5:沈む光、抗う闇(2)
ニルファ視点です!
♦ ♦ ♦
夕暮れは、いつの間にか夜の帳に変わっていた。
窓の外は、月明かりさえ雲に隠され、黒く沈んでいる。
「……帰ってこない」
何度も窓の外を覗いては、同じ言葉を繰り返した。
待っても、待っても、帰ってこない。
いつもなら、あの人の隣でとっくに眠っている時間なのに。
風が冷たい。
雨上がりの匂いが、部屋の中まで染み込んでくる。
窓を閉めても閉めても、冷たい空気が肌の奥に突き刺さった。
「どうして……帰ってこないの……?」
声はかすれて、闇に溶けた。
答えはどこにもない。
ただ、時間だけが流れていく。
――大丈夫。きっと無事。
そう言い聞かせても、胸の奥は冷えたままだ。
信じたいのに、信じきれない。
焦りと不安が絡み合い、思考がぐちゃぐちゃに崩れていく。
心臓がひとつ打つたび、痛みが波のように広がった。
「嫌だ……」
喉が焼ける。
最悪の想像が頭をよぎり、嗚咽が漏れる。
ただ耐えるだけの時間が、永遠のように続いた。
けれど――限界は、もうすぐそこにあった。
なにかが、壊れる音がした。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁ……っ!」
息ができない。
涙が止まらない。
一度決壊した感情は、もう止められなかった。
トネのいない世界が、ぐらぐらと傾き、崩れていく。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
視界が紅に染まり、体が熱を帯びる。
燃えたぎる紅蓮が血液のように全身を駆け巡る。
それでも、あたしは息を整えて――
ぐしゃぐしゃに濡れた頬を袖で拭った。
自分に言い聞かせる。
そうしないと、トネに怒られちゃうから。
「迎えに、行かないと……」
そう呟いた瞬間、身体が勝手に動いた。
震える手で窓を開ける。
夜風が吹き込む。
冷たいのに、熱い。
焦燥と衝動が入り混じり、理性の残り火がじりじりと焦げていく。
激情を押し込み、最後の理性を握り締めた。
まだ間に合う。
間に合う、間に合う――マニアウ、カラ。
「ルーン……シグ……っ!」
名を呼びながら、闇へ飛び出す。
屋根から屋根へ、夜の街を駆け抜けた。
静寂を裂くのは、瓦を蹴る乾いた音だけ。
――パシュッ。
夜空が、一瞬だけ白く閃く。
けれど、それを気にする理性はもうなかった。
「扉、閉まってる……」
宿の前で立ち尽くす。
冷たい夜気が、肌の奥まで突き刺さる。
心のどこかが、ぎゅうっと軋んだ。
「こ、の……っ!」
拳を振り上げそうになる。
衝動が体を支配する。
けれど――トネの顔が脳裏に浮かび、思わず手を止めた。
「……開けて」
最初は小さく、祈るように。
扉を叩く。
返事はない。
闇が喉を締めつけ、胸の奥が痛む。
叩く音が次第に荒くなっていく。
それでも、返事はない。
「開けてよ……!」
声が震え、不安が怒りに変わる。
怒りは暴走しそうな熱に変わり、視界の端が紅く滲む。
目の前の扉が、トネを奪った壁に見えた。
こぶしに力がこもる。
体の芯が灼けるように熱い。
理性の声が、かすかに震えながら囁く。
「我慢……しないと……トネ、に怒られちゃう……」
でも胸の奥で、別の声が囁いた。
――もう、帰ってこないかもしれないよ?
「あ……」
世界が砕けた。
視界がぐにゃりと歪む。
鼓動がひとつ遅れて爆ぜる。
紅が、世界を呑み込んだ。
熱が駆け上がり、心臓が暴れる。
呼吸が荒くなり、思考が途切れる。
すべてがどうでもよくなる。
ただ、この扉を壊せば――きっと、会える。
「じゃま」
右手を振り上げ、扉を叩き壊そうとして――
ぱっと、宿の中に光が灯った。
痛いほどの白。
その瞬間、胸の奥で暴れていた熱が、ひゅうっと引いていく。
力が抜け、理性が戻った。
ゆっくりと扉が開く。
そこには、笑顔のシグと、心配そうにこちらを見つめるルーンがいた。
「やぁ、ニルファちゃん。こんな夜更けにどうしたんだい?」
「大丈夫? ニル……話を聞かせてちょうだい?」
声が届くたび、胸の中の紅が溶けていく。
震えていた体がふっと力を失い、涙が頬を伝った。
「ルーン……シグぅ……」
絶望と焦燥の夜が、光に溶けていく。
冷たい夜風が、やわらかな安堵に変わった。
――あたしは、一人じゃない。
しばらくして、シグが衛兵の宿舎から戻ってきた。
「当直の衛兵たちに話を聞いてきたよ」
その声は、妙に静かで抑えられていた。
「どうだったの?」
ルーンが、あたしを抱きしめながら尋ねる。
その腕の温もりが、少しずつ呼吸を落ち着けてくれた。
「トネリコに似た男が、フードの集団と森へ向かったらしい」
「……っ!」
胸の奥が跳ね、張りつめていた何かが一気にほどけていく。
「行こう」
シグは短く、それだけを言った。
淡々とした声。
けれど、その抑揚のなさが逆に胸を掴む。
失われかけていた理性が、ようやく形を取り戻した。
「……トネ、ほんとに……?」
震える声で問うと、ルーンが優しく頷く。
「ええ、ニル。信じましょう……きっと、生きてるわ」
その言葉が、静かに心の奥へ沁みていく。
涙が頬を伝った。
「ありがとう……ルーン、シグも……」
ルーンは微笑み、あたしの背を撫でる。
シグは一瞬だけ視線を落とし、かすかに笑った。
南門を抜ける。
夜風が、濡れた頬をやさしく撫でていった。
「フギン、ムニン。こんな時間にごめんなさい――力を貸してほしいの」
ルーンが祈りの言葉を紡ぐ。
蒼い光が、掌からふわりとこぼれ、夜気の中で花弁のように散った。
まるで希望そのものが形を持ったみたいに。
ルーンの両肩に、フギンとムニンが輝きと共に現れる。
「……っ……ぁ……」
ルーンの体が傾く。
「ルーンっ!」
すぐにシグが支える。
ルーンの頬には、じっとりと汗がにじんでいた。
「大丈夫」
シグの肩に手を置き、ルーンは静かに立ち直る。
「来てくれてありがとう、二人とも。……トネを探してくれる?」
フギンとムニンが、その場から溶けるように消えた。
蒼い光が波紋となって森に広がっていく。
やがて、ぽわりと地面に蒼が灯った。
照らされたのは、ぬかるんだ泥に残ったひとつの足跡だった。
「……っ!?」
胸の奥が跳ねる。
ルーンが穏やかに微笑んだ。
「痕跡はまだ残っている。きっと、探し出せるわ」
「ありがとう、ルーンっ!」
思わず抱きつく。
よろけたルーンに、抱きとめられた。
「ルーン、精霊を帰すんだ」
間を空けて、シグが静かに言う。
「駄目よ。今帰したら……トネを探せなくなるわ」
ビクリと体が震えた。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
思わず、シグを見る。
シグは驚いたようにこちらを見て――目をそらした。
「二人とも、落ち着いて。痕跡は見えた……ここから先は、僕の仕事だ」
シグはルーンを見やり、淡々と告げる。
「ルーン。魔力、余裕ないんだろう?」
「……そんなことないわ」
「顔色が悪い。
普段なら、フギンとムニンを同時に使うことは避けていたはずだ。
時間帯のこともある。さっき、大分もっていかれたんだろう?」
「……」
「……ルーン?」
押し黙るルーンの裾を掴む。
その顔を見上げて、ようやく気づいた。
――病気の人みたい。
普段ならすぐに気づけたはずの変化。
それを見落としていた自分が、痛いほど恥ずかしかった。
涙が込み上げる。
トネがいなくなったのに、なにもできない自分が嫌だった。
そのせいで、ルーンに負担をかけてしまっている。
俯くと、ルーンが優しく声をかけてくる。
「ニル。心配しないで……私は、大丈夫だから」
「無理、しないで。頼りっぱなしで、ごめん。役立たずで、ごめんね……」
「そんなことないわ!」
思わぬ大声に、肩がビクッと震える。
すぐに、ぎゅっと抱きしめられた。
「ごめんなさい、声が大きかったわね。
ニルは、いつも私のことを助けてくれる。
だから……たまには、私もニルの役に立ちたいのよ」
「ルーン……」
見上げると、ルーンは優しく笑っていた。
「確かに、魔力を使いすぎちゃったのは事実よ。
でも、体は大丈夫。心配してくれてありがとうね」
「うん……」
ルーンがシグに目を向ける。
「シグ……信じて、良いのね?」
シグは静かに笑い、頷いた。
「勿論。絶対に大丈夫さ」
「――えっ」
ルーンが茫然とした顔でシグを見る。
「どうしたんだい?」
「貴方……」
ルーンがなにか言いかけて、間を置き、頭を振った。
「……なんでもないわ。二人とも、ありがとう」
ルーンの声に応じるように、地面の灯りが溶けるように消えた。
「信じるわよ、シグ」
「任せてくれ」
シグが一人離れ、森へと駆け出す。
それに付いて行こうとした時――
「まさか、ね」
ルーンが小さく呟いた。
でも、それを気にする余裕はなかった。
焦燥に身を焦がし、ルーンと二人、黙ってシグの後を追いかけた。
それから、長い時間が経った。
少しずつ明るくなっていく夜闇とは裏腹に、焦燥は強まるばかりだった。
先を歩くシグの背が、かろうじて理性を繋ぎとめている。
一歩一歩が、トネに繋がっている。
そう信じることで、不安を押し殺した。
そうしなければ、激情のままにシグを追い越してしまいそうだった。
ランタンの灯りを頼りに、雨に濡れた草を踏みしめ、森の奥へと進む。
頭上の空さえ、木々に覆われて見えない。
「止まって」
シグの声。
その直後、茂みの向こうから――ずしん、と地面を揺らす重低音が響く。
草木をかき分けて現れたのは、巨大な魔物だった。
――オオオオオオオオオオ……ッ!
黒く濁った瞳。
背に盛り上がる、禍々しい黒鉄色の瘤。
「――瘴気熊?」
ルーンが呟いた瞬間、シグが長剣を抜いた。
「違う……!」
シグが首だけ振り返り、叫ぶ。
「二人とも下がって! こいつは瘴気熊じゃない! こいつは――」
ごぷり、と音がした。
瘴気熊と酷似した魔物の穴という穴から、黒い泥のような影が溢れ出す。
夜闇よりも黒く、どろりと地面を溶かすような影がボタボタと垂れ落ちた。
「――『新種』!?」
ルーンが叫ぶ。
そんなこと、どうでもよかった。
前に出る。
「ニルっ!?」
叫ぶ声なんて、もう聞こえない。
ただ、目の前のものを消し去りたかった。
一息に、新種の眼前へ飛びかかる。
今まさに口を開こうとした鼻先に向けて、右手を振りぬいた。
「邪魔」
破裂音。
パンッと、水風船がはじけるような音。
頭部を失った新種が、ぐらりと崩れ落ちた。
影の獣は泥のように溶け、大地に広がっていく。
振り返る。
シグが、あたしを見る。
「……行こうか。トネリコが待ってる」
その声には、励ましも希望もなかった。
まるで――結果を知っている者のような、冷ややかな確信があった。
「……シグ……」
ルーンが小さく呟く。
その声音には、警戒と戸惑いが混じっていた。
けれど、シグは何も返さない。
ただ夜気を裂くように駆け出す。
その背を追って、あたしも走り出した。
胸の奥で、どこか小さな違和感が燻っていた。
それが何なのか、まだ言葉にならないまま――。
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