると答えた。


「月末の公演を見せなさい。それからノールさんに話を聞く。条件を決めるまでは、今まで通り続けていいという返事はできない」


「分かりました。舞台へは芸名で出ます。客席でも本名は」


「呼ばない。私が来たことでわざわざ知らせる必要もないだろう。だが家の者には行き先を伝えなさい。付き添いをどうするかも決める」


 私はもう一度頭を下げた。許してもらえたわけではないが、紙を持って部屋へ戻るようにも言われなかった。父が支払いの記録を確かめ始めたので、馬車代の欄を指して説明を続けた。


     *


 月末公演の前にヴィオレッタ様は学院でナディアさんを呼び止めた。私は廊下の隅で教科書を抱え、何を言うつもりなのかと足を止める。ナディアさんもその場を動かず、手が袖口へ行った。


「以前のお茶会であなたの服を笑ったことを謝りたいのです。周りの方にも同意を求めました。あのようなことをすべきではありませんでした」


 ナディアさんがこちらを見た。私は何も聞いていなかったから何も言えず、ヴィオレッタ様へ視線を戻した。彼女は返事を求めるように続けず、そのまま待っている。


「……もうそのような話はなさらないでください」


「分かりました」


「それでしたら。お話は分かりました」


 ナディアさんは袖口から手を離した。別れの挨拶をして廊下の向こうへ歩き、振り向きはしなかった。私はヴィオレッタ様の隣まで行って、自分の教室もそちらだったことを思い出す。


「驚きました」


「服を直した方がご本人のためになると思っておりました。でもその話を笑いながら皆様の前でする理由にはなりませんでしたわね」


 彼女はナディアさんの去った方を見ていた。私は同じ廊下を見て、あの茶会で話題が変わるのを待っていた自分を思い出す。次に同じことがあった時は、笑わないだけで済ませずに何か言いたいと思った。


「リネットさんはお急ぎではありませんの」


 教室の時計を見たら授業まで間がなかった。私は頭を下げて歩き出し、廊下の角で走りかけたところを先生に見つかった。結局はその場で注意を聞く時間が増えて、教室へは最後に入ることになった。


 月末公演の券は窓口へ戻してから順に売れていった。音楽堂なら行きたいが小劇場には行かないという返事も来た。私はその返事を見せてもらい、来てくれる人の人数をグレタさんと確かめる。初めて見る顔も客席に混ざることになっていた。


 衣装は今までのものを使う。リボンだけを買い直し、ヴィオレッタ様に結んだところを見てもらった。彼女は二度ほど長さを調整してから、歌う時に苦しくないかと聞く。


「大丈夫です。踊ってもほどけません」


「でしたらこちらで。布の色は前のものより明るいですわね」


 彼女はそれ以上別の色を勧めなかった。私は鏡の前で一回転し、足元へ布が落ちてこないことを確かめる。ミナさんが半面のひもも直してくれたので、道具を借りたお礼を言って自分の箱へしまった。


 当日の夕星座は開演前から声が多かった。舞台の袖で伴奏者に曲順を見せながら、私は客席から聞こえる会話へ耳を向ける。学院や音楽会で聞き慣れた話し方と、いつもの客たちの声が同じ場所にある。


「お父さんは後ろの席に案内したよ。まずは見たいっていうから、細かい話は終わってからにした」


 グレタさんの説明に私はうなずいた。袖からのぞくと父の横顔が見え、半面の位置を直すふりをして引っ込む。公演を見て判断するための客だと思おうとしたが、やはり父は父だった。


「いつもの曲順です。最初は手拍子の歌から」


 伴奏者へ確認すると向こうも同じ紙を指した。ここで順番が変わることはない。私は舞台へ出て、いつもより多く入った客席へ頭を下げた。


「皆様、夕星座へようこそ。リリィです。初めての方は途中で手をたたきたくなったらご一緒に。聞くだけでも大丈夫ですので、どうぞ最後までお付き合いください」


 最前列にはヴィオレッタ様がいた。今日は灰色の外套を脱いで席へ座り、横の客に膝掛けが触れないよう整えている。奥にはミナさんも見えた。父の方は見すぎないようにして伴奏者へ合図を送る。


 最初の音が鳴った。歌い出すところで客席の正面を向くと、見慣れない顔が一列分目に入った。静かに聞くつもりの人へいつもの声でいいのかと考えた瞬間に、出すはずの一音が喉で止まる。


 伴奏はそのまま二小節進んだ。途中から入れば歌詞を一行飛ばすことになる。私は口を開いたまま伴奏者を見て、片手を上げた。


「すみません。もう一度最初からお願いします」


 音が止まった後に椅子が動く音が聞こえた。ヴィオレッタ様が腰を浮かせ、すぐ座り直す。私はそちらを見てから客席の後ろへ目を向けた。


「たくさん来ていただいたので、いつもより上手に歌おうとしていました。まだ一言も歌っていないのに失敗しましたね。ここから歌いますので」


 笑う声が客席のあちこちで上がった。窓口で券を買えなかった常連客もいる。今度は自分から伴奏者へ顔を向け、最初の音を聞いて息を吸った。


 歌い出した声は練習と同じだった。一行目を歌い終えるところから手拍子が入る。最後の言葉を次の行へつなぎ、踊る時には足元を確かめずに正面を見る。黄色いリボンは背中で結んだままほどけなかった。


 二番の合間に掛け声が入るところで最前列から声が上がった。


「もう一度お願いいたしますわ!」


 歌詞で繰り返す言葉を頼むいつもの掛け声なのに、丁寧な語尾が伴奏へ少しはみ出した。横の客がヴィオレッタ様を見て笑い、彼女は正面を向いたまま手拍子を続ける。私はそこで笑うと歌えなくなるので次の一行へ入った。


 次の曲へ移る前に水を飲んだ。いつもはこの間に客から声が飛んでくる。今日は新しい客が多いからか、私が何を言うか待っている顔が目立つ。


「さっきは一回分の伴奏を余計に聞いていただきました。私が失敗した時はあちらの方が困りますので、歌い直せたのは伴奏のおかげです」


 伴奏者へ手を向けると拍手が起きた。向こうが軽く頭を下げ、私は曲順の紙へ目を落とす。三曲目にはヴィオレッタ様が変更に気づいた歌がある。その前には私が月末に歌いたいと選んだ曲もある。


 客席の後ろから新しい歌はあるかと聞かれた。私は一曲だけと答え、歌詞を忘れたら先ほどのように止めるかもしれないと続ける。笑いが返ってきたので、どうか最後まで覚えていられますようにと伴奏者を見る。


 新しい曲では後方の父が座っている辺りも見た。顔までは分からないが、誰かと話したり席を立ったりはしていなかった。私は次の言葉を思い出しながら歌い、最後の音まで落とさずに終える。


 拍手の中で頭を下げると半面のひもが頬に触れた。かつらの下は暑く、衣装の背中も汗ばんでいる。もう一曲と声が上がった時は歌えるかどうかを息の残りで考え、伴奏者と目を合わせてうなずいた。


 最後の歌では後方から最前列まで客席へ順に目を向けた。左の端から右の端へ手を振り、歌い終わってから頭を下げた。


 終演後はグレタさんの仕事部屋で父と話した。かつらと半面は箱へしまったが、着替える時間はなく衣装のままだった。父は初めて見る黄色いリボンへ目を向け、その後でグレタさんへ椅子を勧められた。


「普段もああいう公演なのですか」


「今日は客が多かったから初めて来た人向けの説明を増やしました。いつもはもう少し客から話し掛けることが多いですね」


 グレタさんは公演を終える時刻と支払いの方法を説明した。父は舞台への出入りを客も自由にできるのか聞き、楽屋へ入れるのは許可した人だけだという返事を確かめる。花を届ける時も先に劇場主を通すと聞いて私を見た。


「今度から着替えてから扉を開けなさい」


「はい」


 もっともだった。正体を知られた日のことを説明したのは私なので、言い訳もできない。父は帳簿を閉じて今日の分の出演料がそこへ加わることを確認した。


「週に一度、夕方の公演だけという約束で続けることは認める。学院の方がおろそかになれば話は別だ。練習へ来る日も家に予定を伝え、行き帰りには付き添いを付けること」


「ありがとうございます。契約と帳簿も今まで通りお見せします」


「公演場所や日程を変える時は事前に相談しなさい。誰かが良い条件を出したからといってそのまま話を進めないように」


 その注意には二度うなずいた。家のために歌っていることにせず、自分が続けたいと言った上で返事をもらえた。私は机へ手を置いて頭を下げ、次の予定を書いた紙を父へ渡す。


 帰る前にヴィオレッタ様とミナさんが楽屋前へ来た。今度は私が着替え終わるまで外で待っている。紺色の普段着で扉を開けると、ヴィオレッタ様は花束を抱えたまま立っていた。


「今日の新しい曲について感想を申し上げてもよろしいですか」


「ぜひ。歌詞も忘れずに済みました」


「最後の行へ入る前が好きですわ。伴奏が減るので声がよく聞こえました。それから最初の歌い直しですけれど」


「忘れていただけませんか」


「あそこも好きでしたのに」


 私は花束を受け取りながら笑った。父が待っているので今日は長く話せないと伝えると、彼女は途中まで言った感想をそこで止める。ミナさんから終演の時刻も確かめられ、私は父のいる仕事部屋へ戻った。


     *


 数日後にヴィオレッタ様がお茶へ誘ってくれた時、私は次の休みなら空いていると答えた。今度は学院の茶室ではなく彼女の家だったので、歌詞の紙を持っていくべきか確かめる。


「歌の練習でしょうか。それとも次の公演の相談ですか」


「一緒にお菓子を選びたいだけです。料理人からいくつか案が来ましたので、甘いものがお好きならと思って」


「好きです。何か好みを考えておきます」


「お嫌いなものも教えてください。苦い葉は入っていないはずですけれど」


 あの日の軽食を思い出して笑った。彼女はいつもの顔で、食事の好みは先に確認した方が良いと言う。苦手なものがないか少し考えていると、窓の横へ来た学生がこちらを見て足を止めた。


 ヴィオレッタ様に見られるとその学生は窓辺を離れた。私は以前と変わらない彼女の目を見てから、持っていた教科書を開く。


「この前教えていただいたところ、課題では間違えずに書けました」


「でしたら次はこちらですわね。似ていますが同じではありませんから」


「今日はもう予習したくありません」


 彼女は私の顔を見て教科書から手を離した。私は本を閉じて、先にお茶の時刻を決める。父にも予定を伝えるつもりだと言うと、ヴィオレッタ様は同行する付き添いの席も用意すると答えた。


 週末の夕星座には次の公演のビラが貼られた。芸名の下には半面と黒い髪の絵があり、私の本名はどこにもない。私は家へ戻る前に窓口へ寄り、曲順の確認をグレタさんへ渡した。


 ちょうど券を買いに来たヴィオレッタ様とミナさんがいた。窓口に置いた客席の図を前に、ヴィオレッタ様がペンを持っている。私を見ると最前列の一席へ丸を付け、それから隣の席にも目を向けた。


「友人の席とファンの席で二枚必要かしら」


「ヴィオレッタ様がお一人なら一枚です」


「では一枚。それとミナの分をもう一枚、後ろに」


「ミナさんの分もファンの席で数えてくださいね」


 ヴィオレッタ様が侍女を見る。ミナさんは自分の代金を窓口へ置き、初公演の時もそうでしたと答えた。

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