6:紅に堕ちる(1)
トネリコ視点に戻ります!
喧騒が、眠りの底から意識を無理やり引き戻した。
重たい瞼を持ち上げた瞬間、視界に映ったのは――
牢の鉄格子が、まるで生き物のようにぐにゃりと歪む光景だった。
「……は?」
掠れた声が漏れるより早く、轟音が牢内に炸裂する。
金属が悲鳴を上げ、ギィィィィン、と耳を裂く。
「うぉぉぉぉっ!?」
反射的に後ろへ飛び退き、背中が壁にぶつかる。
格子は根元から軋み、亀裂が走り、やがて――バギィッと乾いた破断音を立てた。
砕けた鉄片が火花を散らしながら床を転がる。
鉄の扉がひしゃげて倒れ込むと、洞窟の奥から低く唸るような風が吹き抜けた。
――ゴォォォ……ン。
空洞を震わせる低音と共に、風が逆巻き、塵と湿気を巻き上げる。
腕で顔を庇いながら、その異様な光景をただ見つめた。
視界のすべてが白い渦に覆われ、息を吸うたびに喉が焼ける。
金属の匂いと土の匂いが混ざり合い、世界がぐらりと歪んで見えた。
「トネ……!」
風の中から、声が響く。
最初は幻聴かと思った。
耳の奥で反響するその声は、あまりにも聞き馴染んだ声で、現実感が薄い。
だが、もう一度――はっきりと、自分の名を呼ぶ声が届いた。
塵の向こうに、小さな影が見えた。
その輪郭が揺らめくたびに、胸の奥が熱を帯びる。
――そんなはずはない。
ここに来られるはずがない。
それでも、心が勝手に確信していた。
「ニル……ファ……?」
その瞬間、心臓が一拍、強く跳ねた。
身体の隅々まで血が巡り、凍りついていた意識が一気に覚醒していく。
影が、こちらへ駆け込んでくる。
視界の霞の中で、確かに彼女の瞳が光った。
次の瞬間、柔らかな衝撃が胸に飛び込む。
「生きてた……良かった、ほんとに……っ!」
反射的に抱きとめたその体は、震えていた。
震えは嗚咽に変わり、息の合間に言葉が漏れる。
「怖かった……トネがいなくなるかと思った……っ」
細い指が必死に服を掴む。
言葉を失ったまま、俺はその頭をそっと撫でた。
冷えきった空気の中で、ニルファの温もりだけが確かだった。
指先が、ようやく現実に触れた気がした。
長い悪夢の終わりを、ようやく掴んだような――そんな感覚。
「……助かったのか」
掠れた声が自然に漏れる。
遅れて実感がやってきた。
ニルファは泣き止む気配を見せない。
その小さな背を抱きしめながら、胸の奥に、安堵と痛みがゆっくり滲んでいった。
どれだけ心配をかけたのか。
どれだけ無理をさせたのか。
声にならない謝罪が喉の奥でつかえ、言葉にならなかった。
「すまん」
ようやく絞り出した一言だった。
「……ああ、いや……ごめん。ごめんなさい。
心配かけたな。助けにきてくれて、ありがとう」
どうすれば泣き止ませられるのか分からなかった。
泣いているニルファは、子供そのものだった。
いや――分かっていた。何度も、口にも出してきた。
ニルファが子供だということは、ずっと理解していたつもりだった。
『ニルのこと、しっかりと守ってあげるのよ』
孤児院でルーンに言われた言葉が脳裏に蘇る。
ああ、そうか。
今になって、ようやく実感した。
知っていたはずなのに。
こいつの強さを見て、俺は自分の弱さを言い訳にしてきた。
『俺なんて、いなくても大して変わらんだろ』
そうやって逃げていたんだ。
ニルファは俺なんかに守られる必要はないと。
だが違った。
強さも弱さも関係なかった。
『ニルを守れるのは、この世でたった一人――貴方だけなんだから』
結局、ルーンの言葉が正しかった。
俺が間違っていたんだ。
胸の奥が熱く、同時に冷たい何かで満たされる。
「ごめんな、ニルファ」
こいつは、俺が守らなくちゃいけないんだ。
ルーンでも、シグでもなく――俺が。
――俺じゃなきゃ、駄目なんだ。
「ニルファ!? だから、待ってって……!」
洞窟の奥からルーンの声が響く。
駆け込んできた彼女は、飛び散った鉄格子の残骸に一瞬目を奪われ、そして――泣きじゃくるニルファと押し倒されたままの俺を見て、息を漏らした。
驚きと安堵が入り混じった表情で、ゆっくり歩み寄る。
「……無事だったのね」
「おう。まぁ、なんとかな」
ルーンの口元がわずかに緩む。
その目は、涙で濡れたニルファの髪を優しく撫でた。
「次からは気をつけなさい。ニル、ずっと心配してたのよ。私と……シグも、ね」
「……悪かった。次はないようにする」
ルーンは目を丸くし、次の瞬間、小さく笑った。
「ふふっ――ようやく、分かったの?」
その意味を悟って、俺も苦笑を返す。
「だな。全部、お前の言う通りだったよ」
「なら良いわ。ニルを守れるのは、貴方だけなんだから。……しっかりしなさい」
「おう。肝に銘じとく」
ニルファを抱いたまま腕に力を込め、ようやく立ち上がる。
洞窟の奥から足音が近づいてきた。
手を振ると、見慣れた笑顔が灯りの中に現れる。
「やぁ、トネリコ。無事でなによりだ」
「よう。心配かけて悪かったな」
「問題ないさ。それより、早く出よう。
今は静かだけど、誰か戻ってくるかもしれない」
「誰もいないのか?」
「隈なく探したけど、誰もいなかったよ」
安堵の息をつくが、胸の奥に小さな違和感が残る。
なぜ見張りも置かず、ただ閉じ込めるだけにしたのか。
それに――あの獣人の男。
『悪いが、静かにしていてくれ』
どうして俺に謝ったんだ?
理由は分からない。
今は考えても仕方がない。
「帰るか。腹も減ったしな」
泣き止まぬニルファを宥め、壁に手をついて身体を起こす。
「ほら。お前も、泣いてないで帰るぞ」
「む、無理ぃぃ……!」
「仕方ねぇなぁ。――っと」
立ち上がろうとした脚がふらつくと、小さな肩が支えてくれた。
「トネっ!?」
「大丈夫。ただ、ちょっと足が痺れただけだ」
ニルファは涙を拭い、もう一度肩を貸す。
まるで一度でも離せば、二度と会えなくなると信じているかのように、強く。
「サンキュー」
「……うん」
「泣くなって」
「が、頑張ってるもん……」
苦笑しながら、その頭を軽く叩く。
ルーンが後ろにつき、シグが前に立ち、俺たちは静かに洞窟の出口へ向かう。
外に出ると、夜明けの光が森を淡く染めていた。
空はまだ群青を残しているが、東の地平では白い光が差し始めている。
湿った草の匂いが肺の奥を満たした。
「……生きてるな」
小さく呟くと、隣でニルファが頷いた。
赤く腫れた目元のまま、それでも穏やかに笑う。
「もう、離れても大丈夫だぞ?」
「やだ」
肩を借りる必要はもうなかったが、ニルファはぴたりと体を寄せたままだった。
歩きづらいが、不思議と悪くない。
森の木々の隙間から差し込む朝の光が揺れる。
俺たちはゆっくりと街へ向かって歩き出した。
「街まで、半日くらいか?」
「そうだね。途中で休憩を挟んで、夜までに戻れれば上出来かな」
「遠くまで連れてこられたもんだ。……いや、むしろマシな方か」
「マシ?」
「馬車で運ばれてたら、別の街の方が近くなってたかもしれねぇだろ?」
「ああ……確かにね」
「そうなると、怪我もなく生きてるだけで十分ありがたい話だな」
俺は歩調を落とし、後ろのルーンに目を向ける。
青白い肌に、疲労の色が濃く滲んでいた。
「ルーン、大丈夫か?」
「ええ。少し魔力を使いすぎただけよ」
「結構つらそうに見えるけどな」
「一日休めば元に戻るわ……そんなに変な顔してるかしら?」
頬に手を当てて首を傾げる仕草に、思わず苦笑が漏れる。
「全然変じゃないよ! ルーン、すっごく綺麗だもん!」
「あら……ふふ。ありがとう、ニル。ニルも、すごく可愛いわ」
ようやく調子を取り戻したのか、ニルファが満面の笑みを浮かべる。
「えへへっ。トネトネ! ルーンに可愛いって言われちゃった!」
「良かったじゃねぇか」
「ねぇ、トネは? あたしのこと、可愛いと思う?」
「おう。可愛いと思うぜ」
「えへへ〜っ!」
無邪気に笑うニルファにつられ、俺も笑ってしまう。
「トネリコが素直に褒めるなんて、珍しいね」
「まぁ……心境の変化ってやつだ」
「素直は美徳よ。シグも見習いなさい」
「……そうだね。僕も、そうありたいと思うよ」
ゆっくりと、シグの足が止まった。
先頭を歩いていた彼が動かなくなり、俺たちも立ち止まる。
「どうした?」
シグが振り返る。
「僕って……そんなに胡散臭いかな?」
困ったように眉を下げるシグに、全員が吹き出した。
「まぁ、そうだな。けど、良いやつだとは思ってる」
「無理に隠そうとするから、余計に怪しく見えるのよ」
「それそれ! ルーンの言う通りだよ!」
「……そ、そんなに? あはは……流石に、ちょっと恥ずかしいな」
頬を掻きながら笑うシグ。
森の中に、穏やかな空気が戻っていく。
ふと、ニルファがぽつりと呟いた。
「隠し事って言えばさ。
シグってルーンのこと大好きなのに、なんで隠したフリしてるの?」
その言葉は、風に乗って森の静寂を突き抜けた。
風が枝葉をゆるく揺らす。
鳥の声も、虫の羽音も、どこか遠くに消えていった。
静けさの中で――ひとり、息を呑む気配があった。




