6:紅に堕ちる(2)
「――っ!?」
シグの動きが、完全に止まった。
いつもの飄々とした顔は消え失せ、そこにあるのは――虚を突かれた表情。
何度も瞬きを繰り返し、口を半開きにしたまま固まっている。
「二、ニルファ。お前……」
思わずニルファを見るが、彼女はけろっとしていた。
「だってそうでしょ?
ルーンが困ってたらすぐ飛んでくし、いつも一緒にいるし。
それに、シグってルーンが褒められると、いっつも嬉しそうに笑うじゃん」
意外にも筋の通った言葉に、シグは面を食らったように目を瞬かせた。
「……なんつーか。ちゃんと見てんだなぁ……」
「うん。仲間だもんっ!」
その一言に、どこか無防備な誇らしさが滲んでいた。
「い、いやぁ……まいったな……」
シグの普段の飄々さは消え、顔は青ざめ、声も体も震えていた。
それを見たニルファは、小首を傾げる。
「シグ、なんで動揺してるの?」
「……本当のことでも、言わない方がいいこともあるんだよ」
額に手を当て、深くため息をつく。
こんな場面で、ニルファがまだ子供であることを改めて実感するなんて――。
さっきまで、生きるか死ぬかの牢屋暮らしだったはずなのに、今は温かさと緊張が入り混じって、思わず現実逃避をしたくなる。
あまりの温度差に、風邪でも引きそうだった。
「よくわかんないや」
ニルファは悪びれもせず、きょとんと首を傾げる。
……その無垢さが、逆に罪深く見える。
「……あはは……」
シグの乾ききった笑い声が響く。
和やかだった空気が、一気に静まり返る。
恐る恐る後ろを振り返ると、ルーンは変わらぬ表情で立っていた。
「……なぁ、ルーン」
沈黙に耐えきれず、声を出す。
「なに?」
「なにって、お前……その、なんだ。えーっと……」
ルーンの感情が読めない。
こんな状況でも、まるで普段通りだ。
聞いていなかったのか、それとも自分には関係ないと思っているのか。
こっちが勝手に気まずくなっているだけなのかもしれない。
ルーンは小さく嘆息した。
「別に、知っていたから問題ないわ」
「は?」
「えっ!?」
後ろからシグの素っ頓狂な声が響く。
シグほどではないが、俺も動揺を隠せずにいた。
「お前、気づいてたのか?」
「気づくもなにも。付き合いも長いし、顔を見ればわかるわ」
ルーンは穏やかに笑い、続けた。
「前も言ったけど、隠し事が下手なのよ」
それで話は終わり――ルーンは静かに口を閉ざす。
「ルーン……」
シグは呆けた顔で、じっと彼女を見つめていた。
俺はというと、中々この空気に適応できず、胸中は気恥ずかしさと混乱でいっぱいだった。
「どーすんだよ、この雰囲気」
「ほら、ルーンも気づいてるじゃん。トネ、気づかなかったの?」
あっけらかんと言われ、頬を掻く。
恋愛経験皆無の俺には、こういう機微が全然わからない。
「あたしは、トネのことが世界で一番大好きだからねっ!」
「お前はなにを言ってるんだ」
ルーンがクスリと笑う。
シグはまだ呆然としている。
緊張の糸が、少しだけ緩む。
風が木々を抜け、朝の柔らかな光が森を照らしていた。
――その弛緩した空気を、男は見逃さなかった。
ピキリと空気が張りつめる。
世界が、音を止めた。
最初に異変に気づいたのはシグだった。
「トネリコッ!!伏せろぉぉぉぉぉぉッ!!」
刹那、空気が裂けた。
ヒュン――シュバァッ!!
耳を劈く風。
ただの風じゃない。
殺気が、音を伴って降ってくる。
「あ?」
思わず伏せることを忘れ、空を見上げる。
朝陽に染まる空の下から一閃、黒い影が無音で降下してきた。
光に溶け、景色に溶け込んでいた影が瞬時に輪郭を取り、牙を剥く。
その影は――俺を牢屋に入れた、あの獣人の男だった。
右手の短剣が、まっすぐ俺の胸を狙っている。
あ……これ、死んだわ。
もう、怖くはなかった。
くっつくニルファの両脇に手を入れ――思い切り遠くへ放り投げた。
「――えっ」
驚いた顔でこちらに手を伸ばす姿が、横目に映る。
スローモーションのように視界が流れる。
凶刃を避けようともがくが、刃は一直線に向かってくる。
――ガスッ!!
短剣が、左胸を貫いた。
「……っ、あ……」
不思議と、痛くはなかった。
衝撃だけが遅れてやってきて、息が詰まり、視界が白く滲む。
体が地面に吸い込まれる感覚――これが死の瞬間なのか、と自然に思った。
衝撃で、ほんの少しだけ背中が浮く。
息を吐きだす。
驚いた顔をする男から、ニルファを向くように首が倒れる。
「嫌だあああああああああああああああああああああっ!」
絶叫が森を震わせる。
その瞬間、ニルファの瞳が紅に輝いた。
息を吸うより早く、世界が悲鳴を上げる。
紅蓮の光が弾け、空気が裂けた。
風が渦を巻き、砂塵と落葉を巻き上げながら、光と闇がぶつかり合う。
熱が爆ぜる音が、耳の奥で金属のように響く。
ニルファの小さな身体が、紅の焔に包まれて揺らめく。
背骨が軋み、肩甲骨が押し出される。
そこから――漆黒に紅を纏った翼が、生まれた。
鱗が一枚ずつ金属音を立て、紅の光を散らして稲妻の尾を引く。
骨の軋みと風切り音が重なり、森がその音だけで震えた。
地鳴りが腹を打ち、木々が根ごと持ち上がる。
朝の光と紅蓮の焔が混ざり、空が白と紅に裂けた。
――aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!
咆哮が、世界を裂く。
光が空を貫き、朝日をも掻き消す。
瞳が、黎明を呑み込むように輝いた。
紅蓮が、龍の輪郭を描き――その姿が、顕現した。
疾風が地をえぐる。
森が裂け、土が宙を舞い、影が残像を引く。
男の姿が見えたのは一瞬だけ――次の瞬間、紅に呑まれて消えた。
爆風が肌を撫で、耳を裂く。
視界の端で、鱗が夜に溶ける。
翼は霧のように崩れ――
静寂が支配する。
燃え尽きた森の香りと、朝の光が鼻腔をくすぐる。
そこには、人の姿でニルファが立っていた。
肩を震わせ、涙で濡れた瞳が、こちらを真っ直ぐに見つめている。
それを見て――それを見れていることを、疑問に思った。
……俺、まだ生きてるのか?
胸を貫かれたはずなのに。
「トネっ……お願い、死なないで……っ!
嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁっ……いなくならないで……!」
走り寄ってきたその手が、俺の体にすがる。
その声は、愛惜と恐怖に満ちていた。
指先が、震えながら胸元に触れて――ぴたりと止まる。
「……あ、え……?」
ニルファは呆けたような呟きと共に、俺の胸元に目を向ける。
「ニルっ!退きなさい、今治して……っ!?」
ルーンが駆け寄り、鬼気迫った表情で俺の様子を確かめる。
その目が見開かれ、唇が震えた。
目の前には、無傷の俺と、服の裂け目から転がった折れた短剣。
世界の音が、ほんの一瞬だけ止まったように感じた――。
「なんで俺生きてんだ?」
確かに刺された感覚はあった。
けれど、今、俺は息をしている。
理屈と現実が噛み合わず、思考がぐるぐると回った。
いつの間にか傍に来ていたシグが、短剣を手に取り、何度も確認するように指先で触れる。
目を見開き、微かに息を吐いた。
「……折れてる……?
高密度鋼が……圧で、潰されてる?」
ルーンもシグも、安堵と恐怖が入り混じった表情のまま、しばらく固まった。
俺も、まだ胸の奥がざわついていた。
誰も言葉を発することはなかった。
けれど、時間が経つにつれ、少しずつ冷静さが戻ってくる。
ひとまず、すべての疑問は後で解決しよう。
そう決めて、俺たちは再び街に向かって歩き出した。
街に到着したのは、とっくに日も暮れて、夜も更けてきた頃だった。
別れ道でルーンが口を開く。
「今日はお疲れ様。
話したいことは、山ほどあるけれど……また明日にしましょう」
「了解。二人とも、今日はありがとうな」
ルーンは微笑み、背を向ける。
「もう攫われちゃ駄目よ?
貴方はニルの王子様であって、お姫様じゃないんだから」
「……肝に銘じとく」
「今日二度目ね」
ルーンは軽やかに去っていく。
「トネリコ。また、明日」
シグの声には、どこか押し隠す静けさがあった。
「……ああ。じゃあな、シグ」
気にはなったが、口から出たのは無難な言葉だけ。
それでもシグはすぐに動かず、離れていくルーンを見つめていた。
「トネリコ」
「なんだよ?」
「すまなかった」
シグの声には、どこか決意のような静けさがあった。
「なんでお前が謝るんだよ。こっちは助けてもらった側だぜ?」
「……それでも、だよ。色々と……すまなかった」
沈痛な表情に、胸が少しざわつく。
手を振り、返す。
「よくわかんねーけど、別にいいよ。
お前にはいつも助けられてるしな。
……ほら、さっさとルーンを追いかけろって」
「……そうだね。また、明日」
「おう」
シグが去っていくのを見送る。
隣に目をやる。
「……俺たちも、帰るか」
「うんっ」
宿に入り、温かい空気を胸いっぱいに吸い込む。
戦いの熱と、死の恐怖がまだ体の奥に残っている。
手のひらに微かに震えが伝わる。
けれど、それ以上に、帰ってきたんだという安心感が全身を満たしていた。
濡れた服を脱ぎ、体を拭く。
ニルファとの会話もそこそこに、ベッドに横たわる。
途端に瞼が重くなる。
睡魔に身を委ねようとして――
耳元で、小さな声がした。
「トネ」
横を見れば、照れ笑いを浮かべるニルファがいた。
「どうした?」
「そっち……行ってもいい?」
「……今日だけ、特別な」
「えへ。やったっ」
布団が微かに動き、ニルファが胸元にピトリとくっつく。
「ねぇ、トネ」
「何だよ」
「トネのこと、あたしが絶対守るから。だから……離れないでね」
「俺も」
「え?」
「俺も、絶対にお前を守るから。……だから、離れるなよ」
「……うん」
くっついた身体がさらに密着する。
布団の柔らかさと温もりが、戦闘の緊張をゆっくり溶かしていく。
肩が触れ合い、呼吸の音が混ざり、心臓の鼓動も同じリズムで響いていた。
言葉はいらなかった。
この静けさが、今だけでも、ずっと続けばいい――
意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。




